街を歩く フィレンツェを有元利夫と

 ローマやヴェネチアよりも、私はフィレンツェの町を歩くのが好きだ。ローマには、ローマ帝国の威容を誇る巨大な建造物が多いし、遺跡群も規模が大きい。そのためか生活の匂いがするようなおもしろい街角や広場を見つけることがややむづかしい。哲学者ベンヤミンも、「遊歩者というタイプを作ったのはパリである」(「遊歩者」「パサージュ論 Ⅲ」所収)と書き、ローマよりもパリの室内の感覚にも触れることができるパサージュのほうを好んでいる。ヴェネチアはどうか。確かに素晴らしい。でも、ヴィスコンティ監督の名画「ヴェニスに死す」から受けた印象が強く、その余韻がまだ消えないでいるので、私のヴェネチアには、19世紀末豪華ホテルの時間が止まったような爛熟した雰囲気がたちこめている。有名なサン・マルコ大聖堂も重々しく、権力を誇示するような所が見えてくる。なるほど、プルーストヴェネチアを魅力ある町として描いたのだが。
 ローマもヴェネチアルネサンスに興隆期を迎えるが、フィレンツェは、小さいながらも、ルネサンス誕生期に初々しい文芸の華をいちはやく咲かせた。私はそうしたフィレンツェにもっとも惹かれる。
 フィレンツェにも周囲を圧倒する背の高い宗教建造物もそびえ立つが、二十歳代の頃から何度かフィレンツェを訪れてきた私には、むしろ三階までの低い世俗の邸宅のほうにこの町の魅力を見い出す。邸宅では、中庭が高いアーケイド風列柱のよって取り囲まれ、その開放的な造りは邸宅が外の町につながっていることを示している。邸宅は個人のプライバシーを囲い守るものではなく、住人は周囲の市民たちと同じ関心を共有しながら生活していたことがうかがわれる。豪商にして文化活動のパトロンで有名なメディチ家の邸宅も、なるほど家門の威光を示す紋章などで飾られてはいるが、中庭はやはり外部の都市空間とつながっていて、行事の際などは市民たちの集会場としても使われていた。
 また、町の周囲に広がる小高い丘にはトスカナ地方の穏やかな風が通うが、そこに造られたヴィラ(別荘)の中には、方列状に並べられた無数の噴水からいっせいに水が噴き出る驚異の庭もある。独特の形であれ、ヴィラにおいても外部の自然のいとなみが、内部の庭にまで取り込まれている。
 こうして、フィレンツェでは家屋と外部の都市空間がつながり、相互浸透が起きるのだが、この町では時間も、単線的に一方向にただ流れてゆくものではない。時間はいくつかの面となり、重層的に積み重なってゆく。つまり、町の市街地の中心には、古代のローマ時代遺跡がそのまま残され、現在の自治都市の構成要素のひとつのとして生かされている。例えば、画家ジヨットの描く人物は平面的で無表情で、その表現は中世的だが、それは同時に次に来るルネッサンス誕生期特有の表現 ― 演劇的身振りや奥行き ― をすでに予告するものとなっている。
 こんな風にして、私は成功した文化都市に潜む魅力を追い求めながらフィレンツェを歩いた。そして、私の関心は次第に、50はあるといわれる広場で繰り広げられていた多様なアトラクションや、そこに観客として参加したはずの市民たちのかつての歓声を追うようになった。当時、市民たちの識字率は上昇し、公立図書館まで設けられた。
 そんな頃だった。たまたま入った東京の画廊で、アリモト・トシオという若い画家の絵画を見て、そこに強く引き込まれた。画廊に置かれていた画家紹介のパンフでもって、この画家アリモトも若い時にフィレンンツェを訪れ、町のフレスコ画に惹きつけられ、それ以降計四回はフィレンツェを訪れたことを知った。アリモト特有のフレスコ画は、フレスコ画の宝庫でもあるフィレンツェを私に思い起こさせた。
 岩絵具にトルコ石やイタリアの石などを混ぜ、乳鉢ですりつぶして作った顔料を使うアリモトのザラザラする画布は、かすかに乱反射していた。絵は見るだけのものにとどまらなかった。画布は肌合いをおびていて、その感触や手触り感も伝わってきた。人物やモノは量感をははらんで、堂々と存在していた。視覚というきわめて理知的な感覚は、時にモノの表面だけをなぞり、モノを再現するだけで終わるが、アリモトのフレスコ画は、描かれているモノに質感や量感や、時に音感までも与え、そのモノの中にまで入ることを見る者に誘っていた。手でもってもまれナイフで削られた岩絵具の多様な層を通過することによって、人物は無駄なものが省かれ、素の姿になり、ゆっくりと堂々とした存在になって画布の表面に現れてくる。外形のピトレスクな表面だけを見て、それをそのまま受け入れる常識的な見方に慣らされていた私は驚いた。視覚という理知的な感覚ではなく、触覚というより原初的な感覚を通して、しっかりと私の中に刻み込まれていたフィレンツエのフレスコ画が蘇ってきた。見るというより、触れるという身体的と言ってもよいような体験となった。
 有元の作品にはフィレンツェの50もの広場で演じられていた当時のアトラクションやイベントが描かれている、と私は思った。探していた肝となるピースが突然見つかったような気がした。たしかに、アリモトの絵に描かれている手品師や、占い師や、楽師や、道化のアルルカンたちは、ルネサンス誕生期のフィレンツェの広場に組まれた舞台の上で自ら幕を引き、芸を演じたアノニムの芸人たち ― まだ「芸術家」といった立派で高尚な呼称はなかった ― を彷彿とさせるものだった。 私のフィレンツェが賦活され、賑やかになった。画家アリモトは私と同じようなものを探しているかもしれない、と無知だった私は思った。
 それから、驚くような情報が次々に入ってきた。アリモトは、画壇のシンデレラ・ボーイと言われていた有元利夫で、画壇の芥川賞といわれる安井賞を受賞したが、38歳で他界。1946年生まれだから、私と同年。若くして死んだ、稀に見る才能の持ち主・・・。 
 私は、それ以降有元利夫の絵を見る機会を探り続けるようになった。絵の背後から、フィレンツェの広場の往時の賑わいが立ち広がるかもしれない、と思いながら。
 東京谷中で少年時代を送った有元利夫は、物作りの職人たちが多く住む町で道具や工具の使い方を教わり、根っからの「作りたがり屋」になり、手を使って物を作る工芸の楽しみをおぼえた。このためだろうか、彼の作品には、手先を器用にあやつり、驚異的なものを取り出す人物が多く描かれている。手だけが描かれたデッサンも多い。その手は巧みにトランプや花々だけでなく、光線や楽の音まで指先でやさしく捕まえ、あやつってしまう。忘れないでおこう、フィレンツェでも画家はまた工芸の人であり、彫刻などにもしばしば手を染めた。
 有元の描く「室内楽」や、「手品師」や、「雲のアルルカン」や、「道化師」や、「二人のカードゲーム」などを見ていると、その背後からフィレンツェの50もの広場で市民たちを楽しませた手品師や、ボール投げ師や、ミュージカル芸人たちが透けて立ち現れてくる。フィレンツェには、跳躍自慢の芸人たちもいたし、町の中心である花の聖母マリア大聖堂内の聖歌隊席のための浮き彫り「カントリア」(ドナテルロ作)でも、子供たちは思い思いのしぐさで踊り、浮遊している。
  中世では人物は不動であるべきで、感情表現も慎むべきという制約が課せられてきたが、時代がルネサンスに代わると、フィレンツェでは人物は自由で創造的な時空間へと飛翔し始める。有元の絵画でも彫刻でも、芸人たちは軽々と重力から逃れ空中を浮遊する。その後、遠近法が人工的に考案され、人物もモノも客観的に描かれるようになり、世界は理性によって支配されるようになる。人物もモノも遠近法に沿って地上に置かれるようになる。しかし、それまでの一時期、つまり遠近法の発明までの一時期、人やモノは空にも駆け上がろうとした。その解放された自由な動きに、私は有元の作品を通して触れることができる。

