創作 火の鳥


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 東京からようやくキャンプ場に着く。友人Oの小さなワンボックスカーのカーナビが不調で、長野県に入ったあたりか、ディスプレイのマップが突然真っ白になる。道案内の標識を読み間違えてしまい、大回りする羽目になり、夕方遅くになってやっとサイトにたどり着く。テントをはり、事務所で薪の束を買う。
 谷間にあるキャンプ地はすでに薄暗い。夜が迫っていて、目の前の池も月を浮かべて鈍い銀色だ。釣りはもうできない。北アルプス連峰が黒々と盛り上っている。峠近くだからか、夏の終わりなのにもう冷気が肌を通して浸みてくる。東西南北の方位が消えていて、方角がわからない。夏の主役白鳥座が天の川に大きな翼を広げたまま近づいてくる。深く低い羽音が聞こえてくるようだ。流れる風に吹かれているうちに、呼吸が深くなり、長旅による緊張が少しずつほぐれてゆく。
 Oがさっそくヘッド・ライトを渡してくれる。Oはほぼ半世紀ぶりに東京の路上でばったり再会した幼な馴染みだ。会社勤めを終え、今では奥さんとふたり暮らしをしているが、十五年前に癌で女房を亡くしたわたしのことを気遣ってくれたのだろうか、長野県の人里離れたキャンプ地でのテント泊と山登りにわたしを誘ってくれた。  
 ヘッド・ライトを着けて歩いてみる。手探りをするようにしか歩けない。まるで遊泳する宇宙飛行士だ。そんなわたしを見ても、Oは少し笑うだけだ。ふたりとも寡黙でも饒舌でもなく、互いを適度な距離を置いて認め合っている。人の心理を詮索しないし、相手に過度に立ち入ろうとしない。
 キャンプのベテランOはさっそくテキパキと支度を始める。乾いた小枝を集め、焚き火の火もおこすが、着火も巧みで速い。わたしは下働きに徹するが、時々ヘマをやらかす。暗闇の中では足元が特に暗いし、サイトの地面の凸凹には注意したが、地面に転がっていた玉ネギに気づかず、それを思いっきり踏んづけてしまう。踏み剥がされたひと玉のネギからは、驚くほどの香が水分とともにはじけ出てくる。火に煽られ、香は立ち広がり、鼻をツンと刺激する。ネギはこんなにも香るのか。「柚子存在す爪たてられて匂うとき」、加藤楸邨の句が浮かぶ。
 Oもわたしも、社会の中で与えられたささやかな役割を演じてきた。組織や制度が設けてくれた舞台に立ち、そこで編まれる人間関係もそれなりの良識や熱意でもって生きてきた。もちろん失敗も犯したし、悔いも残る。しかし、そうして演じてきた表舞台から降りて、時間もたってみると、心身の衰えを感じ始めると同時に、今度は今まで送ってきた日常生活には縛られない世界、気づくことなく見過ごしてきた世界がどこかにあるかもしれない、それに触れてみようという気持ちに駆られはじめた。不可解なものとして排除してきた不思議な領域がどこか向こう側に広がっているかもしれない。
 今のうちだ。終わりの始まりが、明日にでもやってくるのだ。そんな日がドアのベルを鳴らす前に、摩訶不思議なものとして避けてきたものに触れてみてみよう。肌のように硬く鈍くなったわたしのセンサーでも触知することができる何かがあるはずだ。
 でもしかし、この歳になって、潜在的な不機嫌やら、順応力欠如やらに目を止めず、高揚感だけを探そうなどと思い立ってみたところで、幻滅や疲れをおぼえるのが関の山。テント泊に山登りなど、絵に描いた餅さ。
 でも、今少しの冒険なら、遅まきながら万事に用心を始めた今ならまだ可能かもしれない。
 希求のようなものと、それを否定する気持ちとが、またぞろ交互に現れる。決行、いや不参加・・・。気持ちはあれこれ揺れ動き、もう牛の反芻となった。

 東京からクーラー・ボックスに入れてキンキンに冷やして持参したビールで、Oと乾杯する。お互い勤め人の頃の習癖が抜けず、「とりあえず、まずビールで・・・」などと信州の山奥で言う。グビグビ始める。赤ワインを抜くあたりから、時間がマッタリ流れ始める。
 ロープでぐるぐる巻きにして池に沈め冷やしておいた白ワインをゆっくりとたぐる。素晴らしい手応え。ふたりとも自然に口元がゆるむ。たぐっている漁網に豊かな釣果が約束されていることに気づいた漁師たちがおぼえる手の感触もかくや、だ。
 Oはスマホでひとり麻雀に興じ始めたらしい。闇を通して、マージャン用語が叫ばれる。ちょうどツモった瞬間の声が聞こえた時だった。絶叫だったので、満貫に違いない。それを打ち消して、スマホに割り込み電話が鳴る。とたんに、Oの口調がブッキラボウになる。急に無口になる。東京に残り、あれこれ心配する奥さんからの割り込み電話に違いない。相手の余計な詮索はしない、と私は先ほど言ったのに、でももう始めている・・・。
 到着が大幅に遅れ、釣りができないと判断したOは、途中のスーパーで車を停め、鶏の半分を買い込んでいた。それをさばき、燃えさかる焚き火に掛けた大鍋に放り込んでゆく。野菜や他の食材もあれこれ入れ、味噌を大事そうに取り出す。いつのまにか調味料が並べられている。薪の束は有料だが、この際焚き火にどんどんくべる。なにしろ東京では焚き火はずいぶん以前に禁止されたから、焚き火にあたるのは半世紀ぶりくらいか。豪勢に、不意に大きな音も立て、火が燃えさかる。ボッと炎が放電となってはじけ、火の粉や薪木までが勢いよく撒き散らされる。炎の奥をのぞきこむと、若い木の芽が蛇の舌のような炎に舐められ絡みつかれている。湿った焚き木からジューッと湯気が一気に噴き出る。グツグツ煮込まれる鶏鍋味噌仕立てからも、火に入れた焼き芋アルミホイール巻きからも香が広がる。暖められた松の木が芳香性樹脂の香を加える。火と風でそれらがかき混ぜられ、混沌となって溶け合い、ゆらめく。テントのサイトは木々に囲まれているので、大きな鳥の巣がぬくもるみたいだ。時刻はどうやらテッペンか。ワインは二本目になり、その白もすぐカラになりそうだ。身体もあたりも温められ、陶然となる。
 一瞬、閃光か、何かが落下して、間をおいてから、一気に上昇する。青い矢のようなものが、上下に素早く動き、草や水面が切り裂かれる。何んだ、この異様な急降下と跳躍は・・・。衝撃のあと、沈黙が続く。しかし、水辺で上下に青い光が走った、ということだけで、わたしは即断する ― 「今のは、水に飛び込み水中で餌を捕獲したカワセミに違いない」。
 ジェージェーという、押し殺したしわがれ声がすぐ目の前でする。声と声のあいだに間があくが、なんだかこちらの出方が探られているようだ。人の声のようにも聞こえる。Oが、「カケスじゃないか」と言う。カケスには物音や鳴き声を真似る習性があり、枝打ちの時の作業音だけでなく、人語まで真似るそうだ。Oは鳥類図鑑に書かれていないことまで知っている。
 火がゆらぎ、身体に熱が浸み込んでくる。勤労生活では視覚が酷使されたが、ここでは触覚やら味覚、嗅覚といった、視覚に比べれば、より原初的な身体感覚のほうが活発になる。今では事典によっては人間には五感が備わっている、とはされていない。五感に新たに<移動感覚>と<熱感覚>が加えられて、七感あると数えられる、などとわたしはポツリと独りごつ。今感じている気分は、「言ってみれば異邦感かな」、などとあまりよくわからないことをつぶやく。
 ふたりとも酔いと眠気で、半睡になる。積み上げるようにくべた薪が崩れ、その一本は火から離れた所まで飛んだ。Oがボソッと言う、「いつか、火にくべようとして、薪を取ったら、山椒の匂いがするから、ヘンだなとは思ったけれど、気にしないでその薪をそのまま火にくべたんだ。そうしたら、とたんに山椒魚のヤツが一匹、大あわてで火の中から飛び出してきたことがあったよ。薪にくっついていたんだ。 山椒魚が「火トカゲ」と呼ばれることがあるのもわかったよ」。酔眼もうろうのわたしは、既製の知識をまた披露する、「そうか、それでか、火を司る精霊サラマンドルの図像がどことなく山椒魚に似ているのは」。

「ウィーン写本」(6世紀)より、サラマンダー

 くべてきた薪も尽き、火も燠になり灰になってゆくので、わたしは火吹き棒を火に突っ込み、燠に息を吹き込む。最後にもう一度炎をかき立てようと思ったのだ。すると、炎ではなく、灰のほうが燠の高熱にあおられ、あたり一面に巻き上がった。初心者がやりそうなミスだ。
 その時だった、周囲に広がって漂う灰の中に、何かが見えた。女性の薄い赤いスカーフのようなものがゆらぐ。驚いて目をこらす。赤い鳥が、一羽、音もなく灰の中に浮き、照り輝く羽根をはばたかしている。たしかに、鳥だ、赤い。幻影でも幻視でもない。残り火が火吹き棒によって突然燃え盛る、その一瞬に広がる灰の中を、赤い鳥、たしかに火の鳥が飛び立とうとしている。それは炎のようにゆらめき、きらめく翼で舞いあがろうとする。真っ赤に輝く、火の鳥・・・。
 だが、その鳥の影はすぐに消える。私は火吹き棒を握りしめ、燠をかき混ぜる。顔が火照るにもかかわらず、炎をまたかき立てる。火花がほとばしる。熱風で灰が巻き上がるが、今チラッと見えた火の鳥がもう一度見たい。か弱い手でもその鳥をつかまえるのだ。手を火のほうにのばす。残された短い生に、未知の地平が不意に開かれたのかもしれないのだ・・・。

(Bing image creatorによる作図)

 火の鳥はどこかに消え、驚異の美しい鳥は二度と現れない。あれは人間にはかない望みを抱かせる、火のいたずらだったのか。しかし、一瞬味わった突き上げてくる高揚感をなんとかしてもう一度味わおうとして、わたしは食べ残しの鶏の骨をすべて火に放り込む、コップに残っていたワインも。しかし、そのたびに灰が広がるだけで、鳥がふたたび舞うことはなかった。わたしは火の鳥を飛来させようとして無謀な試みを繰り返した。
 そうだ、大鍋なら先ほど飛翔した火の鳥の行方を知っているはずだ。大鍋をじっと見つめる。しかし、大鍋は何も語ろうとはしない。苛立ち始めたわたしは、鍋の美味しいスープを入れた器をそれごと大鍋目がけて投げつけた。鍋は湯気を猛烈に吹き散らし、甲高い怒りの音を立てただけだ。何も言わない。
 きっとOのことだ、先程から焚き火の前でわたしが挙動不審の動きを繰り返していることに気づいているはずだ。わたしがさっきからしている奇妙な動きをOに聞かれる前に、こちらから先に切り出して、彼に説明するほうがよさそうだ。そうだ、リュックに入れて持参した志賀直哉の短編「焚き火」に書かれていることと同じことをしようと準備していただけさ、と言おう。「焚き火」の主人公たちがやったことをこれからやってみないか。おもしろそうだぞ。
 Oが納得したような顔になったので、わたしは短編「焚き火」のその場面を彼に声に出して読んだ。

 Kさんは勢いよく燃え残りの薪を湖水へ遠く抛った。薪は赤い火の粉を散らしながら飛んで行った。それが、水に映って、水の中でも赤い火の粉を散らした薪が飛んで行く。上と下と、同じ孤を描いて水面で結びつくと同時に、ジュッと消えて了う。そしてあたりが暗くなる。それが面白かった。皆で抛った。

 志賀直哉の充実した創作期の文だ。忠実な写実文のようだが、平板な自然描写ではない。水の上を飛ぶ薪は水面に映るだけではない。実は、薪は水中に潜んでいたものを目覚めさせ、水中のその赤いものは空中を飛ぶ火を水中で追いかけ始める ― 志賀直哉の文はそうも読めるはずだ。闇の背後のどこかに生の神秘が潜んでいるようで、この一文からでも緊迫感が広がった。
 この文章に書かれていることを、これからふたりでやってみないか、とわたしはOに持ちかけた。彼はすぐに同意する。ふたりは燃え残りの薪を池のほとりまで引きずって運び、そこから暗い水面に向かって一本一本投げ入れた。たしかに、赤い火が火の粉を散らしながら水面の上を飛ぶと、それと並行して、水面だけでなく、水中でもやはり真っ赤なものが走った。水面に火が映った、というただそれだけではなかった。闇の中では水面はところどころでかすかに小さく光るだけで、どこまでが水面で、どこからが水中なのか判然としない。水面ではなく、水中を赤いものが生きもののように走る。それは驚異的なものとなって目に焼きついた。
 池にOが薪を投げたときも同じことが起きる。やはり水面に薪の火が映されるだけではなかった。闇の水中に何かが潜んでいる。それが空中の火によって賦活され、意思を持つものとなって水中を走り出す。これはいったいは何なんだ。

