谷崎潤一郎 ー 音曲の活用

 谷崎潤一郎の作品群ではしばしば母恋いのテーマが展開される。これは評論家江藤淳も指摘することである ― 「(谷崎潤一郎)氏の心の底には、幼いうちに母を喪ったと感じさせる深い傷跡が刻印されていたはずである。そうでなければ「母を恋い慕う子」というライト・モチーフが、谷崎氏のほとんどすべての作品に一貫するはずがない」(「谷崎潤一郎」「江藤淳著作集 続2」所収)。江藤淳自身、4歳の時に実母廣子を失い、晩年に美しい「幼年時代」を著した母恋いの人であり、晩年に長い谷崎論執筆を準備していただけに、この指摘は鋭い。
 抱擁してくれるはずの母親は外出を好み、その不在は常態化し、乳母とふたりで寝る谷崎は悲しみを抱え込んだ。いつしか、母の不在は自分の過ちによって引き起こされるのだと思い込む。悲しみは精神的外傷(トラウマ)となり、刷り込まれた傷を谷崎はマゾヒステックに受け入れ、その傷はさまざまな形で表現されることになる。実際、谷崎の母は育児を乳母に任せて外出することを好み、彼は神経質でもあった母の帰宅を長く待ちわびる幼年期を送った。
 谷崎は関東大震災後、江戸情緒が消えた日本橋を嫌い上方に移住するが、主にその後期の作品において作風は変化し深まる。関西移住後マゾヒスティックなものへの惑溺から脱し、谷崎は女体を崇めるようなその自己完結した密室を少しずつ押し広げ始める。その傾向は前期においても、例えば小説「母を恋ふる記」(大8)からその一端ならうかがうことができる。そこでは母を亡くした「私」の見た夢の話が語られるが、彼は食事の支度するひとりの老婆に出会い、老婆に「お母さん」と少年の「私」は呼びかける。しかし、老婆に<お前は私の息子ではない>と言われて、追い払われてしまう。しかし、道を行くうちに、海の絶景からかつて東京日本橋で乳母に抱かれて聞いたことのある三味線の音が聞こえてくる。三味線を弾くその若く美しい女に近づき、姉を持つことに憧れる少年は、「姉さん」と呼びかける。すると、若い女は自分は実は少年の母だと明かす ― 「母は喜びに顫える声でかう云った。そうして私をしつかり抱きしめたまゝ立ちすくんだ」。子供を抱きしめる母には妖艶な若い美女が重なっていて、この場面からでも母を性愛の対象としても描く谷崎らしさがうかがえる。ようやく回帰した母の背後には生なましいまでの若い美貌の妖婦、その前ではマゾヒステックにひざまずくしかない妖婦が潜んでいる。ここからは不在の母の帰宅を待ちわび、不在を喪失としか思わざるをえなかった谷崎、しかし不在の母を偶像作品として思慕し続ける谷崎自身の姿が彷彿としてくる。
 しかし、この母子再会の場面で注目したい点は、妖婦と化す母が新内流しの三味線を弾き続けていることだ。7、8歳頃まで羽振りが良く、潤一郎も「乳母日傘で」暮らした谷崎の家は、日本橋の真ん中にあり、その界隈を練り歩く新内流しの二丁の三味線はしばしば家とその周囲に響いた。母子再会の場面で母が弾き続ける三味線は、妖婦ともなる異性の母だけではなく、母を取り巻く当時の賑やか日本橋界隈も同時に少年に思い出させている。零落する以前の家と震災で瓦解する以前の日本橋という活気に満ちた街を想起させている。新内流し(音源参照)の三味線は、母とふたりきりで閉じこもる密室だけでなく、周囲の家郷とも言える生活の場も喚起している。なお、二人一組の新内流しは、客の請われると、街角で艶っぽい話も語った。

模写 鏑木清方 新内流し(部分)



新内流し


1900年頃の日本橋界隈


新内節の代表作「蘭蝶」(お宮口説)(部分)


