私の好きな俳句 加藤楸邨と芭蕉

 私は加藤楸邨の俳句に惹かれる。表現される世界は多様で多彩で、俳句特有の俳味に溢れる句も少なくない。

    くすぐつたいぞ円空仏に子猫の手     「吹越」

 円空が彫った精神性に富む仏に、子猫の手がじゃれている。親しみを含んだ笑いが広がるが、謹厳な仏が、「くすぐったいぞ」と実際に子猫に向かって口にしているようで、まるで加藤楸邨が仏になり代わったかのようだ。「すべての物の中にひそんでゐ声は、こちらが聞きとめる心の耳を持ちさえすれば、かならずきこえてくるはずのものである」と楸邨は書いている。
   
    梨食ふと目鼻片づけこの乙女        同前 

 梨に少女が無中になってかぶりついていて、その大きく開けた口だけが眼に止まる。目や鼻などはどこかに片付けられてしまっている。「この」乙女と書かれているので、乙女が目の前にいるようで、彼女への親しみがさらに湧いてくる。
 いわゆる花鳥諷詠の句や、こじんまりとした、またこまやかな日本的情緒の作品はあまり多くない。むしろより鳥瞰的で、よりダイナミックな視点から句が構成されることが多い。例えば、この二句。

    息白く寝し子ペガサス軒を駆け    「山脈」
    放電に似て少年語朝虹に       「まぼろしの鹿」

 ペガサスは、ギリシャ神話では天馬とも表記され、天にも昇り、雷鳴と雷光を運ぶ役割を担う。こうして二句を並べてみると、寝ている間に、ペガサスから雷鳴を聞き取リ、雷光を眼に留めた少年が、翌朝不思議なペガサスの言葉を口にし、虹を空にかけている、といった光景が目に浮かぶ。大きな時空が編まれ、想像が自由に大胆に駆け巡る。
 といっても、私がとりわけ強い印象を受けたのは、次のような句のほうだ。

    隠岐やいま木の芽をかこむ怒涛かな   「雪後の天」

 前書に「後鳥羽院御火葬塚 三十三句」とあり、掲出句はその末尾の句。隠岐島の御火葬塚をかこむ木々の芽吹きに目をみはり、そこに押し寄せる怒涛に楸邨は自らの思いを託している。隠岐を訪れるときの楸邨の心の昂りが感じられる。
 後鳥羽上皇鎌倉幕府によって島流しにされ、悲運の生涯を隠岐で閉じるが、楸邨は優れた歌人としての上皇に会おうと思い立ち、東京から旅をする。芭蕉の「後鳥羽院の書かせ給ひしもの」「この御ことばを力として、その細き一筋をうしなうことなかれ」(「野ざらし紀行」)という文を読んだ楸邨は、その文に突き動かされ、隠岐への旅を決意する。楸邨は大病を乗り越え、俳誌「寒雷」を創刊したばかりだった。旅行鞄には、芭蕉野ざらし紀行」と後鳥羽院撰定「新古今集」の二冊が入れられた。列車事故による不通のため予定は大幅に遅れる。境港に着くものの、海は荒れ、隠岐島への連絡船は欠航。翌日になって荒波にもまれながら船はようやく島に向かう。
 これはただの客観写生ではない。木の芽は、後鳥羽上皇の優れた歌群を表しているように私には読める。そこに隠岐に向かう楸邨の熱情が怒涛となって打ち寄せている。楸邨は、後鳥羽上皇と出逢おうとしている。上皇と邂逅することによって自らの文業を高め、また確たるものにしようとしている。
 また、楸邨は、俳句改革を試み、虚子の「ホトギス」から脱皮する機会を模索するようになる。その頃、同じ意欲に燃えていた水原秋桜子と出逢うが、次の句はそうした場面を彷彿させる。

    はしりきて二つの畦火相搏てる     「寒雷」

 前後する句を読むと、句の背景には田園風景が広がり、夕暮れ時の畦火(あぜび)はその赤みを増してゆく。この畦火には、人間の深い心情が潜んでいる。自己の内面だけでなく、他者の生き様も描かれ、他者と自己との出逢いが劇的とも言える激しさで演じられている。
主宰する「寒雷」創刊号(昭和15年)の巻頭言で、楸邨は高揚した調子で書いているー「現今の如き時代の雑誌は、かういふ時代にふさわしく、新しい人間の力を呼び起すやうなものでなくてはならぬと信ずる」。
 確かに、人間探究派とも呼ばれた楸邨は、人事をよく詠んだ。しかし、また同時に自然詠の傑作も数多く残している。

    秋蝉のこゑ澄み透り幾山河       「寒雷」

 芭蕉の「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」を踏まえて作られた句だろう。高館で作られた作品だが、ここは義経終焉の地であり、中学時代の加藤愀邨はここを何度も訪れている。
 蝉の声を聞き止めた山河は、蝉に呼応するようして生動し、声を豊かに増幅させてゆく。山河が蝉の声を反響させる、幾重にも。微細なものを受け止めた山河は、自らの生の時空間を呼び覚ましてゆく。

 愀邨の「隠岐はいま木の芽をかこむ怒涛かな」の句は、芭蕉佐渡島を詠んだ句を連想させる。

    荒海や佐渡に横たふ天の河       「奥の細道

 佐渡島に渡る舟が出る出雲崎に数日止まり、佐渡島に流刑された順徳天皇 ― 父親後鳥羽上皇と同じく優れた歌人 ― に共感をおぼえた芭蕉は、悲しみに暮れている。「奥の細道」で訪れたそれぞれの土地で、芭蕉はその地ゆかりの西行や能因や実方などの歌人たちをしのび、追慕している。佐渡にもっとも近く、島への舟が出る出雲崎の港でも順德天皇という悲運の歌人に思いをはせている。安寿と逗子王の母親のことを思ったかもしれない。「銀河の序」で遠島を言い渡された人に思いを巡らせるが、そればかりか芭蕉俳諧でも流人たちの生活をしばしば詠んでいる。
 しかし、佐渡出雲崎の間には、天の河がかかる。実際は、天の河は島に横たわるようには見えないようだ。しかし、事実に反してでも現実を昇華させ、芭蕉は天の河を島と出雲崎の間の空にかけた。情景は静止的ではなく、写生を超えた動的な心象風景が形成される。そうすることで、芭蕉は天空にはるかなものにつながる道を作り、島にまで届く橋をかけようとしたのではないか。天の河でもってつながる佐渡出雲崎は、かすかな光を投げかけあおうとする・・・・。
 楸邨も芭蕉も、モノローグにふけっているのはない。旅情を風景に託しただけでもない。自己完結した一元的な世界に自閉するのではなく、他者に働きかけている。ふたりの俳人はともに流刑地としての小さな島に情愛を込めて呼びかけ語りかけている。そればかりか、島から応答を引き出そうとして、耳を澄ましている。
 現在という瞬間にとどまってもいない。いずれの俳人も流刑に処せられた後鳥羽上皇や息子の順德天皇という遠い過去にまで浸透し、幾重にも重層する時間を揺り動かそうとしている。


にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村

プルーストの文はなぜ長いのか

    『失われた時を求めて』の文体は長い。平均的な文の長さの二倍にもなることもしばしばだ。冒頭のまどろみや、それに続く小さな田舎町コンブレの描写においても、使われる表現はむしろ平明なまま静かにゆったりと文章が繰り広げられてゆく。難解な語彙や美辞麗句が連なるのでもなく、また知性による分析が続くだけでもない。
    しかし、読み進むにつれ、われわれ読者はこの長い文章が、作者プルーストの精神の息遣いのようなもので構成されていて、それが間隔をおきつつも反復されてゆくことに気づくようになる。小説の主要テーマが文章の中にすでに表現されるのだ。文はそれだけで作品のヴィジョンを語っている、とプルーストは最終篇『見出された時』で述べている ― 文体はテクニックでも、レトリックでもない、ヴィジョンの問題だ、と。
    長い文章を以下に引用して、文体というミクロでの動きが、マクロのレベルでのヴィジョンをどのように先取りし予告しているかを具体的に追ってみよう。まず、コンブレの中心であるサン=タンドレ=デ=シャン教会の鐘塔を好んで眺める祖母 ― 母親の分身 ― の描写から読んでみよう。祖母はこの教会を好み、その鐘塔を見つめるが、この場面も長い文で描かれる。(文体分析を容易にするために、引用文中に//記号をひとつ挿入させていただく)


「お前たちはたんと笑うがいいいよ。あの鐘塔は美の規則にははまっていないかもしれないけれど、でもあの奇妙な古い形が私には気に入っているの。もしあの鐘塔にピアノが弾けたら、けっしてガサガサした音は出さないでしょうよ」。祖母は塔を眺め,合掌して祈る手のように上に行くしたがって狭まる石塔の穏やかで緊迫し熱っぽい勾配を目で追うのだったが、尖塔の溢れんばかりの気持ちと完全に一体になろうとして、祖母の視線は尖塔といっしょに飛び立つようになった。同時に、祖母は摩滅した古い鐘塔の石に親しげに微笑みかけるのだった。// そのとき、石の天辺は傾いた太陽に照らされるだけだったが、石が陽の当たる部分に入ると、とたんに光に和らげられて、まるで1オクターヴ高い所で、「裏声で」引き継がれる歌のようになり、石は一気にはるかに高く遠い所にまで駆け上がるように見えた。