 翌朝、日の出前にキャンプ地を後にした。山の天気は午前中は安定することをOは知っていた。ひと汗かいて途中の峠まで上り、そこから山頂に背を向けて腰を下ろし、谷間のャンプ地を鳥瞰するように見下ろした。平らに整備されたキャンプ場は遠く、上から見下ろすと緑の小さな飛行場だった。朝もやに包まれて点在するテントからはかすかな白い煙も立ち始めていた。
 「未確認飛行物体たちだな、これは」と、O。たしかに、そう見えた。しかし、テントには生が宿っているかもしれない、そんな気配がする、とわたしは感じた。
 やがて、背後にそびえる山頂から朝陽が湧き出た。雲間から一条の光が漏れた。太陽がさらに昇ると、朝陽はわたしの頭越しに背後から遠くのまだ暗い谷間に差し込んだ、大陽がさらに上昇すると、光は山のふもとのキャンプ地の中の島に近づく。朝霧で濡れる川沿いを舐めるように近づく光は、やがて手前に見える中の島を照らした。テントは陽の強い光を浴びると、たちまち赤く染まった。水面に顔を伏せたようなテントが風に吹かれたのか、その布がそよぐ。かすかにテントが動いている。テントが朝陽を浴び、生の気配を宿すものに変貌してゆく・・・。

 東京に帰ったあとでも、夜になるとOに返し忘れたヘッド・ランプを頭に装着し、狭いマンションの照明を消しテレビも消してかろうじて得られる暗闇の中をうろついた。火の鳥が、部屋の片隅にでも隠れているのではと思いながら。鳥を探して、火の鳥を。
 しかし、マンションの脇の路地をすり抜けて走るタクシーが放つヘッド・ライトにしても、それは弱々しくマンションの壁を照らすだけだ。壁を貫いて向こう側に潜むものをあぶり出したり、何かを捕獲する力など持ち合わせていなかった。
 そして、さすがに体験からわたしはわきまえるようになった ― 苦難に満ち、危険にさらされる長い長い遍歴や流離を繰り返さないといけないのだ、火の鳥が突然目の前に姿を現し、それに遭遇するためには。神話の英雄のような勇猛果敢でないといけないのだ。豪胆で、宿命を何度も跳ね返す力を持ち合わさないと、旅の途次で火の鳥に出くわすことなどありえない話なのだ。わたしはそう思い直した。そうだ、返し忘れたヘッド・ライトをOに早く返さなくては。
 しかし、である。ある晩、わたしはマンションの小さな本棚から、何気なく志賀直哉の小説「暗夜行路」を手に取り、巻末の山陰の高峰大山の場面を読んだ。というか、注意散漫な態度で、大山の日の出の場面を読み出した。その箇所が有名だからという、ただそれだけの理由で。
 すると途中から、次第にその最後の場面に引き込まれた。大山の場面をナナメ読みするうちに、デジャ・ヴュ感のような感覚にとらわれ始めた ― 「おや、この前、どこかで見たことがあるかもしれない、この光景は・・・」。
 「暗夜行路」では、自らの複雑な出生と、失恋と、妻の犯した過ちと、子どもの死に苦しむ主人公謙作はうつうつと日々を過ごす。多くの試練がふりかかってくる。小説巻末では思いきって山陰の名峰大山の登山を敢行する。しかし、登頂できずに下山する途中に同行者たちとはぐれ、疲労困憊に陥った主人公謙作は動けなくなり、大山の山頂を背にして山の中腹でうずくまる。遠くの眼下には、米子の街も境港もまだ夜の灯りをつけている。外海(そとうみ)と言われる日本海もまだ鼠色に沈んでいる。しかし、そのうちに背後から朝陽が上り始め、さまざまなものが動き始める。

 明方の風物の変化は非常に早かった。少時して、彼が振返って見た時には山頂の彼方から湧上がるように橙色(ダイダイ色)の曙光が昇って来た。(・・・)四辺は急に明るくなって来た。

 中の海の彼方から海へ突出した連山の頂が色づくと、美保の関の白い灯台も火を受け、はっきりと浮かび出した。間もなく、中の海の大根島にも陽が当り、それが赤鱏(赤エイ)を伏せたように平たく、大きく見えた。村々の電灯は消え、その代わりに白い烟が所々に見え始めた。

 背後の山頂から頭越しに差し込む朝陽を浴びると、眼下に広がる大根島も、灯台も、村々も、米子の町も深い闇から目覚め、生動する。特徴的なことは、それらの事物が文章においては主語になり、能動的になることだ。
 それに、それらの主語には通常では助詞「は」がつけられるが、ここでは助詞「が」がつけられている。「が」は、「は」とは異なり、新しい情報を読者にもたらす ― 「曙光が」、「村々の電灯が」、「大山が」、「烟が」・・・。無生物の事物が文章の主語になり、さらにその主語に助詞「が」がつけられることによって、事物までがただ即物的な観察の対象として描写されるだけでなく、能動的な行為を始めている。周囲の事物が人と同じように覚醒し、意思を持つもののように動作を始める様子に謙作は驚いて見入っている。自然の中に潜んでいた様々なものが闇から生起し、自分に働きかけてくるのに謙作は驚く。
 
 わたしは、何度も繰り返し大山の光景を読み直した。
 背後の大陽が高くなるにつれ、陽は遠くの日本海から近づいてきて、中の海に差し込む。やがて、大根島がその陽を浴びると、大根島は「赤鱏(赤えい)」に変貌するように見えてくる。
 太陽を背にする大山は、「大きな動物の背」として仰ぎ見られるが、その影は眼下の中の海に「地引網」となって投げ入れられる。網はゆっくりとたぐられてくる。朝陽を浴びて赤鱏に変貌する大根島は、その地引網によって捕獲されるように読める。朝陽がさらに昇ると、大山の影である「地引網」は大山のふもとまで近づいてくる。地引網は、海岸線といった境界線を平然と大きな力で乗り越えて来て、手前のほうにたぐられてくる。
 謙作は、灯台や赤鱏と化した大根島までも包み込んで自分の足もとにまで近づいてくる地引網の動きを見るうちに、「或る感動」をおぼえる。山の中腹でうずくまる謙作もその地引網の引き手たち ― 漁師たちや村人たち ― の中に加わろうとしている、とわたしは思った。謙作も周囲で生の活動を始める事物や漁師たちに刺激されて、体調を崩し衰弱しながらも、自らも地引網をたぐろうと手を網のほうにのばす・・・。
 大自然の中に合一し、その美を享受し観照し、陶酔感に浸り、安心立命をおぼえるといった従来の自然観とは違う。より力動的なものがさまざまな所から広範囲に生起するようだ。深い闇に閉ざされていた自然だけでなく、「村々」も「米子の町」も「灯台」も覚醒する。賦活され生動する光景に呼応するようにして、謙作の精神も新たな息吹きを得て、再生するように感じられる。
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大山、中海と大根島 Google Earthより

 その場面を読みながら、スケールこそ小さいものだったが、長野県の山の中腹からキャンプ場を見下ろしたとき、朝陽を浴びたテントがやはり赤い生きものに変わったことを思い出した。テントに生の気配が宿ったことを。
 その前夜のテント泊の夜でも、似たようなことが起きた。志賀直哉の短編「焚き火」をまねて池に燃える薪を放り投げたときも、その軌道に並行して水中を赤いものが生き物のように走った。 
  大山の場面でも、地引網が海上ではなく、海中深く赤鱏を探るように読める。ここでも関心は、短編「焚き火」の夜の池の場面と同じように、水面という表面だけにはとどまらない。その下の水中で何かが動き、走る。

 帰京してから一週間たった頃、わたしはOに電話をかけた。キャンプと登山に誘ってくれたことの礼を言い、ヘッド・ライトを返し忘れたことを詫びたが、最後はやはりいつもの居酒屋で会って話そう、というか呑もうということになった。
 わたしは、Oからアドバイスが聞きたかった。ワンタッチの超軽量ソロテント、大山中腹から朝陽に染まる大根島を動画撮影するスマホ用三脚アダプター、それに超望遠のズームレンズ、そのそれぞれについて、Oからアドバイスをもらいたかった。
 そう、わたしはすっかり乗り気になってしまっている。中の海の大根島が赤鱏に変貌する現場に大山中腹から実際に立ち会いたいのだ。
 わたしの想像は止まらなくなっている。ある日、赤鱏と化した大根島から、突然一羽の鳥が、鼠色に沈む日本海に広がる朝焼けの真っ只中に舞い上がるはずなのだ・・・。 
 というのも、「出雲国風土記」の<地名の由来>という項目に、大根島という地名はタコをくわえた大鷲が島に飛来したことに由来する、と書かれているではないか。この大鷲の記述を読んで、わたしの想像にはさらに弾みがついてしまった。今や、タコをくわえる大鷲までが、スプリング・ボードになって、わたしに新たな局面を切り拓かせようとする。
 それに、大根島は小さくとも火山だということも知った。大根島はもはや赤鱏と化す島だけではなくなり始めている。タコをくわえる大鷲が飛来する島でももはやない。いつか、地中と海中で火山のマグマに熱せられて、大根島はたんに生の痕跡が集められる磁場だけではなくなり、その殻は破られ、島はさらに脱皮し、秘めてきた未知の生態を新たに多彩に繰り広げる舞台になるはずなのだ。わたしの想像のギヤーは、一段、いや二段くらい上がってしまっている。
 鼠色に沈む日本海上の朝焼けに翼を広げて大根島から舞い上がるタコをくわえた大鷲は、突然、差し込む真っ赤な朝陽に撃たれ、その陽に焼かれる。その一瞬、大鷲は音もなく一羽の赤い鳥に変貌する。そう、タコでなく赤鱏をくわえる火の鳥に・・・。
 わたしはそんな赤く染まる情景を思い描き続ける。そして、ふと、思った、わたしは、取り憑かれてもいる、と。たしかに、憑かれている、赤鱏に、大鷲に。そう、一羽の赤い火の鳥に・・・。

                 編集協力 KOINOBORI8

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書評 工藤庸子「プルーストからコレットへ いかにして風俗小説を読むか」(中公新書 1991)を再読する