「蘭蝶」お宮口説 歌詞

 谷崎の代表作のひとつ「春琴抄」(昭8)においても、時に矯激になる師匠の春琴が弾く三味線は、弟子の佐助のマゾヒスティックな忍従に追い込むだけではない。性にまつわる秘事や、それを超越しようとする耽美主義の世界よりも、むしろ家の周囲でも交わされる芸事習得の活動を呼び醒ます ― 大阪道修町の傾き始めた薬種商の娘の琴は、美貌だけでなく三味線と琴の才能にも恵まれていたが、その腕前が世に知られると春琴と改名する。しかし、九歳の時に失明。春琴に献身的に仕え、自らも三味線を自習しはじめ、手ほどきを乞う丁稚の佐助にたいして春琴はその驕慢さでもって激しい体罰を加える。撥で殴りつけ、「阿呆、何で覚られへんねん」とののしる。見かねた春琴の両親は佐助を丁稚の任から解き、春琴の三味線の相弟子と見なすことにする。両親はふたりに結婚も勧めるが、春琴はこれを拒絶する。一緒に暮らし始めた佐助によく似た赤子を産むものの、春琴はその子を里子に出してしまう。春琴に執着し、容れられなかった弟子の雑穀屋の利太郎にも激しい稽古をつけ、このため春琴は利太郎にひどく恨まれることになり、顔に熱湯を浴びせかけられ大火傷を負う。春琴の美しかった顔を永遠に脳裏にとどめようと、佐助は自らの手で両目を針で突き、盲目となる。盲人となった佐助はとぎすまされてゆく音感や三味線をつま弾く時の触感を介して、「お師匠様」と繰り返し呼び続ける春琴の音楽がさらに深まってゆくのを感じ取る。ふたりは三味線の音を通して互いを高め合うようになる。春琴は佐助に琴台という号を与え、門弟の稽古をすべて引き継がせる。春琴は作曲の才も発揮するようになる。春琴が作曲した名曲を佐助 ― いや、春琴によって号を与えられ師匠にも任じられた琴台 ― は夜中でも三味線を爪弾き、その音に導かれて春琴をさらに深く愛する。
 佐助はひたすらマゾ的な姿勢で春琴を偶像としてただ奉じ続けるのではない。春琴もサディステックな態度で佐助にあたり続けるのではない。彼女は反面、佐助の三味線の上達を導き琴台という新たな師匠としての号を与え、佐助を師匠として世間にも認めさせる。ふたりは三味線を通して相手を、そして弟子たちを教導する役割もになうようになる。激昂して室内で衝動的に行われるサド・マゾの行為だけでなく、芸事の教授や習得のやり取りによって活性化される春琴の家郷の生活ぶりも描かれている。伝承が弟子たちの手によって受けつがれる上方文化の長い時間も土地という空間も広がる。
 「春琴抄」にしろ随筆「陰翳礼讃」(昭8)にしろ、充実した創作期の作品を読むと、関東大震災後(大13)による関東圏崩壊を避けて関西に移り住んだ谷崎は、まだ生活において親しまれていた音曲などに親しむだけでなく自らも弟子ともなり、それを自らの作品に取り入れ重要な役割をになわせるようになった。芸術としてただ鑑賞されて終わるのではない。芸事という、他者とのやり取りで成り立つ動的な実践面が加えられた作品は、サド・マゾという性の一時の密室内の秘事に限定された狭く自己完結したものではなくなり、芸事の音が交わされる家郷という広く土地を獲得することになった。
春琴抄」にも文楽義太夫節三味線の名跡豊沢団平の名前は何度も引用されていて、小説も観念的抽象的なものにはならない。菊原検校も岡本の谷崎邸に通い谷崎に出稽古をつけたが、そうした日々を谷崎は最大限の表現で回顧している ー 「音楽に対する私の耳を開けて下さった検校の恩は、無限に大きい」。「私が関西に移住して以来のあらゆる出来事は、(・・・)あのなつかしい生田流の箏曲地唄と結び着いて」回想されている(「菊原検校生ひ立ちの記」序文 1943年)。この思い出豊かな味わい深い生活は、東京での活動前期における生活とは大きく異なる。いわゆる美は、官能の世界を描くことにあったし、この美=芸術に向かう姿勢は、信仰を思わせる求道的なものであった ー 「私に取って、第一が藝術、第二が生活であった」(「
父となりて」1915年)。ここでの谷崎には何人かの大正期の作家のように、<人生が芸術を模倣する>と書いたオスカー・ワイルドからの影響がうかがわれる。