    8行目の//印までの前半では、祖母が主語となり、ピアノでの演奏を鐘塔に促すかのように鐘塔に呼びかける。また、鐘塔に微笑みかけるだけでなく、鐘塔の気持ちと一体となってしまう。//印以降の後半では、そうした祖母からの熱い呼びかけに応えて、今度は鐘塔のほうが主語になり、歌を裏声で歌い返す。鐘塔を凝視し、高みへと飛び立つように上る祖母の視線を追い、鐘塔のほうも一気にはるかな高みにまで駆け上がろうとする。
    ここで起きていることは、異質なもの同士のたんなる取り合わせといった安易な表現でまとめることはできない。祖母の周囲で繰り広げられるピアノ演奏といった俗世間におけるいとなみは、教会という聖なるものに呼びかけ、俗なるものが含む生の面を聖なる空間に新たにもたらし、そこに秘められている新たな積極的な側面 ― ピアノ演奏や歌唱 ― を引き出そうとする。が、それだけには止まらない。文の後半では聖なるものが、今度は反対に祖母の周囲でいとなまれる俗なるものの活動に新たな精神的なるものを付与しようとする。
    鐘塔はたんなる描写の常識的な枠組みのなかに自閉する、静止した対象には止まらなくなる。祖母と鐘塔は異質なもの同士であり、両者の間に交流が交わされるはずはないのだが、長い文中においては、祖母からの働きかけから始まる協働の動きに入り始める。「尖塔の気持ちと完全に一体」になるほど鐘塔に近づき呼びかけてくる祖母に呼応して、鐘塔のほうも反応を示し、「裏声で」歌い出し、両者は向かい合って接近するだけでなく、互いが互いを高め合ってゆく。鐘塔という物質に宿っていた生命が賦活され、石は生動し、その精神上の生命が祖母に新たなものを付与しようとしている。次元の異なる俗と聖、生と石という物質、現在と過去の間に厳然として従来引かれていた境界線がその双方から越境され、内と外とを隔て、それぞれ固有の領域を画してきた区画とか輪郭線が消えてゆく。われわれ読者は、確かな現実描写を読みつつも、次第に自由で勁い想像力の展開に巻き込まれてゆく。個々の不動の事物や人間を、さらに大きく俯瞰的に包摂してしまう動的な多視点を習得し獲得する。俗なる生活のピアノ演奏と鐘塔の聖なる裏声は互いに呼び掛け合い、双方からの働きかけによって相乗される新しい響きが増幅され、広く大きな時空間が共感とともに醸成されようとする。   
    長い文をもうひとつ引用したい。この文も、前文と基本において同様の構文になっている。唐突で謎めいた出会いがその都度起きるシュールレアリスムの文とは異なり、同様のものが変奏されつつ反復されて文脈が形成されてゆく。その文脈を辿ってゆくうちに、われわれ読者は、文中に隠されていたものを次第に発掘し、顕在化するようになる。

  
潜在的な形でサン=アンドレ=デ=シャンのゴシック様式 彫刻の中に予告されたものとして私が認めることのできたコンブレの人物は、カミュの店の若い店員テオドールだった。(・・・)ところで、はなはだよからぬ男として通っていたこのテオドールは、一方で教会を飾る彫刻にこめられた精神に満ちていて、(・・・)「かわいそうな病人たち」や「わたしたちのかわいそうなご主人さま」に当然ささげられるべきものとして考えられているあの尊敬の念に溢れていたので、叔母の頭を支えてその下に枕をあてがう時は、浅浮き彫りで刻まれた小天使たち、弱ってゆく聖母のまわりにロウソクを片手に大急ぎで集まってくる小天使たちの素朴で熱心な顔付きになったが、// すると石に刻まれた灰色がかったむき出しの顔が、冬の木立と同様にただひたすら眠りながら力を蓄え、やがてふたたびテオドールの顔のように崇高で抜け目のない無数の民衆の顔となり、熟れたリンゴの赤みで輝く顔となって人生に花咲こうとするのだった。



    前半で、小天使に似る、しかし素行が悪い、きわめて俗なる人物テオドールが叔母の看病に熱心に取り組むと、テオドールは「小天使たちの素朴で熱心な顔付きになった」が、それに応じるようにして、//記号以降の後半では、反対に教会の石に刻まれた小天使たちの顔が、テオドールの顔に似た「民衆の顔、熟れたリンゴの赤み」で輝き始め、生動し、「人生に花咲こう」とする。引用した前文と同様、俗なるテオドールが聖なるものに境界を越境して近づき、新しい聖なる精神性を体現するようになるが、その働きかけに応じて、引用文後半では聖なる小天使たちが、俗なる世界の生命を得て、いつのまにか俗世界に打って出ようとする。
    食料品店員テオドールは、聖歌隊員で教会の地下の案内係でもあり、教会の維持にも一役買っている。こうした「二重の職業」のおかげで彼は、「普遍的な知識」の持ち主とされてもいるし、またのちに主人公マルセルがフィガロ紙に記事を書いたときでも、「魅力的な言葉遣い」で祝福の手紙をマルセルに送っている。この時、テオドールには、ソートンという名前が付けられていて、素行の怪しげな店員は脱皮し、いつのまにか成長し、執筆活動を理解する人物に変貌している。
    俗と聖がただ静態的に隣接しているだけではない。両者は互いに他方からの呼びかけを聞き止め、それに積極的に応え、新たな刺激を得て、自らも変貌するし、また他方を変貌させようともする。この文中においても新たな創造性、可塑性といったものが、両者が強く相互に関与することによって生じようとしている。個々のものは、独自の固有のものに止まることなく、より多彩で多義的な可能性をもう一方にももたらそうとしている。それぞれのものだけでは得られなかった相乗効果が生み出されようとしている。
    プルーストの場合、この俗と聖の相互関与は、実は作者自身の一時の思いつきや幻想によるものではない。引用した前文における教会にも当てはめられることだが、フランス語の「教会」église の語源は「集会」であり、また「呼びかけ」でもあり、教会は本来自閉し閉塞する閉域ではなく、外部の俗なるものをも招き入れる開かれた場所でもあるのだ。最終巻には次のような文が書かれている ― 「芸術は、かつて実在したものがわれわれに知られずに横たわっている深みへとわれわれを回帰させるだろう。おそらく真の生命を再創造し、印象を甦らせることは大きな誘惑だ」。
プルーストの長い文は、協働性から生じる創造性を表現してゆくが、その一方でコンブレの教会に関心を示そうとしない人物も登場する。ゲルマント公爵家といえば、コンブレの教会内に私的礼拝室を構える由緒ある貴族だが、実はゲルマント公爵夫人はこのコンブレの教会を軽視している。『失われた時を求めて』における主要な主題は、その流れに逆行するような挿話を所々に挟みつつ断続的に展開されてゆく。  
    また、創意が交わされる深い対話性は間欠的に反復されてゆくが、その流れに逆行するようにして、長いモノローグもその合間に挟まれる。ソルボンヌ大学教授のブリショがふるう長広舌はその一例で、地名の語源に関する衒学的な知識を長々と披露して、主人公の地名にまつわる夢想を打ち破る。元大使のノルポワも意見を明確なものにすることを避ける紋切り型のレトリックを重ね、その長広舌でもって相手を煙に巻く。

    プルーストの長い文がそれだけですでに長編小説のヴィジョンを予告することは、次の最後の引用文によっても例示することができる。第二篇『花咲く乙女たちのかげに』で主人公は画家エルスチールのアトリエで代表作の海洋画『カルクチュイの港』を見て、その絵に魅入られる。

(その絵を)私はゆっくりと眺めたが、その中でエルスチールは、小さな町を表すにのに海の用語しか用いず、また海には町の用語しか用いていなかったが、そうすることで絵を見る者の精神を今述べたたぐいの隠喩に慣らしていった

エルスチールが自分のまわりに置いている海の絵の中でもっともひんぱんに用いられる隠喩は、まさに海と陸とを比較して両者の輪郭をことごとく取り払ってしまうものだった。同じ画布の中で黙々と飽くことなく繰り返されるそうした比較、それこそがそこに多様な形を取りながらも強力な統一を導入するもので、それが何人かの愛好家たちにエルスチールの絵が引き起こす熱狂の原因だった。