 数年前に読んだ本書を今回再読してみたが、残念ながらやはり論述の速さについてゆけない箇所がいくつか残った。著者の工藤氏は多数の引用を行うが、集められた資料は、時に狭い意味での風俗の事例として使われている。
 結論部分でも、著者工藤氏は女性と性的倒錯が支配的だった暗いフランスの十九世紀末の風俗を描くプルーストは「傍観者として一生をおわってしまったように見える」が、一方コレットのほうは二十世紀の新しいタイプの女性の風俗を描いた、と大胆にまとめている。私には短い結論部分をそのように読んだ。
 しかし、はたしてそうだろうか。気になった主な点を本書の冒頭からいくつか拾い出してみよう。
 「芸術家小説」という主要な構成要素には「せいぜい流し目を送るだけ」で ― つまりはほとんど触れずに ― 「失われた時を求めて」に描かれた狭い意味での風俗だけを集めて論じることはたして可能なのだろうか。パリやバルベックの風俗は描かれるが、主人公の揺籃の地コンブレの風俗はほとんど取り上げられない。庶民の書く「間違いの多い手紙」なら、プルーストは取り上げていていて、彼らの手紙には知識階級に憧れる知的スノビズムが雄弁に表れているとプルーストは考えていた、と工藤氏は指摘する。
 しかし、コンブレの食品店の店員で素行不良の青年テオドールが書く魅力溢れる手紙は、プルーストによってその表現力が評価されている。プルーストは、ゲルマント公爵から送られてきた手紙よりも、庶民のテオドールから受け取った手紙のほうを表現力において優れたものとして高く評価している。コンブレの庶民に潜む創意をプルーストは高く評価したし、テオドールの手紙も「知的スノビスム」でもって書かれてはいないはずだ。
 コンブレに登場し、その生活ぶりが主人公を「芸術小説」へと導くことになる母親や祖母や女中フランソワーズやピアノ教師ヴァントュイユも本書には取り上げられない。フランソワーズの途方もない料理 ― 日曜の昼食に21品もの料理を作る ― には創作の秘密も込められているのに、説明もなくただ彼女の「コールド・ビーフ」が引用されるだけだ。しかし、これはコールド・ビーフなどではなく、「ブッフ・ア・ラ・モード(ニンジン入りの牛肉ゼリー寄せ)」のことであり、牛肉とニンジンを長く煮込む女中フランソワーズの腕前は驚異的なもので、パリの高級官僚までも驚嘆させるものだ。料理だけでなく、コンブレの庶民フランソワーズのドレスの作り方のほうも主人公に創作のヒントを与える。
 手紙や、料理や、裁縫などは、風俗を構成する重要な要素であるが、プルーストにとってはこうした風俗には芸術創造を高尚で抽象的なものではなく、身近なものにする秘訣 ― 少し大袈裟だが ― が秘められていた。生活の営みに加えられる才気に富む<ひと工夫>には魅力的なものが潜んでいる、とプルーストは考えたはずだ。作家志望の主人公を創作へとひそかに導く、共感の通うこうした日常の風俗に言及しない手はないだろう。
 著者はまた、女性とは異なり「男性登場人物はだいたいにおいて、歳月を経て老いることはあっても、本質が変わることはない」と書いているが、画家エルスチールなどは当初こそ軽薄な社交界人士ビッシュだったのに、バルベックの対岸リヴベルのアトリエに現れると、重要な海洋画を描き、その創造によって主人公を導く画家に変貌している。名前も祖母によってエルスチールに変えられている。作曲家ヴァントゥィユも、はじめはコンブレのピアノ教師「ヴァントゥイユ氏」でしかない。主人公にしてからが、一日延ばしにしてきた創作活動に最終巻「見出された時」において取り組むことを決意する。つまり、女だけでなく、男も驚くような変身をするはずだ。
 また、シャルリュス男爵の描写からもうかがえるように、プルーストは人間には両性具有の傾向が潜んでいるという認識の持ち主だったのだから、男性と女性で区別し、そのそれぞれに独自の特徴が備わっているいう立論は、あまり説得力を持たない。それに、登場人物が性別を問わず、性格やアイデンティティや、さらには名前までも変えたり喪失してしまうことは、現代文学では決して珍しいことではない(ジャン=イヴ・タディエ「二十世紀の小説」)。
 著者工藤氏は、スワンが恋に落ちるオデットにとりわけ高級娼婦のイメージを、その娘で主人公の初恋の相手ジルベルトに「いかがわしい出生の少女」を見てとる。しかし、プルーストは、「時間のなかの心理」の重要性を説いていて、長い時間の経過とともに人物が変貌するプロセスを追う。オデットや娘ジルベルトも、通常の理知的な心理分析の対象にされるだけでは、存在の
深い所に潜んでいる魅力に迫ることはできない。しかし、「顕微鏡」ではなく、プルーストが勧める「望遠鏡」も使って、このふたりの母娘の波乱に富む人生を時間軸に沿って俯瞰するならば、「失われた時を求めて」の巻末に近づくにつれ、この母子が主人公を創作のほうへと目立たないものの独自のやり方で誘っていることにも気づくはずだ。欠点も多く複雑な人生を歩む二人だが、彼女たちも「ココット(高級娼婦)」とか、「いかがわしい出生」には限定されることのない未知の可能性や可塑性を秘めているはずだ。
 オデットについて、工藤氏は、「(この作品は)オデットが、心の奥底ではスワンに対しどんな感情をいだいていたか、などということは、一行も書いていない。オデットの内面は、ブラック・ボックスであり、彼女ははじめからおわりまで「見られる女」なのだ」と判断するが、しかしオデットは小説の最初と最後でスワンを愛していることを告白するはずだ。また、コンブレに登場した娘のジルベルトも、最後にまたコンブレに主人公を誘う。この二人の母子は、小説の大きな展開に沿うようにその姿を変容させながら再登場してくる。
 また、本書ではジルベルトの夫のサン=ルー侯爵も、シャルリュス男爵やゲルマント公爵とともに「倒錯的な一家」の一人として描かれる。しかし、なるほどサン=ルーにはそうした一面はあるものの、反面彼は主人公に「戦術の美学」を熱っぽく語り聞かせるし、女優ラ・ベルマの朗誦の豊かな受け止め方を主人公に示唆してもいる。彼もやはり主人公に友情を示しながら彼を創造へと導く一面を秘めていて、通読後にはこの特徴のほうが印象に残る、<倒錯的な一家>の一員として描かれるだけでは十分ではないはずだ。
 こうして、著者は、プルーストの多くの登場人物が秘めている創造への試みにはごく軽く触れるだけで、彼らが見せる世紀末の倒錯といった暗い面のほうを主に描写する。
 しかし、彼らがそうした風俗を体現しているかといえば、これは実は必ずしも確かなことではない。個々の人物を対象として分析し観察しても、その人格や本質はついに明確な像を結ばない。アルベルチーヌの同性愛疑惑にしても、彼女の出奔後にその疑惑追及のために送り出したエメから届けられる報告や証言は信用できない曖昧なものであり、アルベルチーヌが同性愛の女だと断定することはできないし、真実には到達できない。
 哲学者レヴィナスも、プルーストにおける登場人物や出来事は、「非決定性」のうちにとどまるので、われわれ読者も人物に何が起きたかを正確に確認することは不可能だとする。レヴィナスは、プルーストは「風俗の画家では決してない」とまで言う(「プルーストにおける他者」)。
 確かに、「失われた時を求めて」には、ヴェルデュラン夫人がバイエルン王の城をシーズンを通して借りる話が、当時の風俗として描かれてはいる。しかし、これも信用はできない。フランスの当時の富裕層でもこれに必要となる金額を毎年のようにかき集めることなどまず不可能であることが指摘されている(ジュリアン・グラック「終着駅としてのプルースト」)。この城の借り出しの件には誇張が含まれていて、これはむしろ経済上の夢幻劇なのだ。一見正確に当時の風俗が再現されているように見えるが、このエピソードからも実は「非=歴史的レアリスム」(ジュリアン・グラック)が感じられるのだ。
 なるほど、著者がまとめるように、プルーストコレットと違い、19世紀末における性的倒錯という風俗を描き続けた作家だろう。しかし、反面プルーストは暗くペシミックな調子で、「非決定」でもある風俗を描写するだけで満足することはなかった。  
 恋愛においては嫉妬にとらわれ、別離を経験し、社交界では名前ばかりの爵位や家名にこだわる虚栄心を見て幻滅し失望し、次第に死や喪失が、さらには第一次世界大戦による都市の崩壊感覚までもが身に迫ってくる。しかし、そうしたペシミックな認識の流れにあらがうように、主人公マルセルは耳にしてきたさまざまな声に応え、最後に創作を決意する。すでにその兆しや予告は小説巻頭から繰り返し通奏低音となり、また弱音器をつけた旋律となって主人公に呼びかけてきたのだ。最後にそれまでの下降するような進展を反転させるようなそのめざましいオプティミスムが拡がり、われわれ読者もマルセルの覚醒、というのか自覚に立ち会う。創意にとりつかれた躍動感が共有される。
 最終巻「見出された時」巻末には「千一夜物語」がしばしば引用される。主人公シェエラザードは、話を語ることによって死から自らを救い出す。プルーストの主人公マルセルも、これから書こうとしている小説によって戦時下のパリでのうつろな彷徨、そして過激な倒錯の現場から自らを救い出すのだ。風俗描写はそうした人間の根源から発せられる行為をいわば準備するものなのだ。
 恋愛や性、社交界、そうした風俗を巡りつつも創造へ ―  これらの複数の構成要素は密接に絡み合いながら、個々人の性格や心理を超え、芸術の縦割りというジャンル別も超え、近代小説の慣例という殻も破り、壮大なスケールの、小説というよりも新しい作品とも呼べるものが生起堅牢に構成されてゆく。
 こうした稀有な作品が、シュールレアリスムキュビスムをはじめとする多くの斬新な芸術文芸運動を生んだ二十世紀前半の革新の気風に支えられていたことは言うまでもない。1913年には、「失われた時を求めて」の第一巻「スワン家のほうへ」だけでなく、ヴァレリや、ジッドや、クロデールや、アポリネールの20世紀を切り拓く名作が一斉に出版された。  
 坪内逍遥は、その「小説神髄」(1886年)で、「小説の主脳は人情なり。世態風俗これに次ぐ」と書いている。これは今でも揺らぐことのない岩盤だ。社会の風俗描写は小説に社会性や現実性を与える重要な要素ではある。しかし、「人情」、つまり人間存在の精神の働きをしっかり捉えなければ風俗小説は成り立たないし、「風俗」の記述のほうも表面的で平板なものになるだろう。日本ではこの風俗小説については多くの議論が交わされてきた。少なくとも、フランス文学者でもある文芸評論家中村光夫の「風俗小説論」(1950)に言及し、この重要な問題の歴史的文脈も広げてほしかった。
 工藤氏の力作「プルーストからコレットへ いかにして風俗小説を読むか」では、こう書かれている ー 「創造された作品を通じて、(・・・)時代や社会の総体を透視することができる。というか、そこに普遍的なものが反映され、時代の全体像が読みとれるかいなかによって、作品の値打ちが定まるのである」。
 ということは、風俗小説の主要な構成要素の「人情」など考慮に入れないということなのだろうか。「風俗」だけでなく、それと密に関連する「人情」という深い精神の要素にも今少し照明を当てて見せてくれたらと思わざるをえない。
 発信力を秘め、主人公に、そして読者に創意に富む対話を密かに持ちかけている人物は多いし、そうした作品や風景も多い。生活という風俗において主人公に呼びかけてくる彼らとの長い対話は、新たな精神の営みへと読者を誘ってくれるはずだ。
 美術史家ルネ・ユイグのプルースト論をここで引用するのを許していただきたい。ユイグはプルーストの作品では、「現実の影像は、しるしでしかないし、手段でしかない。それによって芸術家は彼の<精神的な現実>という別の現実の前にわれわれを立たせるのである」(「親和力 フェルメールプルースト」)と書いている。詩人ボードレールも、レアリスムを観察とか研究としてとらえるだけでなく、存在の底にひそんでいて人間を衝き動かすものにまで目を凝らして探求を続ける態度として考えていたはずだ。
 細部ではあるが、気になる点をいくつか挙げておきたい。
バルベックの登場し、アルベルチーヌからオクターヴと呼び直され、ロシア・バレーに匹敵する革命を芸術のもたらした青年を工藤氏は、二十世紀の「スポーツ青年」だとして、「美しい肉体をもつことだけがとりえの人物、明らかに「私」に敵対するタイプ」と描写するが、この青年オクターヴはその時まだ業病であった結核を病んでいるはずだ。「美しい肉体のスポーツ青年」どころではないはずだ。このオクターヴのモデルのひとりは、ジャン・コクトーだとする説もある。コクトーは、「大聖堂の教え」という優れたプルースト論を執筆したし、「敵対」はしていなかったはずだ。
 また、ゲルマント公爵夫人がアルベルチーヌと「自分の身体と着るものに関して」、「同じ考えをもち、同じ価値をあたえていなかったことはたしかだろう」と工藤氏はまとめるが、はたしてそうだろうか。このふたりは当時流行したフォルチュニのファッションを好み、アルベルチーヌはゲルマント公爵夫人からその服の着こなし方についてのアドバイスを聞き出そうとした。ゲルマント公爵夫人とアルベルチーヌは、着るものについては「同じ考え」をむしろ共有していたのではないか。
 小説巻末で、「「私」自身もいまや初老にさしかかっている」と著者工藤氏は推定するが、これから創作に取りかかろうとする主人公マルセルは作家プルーストより十歳は若いとされていて、まだ「初老」には達していないはずだ。その論拠となる数字などの提示はここでは省かせていただきたい。

                 編集協力 KOINOBORI8

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永井荷風 もうひとつの「断腸亭日乗」

 銀座禁燈
 永井荷風は、関東大震災後百貨店などが次々と建てられてゆく銀座に興味をおぼえ、しばしば自宅の偏奇館のある麻布から帝都銀座に足を向けるようになる。しかし、永井は酔客が銀座通りで喧嘩をしたり「酒楼」で乱暴を働いたりする姿を見たりするうちに、「断腸亭日乗」と名付けた日記にこう記すようになる 
― 「銀座は年と共にいよ(いよ)厭ふべき処となれり」(昭10・7・9)
 新しい盛り場の散歩 ― 銀ブラという新造語はすでに定着していた ― を楽しみ、その風俗にも接し、料理屋にも理髪店にもしばしば通ったにもかかわらず、荷風は銀座の賑やかさに違和感をおぼえ始める。腰にぶら下げたサーベルを鳴らし、乱暴に通行人に怒鳴る巡査の権柄ずくの態度も小説「濹東綺譚」に描かれる。巡査に呼び止められた時の用心に、荷風は印鑑や戸籍抄本を持ち歩いた。関東大震災後に発布された「国民精神作興ニ関スル詔書」には、すでに震災のことを「享楽に安んずる国民精神の堕落を戒める天罰であった」という立場が打ち出されていた。
 そんな頃、日記の欄外に朱筆で「禁燈ノ令出ヅ」と書かれる日が来る。昭和13年には内務省から出された灯火管制規則が公布されていたから、街は時々暗くなっていたが、その闇はさらに深まってゆく。 ―「軍部の命令ありて銀座通燈火を滅し商舗戸を閉づ。満月の光皎々として街路を照す。亦奇観なり。」(昭9・8・24)。軍部がすでに台頭し権力を振るい始めていることが見て取れるが、さらに驚くのは、明かりの消えた銀座を満月の光が照らし出していることだ。永井は、その後も数日に渡って月の光が銀座を明るく照らし出すことをことさらに繰り返し記述する ― 「既にして明月の昇るを見る」(昭9・9・21)、「幾望の月皎々たり」(9・26、9・23、9・28)。さらには月の出を待ち望む記述も続く(9・24、9・25)
 その前年でもすでに荷風は、銀座の街灯や商店の明かりよりも、街を大きく照らし出す月の光のほうを注目する。
  11月末から数日間ほぼ連続して月光をことさらに描くが、12月2日の日記の末尾に、「月光ます(ます)冴渡りて昼のごとし」と書いたあと、翌日の3日にも触れる、「十六夜の月服部時計店(現・和光、セイコー)の屋根上に照輝きたり。(・・・)築地明石町の河岸を歩み月を賞す」。次の4日にも、月光が町を大きく「籠む」と表現されている。
 銀座の明かりは軍部による禁燈令によってたちまち消されたが、今度は月光が街灯や百貨店の照明に取って代わり、銀座をそれまでとは異なる独自の形で明るく照らし出している。荷風は街に広がった闇と、街に降り注ぐ月光を対比的に書いている。これは軍部や内務省による「暴政」によって強いられた闇に向かっての間接的な抗議であり、また批判なのだ。
 実際、荷風は中秋の明月といった月光に深い愛着を抱いていた。夕暮れ時に月光が川面などを照らすと、川面は光に応えるように輝き始める。月光を浴びた家々やその周囲も月光を反映させ、母性を思わせるような新たな姿で浮かび上がってくる。月光が新たな生活の場 ― 現実逃避の幻想でも夢想でもない ― を現出させると荷風が想像していたと思わせる記述は多い。
 例えば、荒川放水路の堤を長く歩いた昭和7年1月22日の日記― 「日は早くも暮れて黄昏の月中空に輝き出でたり、陰暦十二月の夜の十五夜なるべし、(・・・)円き月の影盃を浮べたるが如くうつりしさま絵にもか(か)れぬ眺めなり」。川面に映る月がただ美しいと言っているのではない。それを盃に、さらには絵画にも例える荷風は、月に誘われるようにして盃を、食卓を、さらには生活の場を独自に構成しようとする。この日の日記には、堀切橋から月と川面と四ツ木橋をのぞむスケッチまで添えられている(下図参照)。さらには、同じ堤を歩き、月光と同じ印象を引き起こす夕陽にも見入る、「晩照の影枯蘆の間の水たまりに映ず、風景ますます佳し」(2・2)
また、宵の明星が川面に浮かぶいくつもの白帆を輝かせる光景にも立ち止まって見入いる。月光や夕陽が現れることによって引き起こされる、静かでのびやかな場面構成は、戦後の昭和21年に千葉県市川に転居し79歳で死去するまで、間隔を空けながらも日記の中で行われている。月への言及は日々の記述の末尾でなされることが多いが、そうでない場合、自らがひねった俳句がしばしば日記を締める。
 創作充実期の昭和12年に「濹東綺譚」や「放水路」とともに刊行された「すみだ川」にしても、主人公の俳諧師は当初こそ銭勘定をして「懐手の大儲け」を思い描きながら、掘割沿いに散策を続ける。しかし、そのうちに竹垣の間から月の光を浴びながら行水を使っている女性 ー 母性的な女性 ー が目に止まる。また、広がる水田のところどころに咲く蓮の花を見るうちに、主人公は次第に本来の俳諧師としての感受性を取り戻し、古人の俳句を巧さを思い返すようになる。つまり、ここにおいても、月光が照らし出す、官能的で、かつ江戸文化を思わせる生活ぶりは、銭勘定という表通りで実践される現実から切り離されない、いわば地続きの所で展開されている。昭和12年といえば、日中戦争が起きている。暗く危機的な世相においても、その一角に、月は本来の賑やかな生活の場を静かに照らし出す。
 「濹東綺譚」のドブ川のほとりの色街「玉の井」にしても、それは欲望が渦巻く街ではなく、わいざつな界隈は時に月光を浴び、ノスタルジックなまでの不思議な魅力を放つ街に変容する。お雪も、性の対象ではなく、その家も静かな安らぎの家として描かれる。一方、銀座の大通りは、厳格な父性の場として描かれているようだ。なお、荷風の母親恒は下町の下谷生まれで、芝居を好み、江戸文化にくわしかったが、父親久一郎のほうは山の手の小石川生まれで、アメリアに留学後官職につくが、最後は日本郵船社に入社した。エリート官僚の天下りだ。久一郎は漢詩人でもあり、息子の荷風もその素養を受け継いだが、父は荷風が「文藝の遊戯」にふけることを好まず、「実用の学」を学ぶようにアメリカ留学を薦めている。なお、荷風アメリカ留学については、後述したい。

