数年前に読んだ本書を今回再読してみたが、残念ながらやはり論述の速さについてゆけない箇所がいくつか残った。著者の工藤氏は多数の引用を行うが、集められた資料は、時に狭い意味での風俗の事例として使われている。
結論部分でも、著者工藤氏は女性と性的倒錯が支配的だった暗いフランスの十九世紀末の風俗を描くプルーストは「傍観者として一生をおわってしまったように見える」が、一方コレットのほうは二十世紀の新しいタイプの女性の風俗を描いた、と大胆にまとめている。私には短い結論部分をそのように読んだ。
しかし、はたしてそうだろうか。気になった主な点を本書の冒頭からいくつか拾い出してみよう。
「芸術家小説」という主要な構成要素には「せいぜい流し目を送るだけ」で ― つまりはほとんど触れずに ― 「失われた時を求めて」に描かれた狭い意味での風俗だけを集めて論じることはたして可能なのだろうか。パリやバルベックの風俗は描かれるが、主人公の揺籃の地コンブレの風俗はほとんど取り上げられない。庶民の書く「間違いの多い手紙」なら、プルーストは取り上げていていて、彼らの手紙には知識階級に憧れる知的スノビズムが雄弁に表れているとプルーストは考えていた、と工藤氏は指摘する。
しかし、コンブレの食品店の店員で素行不良の青年テオドールが書く魅力溢れる手紙は、プルーストによってその表現力が評価されている。プルーストは、ゲルマント公爵から送られてきた手紙よりも、庶民のテオドールから受け取った手紙のほうを表現力において優れたものとして高く評価している。コンブレの庶民に潜む創意をプルーストは高く評価したし、テオドールの手紙も「知的スノビスム」でもって書かれてはいないはずだ。
コンブレに登場し、その生活ぶりが主人公を「芸術小説」へと導くことになる母親や祖母や女中フランソワーズやピアノ教師ヴァントュイユも本書には取り上げられない。フランソワーズの途方もない料理 ― 日曜の昼食に21品もの料理を作る ― には創作の秘密も込められているのに、説明もなくただ彼女の「コールド・ビーフ」が引用されるだけだ。しかし、これはコールド・ビーフなどではなく、「ブッフ・ア・ラ・モード(ニンジン入りの牛肉ゼリー寄せ)」のことであり、牛肉とニンジンを長く煮込む女中フランソワーズの腕前は驚異的なもので、パリの高級官僚までも驚嘆させるものだ。料理だけでなく、コンブレの庶民フランソワーズのドレスの作り方のほうも主人公に創作のヒントを与える。
手紙や、料理や、裁縫などは、風俗を構成する重要な要素であるが、プルーストにとってはこうした風俗には芸術創造を高尚で抽象的なものではなく、身近なものにする秘訣 ― 少し大袈裟だが ― が秘められていた。生活の営みに加えられる才気に富む<ひと工夫>には魅力的なものが潜んでいる、とプルーストは考えたはずだ。作家志望の主人公を創作へとひそかに導く、共感の通うこうした日常の風俗に言及しない手はないだろう。
著者はまた、女性とは異なり「男性登場人物はだいたいにおいて、歳月を経て老いることはあっても、本質が変わることはない」と書いているが、画家エルスチールなどは当初こそ軽薄な社交界人士ビッシュだったのに、バルベックの対岸リヴベルのアトリエに現れると、重要な海洋画を描き、その創造によって主人公を導く画家に変貌している。名前も祖母によってエルスチールに変えられている。作曲家ヴァントゥィユも、はじめはコンブレのピアノ教師「ヴァントゥイユ氏」でしかない。主人公にしてからが、一日延ばしにしてきた創作活動に最終巻「見出された時」において取り組むことを決意する。つまり、女だけでなく、男も驚くような変身をするはずだ。
また、シャルリュス男爵の描写からもうかがえるように、プルーストは人間には両性具有の傾向が潜んでいるという認識の持ち主だったのだから、男性と女性で区別し、そのそれぞれに独自の特徴が備わっているいう立論は、あまり説得力を持たない。それに、登場人物が性別を問わず、性格やアイデンティティや、さらには名前までも変えたり喪失してしまうことは、現代文学では決して珍しいことではない(ジャン=イヴ・タディエ「二十世紀の小説」)。
著者工藤氏は、スワンが恋に落ちるオデットにとりわけ高級娼婦のイメージを、その娘で主人公の初恋の相手ジルベルトに「いかがわしい出生の少女」を見てとる。しかし、プルーストは、「時間のなかの心理」の重要性を説いていて、長い時間の経過とともに人物が変貌するプロセスを追う。オデットや娘ジルベルトも、通常の理知的な心理分析の対象にされるだけでは、存在の