    海洋画を見て、主人公は嬉しくなり、喜びを覚えるが、文中において海と陸が二重写しになり、協働し合うようにしてその両者から新たなものが生まれようとするプロセスは、祖母と教会の鐘塔が向かい合い、祖母のピアノ演奏と鐘塔の歌声から、個々の音からだけでは得られなかった音楽の新たな恊働が生じるプロセスの変奏とみなすこともできるだろう。
    こうして、エルスチールの海辺の避暑地バルベックにあるアトリエで主人公マルセルは思う ー ここは「新しい創世の実験室」だ、と。いずれは自分も「形態の歓びに溢れる詩的認識」に到達することができるはずだ、と。マルセルは見てとる、「どの絵の魅力も描かれた事物の一種の変貌にある」こと、また「その変貌は詩で隠喩と呼ばれるそれに似通っていて、父なる神が物に命名することで物を創造したのだとすれば、エルスチールのほうは物から名前を奪い取るか、あるいは物に別の名前を与えることで物を再創造する」ことを。
    コンブレの教会が、祖母やテオドールと新たな創造的な対話性を結んだように、エルスチールの場合も隣接し相互依存するような海と陸は、ダイナミックで豊かな関連を緊密に結び直している。まったくの無からの、個人による一時の独創ではない。固有であること、固定であることにこだわらない、複眼的で流動的な視点が豊かに組み合わされてゆく。
    2度目のバルベック滞在の際、マルセルと恋人アルベルチーヌはこうして習得した、現実の単なるコピーには終わらない、隠されていた側面を掘り起こし賦活するようなエルスチールの物の見方を実際に風景や教会に当てはめて見ようとする。しかし、ゲルマント公爵夫妻のほうは、エルスチールの絵画を購入するものの、絵の魅力が理解できない。
    なお、画家エルスチールと同様、マルセルを芸術創作へと促し導くヴァントゥイユの7重奏曲も、その基本はピアノとヴァイオリンの間で交わされる問いと応えから展開されるものであり、それはエルスチール絵画の延長において、その変奏として把握されるものなのだ。
    上記で引用した長い文では、ふたつの異なった主語が空間上において隣接するだけでなく、積極的に関与し合い支え会うようにして新たな物を構築しようとするが、この展開はさらに時間軸においてもまた確かめることができる。小説冒頭の就寝劇において母親はジョルジュ・サンド『捨て子フランソワ』をまだ幼い主人公に創意に飛む口調で読み聞かせ、少年に初めて小説の愉しみを教える。『失われた時』巻末で、小説執筆を決意するマルセルはゲルマント大公夫人邸の図書室でこの小説を見つけて、母親がかつてその小説を朗読してくれた時の声を思い出す。小説冒頭と巻末のこのエピソードは、創作の最初期においては実は切り離されることなく、連続して執筆されていた。音楽用語でもって記述されるコンブレでの母親による朗読の声を無意識的記憶によって思い出すマルセルは、成熟し、すでに小説を執筆しようとしている。甦ってきた母親の朗読の声によって呼びかけられるマルセルは、自ら習得し獲得した作家としての声によって、かつての母親の声に応じてようとする。母親とマルセルのふたつの創意に富む声が、長い沈黙と忘却を隔ててここにおいて、予告と回想という合わせ鏡のように向かい合い、呼応し合い、高め合おうとする。物事を消し去る残酷なまでの時間は、「超時間」(『見出された時』)となって再構成されようとしている。プルースト特有の長い文によって、空間におけるだけでなく時間においても、その創造へと向かう根源的な対話性、心理という表面に止まらない深い対話性が構成される。
    プルーストの長い文は、長編小説の中心的主題を劇中劇のように演出する。『失われた時』では、「私」は実はあまり独白をしないし、ドラマの筋立ても時系列に沿って繰り広げられないことがある、登場人物の性格が一定せず、人物の名前も途中で変わることがある。しかし、いわゆる近代小説の小説観に基づく先入主にとらわれずに、長い文やそれを支える複眼的思考の動きに慣れてゆけば、そうした諸点における違和感は少しずつ解消されてゆくだろう。
    また、この長い文に慣れてゆけば、翻訳において「・・・である」といった断定的で理知的合理的な語尾の頻出は、この小説にはふさわしいものではないことも理解されるだろう。『失われた時」には、母親と祖母が愛読したセヴィニェ夫人の往復書簡集も含めて50通もの手紙が登場するし、プルースト自身リセ・コンドルセ時代には学友たちと恋愛書簡体小説を試みたことがあったが、しなやかでどこか親しみのこもる、しかも腰のあるような長い文の翻訳文の基調は、意外にも往復書簡の文体の中に見つかるもしれない。

にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村

戦時下のフランスに島崎藤村が見たもの

 小説家島崎藤村(1872−1943)は、第一次世界大戦前後の混沌としたフランスに3年間滞在する。藤村はすでに『家』などの自伝作家として評価を得ていた。社会の偏見に苦しみつつ目覚めてゆく個人の内面を凝視する求道的作風で知られていた。しかし、「家」は家父長という旧弊に取りつかれた人の悲劇を描いたものであり、家を包む大きな時代状況を描く視座はまだ獲得できないでいた。また、藤村は実生活において姪との不倫の恋に悩んでいた。葛藤を抱え、壁に取り囲まれるような思いにとらわれ、深い危機に陥っていた。私生活に関わるスキャンダルから逃れるようにして、藤村は42歳の時に神戸港からフランスに向けて旅立つ。華やかな門出でも留学でもなかった。日本を後にする船上から兄に手紙を出し、姪との不倫の後始末を頼んでさえいる。
 パリに着いても、朝日新聞に書き送る記事は当初は単なる旅行記に近いものだった。藤村にとってのフランスは、流行を追い珍奇なものを好む倦怠の国であり、常套句でもって描かれる国であった。しかし、第一次世界大戦戦時下(1914−1918)、空襲にさらされたパリは、惨禍から立ち直ろうとして強靭なまでの生活力を発揮していた。そうしたフランスの庶民の生活に間近から接し、見聞を深めてゆくうちに、藤村の描く『仏蘭西だより』は、その調子を変えてゆく。
f:id:aushiba:20220307220225j:plain
1914年8月30日 パリでの最初の空襲、ドイツの航空機が4発の爆弾を投下した。
(写真はセーヌサンドニ駅構内)法医学鑑定サービス/BHVP/ロジャー・バイオレット


f:id:aushiba:20220307220356j:plain
1914-1918 畑では女が男にかわり家畜のように働いた。
Paysan Breton  Les paysannes, ces héroïnes oubliées de la guerre 14-18  Carole David
 そこには、たゆまずひたむきに働き続ける職工たちや、戦地にすすんで赴こうとする芸術家たちや、農作業に励み続ける農夫たちの姿が描かれる事になる。現実に根差して生きる人々に関心を抱くようになる。自己凝視を続けてきた藤村は、庶民のたくましさを追うことによって、それまで自らのものとすることができなかった外部への視線を習得するようになる。大きな歴史観や思想によっては取り上げられてこなかっった、具体的な生活の諸相は、やがて「芽をつむぎつづける力」とも表現されることになり、藤村のその後の創作活動の幅を広げる原動力のひとつになっていった。
 藤村はノートルダム大聖堂にしても、そこに建立当時の中世ゴチック期だけでなく、さらに紀元前に遡るフランスのルーツのガリア時代の精神の発露を見てとるようになる。大聖堂が過去と重層的につながりながら建立されてきたことを知り、伝統には「死から持来たす回生の力」が潜んでいると書くようになる。文学者では、伝統に創造との連続性を見出そうとするシャルル・ペギーやシャルル・モーラスを好んでいる。遠い過去にまで遡り長い時間のスパンで物事を俯瞰する視座は、やがて『夜明け前』に盛り込まれることになる。こうして、フランスの庶民たちの生活力と、今に生いる伝統の力は、藤村に新たな展開をうながすものとなった。
 渡仏してから一年あまりたった頃、藤村はパリから約400キロ離れた自然豊かな地方都市リモージュに2ヶ月あまり滞在する。リモージュの子供たちに日本の子供の遊びなどを教えたりして、滞在を楽しむ。こうした幼い子供との無邪気な交流が、藤村に幼年時代の記憶を呼びさましたことは想像にかたくない。藤村は童話を5冊も出版しているが、そこにおいては物語は父親が子供に話しかけるという一方向的な形で進められる。しかし、リモージュでは父親役の藤村は当地の子供達に遊びを教えるだけではなく、子供たちからの情愛に富む反応を受けて楽しんでいる。藤村は遊びにおいて父親役である自分を見上げる子供の立場に自分自身を何度も置いてみたはずだ。そうすることによって、藤村は自らのうちに実父正樹への深い情愛が潜んでいたことを意識し、それを顕在化しようと思い立ったとしても不思議ではない。文明開花の首都東京に10歳の時に出たまま疎遠になっていた父正樹への情愛を意識化し、父と故郷を言葉の力で復興させてみよう・・・・。童話における父から子供への呼びかけは、リモージュにおいて父子相互間の交歓に展開され、交わされるその無邪気な交流は藤村を動かすことになった。藤村は父親正樹や故郷との再会の機会を探るようになった。藤村は、短いながらもリモージュ滞在が、自分にとっては「蘇生」のきっかけになった、と書いている。小説『新生』にも、「何よりも自分は幼い心に立ち返らねばならない」という文が書かれている。
 実際、代表作『夜明け前』には、フランス滞在中に習得したものの見方が盛り込まれている。渡仏以前に執筆された『家』では小説舞台は個人や家という狭く閉鎖的なものだったが、フランス滞在中に個的なものを包摂するより大きな新しい見方 ― 空間と同時に時間においても ― が盛り込まれ、小説世界は大きく変貌する。上京以降ほとんど帰郷しなかった藤村は、父親を含むより広い母胎としての故郷に回帰する。
 『夜明け前』で描かれる明治維新は、江戸から明治へという時代区分が強行される地点ではない。短いスパンの時代区分のよっては無視される中仙道馬籠宿周辺の生活が長い時間軸に沿って辿られてゆく。「少なくとも百年以前に遡らねば成るまい」という文も書かれている。あわただしく変動する明治維新にあって列強による植民地化を防ぎ国の独立を守るのに貢献したとして、中世以来の伝統や平田国学の役割が再検討されている。長い時間をかけて国民意識が胎動し始め、また内発的な力が発揮されてゆく姿が多角度から追われるようになった。明治維新が西欧文明によるインパクトによっってもたらされたもので、日本はただその外圧を受動的に受け入れられたとする文明論を再検討しようとする。日本は明治維新でめざめたわけではなく、それ以前から内発性が継続して培われていたという考えだ。思い起こそう、藤村はノートルダム大聖堂が建立されたフランス中世の精神だけでなく、さらに遡ってフランスのルーツである紀元前の「ガリアの血を示した野生」によっても建立されたことを指摘していた。
f:id:aushiba:20220307220408j:plain
降嫁のため江戸へ下向する和宮の壮麗な大行列(『和宮江戸下向絵巻』部分)
サイト「江戸ガイド」より