 偏奇館焼亡
 格調の高い漢文調の名文として知られる「断腸亭日乗」の白眉は、たしかに昭20年3月9日の日記だろう。「夜半空襲あり、翌暁四時わが偏奇館焼亡す」。小説二、三作の草稿と断腸亭日乗を入れてあらかじめ準備しておいた手革包を持って逃げる。断腸亭日乗をすぐれた作品だと思っていたのだ。あたり一面も火で焼かれる緊迫した夜の記述が長く続く。たしかに、感情に流されない、腰の据わった名文だ。出会った78歳の老人と女の子を溜池のほうに導き、火から逃す。スリッパのまま飛び出してきた隣人と言葉は交わすものの、荷風は反対方向にひとり向かい、偏奇舘に立ち戻ろうとする。26年間住みなれた自宅が「焼倒るるさまを心の行くがきり眺め飽かさむ」ものとする。自宅には大久保の旧宅から二、三十本もの沈丁花を移し植えてあるし、フランスから持ち帰った多数の蔵書もある。しかし、「黒烟」が渦巻き吹き付けてくるので、「見定ること能はず」。火は3時間でようやく衰えるが、防火用水道水からは水が出ない。「空既に明く夜は明け放れたり」。その直前にはこう書かれている、「下弦の繊月凄然として愛宕山の方に昇るを見る」。
 空襲によって起きた惨劇直後に朝陽が登るが、それ以前にも闇に包まれた現場に「繊月」が「凄然として」昇ってくる。簡潔にその現れ方が描かれるだけだが、朝陽と月光には強い力が与えられている。その鋭い光が偏奇館を取り囲み渦巻く黒煙や周囲に点在する焦土に向けて、その消滅を見定めようとするだけでなく、崩壊や消失を嘆き、それにあらがおうとするかのようにして現場に差し込む。深くなる闇や黒煙に巻かれまいとするだけでなく、すでに被災に流されまいとする精神の勁い光だ。生の場の消滅を見定め、そのことによってその惨劇に毅然として立ち向かおうとする強い姿勢がうかがわれる。
 この焼亡の夜以前にも、崩壊した街を荷風はすでに何度も目撃していた。その時も、水も来ない悲惨な「滅亡」の現場に立ち向かうかのように、月の光が現れる。近所では警報が何度も響き、砲声も聞こえ、「天地全く死せるが如し」(2・22)。そして、「日本軍人内閣の悪政」を嘆く。
 しかし、一方では「この世の終わり」とも表現される現場に、「冴渡る」月光が注がれる(1・21)。月光は昼よりも明るく雪を照らし(2・22)、「月明昼の如し」(2・27)であり、その強度は強靭なものだ。「半輪の月」(3・20)にしろ、北斗星(2・13)にしろ、その光からは大きな喪失に立ち向かう静かな、しかし毅然として屈しない荷風の姿勢が私にはうかがわれる。
 焼け出された荷風は、友人を頼って、明石、総社、熱海、そして最後は千葉県市川へと移ってゆく。途中で何度も罹災する。消化器系に持病を抱えていたので、また断腸花という別名を持つ秋海棠が好きだったことから、自らを断腸亭と名付けた荷風は落ち込まない。荷風とともに耽美派作家とも称されることのあった谷崎潤一郎とも連絡が取れた。永井も谷崎も性的本能に突き動かされる人々を描き、新たな創作の可能性を切り拓いたが、当時の官憲はこれを公序良俗を乱すものとして、ふたりの創作をいくつも発売禁止にした。永井の「ふらんす物語」(1909年)も、谷崎が永井が主宰する文芸雑誌「三田文学」に発表した「颱風」までも発売禁止処分になっていた。なお、谷崎も「小将滋幹の母」において、春のおぼろ月夜が滋幹に幼児の頃に見た不思議なまでに明るい月の光を回想させている。
 自炊のために倒壊家屋の木屑を集め、「生活水も火もなく悲惨の極みに達した」が、荷風には生活を支える根源的な原風景 ― 月光が触媒になって働き、残されていた断片が集められて再構成される生活の場 ― が根強く息づいていた。それが喪失の現場に現出し、何度も立ち広がろうとする。
 6月3日に明石に移るが、淡路島をのぞむ風光が気に入り、マラルメの詩「牧神の午後」を思い出す。夏菊芥子を見ると、背景に海を広げる静物画を思い描いたりする。掘割沿いを何日も歩く ― 「帆船貨物船輻輳す、崖上に娼家十余軒あり」、「弦歌の声を聞く」(6・7)。汽船の桟橋を見ていて、「往年見たりし仏国ローン河畔」を思い出す(6・20)、明石の「船着場黄昏」が、浮世絵の中でもっとも愛好する歌川広重の風景版画を思い出させる。荷風は電車に乗らずに、「月を踏んで客舎にかへる」(6・21)。暮れなずむ夕暮れ時の生活の情景を荷風は何日も確かめるように日乗に記述する。「深夜名月の光窓より入りて蚊帳を照しぬ」 ー どこか、母性のようなものが広がる。(8・27)
 時に「東都の滅亡」を思い、「暗愁」に沈むものの、荷風はフランス滞在生活と江戸文化に支えられる生活の情景を再構成しようと試みる。アメリカの自然描写とは異なり、フランスの自然には月が昇る ー「この艶めく優しい景色は折から昇る半月の光に、一層の美しさを添え初めた」(「船と車」)。岡山の市街を望んだ7月18日の日記はこう終わる。
 日未没せざるに半輪の月次第に輝くにつれ、山色樹影色調の妙を極め、水田の面に反映す。願望彽徊。夜色の迫り来るに驚き、道をいそぎて家にかへる。途上詩を思うふこと次の如し。

 そう書いて、荷風は9句もの俳句を載せる。そのうちの一句 ― 「日は暮れぬ。日はくれて道を照す月かげ」。
 なお、荷風歌川広重の浮世絵を「手ばなしで」ほめていたし(古屋健三「永井荷風 冬との出会い」)、この広重への偏愛ぶり ― 北斎でも歌麿でもない ― は、荷風の「浮世絵の山水画面と江戸名所」でも確認することができる。
広重の「東海道五拾三次」の中の「沼津 黄昏図」などを荷風はとりわけ好んだのではないだろうか。広重のこの黄昏図(上図参照)では、前かがみになって歩く旅人たちによって寂しい雰囲気が前面に広がるが、三枚橋の向こうには満月に照らし出される沼津宿での安らぎが待っている。「宿場の家並みの屋根と白壁が月の光に浮かび上がり、安息の場が近いことを示しています」(「謎解き浮世絵叢書 歌川広重 保永堂版東海道五拾三次」)。この黄昏図は上に掲載した荷風四ツ木橋のスケッチと類似する構図で描かれている ― 海へと導くような逆「く」の字型に蛇行する川、その右岸の堤の道、画面奥の正面に架けられた小さな橋、平らな広い平面にたいして直立する、荷風が好んでいた樹木や煙突群、それらすべてを静かに照らし出し集める中央の満月・・・。

 正午戦争停止(欄外墨書)
 戦争は終わった。「流浪の身」となって、熱海にたどり着く。しかし、戦後の混乱期においても荷風の日記は変わらない ― 「夕飯の後月よければ(・・・)神社の山に登る」(昭20・8・18)、「深夜月佳なり」(8・19)。8月22日はほぼ次の記述のみだ ― 「夜月色清奇なり」、続けて二句ばかり俳句が書かれているが、その最後の一句は、「庭の夜や踊らぬ町の盆の月」。9月18日の記述は戦争中の岡山での記述と基本において変わらない。「戦敗国の窮状いよ(いよ)見るに忍びず」とあるが、熱海でも荷風は月が湾を照す光景を見て、「今年の中秋は思ふに良夜なるべし」と書き、秋晴れの日にはセザンヌマチスの絵画だけでなく、北斎や広重の浮世絵まで連想することができるだろうと続ける。
 荷風はまたフランスの夏の長い夕暮れ時の美しさも繰り返し書いた。例えば、河原から夕映にけむるリヨンの街の暮れやらぬ姿を倦むことなく、「ローン河のほとり」などで語り続けた。
 逃避とか敗残の姿勢ではない。惨憺たる現実と向き合いつつも、もうひとつの生活を再構成しようと試みている。断腸亭日乗では当時の日本人の生活がローアングルから追われていて、歴史的資料としても貴重なものではある。しかし、同時にここからは戦争へと暴走する軍部と崩壊してゆく社会に対峙しようとする荷風の創意に富む強靭な批判精神が透けて見えてくる。荷風が希求した生活の場を、月光は静かに照らし出し、その場に光彩を添える。
 断腸亭日乗はいわば羊皮紙に書かれている。戦争へと、破壊へと突き進む権力が庶民レベルでどう受け止められたかを知ることができる。しかし、その表面の下からもうひとつの層が浮き上がってくる。危機にありつつも荷風が編もうとした独自の生活が立ち広がろうとする。それは黄昏めいた光に浸されている。しかし、荷風は、圧倒的に多くの文学者が自局迎合の姿勢であった中にあって、体制順応の文學奉国会に入ろうとしなかった稀な作家だった。風変わりな文人の生活だったと思われるかもしれない。しかし、作品から感じられるのは、歴史文化の土壌に基づく深い批判精神であり、それはセンチメンタリズムでも一時の情緒的高揚でもない。そこから聞こえてくる抵抗の、抗議の声は小声でもある。しかし、それは直接的なものではないものだけに、かえってわれわれの想像力をかき立て、根強い訴えの力を語り続けている。崩壊してゆくものへ差し入れるようにして、荷風は本来存在するいとなみの場を現出しようとした。月光によって投影されるその生の場は本来存在し続けるものであり、それは輝き続けている。「竹取物語」に描かれているように、日本においては月は古来から穢れに満ちた地上とは異なり、清らかで精神を高める不死の力に満ちた場でもあったのだ。