深い所に潜んでいる魅力に迫ることはできない。しかし、「顕微鏡」ではなく、プルーストが勧める「望遠鏡」も使って、このふたりの母娘の波乱に富む人生を時間軸に沿って俯瞰するならば、「失われた時を求めて」の巻末に近づくにつれ、この母子が主人公を創作のほうへと目立たないものの独自のやり方で誘っていることにも気づくはずだ。欠点も多く複雑な人生を歩む二人だが、彼女たちも「ココット(高級娼婦)」とか、「いかがわしい出生」には限定されることのない未知の可能性や可塑性を秘めているはずだ。
オデットについて、工藤氏は、「(この作品は)オデットが、心の奥底ではスワンに対しどんな感情をいだいていたか、などということは、一行も書いていない。オデットの内面は、ブラック・ボックスであり、彼女ははじめからおわりまで「見られる女」なのだ」と判断するが、しかしオデットは小説の最初と最後でスワンを愛していることを告白するはずだ。また、コンブレに登場した娘のジルベルトも、最後にまたコンブレに主人公を誘う。この二人の母子は、小説の大きな展開に沿うようにその姿を変容させながら再登場してくる。
また、本書ではジルベルトの夫のサン=ルー侯爵も、シャルリュス男爵やゲルマント公爵とともに「倒錯的な一家」の一人として描かれる。しかし、なるほどサン=ルーにはそうした一面はあるものの、反面彼は主人公に「戦術の美学」を熱っぽく語り聞かせるし、女優ラ・ベルマの朗誦の豊かな受け止め方を主人公に示唆してもいる。彼もやはり主人公に友情を示しながら彼を創造へと導く一面を秘めていて、通読後にはこの特徴のほうが印象に残る、<倒錯的な一家>の一員として描かれるだけでは十分ではないはずだ。
こうして、著者は、プルーストの多くの登場人物が秘めている創造への試みにはごく軽く触れるだけで、彼らが見せる世紀末の倒錯といった暗い面のほうを主に描写する。
しかし、彼らがそうした風俗を体現しているかといえば、これは実は必ずしも確かなことではない。個々の人物を対象として分析し観察しても、その人格や本質はついに明確な像を結ばない。アルベルチーヌの同性愛疑惑にしても、彼女の出奔後にその疑惑追及のために送り出したエメから届けられる報告や証言は信用できない曖昧なものであり、アルベルチーヌが同性愛の女だと断定することはできないし、真実には到達できない。
哲学者レヴィナスも、プルーストにおける登場人物や出来事は、「非決定性」のうちにとどまるので、われわれ読者も人物に何が起きたかを正確に確認することは不可能だとする。レヴィナスは、プルーストは「風俗の画家では決してない」とまで言う(「プルーストにおける他者」)。
確かに、「失われた時を求めて」には、ヴェルデュラン夫人がバイエルン王の城をシーズンを通して借りる話が、当時の風俗として描かれてはいる。しかし、これも信用はできない。フランスの当時の富裕層でもこれに必要となる金額を毎年のようにかき集めることなどまず不可能であることが指摘されている(ジュリアン・グラック「終着駅としてのプルースト」)。この城の借り出しの件には誇張が含まれていて、これはむしろ経済上の夢幻劇なのだ。一見正確に当時の風俗が再現されているように見えるが、このエピソードからも実は「非=歴史的レアリスム」(ジュリアン・グラック)が感じられるのだ。
なるほど、著者がまとめるように、プルーストはコレットと違い、19世紀末における性的倒錯という風俗を描き続けた作家だろう。しかし、反面プルーストは暗くペシミックな調子で、「非決定」でもある風俗を描写するだけで満足することはなかった。
恋愛においては嫉妬にとらわれ、別離を経験し、社交界では名前ばかりの爵位や家名にこだわる虚栄心を見て幻滅し失望し、次第に死や喪失が、さらには第一次世界大戦による都市の崩壊感覚までもが身に迫ってくる。しかし、そうしたペシミックな認識の流れにあらがうように、主人公マルセルは耳にしてきたさまざまな声に応え、最後に創作を決意する。すでにその兆しや予告は小説巻頭から繰り返し通奏低音となり、また弱音器をつけた旋律となって主人公に呼びかけてきたのだ。最後にそれまでの下降するような進展を反転させるようなそのめざましいオプティミスムが拡がり、われわれ読者もマルセルの覚醒、というのか自覚に立ち会う。創意にとりつかれた躍動感が共有される。
最終巻「見出された時」巻末には「千一夜物語」がしばしば引用される。主人公シェエラザードは、話を語ることによって死から自らを救い出す。プルーストの主人公マルセルも、これから書こうとしている小説によって戦時下のパリでのうつろな彷徨、そして過激な倒錯の現場から自らを救い出すのだ。風俗描写はそうした人間の根源から発せられる行為をいわば準備するものなのだ。