 カメラアイが切り替わり、木曽の中仙道馬籠宿周辺の庶民の生活がローアングルから活写されることもある。野鳥を食する魅力あふれる食卓や、中仙道を京都から江戸へと中仙道を下向する皇女和宮お輿入れの長い行列の見事な描写。和宮を無数の嫁入り道具とともに迎え入れる馬籠宿本宿側のこれまた無数の行き届いた支度。大政奉還の噂に、「ええじゃないか」と歌い踊る村人たち。官軍に追われて街道を辿り、北陸にまで落ちのびようとする旧幕臣の手負いの名もない残党たち。東海道はまだ整備されていなかったから、中仙道のほうが幹線であり、それは山の中の道だが、歴史が刻される街道でもあった。それぞれにおいて史実が踏まえられ、詩人藤村の文は想像に走ることが抑えられていて、平明でのびやかだ。歴史上知られた人物群だけでなく、「下積みの人たち」、「従順で忍耐深いもの」への共感が底流している。個人は同時に風土や共同体や歴史のいとなみによって取り巻かれているという見方は、藤村がフランス滞在で学び取った視点だ。藤村はそれを独自に展開させ、「草叢の中」から小説を書いた。時代の大きな変革期に右往左往する日本の姿が、中仙道を軸にして何層にも渡りながら一大絵巻となって繰り広げられる。
 「夜明け前」という稀有の大作は、1929年から7年かけて執筆されたが、その際馬籠宿での生活が40年に渡って書かれた大黒屋日記などが資料として使われている。この造り酒屋当主の筆による日記によって木曽の人々の生活や風土の描写は、時間の推移にともなうものとなり現実感に富むものになった。
 第二部において、平田派の国学者として王政復古という見果てぬ夢を追う主人公青山半蔵は、家運が傾いたこともあり宮司にもなるが、馬籠で生きることを決意する。しかし、新時代に託した思いも遂げられず、深い失意や悔いをおぼえ、最後は焦燥にもかられ、座敷牢で狂死する。巻末では小説を支えてきた大黒屋日記の記述が消え、半蔵個人の悲劇がやや突出して描かれているような印象を受けるが、しかし半蔵のおぼえる危機感は切迫する思いとなって伝わってくる。青山半蔵のモデルは、平田派の国学者として数奇な生涯を終えた父島崎正樹であるが、正樹は参勤交代の大名や公家が泊まる馬籠宿本陣・問屋・庄屋を兼ねる17代目の当主だった。その内面に息子の藤村は愛情のこもる照明を当てた。
 この小説は、文明史的考察をはらみながら、時に個々人の生の深みにまで踏み込み、多声的に交響しながら展開される。この稀有な長編小説の執筆は、藤村が3年間フランスに滞在したからこそ始められたのであり、またその実を結ぶことができたのである。
『二十世紀の十大小説』で著者篠田一士は、第10章を藤村の『夜明け前』に割き、そこでこの小説の魅力を縦横に論じている。
 

にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村

  

ディープなフランス

f:id:aushiba:20220213163902p:plain
 1972年にフランス政府給費留学生試験なるものを受けたら、運よく合格。26歳の時にパリの高等師範学校(エコールノルマルシューペリウール)とパリ第四大学大学院に在籍することになった。印象派の美術館オランジュリやルーブル美術館にしばしば歩いて通ううちに、ゴッホレンブラントの絵画に魂を奪われるような体験をした。絵の前に立ち尽くし、原画が奥深い魅力を秘めていることを知った。画布の奥から画家の精神の息遣いというのか、声のようなものが聞こえてくるではないか。別世界に連れ去られてゆくような、生々しくもある経験を何度かした。東京にいたときは、絵は教養のため、また珍しい光景や美を味わうためだけのものだったのだが・・・・。
 靴がすぐに擦り切れたが、5区の学生街カルチエラタンにある学校の男子寮から歩いて美術館を巡ったためだろうと僕は勝手に思い込んだ。ほぼ一日中靴を履く生活を始めたのだから当然の結果だったのだが、当時の僕は美術館通いのために靴がすぐ減る、と即断してしまった。
 フランスでは、日本の高度経済成長が「日本の奇跡」などとして驚きをもって語られ始めていたが、ミナマタという言葉も同時によく口にされていた。ヨーロッパは中国とは陸続きということもあって昔から交易が盛んであり、ヨーロッパでアジアといえば、まず中国が挙げられてきたが、その中国の向こうから、ジャポンという小さな国が日出ずる国となって台頭してきたのだ。留学した1972年当時は、そんな世界の図式がヨーロッパには浸透し広がっていた。
 そのうちに、日本との貿易を始めたいらしい親切なおじさんと知り合いになった。男子寮でも、「日本人と結婚したい」という物理学専攻の青年と親しくなった。「お前は俺の友人だ」と言われるようになると、フランス人の友情は篤い。
 渡仏二年目の夏に、フランスのおじさんが、「バカンスを田舎で一緒に過ごそう」と誘ってくれた。もちろん、返事は即答で、ウイだ。グラン・デパール(大出発)と呼ばれる8月1日に、おじさんのシトロエンに乗って、リヨンの先の中央山塊に向けて出発。当時は日本にはまだ高速道路網もなかったし、これだ本場のバカンスは、という高揚した気分になった。中央山塊に差し掛かるあたりから、同乗のフランス人がなんだかニヤニヤしはじめる。ハンドルを握るおじさんのフランス語がおかしいと言って、クスクス笑う。よく聞けば、おじさんの語尾に確かに抑揚がついていて、少し歌うような調子で話し始めている。中部フランスに差しかかったばかりなのに、おじさんの仏語にはもう南仏訛りが混じり始めている。パリはやはり大変な中央集権の都市なのだ。中央山塊の麓のサン=テティエンヌという地方都市出身のおじさんは学生時代から首都パリで生活しているのに、まだパリでは少し緊張しているのだろうか。田舎出身であることにプレッシャーを感じているのかもしれない。でも、日本では東京から実家に向かう帰省途中の車内で、その人がふるさとの田舎の訛りで話し始めるなんていう話は聞いたことがない。
 700キロくらい走って中央山塊にあるおじさんの別荘に到着。おじさんの親戚が二十人以上も集まっている。フランス人は個人主義だと聞かされてきたが、なんだか大勢で楽しそうだ。夕食でなく、昼ごはんにご馳走が出される。この昼のご馳走は四時間も続く。ジョークや、ほのめかしや、あてこすり、政治談義などがえんえんと続き、僕などは4日目には疲れ、夜はコーヒーをすするだけとなる。それでも、若者たちは夜もかなりきちんと食べる、とりわけチーズは絶対に不可欠だ。
 20人以上の親戚の多くが鳩をあしらった十字架を首に掛けている。プロテスタントたちだ。プロテスタントには勤勉な人が多いということは知ってはいたが、実際おじさんの親戚たちは、先生や、研究者や、警察官などだ。
 おじさんの甥っ子ステッフは化学の学生で、人懐っこいジュードーカだ。「ジャポトー」(日本製オートバイ)は頑丈でなかなか壊れないぜ、などと話しかけてくる。2日目あたりから、もう僕に柔道の技をかけようとする。マッチョで腕が長くて力があるから、油断はできない。ジュードーカの「カ」は、どうやら「家」らしい。日本男性はみんな柔道家とでも思っているのだろうか。チャーミングなガールフレンドが一緒だ。聞けば、地域随一の都市サン=テティエンヌのデパートのブティックで働いている。メシュイというアラブのBBQをしても、彼女は身体の線を気にするのか、あまり食べないでみんなの騒ぎをチョッと遠くから見ている。余計なお世話だが、彼女が気まぐれでなく、心変わりしないことを願ってしまう。ジュードーカのステッフをつい応援したくなってしまう。

f:id:aushiba:20220213145632j:plain
アラブ風子羊のBBQ Mechoui 写真:サイトCuisine Collectionより

この時、食べたメシュイは12キロあった。

 ジュードーカ・ステッフの妹バブーも実にフレンドリーだ。ボーイフレンドのジャノーには、少しアラブの血が入っているようだ。南仏の文化を教えようとするのか近づいてきて、自分が手掛けているソーセージ作りを身振り手ぶりで演じてくれる。豚の腸の膜は、こうして口で吸い込むようにして裏返して、その中に詰め物をするんだ、豚は全部食べるんだ、鼻も含めてね・・・・。丸い目がさらに丸くなり、迫力に富んでいる。
 でも、時々バブーのお父さんの元警察官が人をうかがうような鋭い目つきになって、娘のボーイフレンドのジャノーを見ることに気づく。後で誰かが教えてくれる ― ジャノーはフランス領だった時期のアルジェリアに入植したフランス人で、1972年にアルジェリアが独立すると、本国フランスに帰還した。しかしフランス人の一部にはそうしたアルジェリアを逃れて帰還する多数の同国人を、「俺たちのパンを食べに帰ってきた」と言って差別しようとする と。
 滞在3日目だったか、しっかり者のおばさんが現れ、ドライブに連れ出してくれる。きっと先生ではないだろうか、テキパキとしている。実に雄弁で、僕のフランス語能力でもよく理解できる。そのうちに、「あの山はカトリックだ、陰気でしょう?」などと始まる。中央山塊は16世紀宗教戦争の戦場だったのだ。それにしても、カトリックとの戦いに敗れ、今やマイノリティになったプロテスタンは、古戦場の山でまだカトリックと対峙しようとするのか。プロテスタントのおじさんの田舎の別荘は平家の落人のような所だったのか。おばさんのカトリック憎しのプロテスタント擁護論の熱っぽさは、長いこと強烈な疑問となって記憶に残り続けたが、最近ピエール・ノラ編『記憶の場』の「宗教的マイノリティ」の項目を読んで、合点がいった。おばさんの半端ない熱っぽさの理由がようやく理解できた。1970年代にアメリカのジャーナリストは同じ中央山塊を訪れて、土地の立派な未亡人に食事に招待されるが、素晴らしい山々を眺めながらそのプロテスタントの未亡人が最初に口にしたのは、「あそこは(宗教戦争の)戦場だったんです」という言葉だった。歴史家も書いている、「そこでは、宗教戦争がもたらした熱気が、20世紀のさなかになってもほとんど衰えていない。その地方の人たちは、まだ宗教戦争当時の16世紀の空気を吸っている」。そして、この地方で毎年夏に開かれる数千人規模のプロテスタントたちの集会は熱気で溢れ、今でも多くのフランス人たちの共感を呼んでいるという。
 木靴を履いた羊飼いのおばあさんにも会うが、彼女のフランス語がまったくわからない。おばあさんは、オーヴェルニュ語を話したのだ。オーヴェルニュ語は今では約8万人しか話さなくなった、絶滅危惧種の古い地方言語だ。木靴は北のブルターニュやオランダで土産物として売られるものとばかり思ってきたが、オーヴェルニュ地方でも家畜の世話をする時にまだ履かれていたらしい。牛などに足を踏まれてもケガをしないようするためだし、防水のためでもあったのだ。