 「あめりか物語」(明41年)
 荷風アメリカ・フランス滞在生活は通算するとほぼ5年間に及ぶが、特徴的なことは日本大使館の小間使いや正金銀行行員として気の進まないまま父親久一郎に勧められたアメリカでの生活を送っていた荷風が、滞在3年目を迎えるあたりからその生活の基調を変化させていることだ。アメリカ流の機械文明の繁栄ぶりに馴染めず、英語嫌いだった荷風アメリカでカレッジなどに在籍して仏語学習に励み、この頃ボードレール理解を深め始めている。また、念願のフランス滞在のための資金も溜まり始め、フランスに行く準備が整い始めていた。荷風はその頃すでに独自の世界を見出し、精神も高揚することになった。
 アメリカ滞在が終わる頃になって、「あめりか物語」に月光が恋人とともに頻出するようになるし、ボードレールの詩句が引用されるようになる。「自分は、この年、この夏ほど、毎夜正しく、三日月の一夜一夜に大きくなってゆくのを見定めた事はない。(・・・)月の光さえなくば、(・・・)自分は・・・ロザリンは・・・二人はかくも軽々しく互いの唇をば接するには至らなかったであろう」。「二人は(・・・)相抱いたまま月中に立竦(たちすく)んでいたのだ」。「断腸亭日乗」以前に書かれた「あめりか物語」後半に恋人ロザリンともに頻出する月光は、月の光が現出させる世界が、いかに若い頃から深く荷風の存在に根差していたかを物語っているのだ。

 



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越境する芸術・文化

 現代文学では、都市が描かれることが多くなる。「失われた時を求めて」第一ペン篇「スワン家のほうへ」と同年に刊行されたアポリネールの詩集「アルコール」(1913年)巻頭の「地帯」と題された詩でも、自由な詩法で現代都市パリの活気に富む生活が、 オフィスで女性が叩くタイプライターの音も含めて歌いあげられている。アポリネールは二十世紀初頭の開放的なパリだけでなく、パリを取り囲む大きな世界までも縦横無尽に闊歩してゆく。

     地帯
とうとう君は古ぼけたこの世界に飽いた

羊飼娘よ おお エッフェル塔 橋々の群羊が今朝は泣きごとを並べたてる

君はもうギリシャやローマの古風な生活に飽きはてた(・・・)

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     ニューヨーク マンハッタン

 そうしたパリをしばしば訪れたアメリカの作家ドス・パソスハーヴァード大学出のインテリで詩を愛好する画家でもあったが、革新の意欲に溢れるパリに影響される。ドス・パソスはパリでピカソの絵画に親しみ、シュールレアリスムを準備するアーティストたちと交わった。
 そうした経歴から、ニューヨークの中心に位置するマンハッタン島についての詩的な散文が生まれた。この小説ではニューヨークを生きる数十人もの人物たちが、時に万華鏡のような散文詩になって描かれている。
      
 メキシコ湾流の霧から赤い薄明の中に流れこみ、硬った手をした街々にわめく真鍮の喉笛を震わせ、五つの橋の桁ばりの太腿に赤い鉛を飛び散らし、港の煙の林のよろめく下で、さかりのついた猫のように鳴く引き船をけしかけて怒らせる。
 春は人々の口をとがらせ、春は人々に鳥肌立たせ、サイレンのとどろきの中から巨大な姿を現わし、爪先で立ったまま身動きもせず聞き耳をたてる家々の間で、停止した人馬の群れの中で、耳を聾する轟音とともに炸裂する(「マンハッタン乗換駅」)。

 この詩的散文の前半では、現代文学で多用されるようになるサスペンスがはられていて、前半4行の文の主語は隠されている。「薄明の中に流れ込む」の主語は何なのか、「真鍮の喉笛を振るわせる」の主語は何なのか。しかしそれは引用文の後半冒頭まで読み進まないとわからない。主語を求めて推理をめぐらす読者は身を乗り出す。すると、後半の冒頭まで来て、はじめて主語が明らかにされる。主語は「春」なのだ。大都市を突き動かし撹乱させているのは、「春」なのだ。コンクリートと鉄で築かれた無機質な近代都市に、突然乱暴なまでの生の息吹きをあちこちに浴びせかけているのは、「春」なのだ。ニューヨークの冬は東京よりは寒く、そのためまるで到来の遅れを取り戻そうとするかのように、「春」は大都市に突如出現し、橋桁に荒々しくその「赤い鉛を飛び散らし」、引き船をけしかけ、はては「轟音とともに炸裂する」。近代都市ニューヨーク、は原初の春の荒々しいまでの飛沫を浴びせかけられている。
 この散文詩が強い印象を残すのは、対象を見る目がひとつだけに限定されず、多視点から都市が描かれているからでもある。冒頭の「湾流」を描く視点は、「引き船」に至るまでいくつかのカメラアイを切り替えるようにして描かれてゆく。短い文が、時系列を無視して、いくつも並列される。海から街の「家々」まで幅広く散文は展開される。固定された一視点から時間軸に沿うように直線的に記述が単調に流れるのではない。二十世紀は時間よりも空間に関心が集めることが多くなる。しかし、ルネサンス期に人工的に考案された遠近法という理知的な秩序や規範には従わない。都市という巨大な生きた立体は、パッチワークのように動的に多面的に組み合わされてゆく。   
 ドス・パソスの引用文では長い文の中央に「春」という主語が置かれているが、このことによって作品は時間に流されないものになった。この主語「春」は後半の文だけでなく、先行する前半の文にもかかることになった。写実の構文ではない。物事を消滅させることもある時間を超えて、造形的な構成が図られるようになった。
 常識的なものとされてきた描写とは根本的に異なる見方から都市という巨大建造物が造形され直されてゆく。なお、対象を多視点から描く手法は、映画のテクニックを思わせるが、いくつかのカメラを切り替えて対象を立体的に追う映画は、当時すでに市民生活の中に広く定着していた。
 このドス・パソスの小説「マンハッタン乗換駅」刊行の3年後の1928年(昭和3)に、上海という大都市の同じ港湾風景が日本人作家によって書かれた。横光利一である。小説「上海」冒頭に展開されているこの文も詩的散文だが、昭和初期の文芸復興期の中心的作家でもあった横光は、ドス・パソスと同様、フランスの新しい文学運動シュールレアリスムに強い影響を受けている。横光の文を以下に引用して、ドス・パソスの上記の引用文と比較してみたい。

 満潮になると河は膨れて逆流した。火を消して蝟集しているモーターボートの首の波。舵の並列。抛り出された揚げ荷の山。鎖で縛られた桟橋の黒い足。測候所のシグナルが平和な風速を示して塔の上へ昇っていった。海関の尖塔が夜霧の中で煙り出した。突堤に積み上げられた樽の上で、苦力(クリー)達が湿って来た。鈍重な波のまにまに、破れた黒い帆が、傾いてぎしぎし動き出した。
 白皙明敏な、中古代の勇士のような顔をしている参木は、街を廻ってバンドまで帰って来た。波打際のベンチには、ロシア人の疲れた売春婦達が並んでいた。

 この引用文でも、映画を思わせる多視点から港湾風景が描かれ、満潮から始り、モーターボートを経由して、街の情景へと視点はカメラアイが切り替わるようにして並列する。文も短く、この点でもドス・パソスの引用文と共通する。視野は、「概念あるいは観念の与えてくれるものにしたがって」構成されるのではないとする横光は、ひたすら多角度から港湾風景を現場で見る。実際、彼の小説「日輪」(1923年(大12))は映画化されたし、彼の呼びかけから、「新感覚派映画聯盟」が結成されることにもなる。
 また、「モーターボート」が「蝟集する」や、「シグナル」が「昇っていった」などの文では、無生物が主語になっていて、人間や生物が主語になることが常識でもあった当時の日本人には、こうした表現は当初は新奇で、実験的なものと映ったであろう。無生物を主語に置くことができ、またメタファーを使う欧文脈の表現があえて和文脈の中に移植されていて、そこに日本語表現の新たな可能性が模索されている。日本語の表現に大胆にも新たな富を植え付けようと試みたのだ。ヨーロッパ滞在中に行った講演の中で、横光は関東大震災を取り上げて、天災が古い文化を破壊したため新しい文化が必要とされている、と述べている。すべてではないものの、こうした表現は現在では不自然なものではなくなっている。横光の当時の先端的な試みは、それを十分に咀嚼するための長い時間が必要ではあったものの成功したと言えるだろう。
 もっとも、横光の小説は抒情に流れてしまう箇所があり、緊密な構成や迫力という点ではドス・パソスにやや劣る。しかし、総体として見るならば、横光自身この小説を「最も力を尽くした」と自賛しているし、「魔都」上海の群衆の貪欲な生活欲といったものまで活写されていて、意欲溢れる傑作である。さらに、「上海」には列強諸国の植民地主義に対する批判も、またそれに対峙するアジアにおける、時に愚直なまでになる民族主義も描かれている。こうした社会や思想、ひいては文明への言及は、横光のその後の著作においても展開されることになる。社会や文明にも考察が及ぶこの小説は、新たな表現技法が移入された実験的な作品として注目すべきではない。スケールの大きな問題意識でもって創作された小説なのである。他者たちとの関係性よりも個人の自我を写実的な文体でもって描き、大正時代に全盛を迎えた私小説とはすでに異なる問題意識によって執筆されたと言えるだろう。
 横光と同様の斬新な文章表現の模索は、同じ時期に他の同世代の文筆家たちによっても行われた。従来の写実を基調とする表現に飽き足らないものをおぼえる文学者が現れるようにになった。例えば、「上海」刊行の一年前の1927年(昭2)に小説家で劇作家の藤森成吉の「何が彼女をそうさせたか」というタイトルの戯曲が上演されたが、当初こそ無生物である「何が」を主語にする使役表現に当惑をおぼえた当時の日本の読者も、次第にその使役表現が新鮮な印象を生むことに気づくことになった。こうした文型は現在では奇異な感じを与えなくなっている。なお、藤森は脚本執筆で得た印税収入で妻とともに渡欧し、二年間ドイツに滞在する。
 当時、翻訳家で詩人の堀口大學も日本語表現に新風を吹き込んだ。フランスのポール・モランの小説「夜ひらく」の堀口訳は、横光利一を旗手とする新感覚派誕生の契機にもなったが、とりわけ同年の1924年(大14)に刊行された堀口の訳詞集「月下の一群」の訳文は多くの読者を魅了し、昭和に新しい詩を招いたとまで評されることになった。堀口の訳文はおおむね原文のフランス語表現に忠実で、自然に流れるものでもあったが、そこには官能的とも言える新鮮な感覚が知性に支えられつつ盛り込まれていた。私小説風の重く湿潤なレアリズムに慣れ親しんでいた読者には、堀口の訳文は瀟洒ダンディーで、めざましく斬新なものに映った。昭和の代表的な詩人三好達治も堀口の「月下の一群」から、「新しい機智 ー 速度と省略」を教えられたと書いている(「現代詩概観」)。
 堀口はまた明快な短唱詩人でもあったが、ここではジャン・コクトーの「耳」という詩の翻訳を引用しよう。

    耳
 私の耳は貝の殻
 海の響をなつかしむ

 
 ほぼ同時期に、アポリネールジャン・コクトーだけでなく、ドス・パソス横光利一や、藤森成吉も堀口大學もそれぞれの創作活動において、慣例という規範から解放された新たな表現を模索し、斬新な創意に富む表現を自作に盛り込んだ。そして、拒絶反応を見せずに、読者たちはそうした新趣向を柔軟に受け入れた。
 大正時代においては、海外の文化が移入されても、それはブキッシュな教養として直輸入されたし、翻訳された文章や複製画にひたすら沈潜することによって自らを統一するような人格がおのずと形成されるはずだと抽象的に信じられる傾向が実際にあった。いわゆる大正教養主義であり、文化・芸術の受容は東京の山の手のアッパークラスの子弟だけに限られていた。しかし、関東大震災をはさんだ直後の昭和においては、日本人による海外文化受容は受動的なものではなくなり、より幅広い観点から日本人の感性を通して行われるものに変わる。現地で直接文化活動に触れたいという願望を多くの日本人が抱くようになった。実際の社会生活から遊離した抽象的なものとして受容されることの多かった海外文化を、日本人はより具体的に、そしてより多岐にわたって受け入れ始めた。
 横光自身の関心も、上海だけには止まらなかった。欧州航路に就航した箱根丸に1936(昭11)に乗船し、フランスのマルセイユ港に向かう1ヶ月の長い船旅に出る。マルセイユで汽車に乗り換えるが、その先には芸術・文化の都パリが待っている。シュールレアリスムなどの新しい文化・芸術運動の息吹きにその現場において触れた。それだけではない。多様な世界情勢の展開の中にあって政治上の論議で沸き立つパリで、横光は上海滞在時におぼえた西洋と東洋との関係をさらに発展させて思索するようになる。歴史的動向にも目を向け、西洋の植民地主義や合理的科学主義の論理と、それに対峙する東洋の民族主義や自然について考察 ― それは時にカトリック古神道との相剋にもなる ― をめぐらすことにもなる。


郵船の貨客船「箱根丸」(1935年)写真は神戸港離岸時(写真提供:和田恵子)

 フランスのマルセイユに向かう同じ箱根丸には俳人高浜虚子たちも乗り合わし(写真参照)、船内では句会がしばしば開かれた。1938年には作家野上弥生子も夫で英文学者野上豊一郎とともに靖国丸に乗船する。欧州に向かう旅費捻出のために多額の金を工面していた。しかし、不安よりもより大きな期待がふくらむ船出となった(大堀聡「日本郵船 欧州航路を利用した邦人の記録」)。
 ロシア国境に近い中国東北部ハルビンからシベリア鉄道に乗り込み、モスクワ経由で長駆陸路でパリに向かったのは、作家林芙美子である。行商人の娘として旅を重ねた不遇の半生を書いて大ヒットした伝記的小説「放浪記」(昭5)で得た印税収入のおかげで海外旅行に出かけられたわけだが、酷寒の車内に漂う羊の匂いにもめげず、また沿線地帯は当時満州事変が勃発していて政情不安だったにもかかわらず ― 「停車する駅々では物々しく支那兵がドカドカと扉をこづいて行きます」― 過酷で危険な長旅を女ひとりでたくましい生活力と行動力で乗り切る。まさに林芙美子はバック・パッカーの草分けなのだが(「下駄で歩いた巴里」解説)、このバック・パッカー、旅をしただけではない。シベリアの原住民やロシア人たちや蓄音器を持ち込んだドイツ人とも交流を行い、「出鱈目なロシア語で笑わせる」。「信州路行く汽車の三等と少しも変りがありません」(「愉快なる地図 台湾・樺太・パリへ」)。林芙美子は詩的センスに恵まれていたが、それだけではない。日本のマスメディアによって満州で行われていた情報操作というプロパガンダまで批判する。