恋愛や性、社交界、そうした風俗を巡りつつも創造へ ― これらの複数の構成要素は密接に絡み合いながら、個々人の性格や心理を超え、芸術の縦割りというジャンル別も超え、近代小説の慣例という殻も破り、壮大なスケールの、小説というよりも新しい作品とも呼べるものが生起堅牢に構成されてゆく。
こうした稀有な作品が、シュールレアリスムやキュビスムをはじめとする多くの斬新な芸術文芸運動を生んだ二十世紀前半の革新の気風に支えられていたことは言うまでもない。1913年には、「失われた時を求めて」の第一巻「スワン家のほうへ」だけでなく、ヴァレリや、ジッドや、クロデールや、アポリネールの20世紀を切り拓く名作が一斉に出版された。
坪内逍遥は、その「小説神髄」(1886年)で、「小説の主脳は人情なり。世態風俗これに次ぐ」と書いている。これは今でも揺らぐことのない岩盤だ。社会の風俗描写は小説に社会性や現実性を与える重要な要素ではある。しかし、「人情」、つまり人間存在の精神の働きをしっかり捉えなければ風俗小説は成り立たないし、「風俗」の記述のほうも表面的で平板なものになるだろう。日本ではこの風俗小説については多くの議論が交わされてきた。少なくとも、フランス文学者でもある文芸評論家中村光夫の「風俗小説論」(1950)に言及し、この重要な問題の歴史的文脈も広げてほしかった。
工藤氏の力作「プルーストからコレットへ いかにして風俗小説を読むか」では、こう書かれている ー 「創造された作品を通じて、(・・・)時代や社会の総体を透視することができる。というか、そこに普遍的なものが反映され、時代の全体像が読みとれるかいなかによって、作品の値打ちが定まるのである」。
ということは、風俗小説の主要な構成要素の「人情」など考慮に入れないということなのだろうか。「風俗」だけでなく、それと密に関連する「人情」という深い精神の要素にも今少し照明を当てて見せてくれたらと思わざるをえない。
発信力を秘め、主人公に、そして読者に創意に富む対話を密かに持ちかけている人物は多いし、そうした作品や風景も多い。生活という風俗において主人公に呼びかけてくる彼らとの長い対話は、新たな精神の営みへと読者を誘ってくれるはずだ。
美術史家ルネ・ユイグのプルースト論をここで引用するのを許していただきたい。ユイグはプルーストの作品では、「現実の影像は、しるしでしかないし、手段でしかない。それによって芸術家は彼の<精神的な現実>という別の現実の前にわれわれを立たせるのである」(「親和力 フェルメールとプルースト」)と書いている。詩人ボードレールも、レアリスムを観察とか研究としてとらえるだけでなく、存在の底にひそんでいて人間を衝き動かすものにまで目を凝らして探求を続ける態度として考えていたはずだ。
細部ではあるが、気になる点をいくつか挙げておきたい。
バルベックの登場し、アルベルチーヌからオクターヴと呼び直され、ロシア・バレーに匹敵する革命を芸術のもたらした青年を工藤氏は、二十世紀の「スポーツ青年」だとして、「美しい肉体をもつことだけがとりえの人物、明らかに「私」に敵対するタイプ」と描写するが、この青年オクターヴはその時まだ業病であった結核を病んでいるはずだ。「美しい肉体のスポーツ青年」どころではないはずだ。このオクターヴのモデルのひとりは、ジャン・コクトーだとする説もある。コクトーは、「大聖堂の教え」という優れたプルースト論を執筆したし、「敵対」はしていなかったはずだ。
また、ゲルマント公爵夫人がアルベルチーヌと「自分の身体と着るものに関して」、「同じ考えをもち、同じ価値をあたえていなかったことはたしかだろう」と工藤氏はまとめるが、はたしてそうだろうか。このふたりは当時流行したフォルチュニのファッションを好み、アルベルチーヌはゲルマント公爵夫人からその服の着こなし方についてのアドバイスを聞き出そうとした。ゲルマント公爵夫人とアルベルチーヌは、着るものについては「同じ考え」をむしろ共有していたのではないか。
小説巻末で、「「私」自身もいまや初老にさしかかっている」と著者工藤氏は推定するが、これから創作に取りかかろうとする主人公マルセルは作家プルーストより十歳は若いとされていて、まだ「初老」には達していないはずだ。その論拠となる数字などの提示はここでは省かせていただきたい。
編集協力 KOINOBORI8