f:id:aushiba:20220213145737j:plain
フランスの木靴 写真:ブログ 『まいえね 』より

フランスの労働者が履いている木靴「sabot(サボ)」で工場の機械を壊したことから、「サボタージュ」「サボる」という言葉が派生した。

 二年連続して中央山塊に招いてもらった。古い歴史が幾重にも重層的に積み重なって、まだ息づいているようで、貴重な体験をさせてもらった。観光ルートからははずれた地域に潜む独特の風土やいとなみに接することができた。ウィリアム・フォークナーの短編集を読んだとき、アメリカのディープ・サウスの不気味なまでの奥深さを知って慄然としたことがあったが、フランスの南西部中央山塊のディープな記憶は僕の中にまだ生き続けている。

 それからほぼ50年経ったあるとき、東京の自宅の玄関ベルが鳴った。そこでニコニコして立っていたのは、なんとパリの高等師範で親しくなって、「日本人と結婚したい」と言っていた物理学専攻のジャン=ルイではないか。念願かなって良きジャポネーズを見つけ、パリと東京を往復している、と言う。しきりに、「アキオ、もっとフランスへ来い」と繰り返す。
 突然、目の前に中央山塊の夜空が広がり、こぼれるまでの星々がきらめいた。東京の狭い一室に、松の木で焼いたパンの香りが立ち広がった。



にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村

『失われた時を求めて』 もうひとつの愛

 この長編小説では当初主役として舞台前面で照明を浴びて目立っていたものが、読み進むにつれやがて少しずつその存在を希薄にしてゆきます。反対にそうした全般的な流れに逆らうようにして、それまで目立たなかった脇役たちが舞台の袖から登場してきます。長く主役をはってきたものは翳り、それに代わりそれまで役割も明確ではなかったものが新たに活躍を始めます。
 まず社交界で、次に恋愛において起きる大きな変化を追ってみますが、それに重なるようにして主人公マルセルの内面においても大きな変化が起き、主人公は変貌することになります。

<ゲルマント公爵家の没落>
 社交界の中心となるのは、なんといってゲルマント公爵家です。王家とも姻戚関係を結ぶ公爵一族の権勢に富む生活が描かれます。しかし、次第に公爵家に宿る脆弱さのようなものが暴かれるようになります。小説後半では一族の斜陽が残酷ともいえる筆致で描かれます。こうまとめてしまうと階級社会を批判するレアリスム小説のようですが、そうではありません。たしかにプルーストのこの小説にはフランス19世紀末に実際に起きた貴族階級の決定的な消滅や台頭する新興ブルジョワ階級の繁栄ぶりも描かれます。しかし、社会風俗はこの小説ではかなり誇張して描かれています。ブルジョワのヴェルデュラン家による浪費は当時のフランスではまずありえないような話です。フランスは金融や土地の価格が乱高下する変動の時期にあり、富裕層でも誕生日に宝石を贈ったりヴァカンスに高級リゾート地のお城を毎年借り出すほどの金銭的余裕など持てなかったはずです。
 傾き始めるゲルマン公爵家の実態は独特な形で読者に暗示されます。公爵家の生活は、主人公が春の休暇を過ごす、パリから約40キロ離れた田舎町コンブレの生活と対比されます。公爵家はコンブレの教会内に6世紀以来領主として私的礼拝堂を構え、その不可侵性を誇る「父なる神」である公爵は、教皇の即位にも関与しているなどと言います。公爵の弟シャルリュス男爵も爵位の称号を列挙してみせては、こうした自分の家系は「フランスの玉座」に据えられるべきものだなどと自慢話を長々と続けます。第5篇「囚われの女」で開かれるコンサートでも演奏されるヴァントゥイユの7重奏曲を「偉大なる大芸術」などと大袈裟に例えてみせては、「司祭」よろしくその場を取り仕切ろうとします。
 コンブレの教会でもコンサートでも、公爵家はそのど真ん中に自分たちだけの特権的な地位を築きます。しかし、コンブレの教会は、そこに料理女フランソワーズやサズラ夫人やテオドールといった町民たちが出入りし聖人たちの彫像群と親しげに話を交わし、教会が人が住める「住居」のような様子に変容する時にこそはじめてその魅力を見せるものなのです。
 公爵はゲルマント家はヨーロッパ中に広がる高貴な家柄の起源となっているなどと主張しますが、しかしその起源の場所たるやじつはコンブレのはずれのひなびた共同洗濯場でしかありません。こうしてゲルマント家と田舎町コンブレの生活は対照的に対置させられてゆきますが、公爵家よりもコンブレの生活のほうが精彩に富んでいて、その後の小説の展開に関わってくることが予想されるものとなっています。こうして比較されながら描かれてゆくうちに、ゲルマント家では、その伝統墨守の頑迷さのほうが目立つことになります。
 主人公一家はコンブレからパリの貴族のサン=ジェルマン街に引っ越し、ゲルマント公爵家とは中庭をはさんだ正面にあたるアパルトマンに住み込みます。華やかな公爵夫人に憧れる主人公はそのサロンに招き入れられても、夫人特有の発音や才気をひけらかす発言に長いこと魅了されます。しかし、次第に夫人の時にべらんめえ口調で言い放たれる警句 ― 優越感を保とうとする陳腐な戦略 ― が、しきたりにとらわれない開放的な精神によるものではなく、引き立て役の公爵や取り巻き連中に乗せられ煽られたものでしかないことに気づくようになります。夫人にも一族特有の霊が取り付いていて、家名に傷がつくと判断するや、ざっくばらんな態度をたちまち硬化させ無愛想で横柄になります。女優ラシェルが評判をとると、彼女をサロンに招きはしますが、そのユダヤ人女優にゲルマント家の基準に照らして容認できない点があると見てとると、たちどころにラシェルの才能を否定し、芸名ではなく「あの子」と侮蔑的に呼んで、サロンから排斥してしまいます。主人公は最後には公爵夫人の皮相で偏った芸術受容に失望し、怒りをおぼえるようにもなります。パリの大きな館には蔵書を並べた図書室が設けられていることがあり、公爵家もその例ですが、公爵夫人の知性は、「豪華絢爛たる城館」内に構えられた「時代錯誤で不完全」な「知性を育むことができない図書室」にたとえられることにもなります。
 一方、主人公の書棚の本のほうはアルベルチーヌや使用人によっても読まれていて、書棚は知的刺激を与える場として機能しています。貧しい孤児であったアルベルチーヌも主人公の書架に置かれていたドストエフスキーを読み込み、画家エルスチールや作曲家ヴァントゥイユからも多くのことを学び取り、精神的な成長をとげてゆきます。主人公の書棚は、公爵家の豪華な蔵書が眠る閉塞感漂う図書室とは対照的なものです。
暗記することができない公爵は、引用するための文をメモに書きとめ、それをサロンで気の利いた引用として読み上げようとします。女性蔑視の、またドレフュス事件の際は人種差別の発言も口走ります。隣人の主人公の祖母が重体に陥ったときは、隣人として訪ねてきますが、早すぎるお悔やみを悲しみに暮れる主人公一家を前に口にしてしまい、社交喜劇を演じてしまいます。祖母は公爵のことをのちに一言で評します、「俗っぽい方」と。
 自分はパリの由緒ある男爵だから本当はより高位の爵位の貴族だなどと主張するシャルリュス男爵は、スワンと同様偶像崇拝という狭い受け身の芸術受容を繰り返します。男爵はバルザックの革製装丁本をフェティッシュに愛蔵し、何かというと「それははなはだバルザック風ですな」などとバルザックになり代わってひとりごちます。しかし、結局のところスワンと同じような「芸術の独身者」にとどまり、作品の字義通りの受容だけで満足し、深い呼びかけやうながしを作品から聞き出すことができません。なるほど主人公はシャルリュスが執筆活動に打ち込むことを望みますが、期待されるのは「無尽蔵の目録」でしかありません。バルザックから受けた影響が創意工夫によって独自のものとして育まれ、そこから男爵自身の創意によって執筆が始まることが期待されたわけではありません。
 シャルリュス男爵はサロンで傍若無人にスカトロジックなことを口走りますが、その時主人公はその傲岸不遜な態度に怒り、男爵のシルクハットを踏みにじるようになります。同性愛者シャルリュス男爵は最後は苦痛常習者のようになり、かつて愛した美貌のバイオリン奏者モレルに似た男娼に鞭打たれる快楽を追い求めるようになります。そして世界ではじめて空爆にさらされる第一次大戦下のパリの夜をさまよいます。欲望に駆られた「地獄めぐり」(バンジャマン・クレミュ「見出された時」)の様相が描かれます。
 小説巻末でゲルマント公爵家内外に暗い闇がたれ込めます。ゲルマント大公夫人邸の午後の集い(マチネ)に久しぶりに足を踏みれた主人公マルセルには、社交界人士が老いという「仮装」をしているように見えます ― 嵐に打たれる岩のような面貌と化した公爵、地層学的なまでの深いシワに刻まれた貴族、声によってしか見分けがつかなくなった旧友・・・・。今や時間による侵食作業がいたる所で進行している。大公は最高級の、しかし閉鎖的なジョッキークラブ会員にも選出されないし、貴族のサン=ジェルマン街の「居城」も手放さざるをえなくなっている。公爵の歩行は困難になり、よろめき、鐘楼よりも高くなった竹馬もろとも転落しそうです。大ブルジョワのヴェルデュラン夫人は三度目の結婚でいつのまにかゲルマント大公夫人におさまっていますが、相変わらず派閥作りに励みます。驚くことに、そのサロンにはコンブレの教会を住居に変容させてみせたサズラ夫人も来ています。貴族のサン=ジェルマン街に「民衆的」で「田舎風」の生活までが入り込もうとしています。すでに第3篇「ゲルマントのほう」には次のような文が書かれていました ― 「当時のゲルマントの名は、酸素なり別の気体なりを封じ込めた小さな風船のようなものだ。それを破って中の気体を発散させれば、私にはその年その日のコンブレの空気を吸うことができる」。
 崩壊へと向かう凄みに富んだ描写が続く。しかし、小説はここでは終りませんし、主人公マルセルは社会の変動に立ち会うだけの傍観者ではありません。しばらく前から読者はこうした現実に接しながらも、まだ何か重要なことがマルセルの内面で起きるはずだと思うはずです。
 そういえば最終篇「見出された時」には「千一夜物語」がしばしば引用されています。このアラブの物語では主人公シェーラザードは語り始めることによって自らを危機から救い出します。作家志望の、しかしすでにかなりの年齢になった主人公マルセルも、ゲルマント大公夫人邸図書室の中でコンブレの就寝劇で母親によって朗読されたジョルジュ・サンド「捨て子フランソワ」を見つけます。マルセルは今度は語り手に変身した姿となってその小説を読もうともします。3回も繰り返される無意識的記憶によって過去へ遡る流れがすでに準備され用意されています。いよいよその小説を読み聞かせてくれたのコンブレの母親と交代し、今度は自らが語る主体となり、自らを、そしてまたコンブレの人々を過去から救い出そうとします。
 次章<恋人アルベルチーヌともうひとつの愛>では、恋人アルベルチーヌと付きあうにつれて嫉妬や失望を味わう主人公の姿をまとめることになります。しかし、ここでも主人公の語り手への変貌という最大のテーマが関連してきます。主人公は最後に深い所から響き出てくる歌に導かれて語り手に変貌します。そして、暗い事態を反転させるような創意に富む試みに挑もうとします。
 