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    シベリア鉄道

 海外の芸術家たちも日本に来るようになる。昭和七年には親日家の喜劇王チャップリンが来日し、歌舞伎俳優や落語家たちとも交流している(写真参照)。若い映画監督たちに自分の経験を語ったりもした。当時、東京の路上では車よりも人力車のほうが多く走っていたが、その光景に興味を刺激されたのか、チャップリンが実際に人力車を車道で漕いでみせたという話も残されている。

http://2014.tiff-jp.net/news/ja/?p=25987

歌舞伎座を訪れたチャップリンと七世松本幸四郎(1936年3月)、サイト「第27回東京国際映画祭」より

 ジャン・コクトーも1936年(昭11)に日本を訪れ、日本に帰国していた友人の画家藤田嗣治と再会した。訳者堀口大學の案内で見た相撲を「バランスの芸術」と称賛し、歌舞伎観劇も楽しんだ。尾上菊之助演じる「鏡獅子」から、後の映画「美女と野獣」(1946)の野獣のメイクのアイデアを得たとも言われている(写真参照)。

美女と野獣のメイクと鏡獅子の隈取

 国境をまたいだ双方向の文化交流が世界規模ですでに始まりだしている。1920年代には、 パリ、ニューヨーク、東京などの大都市において活性化された新しい芸術・文化活動が相互に刺激し合うという稀有な現象が多様な社会階層においてすでに起きている。国境を越境する文化・芸術の世界同時多発の胎動が感じられる。東京は関東大震災から立ち直り、疲弊することなく生まれ変わろうとしていた。東京の人口は500万人を越え、ロンドン、ニューヨークに次ぐ世界第三の都市になった。民衆レベルでの交流も活発化し、昭和初頭という短い期間ではあったが、日本は二十世紀初頭の西欧モダニスムを受け入れた。震災以前に顕著でもあった根強く狭い自我意識からの脱出が図られたとも言える。
 しかし、世界の大都市によっては、すでに世界大戦へ向かって進軍しようとする軍靴の響きが次第に聴こえてくる。昭和11年満州事変以降、陸軍統制派はすでに戦争へと走り始める。長く持続することなく終わった文芸復興期を含む昭和初期の世界に開かれた文化興隆への機運は、たちまちしぼみ、長く続くことはなかった。


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村上春樹「羊をめぐる冒険」における名付け

 ユニークな傑作「羊をめぐる冒険」(1982)は、様々な横糸縦糸から織りなされているので、あらすじを一筋縄でまとめることは容易ではない。しかし、次のようにレジュメすることもできるのではないか ― 主人公「僕」は人の名前をすぐ忘れる男で、小説冒頭で知り合いの女の子が交通事故で死んでも、彼女の名前が思い出せない。「あるところに、誰とも寝る女の子がいた。それが彼女の名前だ」などとひとりごつ。「僕」は、「名前というものが好きじゃない」などと宣言までする。謎の人物に謎の羊を北海道に探しに行く仕事を依頼される場面でも、見せられた名刺はすぐに回収され、その場で直ちに焼き捨てられてしまう。氏名は消される。「1973年のピンボール」にも、恋人直子が現れるが、彼女は死に、むしろ名前がなく「208/209」と書かれる双子の女の子が登場してくる。
 ところが、話が進み体験を重ねるうちに、対象に新たな名前(苗字ではないファーストネーム・愛称・通称)を付けて呼びかけると、そのうちに呼びかけられた対象が新たな姿を見せることに「僕」は気づくようになる。ファンタジーによって展開される村上の小説を因果関係では説明することはできないので、具体的なエピソードを例示しながら説明してみよう。
 当初こそ名前を嫌い名付けることを嫌っていた「僕」は、新しく名を与えられる対象が、それに応じて賦活され、新たな精彩を帯びることを何度か目撃する。例えば、「僕」は当初こそ飼い猫にも名前を付けないが、猫を預けた北海道の「先生」の運転手が、「あなたは自分の名前さえわからない」と不思議がり、預かった猫に「いわし」という名を付け、「おいで、いわし」と呼び、抱きしめるのを見る。その後、運転手はさらに新たな名を猫に付ける。すると、猫はそれに応えるようにして、丸く太り始める。その変化に立ちあったガール・フレンドは、それまでは「僕」に「どうして猫に名前を付けてあげないの」と非難してきたのだが、これは「天地創造みたいね」と言って驚く、というよりも喜ぶ。
 村上の小説は一作ごとに独立せずに、前後に書かれた他の小説たちと密接な関連を結ぶことが多いが、この飼い猫も「ねじまき鳥クロニクル」(1993)に出てくる「ワタヤ・ノボル」という猫を想起させる。この猫は一度失踪し、名前も失うが、「僕」のところに戻ってきて魚のサワラを食べるので、今度は「サワラ」という愛称で呼ばれるようになる。すると、それとともにそれまで行方不明だった「僕」の妻までもが家に戻ってくることになる。新しい呼称が発せられるうちに、新しい事態が生じる。
 苗字ではない新しい名前(ファーストネーム、愛称、通称)でもって呼び直される対象(人物、動物、事物、地名)は、繰り返される新たな命名から刺激を受け、可能性に富む姿に変容する。新たな名付けとともに、新たなポジティヴな局面が切り開かれる。
 「僕」の恋人の場合もその一例である。彼女は処女作「風の歌を聴け」では名がなく、ただ「僕」が「三人目に寝た女の子」と描写されるだけだった。しかし、次作「1973年のピンボール」(1980)でその無名の恋人に「直子」という名が与えられると、「直子」は変容し、「僕」に影響力を発揮するようになり彼を導くまでになる。バルザックの<人物再登場>という手法が大胆に取り入れられている。
 「僕」は、強権的な暴力をふるう父権を思わせる羊に取りつかれた「先生」の名前を探し出すという仕事を請け負うことになり、北海道の「部落」にたどり着く。その土地では「部落には名前は付けない」という決議までが出されていた。しかし、部落の脇に12の滝があったことから、「部落」には「12滝村」という名が土地の職員によって付けられる。その地名はさらには、「12滝町」と名付け直される。そして、「北海道 ― 郡12滝町」と新たに表記された土地に関連する文書を読むうちに、「僕」は「先生」の名前をついに見つけ出すことになる。土地は何度か名付け直されるが、その数度の異なった名付けに応えるようにして、土地はそこに潜められてきた北海道の貧農出身である「先生」の名前を明らかにする。ここにおいても、新たに名付け直されることによって活性化する土地は、その名付け直しという呼びかけに反応し、土地に秘められてきた可能性を切り開いてみせる。「僕」の捜索は成功する。
 自意識過剰気味で引きこもるようにして他者の名前にさえも関心を示さなかった「僕」は、次第に反復される名付けが引き起こす可能性に気づき始める。以前は、「美しい耳を持った」と呼ばれるガール・フレンドに、「あなたは自分自身の半分でしか生きてない」と非難されたが、北海道での羊の追跡を終えて12滝町を離れる時には、変容している。羊博士に「君は生き始めたばかりだ」と言われるようになる。名付けるという行為が引き起こす新たな事態へ興味をおぼえるようになっている。
 最近作「色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の旅」(2013)においても、父親は息子のファーストネームを漢字の「作」に決めるが、母親は「創」という表記を提案する。息子自身や友人たちは普段は「つくる」という表記を愛称のように使う。また、母とふたりの姉も彼を「さく」とか「さくちゃん」と呼ぶ。家庭という場において何通りかの呼称が飛び交い、そのことに刺激される「つくる」は、それまでの受け身だった個性から脱皮する。沙羅に促されて、自分が標的とされたシカトという陰湿ないじめを乗り越え、4人の実行犯 ― かつての仲間たち ― を許そうと決意する。そして、巡礼の旅に出る。2013年刊行のこの小説においても、「羊をめぐる冒険」において展開された<名付けという行為が引き起こす可能性>というテーマが、変奏されつつ反復されているのである。
 北海道の「12滝町」も何度か名付け直された土地だが、その12滝町はその名付けに応えるようにして、「先生」の名前を「僕」に明らかにする。それだけでなく、捜索していた危険な羊が鼠の体内に取りついたことも明らかにする。この12滝町という場所は、鼠の父が別荘を築かせた父親固有の土地でもあるのだ。そして、この邪悪な父権的存在の羊に取りつかれた鼠は、羊が周囲に増殖するのを恐れ、その伝播を自ら阻止しようとして、自分の体内に宿っている羊もろとも自爆する。
 港町のジェイズ・バーに戻った「僕」は、中国人オーナーの長いフルネームを、そのバーの常連のアメリカ兵たちにならって「ジェイ」という愛称に変えて呼びかける。そして、バーを港町に転入させた時の借金を抱えるジェイに、北海道での羊の追跡完遂の謝礼としてもらった報奨金の小切手を差し出す ― 「どうだろう、この分で僕と鼠をここの共同経営者にしてくれないかな?配当も利子もいらない。ただ名前だけでいいんだよ」。ここでは、「名前」はまだ正式の契約書類に署名されるような苗字が中心となる氏名のことではない。バーの親しい常連仲間同士で交わされるあだ名や愛称のことだ。苗字が使われる以前のあだ名が交わされることによって、そこから何か新たな可能性が生じることに「僕」はすでに何回か立ち会ってきたのだ。そこから共感や信頼感が広がるかもしれないし、自爆した鼠だってまたジェイのバーに来ることだって起きるかもしれない、そのことだって起きるかもしれないのだ・・・。
 でも、である。そんなことはありえない。鼠はすでに北海道で権威ずくの父を思わせる羊もろとも自死していて、いないはずだ。「僕」の分身でもあった鼠は、「僕」のように名付けという行為を習得する機会をついに持てなかった。金持ちで、高圧的でもあっただろう父親を嫌いはするが、家の苗字のほうにとらわれ続けた。父からの反対があったことが想像されるが、鼠は母のいない貧しい家の恋人「小指のない女の子」と結婚することができない。彼女は鼠の子を宿すが、堕胎した。鼠の「小指のない女の子」は、「僕」の恋人「直子」のように名でもって呼ばれることがついにない。父親が別荘を構える場所 ー 家名がここでも使われる ー で取りつかれた邪悪な羊が身体に巣食っていることを知り、それが周囲に広がり伝播することを恐れた鼠は自ら命を絶ったのだ。鼠は港町のジェイのバーを後にしたあと、もう戻ってこれない。
 「羊をめぐる冒険」の最後には、何かが習得されようとしている時のような明るさが広がるが、それと背中合わせになるようにして深い喪失の悲しみも広がる。鼠は父権のような強大なものにとらわれ続け、ついに自らの意思で不在になってしまったのだ。
 実際、鼠は前作「1973年のピンボール」では恋人「小指のない女の子」と霊園の中でデートをする。家名の苗字が大きくっ深く彫り込まれた不動の墓石は、鼠を、そして「小指のない女の子」を見下ろし、強いグリップを利かし続ける。鼠は恋人を愛称で呼ぶことができない。
 「僕」は鼠の「小指のない女の子」を慰めようとしたこともあった。港町のバーでも、オーナーのジェイに報奨金の小切手を見せながら、「僕」はそれが鼠の手柄であるかのように言う、「その金は僕と鼠で稼いだんだぜ」。
 しかし、そんなことはない。亡き親友を持ち上げようとしたまでだ。
 その後、バーを出た「僕」は砂浜に腰を降ろし、泣く、二時間くらい。明るい歌だけが聴えてくるのではない、深い喪失の歌も風の中からは聴えてくる。「「僕」は強い父親の力の下で影が薄く存在感のなかった鼠のことを哀惜を込めて思い出す。
 なお、「僕」とその分身である鼠との関係に注目するならば、この小説には先行する小説がふたつある ー チャンドラーの「ロング・グッドバイ」(1953)と、スコット・フィッツ・ジェラルドの「ザ・グレート・ギャツビー」(1925)だ(内田樹「「言葉の檻」から「鉱脈」へ」「街場の文体論」所収)。この二作品にも、主人公の分身が登場するし、この分身はふたりとも弱くて、邪悪さを抱え込んだ富豪の父親の息子だ。最後には、この二人の息子も、突然姿を消す。「羊をめぐる冒険」における主人公「僕」の分身である鼠の相似形のような人物だ。このことは、村上の傑作がけっして特異な個人の発想から恣意的に思いつかれたものではなく、広い文学の継承の流れの中に位置するものであることを示してもいて、この小説は確かな分厚い存在感を獲得している。
 「羊をめぐる冒険」はファンタジーに頼って作られ、伏線も置かれていないし状況説明もない。話はやや唐突に展開するし、主人公の内面描写も省かれている。このため、推理と想像で補いつつ繰り返し解釈し判断するしかない。しかし、それが直接的でリアルな訴えからでは得られない、複雑で、しかし痛切な思いを読者にかき立て、深い余韻を響かせることになる。
 「羊をめぐる冒険」は、「風の歌を聴け」(1979)と「1973年のピンボール」とともに、<鼠三連作>を構成するとも言われているが、それ以降に執筆された小説のいくつかとも密接な関連を結ぶ。
 小説「羊をめぐる冒険」は、単なる恣意的な空想譚でもなければ、独創的な表現や形式上の実験作でもない。過激なセックス描写も自殺も多い。しかし、その下には深い人間的な問いかけが潜んでいる。自己と他者との関係性をふたたび構築しようとする試みが内包されている。
 鼠が弱いながらも阻止しようとした強権的で<邪悪で危険な羊>というテーマは、「羊をめぐる冒険」以降も ー より現実的で社会的なスケールでもって ー 展開されることになる。我々は、この多岐に渡って複雑で、しかし豊かな小説を、その多様性を矮小化することなく、また細部に拘泥することなく、読み解かなくてはならない。