           室内楽
(出典はすべて「新装版 有元利夫 女神たち」 美術出版社 2006)


        手品師


      雲のアルルカン


      二人のカードゲーム

 フィレンツェが秘める祝祭的な賑やかさを追体験しようとすると、有元の作品がそこへ導いてくれる。フィレンツェの町を歩けば、有元の作品の理解を深めてくれるヒントが見つかるような気がする。
 有元が早世してからもうすぐ四十年だ。最近、彼の回顧展が最近開かれない。東京渋谷の大きな会場 ー 「ザ・ミュージアム・文化村」 ー で待望の大規模な回顧展が開かれることになったが、オープニング直前になって猛威をふるうコロナ禍のために開催が見送られることになってしまった。有元の諸作品では、ルネサンス誕生期フィレンツェの芸人たちが、分厚いフレスコから出現して、空中を飛ぶ。その初々しい魅力にまた立ち合うことを願わないではいられない。
 こんなことを言うと、私と同年輩の有元は嫌がるかもしれない。でも、有元は私と同じ方向に向かって今でも歩いている。そんな有元は私の素晴らしい精神上の友で、同伴者でもある。彼は今もフィレンツェの広場を歩いている。きっと、私の道案内まで引き受けてくれる。そして、きっと驚異の広場につながる路地を私にこっそりささやいてくれるはずなのだ。

                     編集協力 koinobori8                            

                               

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