<アルベルチーヌともうひとつの愛>
 アルベルチーヌは英仏海峡を臨む保養地バルベックの海を背景にして現れた娘たちのグループのひとりです。女性もまたがるようになった自転車を好んでいて、その頬は冬の朝の輝きのように紅潮します。娘たちとイタチ回しという遊びをしていて彼女の手を握った時など、「無数の希望が一気に結晶する」のを感じ、「官能的なやさしさ」を主人公はおぼえます。しかし、彼女が下品な言い回しを使うのを耳にするうちに、グループの娘たちと同性愛的関係にあるのではないかと疑います。しかし、彼女の姿は変化し続け、はっきりした像を結びません。ふたりは知り合いの画家エルスチールのアトリエで新しいものの描き方 ― 物の「メタモルフォーズ」の描出 ― をおぼえ、教会巡りのドライブに出掛けたりします。
 第五篇「囚われの女」では、主人公はパリでアルベルチーヌと同棲生活を始め、彼女が同性愛の娘たちと接触しないように監視します。絶え間のない嫉妬の目にさらされるアルベルチーヌは嘘を口にするようになります。不安にかられた主人公からの質問は、尋問のようになります。しかし、彼女の説明は納得できるものではなく、彼は彼女について立てる仮説を何度も修正せざるをえなくなります。キスも交わしますが、キスは「物の表面をさまよって、(・・・)頬にぶつかり、中にまで入り込めない」。彼女を所有することなどできないし、女性同性愛ゴモラ疑惑もその確証は得られません。恋愛についてペシミックな考察が続き、恋愛は苦痛をもたらすものとなります。
 アルベルチーヌの背後には、判読不可能だが刺激的な「おそろしい未知の土地(テラ・アンコニタ)」が広がっています。心理分析では届かない存在、理知による定義では解明することのできない存在の根底に、登場したときのような海のうねりも広がります。意外な展開を演じる多面的で複雑な、現代的ともいえる人物です。

 その存在の根底から不意にもうひとりの未知のアルベルチーヌの声が聞こえてきます。第5篇「囚われの女」においてアルベルチーヌは画家エルスチールばかりか作曲家ヴァントゥイユの作品も理解し、さらには自らの創意も表現する女性となって登場します。ヴァントゥイユの音楽をピアノや自動ピアノで主人公マルセルに聞かせ、彼の音楽受容をさらに深めさせ、彼を創造へ導こうとする女性に変貌しています。
 主人公は社交界においても、また恋愛にも虚無をおぼえるようになっていましたが、ヴァントゥイユの7重奏曲を聞いたとき、すでにこう考えていました ― 「(・・・)恋愛の中にさえ見出してきた虚無とは別のもの、おそらく芸術によって実現できるものが存在するという約束として、また私の人生がいかに空しいものに見えようともそれでもまだ完全に終わったわけではないという約束として、私が生涯耳を傾けることになるあの奇妙な呼びかけが届けられた」。
 ヴァントゥイユの曲に感動した主人公は、アルベルチーヌによって数度にわたって聞かされたピアノ演奏にうながされ、曲から受けた呼びかけについての考察を深めます。そして、曲からの呼びかけが、コンブレの就寝劇においてジョルジュ・サンド「捨て子フランソワ」を読み聞かせてくれたときの母親の声に類似することに気づきます。ヴァントゥイユの曲も母親の朗読の声も、ともにいくつかの共通する音楽用語でもって描写されています。創意溢れる曲も朗読の声も、親しみをこめて話しかけてくる歌となって主人公をまだ未知の世界へ誘おうとします。母親の声はまだ幼かった主人公にとっては幼児期との決別を強いる声となったために、その夜はこの点では「悲劇」ともなりましたが、「自然の愛情や豊かなやさしさ」に溢れる母の声は主人公にとっては、むしろ「最初の学び」や「よろこび」であり、「新しい時代の始まり」を告げるものとなったのです。この就寝劇は無意識的記憶によって甦るコンブレの生活の中心ともなっています。
 この夜、母親は来客スワンをもてなすことに忙しく、習慣としてきたおやすみのキスを幼児期の主人公に与えることができず、不安にかられた主人公は母親の愛情を疑っていました。同様にパリでも主人公はアルベルチーヌの愛情を疑っていました。そうして孤独に陥る主人公に、母親とアルベルチーヌは外から訪れてきて、情愛を込めて彼に新たな名をつけて呼びかけ、歌ともいえる創意に富む実践 ― 朗読とピアノ演奏 ― を行ってみせ、彼の意欲をかき立てようとします。ヴァントゥイユを弾く成熟したアルベルチーヌがコンブレで れた母親の姿に類似することにマルセルは気づきます。
 創意に富む歌はバルベックで母親の分身である祖母によっても外部から聞かされることになりますが、小説冒頭の就寝劇以降さまざまな機会に変奏される歌は、時間を超えて互いに共鳴し合います。「私が生を受けたコンブレからは池の水がいく筋もの噴水となって、私と並んで噴き上がっていることがわかった」。
 社交界は時間に蝕まれて衰退へと向かい、恋愛も嫉妬や喪失へと向かう中にあって、当初こそ小声で、しかも断続的にしか伝わってこなかった歌声は、それを歌う主体を変えつつ多声的交響となって繋がってゆきます。時間によって消されることがない豊かな印象ともなって主人公を導いていたのです。社会や人間によって織りなされる筋立てに隠れるように繰り返されてきた歌を演奏によって連鎖のように繋げたアルベルチーヌに主人公は「偉大な「時」の女神」を感じるようになります。