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谷崎潤一郎 ー 音曲の活用

 谷崎潤一郎の作品群ではしばしば母恋いのテーマが展開される。これは評論家江藤淳も指摘することである ― 「(谷崎潤一郎)氏の心の底には、幼いうちに母を喪ったと感じさせる深い傷跡が刻印されていたはずである。そうでなければ「母を恋い慕う子」というライト・モチーフが、谷崎氏のほとんどすべての作品に一貫するはずがない」(「谷崎潤一郎」「江藤淳著作集 続2」所収)。江藤淳自身、4歳の時に実母廣子を失い、晩年に美しい「幼年時代」を著した母恋いの人であり、晩年に長い谷崎論執筆を準備していただけに、この指摘は鋭い。
 抱擁してくれるはずの母親は外出を好み、その不在は常態化し、乳母とふたりで寝る谷崎は悲しみを抱え込んだ。いつしか、母の不在は自分の過ちによって引き起こされるのだと思い込む。悲しみは精神的外傷(トラウマ)となり、刷り込まれた傷を谷崎はマゾヒステックに受け入れ、その傷はさまざまな形で表現されることになる。実際、谷崎の母は育児を乳母に任せて外出することを好み、彼は神経質でもあった母の帰宅を長く待ちわびる幼年期を送った。
 谷崎は関東大震災後、江戸情緒が消えた日本橋を嫌い上方に移住するが、主にその後期の作品において作風は変化し深まる。関西移住後マゾヒスティックなものへの惑溺から脱し、谷崎は女体を崇めるようなその自己完結した密室を少しずつ押し広げ始める。その傾向は前期においても、例えば小説「母を恋ふる記」(大8)からその一端ならうかがうことができる。そこでは母を亡くした「私」の見た夢の話が語られるが、彼は食事の支度するひとりの老婆に出会い、老婆に「お母さん」と少年の「私」は呼びかける。しかし、老婆に<お前は私の息子ではない>と言われて、追い払われてしまう。しかし、道を行くうちに、海の絶景からかつて東京日本橋で乳母に抱かれて聞いたことのある三味線の音が聞こえてくる。三味線を弾くその若く美しい女に近づき、姉を持つことに憧れる少年は、「姉さん」と呼びかける。すると、若い女は自分は実は少年の母だと明かす ― 「母は喜びに顫える声でかう云った。そうして私をしつかり抱きしめたまゝ立ちすくんだ」。子供を抱きしめる母には妖艶な若い美女が重なっていて、この場面からでも母を性愛の対象としても描く谷崎らしさがうかがえる。ようやく回帰した母の背後には生なましいまでの若い美貌の妖婦、その前ではマゾヒステックにひざまずくしかない妖婦が潜んでいる。ここからは不在の母の帰宅を待ちわび、不在を喪失としか思わざるをえなかった谷崎、しかし不在の母を偶像作品として思慕し続ける谷崎自身の姿が彷彿としてくる。
 しかし、この母子再会の場面で注目したい点は、妖婦と化す母が新内流しの三味線を弾き続けていることだ。7、8歳頃まで羽振りが良く、潤一郎も「乳母日傘で」暮らした谷崎の家は、日本橋の真ん中にあり、その界隈を練り歩く新内流しの二丁の三味線はしばしば家とその周囲に響いた。母子再会の場面で母が弾き続ける三味線は、妖婦ともなる異性の母だけではなく、母を取り巻く当時の賑やか日本橋界隈も同時に少年に思い出させている。零落する以前の家と震災で瓦解する以前の日本橋という活気に満ちた街を想起させている。新内流し(音源参照)の三味線は、母とふたりきりで閉じこもる密室だけでなく、周囲の家郷とも言える生活の場も喚起している。なお、二人一組の新内流しは、客の請われると、街角で艶っぽい話も語った。

模写 鏑木清方 新内流し(部分)



新内流し


1900年頃の日本橋界隈


新内節の代表作「蘭蝶」(お宮口説)(部分)


「蘭蝶」お宮口説 歌詞

 谷崎の代表作のひとつ「春琴抄」(昭8)においても、時に矯激になる師匠の春琴が弾く三味線は、弟子の佐助のマゾヒスティックな忍従に追い込むだけではない。性にまつわる秘事や、それを超越しようとする耽美主義の世界よりも、むしろ家の周囲でも交わされる芸事習得の活動を呼び醒ます ― 大阪道修町の傾き始めた薬種商の娘の琴は、美貌だけでなく三味線と琴の才能にも恵まれていたが、その腕前が世に知られると春琴と改名する。しかし、九歳の時に失明。春琴に献身的に仕え、自らも三味線を自習しはじめ、手ほどきを乞う丁稚の佐助にたいして春琴はその驕慢さでもって激しい体罰を加える。撥で殴りつけ、「阿呆、何で覚られへんねん」とののしる。見かねた春琴の両親は佐助を丁稚の任から解き、春琴の三味線の相弟子と見なすことにする。両親はふたりに結婚も勧めるが、春琴はこれを拒絶する。一緒に暮らし始めた佐助によく似た赤子を産むものの、春琴はその子を里子に出してしまう。春琴に執着し、容れられなかった弟子の雑穀屋の利太郎にも激しい稽古をつけ、このため春琴は利太郎にひどく恨まれることになり、顔に熱湯を浴びせかけられ大火傷を負う。春琴の美しかった顔を永遠に脳裏にとどめようと、佐助は自らの手で両目を針で突き、盲目となる。盲人となった佐助はとぎすまされてゆく音感や三味線をつま弾く時の触感を介して、「お師匠様」と繰り返し呼び続ける春琴の音楽がさらに深まってゆくのを感じ取る。ふたりは三味線の音を通して互いを高め合うようになる。春琴は佐助に琴台という号を与え、門弟の稽古をすべて引き継がせる。春琴は作曲の才も発揮するようになる。春琴が作曲した名曲を佐助 ― いや、春琴によって号を与えられ師匠にも任じられた琴台 ― は夜中でも三味線を爪弾き、その音に導かれて春琴をさらに深く愛する。
 佐助はひたすらマゾ的な姿勢で春琴を偶像としてただ奉じ続けるのではない。春琴もサディステックな態度で佐助にあたり続けるのではない。彼女は反面、佐助の三味線の上達を導き琴台という新たな師匠としての号を与え、佐助を師匠として世間にも認めさせる。ふたりは三味線を通して相手を、そして弟子たちを教導する役割もになうようになる。激昂して室内で衝動的に行われるサド・マゾの行為だけでなく、芸事の教授や習得のやり取りによって活性化される春琴の家郷の生活ぶりも描かれている。伝承が弟子たちの手によって受けつがれる上方文化の長い時間も土地という空間も広がる。
 「春琴抄」にしろ随筆「陰翳礼讃」(昭8)にしろ、充実した創作期の作品を読むと、関東大震災後(大13)による関東圏崩壊を避けて関西に移り住んだ谷崎は、まだ生活において親しまれていた音曲などに親しむだけでなく自らも弟子ともなり、それを自らの作品に取り入れ重要な役割をになわせるようになった。芸術としてただ鑑賞されて終わるのではない。芸事という、他者とのやり取りで成り立つ動的な実践面が加えられた作品は、サド・マゾという性の一時の密室内の秘事に限定された狭く自己完結したものではなくなり、芸事の音が交わされる家郷という広く土地を獲得することになった。
春琴抄」にも文楽義太夫節三味線の名跡豊沢団平の名前は何度も引用されていて、小説も観念的抽象的なものにはならない。菊原検校も岡本の谷崎邸に通い谷崎に出稽古をつけたが、そうした日々を谷崎は最大限の表現で回顧している ー 「音楽に対する私の耳を開けて下さった検校の恩は、無限に大きい」。「私が関西に移住して以来のあらゆる出来事は、(・・・)あのなつかしい生田流の箏曲地唄と結び着いて」回想されている(「菊原検校生ひ立ちの記」序文 1943年)。この思い出豊かな味わい深い生活は、東京での活動前期における生活とは大きく異なる。いわゆる美は、官能の世界を描くことにあったし、この美=芸術に向かう姿勢は、信仰を思わせる求道的なものであった ー 「私に取って、第一が藝術、第二が生活であった」(「
父となりて」1915年)。ここでの谷崎には何人かの大正期の作家のように、<人生が芸術を模倣する>と書いたオスカー・ワイルドからの影響がうかがわれる。
 しかし、関西移住後、谷崎にとって大阪の女の声は、「浄瑠璃乃至地唄の三味線のようで(・・・)其の声の裏に必ず潤いがあり、つやがあり、あたたか味がある。(・・・)東京の女は女の感じがしないのである」(随筆「私の見た大阪及び大阪人」昭32)。三味線は、琴や鼓といった楽器とともに作中に取り入れられ、主に伴奏楽器として使われ、その楽音は登場人物たちの反応を触発し呼び醒まさますようになった。
 谷崎というと、変態とも言われ、とりわけそのマゾヒスムが着目されることが多いが、性に関する描写は実は詳しいものではない。独自のその<母恋い>は、意外なほど広い射程に達する。
 三味線や、琴や、人形浄瑠璃(「蓼食う虫」(昭3)や、初音の鼓(「吉野葛」)の音に誘い出されて、佐助などの人物たちもその楽の音に応えて関心を広げる。三味線や琴や鼓の音を耳にする佐助たちは、それをただ受動的に享受するだけでは満足していない。彼らもそれに触発される形で新たな積極性が自らのうちにきざすのを感じたはずだ。谷崎も幼年期に刷り込まれたトラウマをただ繰り返しなぞるだけではなくなる。密室内での女性とのサドマゾ的な直接的な接触は、音曲の実践という広がりが介入されることにより、間接的なものになり、のびやかな想像の広がりが獲得されることになった。
 代表作の長編小説「細雪」(昭16−23)でも、四女妙子は大阪船場の旧家薪岡家の子女にしては型破りの人物で、赤痢にかかるだけでなく、あちこちで恋愛遍歴を重ね死産も体験するしスキャンダルも引き起こす。しかし、船場の郷土芸術である山村流の地唄舞いを ―  一度は姉の幸子が口ずさむ口三味線に合わせて ― 何度か踊るうちに、その舞いに強く惹かれるようになる。その時、土地の流行り歌である地唄も思い出した妙子にも幸子にも、「二十年前の船場の家の記憶が鮮やかに甦って来、なつかしい父母の面影が彷彿として来るのであった」(「細雪 上巻」)。妙子は上方の地唄舞いを個人の趣味の域にとどめるのではなく、「名取の免状を貰って」、船場という家郷を盛り立てその文化を継承するために役立てようと決意し、「最も純粋な昔の型を伝えるする山村流の稽古場」に通うようになる。三味線や地唄や舞いが、妙子に眠っていた意外な一面を覚醒させ、社会性とも言える自覚をうながす。相変わらず失敗を犯すが、三味線の音に導かれるようにして妙子は新たな活動範囲を発見することになる。雪子の脇役と思われてきた妙子は人形作りにも才能を発揮するし、洋装を学びにフランス行きを計画するような新しいタイプの女性に変容する。この妙子のような現代的なタイプの女性に谷崎は惹かれるようになる。谷崎は「細雪」執筆中に地唄「雪」のレコードを繰り返し聞き、嵯峨や東山を心の故郷として思い浮かべたが(千葉俊二谷崎潤一郎 性欲と文学」)、この地唄「雪」を小説中巻の冒頭で舞うのは、妙子である。性愛の作品を芸術としてひとり密室で崇拝するように書い続けてきた谷崎は、最後に三女雪子ではなく、四女妙子を前傾化させ、他者たちをその背後に広がる生活の場において新たに見出したのである。
 一方、三女雪子の場合、縁談話は五回目にようやくまとまるものの、長編小説巻末の下痢騒動の場面からでもうかがえるように、美貌に恵まれ病気知らずでもあった雪子は巻末において健康を害す。婚約相手は、フランスとアメリカに留学しているが相変わらずブラブラしていて定職が決まらない。嫁ぎ先の元貴族御牧家の家運も ― 四姉妹の実家薪岡家の家運も同様に ― 戦後に傾き始めることが暗示される。実際、谷崎は旧家族の称号がほとんど無意味なものになったことを昭和23年に知っていた。
 無口だが病知らずで、見合いを繰り返すがそれなりに安定し、主役とも思われてきた三女雪子と、不安定だった脇役妙子という明暗は、「細雪」の最後になって逆転し、妙子のほうが前景化し照明を浴び、反対に雪子が舞台の奥へ引き込もうとしている。こうした大きな巻末での反転は、小説半ばで姉が口ずさむ口三味線の声(音)にうながされて妙子が踊った舞い ― 郷土芸術である山村流の舞い ― がきっかけとなって引き起こされたとも言えるのである。
 当初計画では、「細雪」は現行版よりもはるかに社会性に富む小説であり、「その頃の蘆屋夙川」辺りの上流階級の「腐敗した」実相を描くことにあった」(「「細雪」を書いたころ」)ったと作者谷崎は後日談において語っている。


地唄「雪」(部分)


地唄「雪」歌詞

 意外な結末かもしれないし、実際、今までの流れが反転するようなこの結末に驚く読者は多い。しかし、長編小説ではこのような展開は起きるのであり、この巻末は「失われた時を求めて」のそれを思い起こさせる。マルセル・プルーストの長編小説巻末においても、王家とも姻戚関係にある押しも押されぬゲルマント公爵家は急速に傾き、公爵は名誉職も失うし、パリの貴族の街フォーブール=サンジェルマンから立ち退かざるをえなくなり、マチネ(午後の集い)では人前で老残ぶりもさらす有様となる。主人公が若い時に憧れ、美貌と機知を誇っていた公爵夫人も秘めてきた冷酷さを最後にあらわにし始める。公爵の弟シャルリュス男爵も才能に恵まれていたにもかかかわらず、それを発揮することなく、血まみれになってマゾヒススムの快楽を追い求める。しかし、それとは反対に、田舎町コンブレ出の作家志望の主人公は長く意思薄弱だった末にようやく創作のヴィヴジョンを、母親たちからの度重なる呼びかけに応える形で獲得し、創作に取りかかることを決意する。ゲルマント公爵家のサロンはすでにその栄光をかげらせるが、その隣りの図書室とも称される小さな控室において主人公は語り手マルセルとして創作を決意する。巻末における残酷でもある光と影の反転。長編小説の場合、細部のエピソードだけではなく、巻頭から巻末に至るまでの大きな展開を俯瞰するもうひとつの大きな目も必要になるはずだ。
 上方に根づく音曲によって活性化される家郷を谷崎は作品に取り入れた。三味線の音には母の声だけでなく、生活の現場で交わされる人の声も混じっていた。音曲を生活から切り離し高尚な芸術作品と見なし、そこに自己同一するかのような審美的で内省的な鑑賞の姿勢はここには見られない。三味線を芸術作品として、それを偶像崇拝視するような受動的な受容も書かれなくなった。「瘋癲老人日記」(1962年)でも、主人公はもはやオスカー・ワイルドを思わせる美の崇拝者ではない。美の夢とは対極にいる老いと病いに捕えれた老人である。老人の関心はまろやかで完璧な女体でなくなり、若い颯子の足のほうに向かう。しかし、この颯子の足は、男をフット・フェティシズムに、またマゾに誘いもするが、ここでは「ダンシング・チームの踊り子」の足なのだ。生活の場で活躍し、颯子を支える足だ。妙子や、春琴などが新たに編む系譜に連なっている。

 名作とされる「卍」や「盲目物語」でも音曲こそ使われないが、は実は一人で告白調で語るのではない。女は谷崎とおぼしい人物と関西弁で豊かな会話を交わす。女と谷崎が交わすやり取りからは、音曲でのやり取りを思わせる魅力が感じられる。言文一致体の一人称での語りでもない。私小説特有の一人称叙述によるレアリズムとは大きく異なる、親密感に富む語りが交わされるようになった。「細雪」も、松子夫人をはじめとする親戚が語る船場の生活を谷崎が創作に高めた。聞き語りという口承性が、この長編小説に、特有の生活感や親密感や官能性を与えている。
 私小説は大正時代に全盛期を迎えたが、大正12年の関東大震災後、昭に和に入り、時代は新たな表現を求め始めていた(中村光夫「風俗小説論」)。昭和初期に関西に移住した谷崎の後期の作品群は、人びとが求めていたそうした新しい表現の願望に沿うものでもあった。性の官能という領域を表現する芸術家として強烈な自我意識に貫かれていた谷崎も、関西移住後は他者たちにょっていとなまれる生活という社会性を作品に取り入れることになる。
 後期の傑作に登場する主要人物たちは、音曲などによって交わされるやり取りに深く耳を傾け、そこから密室内だけには限定されないものが幅広く響くことを感じたはずだ。その時空間の広がりに参加するように誘われた谷崎もその音に深く耳を傾け、また自らも音曲を実践することによって、母の喪失が起因となったトラウマへの固着から少しずつ身を引き離すことができるようになった。
 「細雪」には、1930年代の阪神間中流家庭の賑やかな生活ぶりが描かれているだけではない。花見や見合いや洋画鑑賞ピアノのレッスンや病気やホームパーティなどが華やかなエピソードとしてただ描かれているだけではない。
 日本文学では、「源氏物語」以降、母恋いのテーマはさまざまな作家を表現へ誘ってきた。「潤一郎源氏物語」(昭14−26)の訳者でもある谷崎は、その主題を知悉していたはずだ。しかし、谷崎は母恋いの原型を知りつつも、そこに独自に音曲やそれにまつわる上方文化にうながされる実践を盛り込んだ。従来の舞台を広げ、妙子や颯子や春琴たちも幅広く活動させた。そうすることでこの古くからのテーマに社会的で現代的な新しい装いを加えた。かつて描かれなかったような<母恋い>が多彩に繰り広げられることになったのだ。

                編集協力  KOINOBORI8
                               
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クリスマス(2/2)  ザルツブルグ

 ザルツブルグ在住の友人に招かれて、クリスマスを一緒に過ごしたことがあった。パリから夜行列車に乗って約8時間だったか。パリに比べてアルプスの北に位置するオーストリアだから、金髪で長身の人が多いはずと思って駅に降り立ったが、意外にも北に来たという感じがしない。イタリア人のような南ヨーロッパの人を思わせる体型の人が多い。長くザルツブルグに住む友人に聞くと、中世の頃ローマ帝国が南からアルプス越えをして侵入してきてザルツブルグに長く居座ったからだ、ローマの遺跡もいくつかあると言う。人口は15万人で、こじんまりとしている。モウツァルト生誕の町だ。夏にはフェスティバルに参加する音楽巡礼者も多いはずだ。昔の看板に手を少しだけ加えて、店頭に掲げる店もある。
 ザルツブルグのクリスマスイヴは街全体が祝祭的な雰囲気を楽しもうとしているようで、素晴らしかった。夕食後、友人たちと連れ立って街を歩く。大きな教会の扉を開けてみる。とたんに中から声量豊かな大合唱が溢れる。教会の厚い石の壁でもって閉じ込められていたものが、一気にはじける。バッハのクリスマス・オラトリオだ。教会内で反響していたいくつかの声部が熱気とともにどっと外に広がる。
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 オラトリオは二時間半は続く長大なものなので、演奏途中
だったが教会を後にして、また街を歩くことにする。あちこち家の窓辺に赤いローソンが立てられ、火が灯されている。部屋によっては内部がすっかり見える。家は個人のプライバシーを守る所ではなくなり、イヴの今夜はとても開放的だ。

Bing image creatorによる

 広場に立ち寄る。有名なクリスマス・マーケットが設けられていて、賑わっている。何も買わないでひやかすだけだが、それだけでも楽しい。どうやら今歩いているのは、ザルツブルグの市民たちだけに知られている恒例の<クリスマス・ロード>らしい。市民たちは毎年そのコースに繰り出すらしい。
 墓地にも入る。自由に中に入るコースが整備されている。雪で覆われた墓石に赤いローソクが、二本ずつだったか立てられている。闇の中で雪の白とローソクの炎の赤が鮮やかなコントラストを描き出している。墓地の死者たちにも祝祭に参加させようとする市民の心配りが、暖かい気持ちにさせてくれる。生者たちも生者に呼び出される死者たちも、ともにイヴを祝おうとしているようだ。

ザルツブルグのクリスマスマーケット

 街の人たちと一緒になって<クリスマス・ロード>をぶらついているうちに、ふたつ目の大きな教会の前に着く。大きな扉を開ける。先ほどの教会で演奏されていたバッハのオラトリオの声部が、同じように響き渡りどっと溢れる。何本かのトランペットのひときわ高く鋭い音も何台かのティンパニーの音も、石の壁を突き破るように外に響き出る。声量は音量と一体となっていて、その迫力にまたしても圧倒される。
   
 そのクリスマスから二年経った頃だったか、留学生活を終え、私は東京に戻った。いくつかの大学で不安定な非常勤講師の生活を始めた。そのうちのある冬の夜、思い立ってバッハのクリスマス・オラトリオのCD2枚を歌詞カードや楽曲解説がケースに付けられているのを確かめたうえで買った。なにしろ私にとっては思い切った、大きな買い物なのだ。アパートの狭い一室でCDをラジカセに入れ、最初から聞いてみる。第1部第1曲を合唱隊が高らかに歌い始める。私はCDに付けられていた歌詞カードで歌の日本語訳を追った ― 歓呼の声を放て、歓び踊れ・・・。

Instagramでバッハのクリスマスオラトリオの冒頭(一部)が流れます。

 すると、ラジカセに応えるようにして、ザルツブルグで聞いたオラトリオの豊かな声量が甦ってきて、東京の安アパートの一室に溢れた。東京の小さなラジカセで聞くオラトリオと、ザルツブルグのふたつの教会で耳にしたオラトリオが響き合うように重なった。
 このクリスマス・オラトリオは、1734年のイヴにバッハ自身の指揮で初演されている。バッハもライプティヒのふたつの大きな教会を往復しながらオラトリオを指揮した。バッハはひとつ目の教会でイヴの早朝に指揮を始め、午後にふたつ目の教会に合唱隊とともに移動して、第一部後半を指揮している。バッハはその後もライプツィヒのふたつの教会を合唱隊と一緒に行き来しつつ指揮し続ける。全6部の指揮を終えたのは翌一月六日だった。初演が行われたドイツのライプツィヒも、シューマンメンデルスゾーンが名曲を作曲したヨーロッパ有数の音楽の街で、この点でもザルツブルグと重なり合う。
 ライプツィヒザルツブルグというふたつの音楽の街にあるそれぞれふたつの教会で、イヴにオラトリオが演奏されたことになる。ふたつの演奏が、二百四十年くらいの時間差を乗り越えて、またその二つの街にあいだに引かれている国境もまたいで行われていたことになる。私はそのことにCDに付けられていた「楽曲解説」を読んで、はじめて気づいた。
 聞いたこともないオラトリオの初演の音が耳の奥で鳴り始めた。ザルツブルグで聞いたオラトリオの音が、私の想像上での初演再生に音をつけてくれる。CDで聞くオラトリオが、ザルツブルグでイヴに実際に聞いたオラトリオを呼び戻し、さらには沈黙していた初演まで呼び出そうとする。長いあいだまどろんでいたライプティヒでの初演演奏に息が吹き込まれ、歌が立ち広がろうとする。
 ザルツブルグとライプティヒの音は混ざりあい、賑やかな時空を駆け巡る曲となり、東京のアパートの一室にまで溢れる。ザルツブルグでの響きはバッハの初演に祝祭性を与える。声部にさらに声部が加わり、響きはさらに広がろうとする。私がCDを再生したことが引き金となり、初演時の音響までが立ち広がろうとする。

 オラトリオは教会のあいだを巡回しながら歌う聖歌隊のものではなくなり始めている。記憶が薄れて不鮮明になりかけているからか、オラトリオはふたつの教会のものでも聖歌隊のものでもなくなり始めている。
 歌声はふたつの教会からはみ出し始め、まるで音漏れするようになって外の街に広がり出ようとしている。今や、街や市民たちがまでもが歌い始める。街までが歌を歌う。そういえば、クリスマス・オラトリオはもともとは世俗音楽として作曲されたのだ。街中で演奏され、合唱されてもおかしくないはずだ。教会にしたところで、本来そこは周囲の世俗的な街と隔絶された狭く閉ざされた場ではないはずだ。語源からして教会は「呼び出された者たちの集い」のことであり、その集会は街中のあちこちにおいて行われてもおかしくはないはずだ。
 歌声は広がり始め、新たに他の歌を呼び醒ます。ザルツブルグでの演奏は、街の境界さえも乗り越えて広がり始める。街からさらに外へとはみ出ようとする。歌声は場所や時間という制約を越え、他の街にまで呼びかけ始める。
 国境を越え時間を越えて増幅されるオラトリオは、CDを再生している私の小さなラジカセにも歌いかけてくる。遠くから呼びかけてくる合唱に共鳴しようと、私の小さなラジカセも懸命に音量を上げている。私のラジカセは、彼方から響いてくるいくつもの歌声に応えて、小さいながらも全身で歌を歌い返そうとしている。アパートの狭い一室のラジカセは、繰り返し大波になって押し寄せてくるオラトリオのいくつもの歌声に、必死になって自分の歌でもって歌い返している。
 私はただ安アパートでラジカセの再生ボタンを押しただけだった。しかし、小さなCD音源はザルツブルグの祝祭の歌を呼び醒ますだけではなくなった。呼び醒まされた歌声は、今度は初演の歌まで呼び起こした。波状となる音量はさらには、遠くから反転するようにして東京にまで押し寄せてきて、今度は私のラジカセにも呼びかけてくる。  
 重奏される大音量はまだ眠っている歌声まで呼び醒まそうと、いつのまにか手動的な立場に立っている。東京の小さなラジカセに、もっと歌えと遠くから迫ってくる。
 CDから流れる歌を聞くうちに、私自身も思わず知らず引き込まれてゆく。小声でもって口ずさみ始める ― 🎵 歓呼の声を放て、歓び踊れ・・・。

                編集協力  KOINOBORI8
                               
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