 恋愛において孤独でもあった主人公は、アルベルチーヌから初めて「マルセル」と親しく呼びかけられ、彼女の歌を秘めたピアノ演奏に応えて、自分なりの創意を模索し始めます。そして、今度はヴァントゥイユを自らピアノで弾き、芸術についての深い考察をアルベルチーヌに語り始めます。スワンやシャルリュス男爵のような「芸術の独身者」とは異なり、他者たちの歌を充分に受容し、自らの創意をそこから主体的に発掘するのです。母親や祖母やアルベルチーヌ、作曲家ヴァントゥイユなどからの間欠的に繰り返される呼びかけに応えようとします。作家志望である主人公は自らの創作観を練ります。
 巻末においてまるで時間が止まったような一回性の啓示を特権的瞬間のように受け止めるだけではありません。主人公は芸術や時間についてひとりだけで抽象的な考察にふけるのでもありません。
 恋愛において心理分析の対象であったアルベルチーヌはマルセルのもとから逃げ去り、その後に落馬事故で亡くなり、結局は確たる像を結びません。しかし、最後に彼女は母なるものを思わせる、歌いかけ呼びかける新たな親密な面を見せます。「失われた時を求めて」は心理分析を基調とする古典的なフランス小説よりも、アルベルチーヌが読み込んでいたドストエフスキーの小説を思わせます(ヴァンサン・デコンブ「セヴィニェ夫人のドストエフスキー的側面」)。例えば、やさしさの下に粗暴で復讐心の強い一面を見せるアルベルチーヌの友人アンドレも、そのさらに下には善意と隣人愛を秘めています。アンドレも両極端ともいえる面を持ち合わせていて、複雑な人物です。
 主人公は巻末において創作を始めようと決意しますが、それ以前からさまざまな形で創作行為へうながされ、また導かれていたのです。巻頭の就寝劇でも祖母と母親は幼い主人公に誕生日プレゼントとして朗読という創造性に富む歌をすでに贈っていました。その歌は通奏低音となり、小説全編にわたって響きます。共感が、そして共鳴が連鎖となって広がります。コンブレの町民たちも参加する共感に満ちた呼びかけによって、主人公マルセルの創意が引き出され高められてゆきます。アルベルチーヌは落馬事故によって亡くなりますが、彼女の歌はマルセルに歌いかけ、彼をうながし続けます。それに応えてマルセルは語り手となってアルベルチーヌを再生させ、コンブレの生活を復元しようとします。この広く親密な愛は相互に交わされてゆき、相手を導こうとします。

f:id:aushiba:20220114155624j:plain
ジャン・コクトー 「オルフェウスと竪琴」

 語り手の歌は、ある面 では吟遊詩人オルフェウスの歌を思わせます。詩人で音楽家オルフェウスも芸術の神である父アポロンから竪琴を授かり、それを弾き、また歌を歌いながら木々や岩を魅了し、亡くなった妻エウリディケに歌いかけます。彼女の生を呼び醒まそうとします。吟遊詩人オルフェウスは歌には生かす力が潜んでいることを知っていました、歌には新たな生を呼び醒ます力が秘められていることを。

(なお、主人公の名前「マルセル」については、第一回ブログ記事<マルセル・プルースト失われた時を求めて」を通読する> 2021.6.25)を参照されたい)
aushiba.hatenablog.com



にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村

酉の市の招福熊手、パン生地、土鍋


www.youtube.com

  神社で開かれていた酉の市に行ってきました。以前にもまして賑わっていて、招福熊手もよく売れていました。商談成立後の威勢のいい三本締めの掛け声が小雨模様の露店のあちこちからはじけました。手締めによって売り手は活気溢れるパワーを買い手に返礼として送っていました。招福熊手は商売繁盛や開運を祈り「福をかき集める」熊手とされ、そこにはお多福や七福神や宝船や大判小判などの縁起物が豪華に盛り上がるように飾り付けられています。
 残念ながら今ではほとんどすたれましたが、おもしろいのは、その買い方の作法です。招福熊手を安く買うほど縁起が良いとされていたので、買い手はまず売り手と値切り交渉をはじめます。しかし、割り引いてもらっても、買い手はそれをお釣りとして懐に収めてしまうのではなく、そのままお釣りは全額売り手に御祝儀として返金します。すると、売り手は買い手からの返金に応えて、例の勢いのある三本締めで応えます。返礼という気持ちのやり取りが売り手と買い手のあいだで交わされ、そのことによって熊手はさらに輝かしくされます。熊手という商品には情緒という付加価値が付け加えられてゆきます。
 セルフ・レジや通販にすっかり慣れてしまい、つい忘れがちになりますが、物を買うという行為は買い手一人だけで成立するものではなく、金額に還元される交換だけに終始することのない、返礼や贈答の要素をも含んだやり取りが売り手と買い手のあいだで交わされて成り立つものでもあったのです。忙しい日常を送っていると、こうしたやり取りなどまどろこしく映るでしょう。でも、共感が生まれる対面での、人間臭いとも言えるこうした売買には、通りがかった人を立ち止まらせるような活気に溢れていました。
 熊手を買った人は、福を多くかき集めることができるように、熊手をそのまま高く掲げて持ち帰ることが勧められています。大丈夫です、そんなことは知らなくとも買った人は熊手を高く抱えて権助坂の長い急坂を意気揚々と上って行きます。人ごみをかきわけ、背筋をピンと伸ばして・・・・。賑やかさに囲まれて、私もなんだか大鳥神社を中心とする下目黒という地域社会に参加したような気分になり、気持ちがほっこりしました。

f:id:aushiba:20211208131019j:plain
パン生地

 コロナ禍が長く続いているため、外出を控えめにする巣ごもり生活のような日常を送っています。刺激の少ない、単調な日々・・・・。
 でも、そんな中にあっても、小さな驚きが足元に転がっていることに気づきます。例えば、Vlogの動画がゆっくりと映し出す身近な日常が妙に生気をおびてこちらに迫ってくる瞬間があります。
 トントントントン、包丁の音は実際たしかにこんな音だったっけ・・・・。シロウトカメラマンによる異様なまでの沈黙の長回しに付き合ううちに、時間というものがこんなにも遅延されるものだったことに気づきます。ビデオのこのアングル、こんなのは「ナナメッテル!」と言われて、許されてこなかったけど、でもこうして見直してみると、これも意外にざん新でおもしろい。セザンヌ静物画でも上下左右は少し歪んでいる。カメラは時に手振れも起こしつつも、常態化した空間構成でない、独自の世界を時におどおどしながらも作り始める。
 Vlogの中でも、〈おうちでパンを焼こう!〉といったタイトルのものはいくつか見ました。料理はあまり得意ではないので、ふだんは料理番組には興味が湧きません。でも、パン生地が、パンを作る人の手でもまれ、適度の湿気や温度も与えられて、うまく整えられ休まされると、物質の塊と思えてきたパン生地が発酵を始め、つまり生を得ます。 それが自ら何度もふくらむでありませんか。それも見事な大きな張り切った球体となって・・・・。生物のようにふくらみ、充満した球体をものも言わずに視線にさらすではありませんか! 物の形の中でもっとも美しいのは、円だ、とフランス哲学者ガストン・バシュラールは書きました。見るだけで満足することなく、手を伸ばして、生き始める球体の手触り感を確かめたくなります。
 とりわけ、レシピ後半のベンチ・タイムに惹きつけられました。一次発酵後のパン生地からガスを抜き、それを手で丸めて、綺麗ないくつもの球体にする。乾かないように、時には霧吹きを吹きかけ、絞った濡れぶきんをかけ、ベンチで十五分ほど休ませる。パン生地を緩め、最後の成形のために伸びやすくするためです。だから、ベンチ・タイムのあいだは作る人はその場を離れずに、休んでいる球体をウォッチングするほうが良いだろう、そう言う人もいる。肝心の箇所なのだ。その後トッピングなどとともに形成されると、素材はまた生成し始める。作る人のもみ方などに応じて、息づき始め、時には気難しく反応する。生地はモノを言わないだけに、作る人はその球体のご機嫌をじっとうかがう。ベンチ・タイムで休む球体を女性にたとえる人もいる。
 時には二倍にまでにふくらむ球体群が、シロウトカメラマンの薄暗い動画像の奥から静かに浮き上がり、こちらに迫ってくる。ナレーションもなく、音楽も流れない。予想外の角度と距離でカメラがパン生地を執拗に追う。薄暗がりの奥から、パン生地は少しずつ、裸形の生々しくはりきった姿を現わす。ベンチ脇に立つ監督の手を離れ、球体は堂々と独り立ちする。トッピングなどで美味しく仕上げられる前の、素の健康美に立ち会うことができる。

f:id:aushiba:20211208131354j:plain
土鍋

 土鍋があったはず、と思い、台所の下をはいつくばって探す。積み重なった皿類の一番下から土鍋を引っ張り出す。重ッ。でも、土のぬくもりを感じさせる素朴な風合いが、冬になると活躍してくれるはずだ。
 ぼってりとした丸い形が、食卓の中央に置かれる。すでに意外なほどの場所を占め、すでに今夜の主役然としている。しかし、この土鍋、コンロの上に置いて火にかけても、なかなか反応しない。レンチンなどの手軽さに慣れた身にとっては、この待ち時間がひどく長い。
 でも、スマホには手を伸ばさない。当方、せっかちであることを自認しているので、こんな時はあらかじめ日本酒を用意しておく。チビリチビリとなめながら、正面の土鍋の反応をうかがう。やがてしばらくすると、何かが音を立てる。鍋の中身が動いたのか。鍋の蓋が動いたのか。
とたんに、鍋に顔を近づけるようにして家族が思い思いのことを口にし始める。待ち時間は長かったが、土鍋が調理を始めている、確実に食材の芯まで温め、野菜から味も香りも引き出し、美味しいものを作ってくれている。振る舞ってくれるに違いない。「今日は薄味で行こう」、「ポン酢無くなっている」、「・・・」、「・・・」。みんな鍋を囲み直し、調味料や締めのご飯にまでチェックを入れる。
 土鍋の大きな蓋がガチッと動く。やがて、湯気が吹きこぼれるように噴き出て、香りが広がる。土鍋はたったひとりで食卓を演出し、グツグツ煮込んでホロホロにしたご馳走を仕上げてくれる。保温力もすごい。食材の芯から引き出した旨味を他の食材に浸透させ、翌日もさらに少し違う味に仕立てて出してくれる。まるで何事もなかったかのような顔をして。

f:id:aushiba:20211208131513p:plain

 谷崎潤一郎『陰翳礼讃』の中にこんな一節があります、「西洋人は闇を嫌い、隠を払い除け、明るくしようとする進歩的な気質があるのに対し、東洋人は己のおかれた境遇に満足し、現状に甘んじようとし、それに不満を言わず、仕方ないと諦め、かえってその状況なりの美を発見しようとします」。
 この文の前半の西洋人が「闇を嫌い、隠を払い除ける」との指摘には納得がゆきます、例えば、作家アルベール・カミュは芸術作品を闇の中で虚空を照らす灯台にたとえます。芸術作品には、微力ではありますが、闇に敢然として立ち向かい、進むべき進路を照らし出し、人を導く力があると指摘します。
 後半の東洋人の美意識 ― 「その状況なりの美を発見しようとします」 ― にも賛同します。ただし、私は東洋人が「現状に甘んじようとし、それに不満を言わず、仕方ないと諦める」とは思いませんし、ここにはやや誇張さえ感じられます。東洋人がそれほど消極的であるとは思いません。また、『陰翳礼讃』では東洋人の美の例として、お歯黒や厠、つまり和式トイレのしつらえ、金屏風、行燈、螺鈿といった谷崎美学のやや限定された特殊なものが並べられてもいます。高尚な谷崎美学でなく、もっと身近な日常生活の身辺から美や生の例を見出すことはできないでしょうか。
 こう言ってしまってから、ふと思い出しました。谷崎も、和菓子やお椀といった日常茶飯の中からも美や生の例を見出していたことに気づきました。さっそく、読み直してみました。
 「私は、吸い物椀を前にして、椀が微かに耳の奥へ沁むようにジイと鳴っている、あの遠い虫の音のようなおとを聴きつゝこれから食べる物の味わいに思いをひそめる時、いつも自分が三昧境に惹き入れられるのを覚える」。
 「玉(ぎょく)のような半透明に曇った肌が、奥の方まで光りを吸い取って夢見る如きほの明るさを啣んでいる感じ、あの色あいの深さ、複雑さは、西洋の菓子には絶対に見られない」。
 この日常に食する和菓子は何だと思われますか。そうです、羊羹です。


にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村

甦る山荘風別荘


www.youtube.com

 山荘風の旧別荘を、久しぶりに訪ねてみた。近親者が所有していた縁で、三十年以上毎年夏になると家族でその別荘に通った。しかし、九十年も前に建てられた木造の別荘は、骨組みこそしっかりしたものではあったが、軽井沢特有の湿気にやられ、さすがに少しずつ傷み始めていた。
 維持するにしても、二階には部屋が四つもあり、補修や管理には大きな困難が予想される。一家族で使い続けることは不可能だ。ポストモダンの先例として再評価されている建築家ウイリアムヴォーリズによる設計であったために、保存することも検討しなくてはならない。となると、どうすべきか。
 別荘の所有者の代替わりを機に、別荘全体を移築して保存する方向で可能性を探ることになった。しかし、一口に移築といっても、台所の屋根は傾くし、窓枠なども相当朽ちてきている。補修工事だけでも相当な規模のものになるはずだ。模索や交渉は長く続いた。いっそ保存などではなく、分割してはどうかという案まで出された。しかし、ふだんはおとなしい私の妻が、この軸のぶれた案を断固として拒否した。まさに、「却下」で、一蹴した。じつは妻は何も口に出しては言わなかった。圧倒的な無言の、しかしとても雄弁の「否!」だった。毎年一ヶ月は過ごした少女時代の夏の軽井沢の思い出を壊すようなことはしたくなかったのだ。
 大きな企業も二、三乗り出してきた。しかし、話はまとまらなかった。しかし、最後の最後になって、文化財に関心を寄せる篤志家が現れた。大きな別荘はそのまま原型をとどめる姿で中軽井沢の塩沢湖畔に移築され、全体が補修されることなった。
 町民の方々が移築と補修に協力してくださった。自然石を積みあげた野趣に富む暖炉は、石のひとつひとつにまでナンバリングされたうえで搬出され、隣の中軽井沢まで運搬されていった。軽井沢の歴史文化の保存活動を行う軽井沢ナショナルトラストには本当にお世話になった。2008年に移築工事は完成した。
 その後、手放した別荘にはしばらくのあいだ足を向けないでいた。というよりも、足を向ける気持ちになれなかった。旧軽井沢碓氷峠麓の初期別荘地から中軽井沢の一般公開される施設の中に移築されれば、新しい環境の中で別荘は大きな変質をこうむるかもしれないし、夏の思い出そのものまでもが変容してしまうのではないか。博物館のような所に標本として置かれて、別荘はただひたすら眠り込んでいるのでは・・・・。
 しかし、数年おいて晩秋にひとりで塩沢湖畔に行ってみた。そこに移築されて静かたたずむ別荘が遠くから目に入ったとき、抱いていた危惧など一気に消え去った。杞憂にすぎなかった。山荘風別荘は、今まで気づかなかったような、新鮮で開放感溢れるシルエットで甦っていた。思わず息を呑み、しばらくその場に立ちつくした。

f:id:aushiba:20211114180931j:plain
石積みの暖炉

 昭和六年に建てられた時は「グレート・ホール」と呼ばれた、居間と食堂がひとつなぎになった居心地の良い空間 ― 現在この間取りは主流となっている ― の何本もの丸太大梁の天井は、湖面からの反射光によって浮き彫りにされ、新しい表情を見せていた。別荘全体に光と風がたっぷり入ってくる。石積み暖炉の大きな自然石は、別荘が閉ざされたものではなく周囲に開かれているものであることを改めて語り始めている。木々に隠れて見えなった瓦屋根の緩やかな勾配も、建築家ヴォーリズが洋風建築の直接的な移入は好まず、風土に適した和風のやわらかさも取り入れたことを物語っている。丸太板の外壁も、親密感漂う素朴なものだ。音を軋ませながら上った緩やかな勾配の階段の手摺りは、子供たちが滑り台としてまたがろうとした幅の広いものだったが、そのどっしり感が温かい手触りとともに甦ってくる・・・・。
f:id:aushiba:20211114181052j:plain
 ちょうど、ブライダルの写真撮影のためだったのだろう、カップルが別荘の前に来ていたが、花嫁のドレスの長い裳裾の白が、一階二階のテラスの木組みの白と、足元の湖面とに挟まれて、浮き立って見えた。
 それ以降、私は折を見ては旧別荘を訪れるようになった。別荘は紅葉の時期などスケッチのスポットになっているらしく、数人の町民たちが湖畔に座り湖と別荘を描いていた。また、ある年には別荘は町のカメラ自慢の展覧会場として開放され賑わっていた。
別荘内部でいとなまれていた所有者のプライベートな生活だけが思い出されたわけではなかった。別荘は所有者個人に限られることなく外に開かれていて、周囲の自然や町民たちの生活にも応えていた。夕映えの中に溶け込む別荘は、周囲の風土と同じリズムで生を刻んでいるようだった。
 山荘風別荘は、今まで気づかなかったような精彩を放っていた。建築家ウィリアム・ヴォーリズは、軽井沢を好み、避暑団(現軽井沢会)副会長も務め、宣教師たちの活動を支援し、さらには別荘や教会なども作った。それらの簡素とも言える建築には、人々が出会い集えるような場がどこかに設けられている。山荘風別荘には、各地に点在するそうしたヴォーリズ建築と共鳴するものが秘められていて、そのことを私は遅ればせながら知ることになった。
 長野県には優れた木造建築が数多く存在する。和風と洋風の折衷スタイルの旧開智学校松本市重要文化財)はその代表例だ。オランダ風で茅葺き屋根野尻湖ホテルや長野駅舎の和風の屋根もその例に数えられるが、このふたつの木造建築物のほうはともに取り壊され、現在見ることができない。別荘はそれらの木造建築群が編む豊かな文脈の中に置かれ、新たな輝きを放っている。

 しかし、築90年という時間のあいだには、別荘がこうは見えず、小さく見える時期があった。別荘が個人による所有物であることがことさらに語られる時期があった。ある一時期周囲から隔絶された領主館のようになった。出入りしていた旧華族たちの、伯爵だの公爵だのといった称号付きの重々しい名前がノスタルジーに浸りながらゆっくりと発音されるようになった。
 そのうちに、別荘族を招待した舞踏会が催されたことがまことしやかに語り出された。舞踏会という言葉だけがひとり歩きを始め、さらには外にまで名乗り出るようになった。別荘は別世界に変貌した。しかし、居間兼食堂のグレート・ホールはひとり語りの独演会には大きすぎた。公爵から頂いたという壁に掛けられたアフリカ野牛の長い首が繰り返し語られる流離することのない貴種流離譚を遠く闇の中で聞くでもなく聞いていた・・・・。

 建物についてのひとつの考えを手短に紹介させていただきたい。哲学者ヴァルター・ベンヤミンは書いている ―  室内は町や風景にも拡大されることが可能だし、また逆に町や風景は室内の性格を帯びることもあり、客間のような働きをすることもある、と。つまり、室内と町・風景とのあいだの境界や区別が曖昧なものになり、両者のあいだには相互浸透が起こるし、両者が相互補完の関係に入ることがある、と論じている(「パサージュ論」)。
 私などは、この箇所を読んだとき、和風建築における室内と外部との関係を思い浮かべてしまった。障子や雨戸といったものは、家の内と外とを障壁となって遮断する物ではなく、むしろ内と外のあいだで起きる相互浸透の度合いを調節するものではないだろうか・・・・。
 また、ベンヤミンの論考から展開すれば、こういうことも考えることができるかもしれない ― 写真撮影の際には、対象を間近から視点をひとつだけに絞って凝視するようにして接写するだけではなく、時にはカメラを引いて視野を広くして、対象を他の事物と一緒にレンズに収め、対象が他の事物と結んでいる関係をながめることも必要なのではないだろうか・・・・。



にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村