 しかし、関西移住後、谷崎にとって大阪の女の声は、「浄瑠璃乃至地唄の三味線のようで(・・・)其の声の裏に必ず潤いがあり、つやがあり、あたたか味がある。(・・・)東京の女は女の感じがしないのである」(随筆「私の見た大阪及び大阪人」昭32)。三味線は、琴や鼓といった楽器とともに作中に取り入れられ、主に伴奏楽器として使われ、その楽音は登場人物たちの反応を触発し呼び醒まさますようになった。
 谷崎というと、変態とも言われ、とりわけそのマゾヒスムが着目されることが多いが、性に関する描写は実は詳しいものではない。独自のその<母恋い>は、意外なほど広い射程に達する。
 三味線や、琴や、人形浄瑠璃(「蓼食う虫」(昭3)や、初音の鼓(「吉野葛」)の音に誘い出されて、佐助などの人物たちもその楽の音に応えて関心を広げる。三味線や琴や鼓の音を耳にする佐助たちは、それをただ受動的に享受するだけでは満足していない。彼らもそれに触発される形で新たな積極性が自らのうちにきざすのを感じたはずだ。谷崎も幼年期に刷り込まれたトラウマをただ繰り返しなぞるだけではなくなる。密室内での女性とのサドマゾ的な直接的な接触は、音曲の実践という広がりが介入されることにより、間接的なものになり、のびやかな想像の広がりが獲得されることになった。
 代表作の長編小説「細雪」(昭16−23)でも、四女妙子は大阪船場の旧家薪岡家の子女にしては型破りの人物で、赤痢にかかるだけでなく、あちこちで恋愛遍歴を重ね死産も体験するしスキャンダルも引き起こす。しかし、船場の郷土芸術である山村流の地唄舞いを ―  一度は姉の幸子が口ずさむ口三味線に合わせて ― 何度か踊るうちに、その舞いに強く惹かれるようになる。その時、土地の流行り歌である地唄も思い出した妙子にも幸子にも、「二十年前の船場の家の記憶が鮮やかに甦って来、なつかしい父母の面影が彷彿として来るのであった」(「細雪 上巻」)。妙子は上方の地唄舞いを個人の趣味の域にとどめるのではなく、「名取の免状を貰って」、船場という家郷を盛り立てその文化を継承するために役立てようと決意し、「最も純粋な昔の型を伝えるする山村流の稽古場」に通うようになる。三味線や地唄や舞いが、妙子に眠っていた意外な一面を覚醒させ、社会性とも言える自覚をうながす。相変わらず失敗を犯すが、三味線の音に導かれるようにして妙子は新たな活動範囲を発見することになる。雪子の脇役と思われてきた妙子は人形作りにも才能を発揮するし、洋装を学びにフランス行きを計画するような新しいタイプの女性に変容する。この妙子のような現代的なタイプの女性に谷崎は惹かれるようになる。谷崎は「細雪」執筆中に地唄「雪」のレコードを繰り返し聞き、嵯峨や東山を心の故郷として思い浮かべたが(千葉俊二谷崎潤一郎 性欲と文学」)、この地唄「雪」を小説中巻の冒頭で舞うのは、妙子である。性愛の作品を芸術としてひとり密室で崇拝するように書い続けてきた谷崎は、最後に三女雪子ではなく、四女妙子を前傾化させ、他者たちをその背後に広がる生活の場において新たに見出したのである。
 一方、三女雪子の場合、縁談話は五回目にようやくまとまるものの、長編小説巻末の下痢騒動の場面からでもうかがえるように、美貌に恵まれ病気知らずでもあった雪子は巻末において健康を害す。婚約相手は、フランスとアメリカに留学しているが相変わらずブラブラしていて定職が決まらない。嫁ぎ先の元貴族御牧家の家運も ― 四姉妹の実家薪岡家の家運も同様に ― 戦後に傾き始めることが暗示される。実際、谷崎は旧家族の称号がほとんど無意味なものになったことを昭和23年に知っていた。
 無口だが病知らずで、見合いを繰り返すがそれなりに安定し、主役とも思われてきた三女雪子と、不安定だった脇役妙子という明暗は、「細雪」の最後になって逆転し、妙子のほうが前景化し照明を浴び、反対に雪子が舞台の奥へ引き込もうとしている。こうした大きな巻末での反転は、小説半ばで姉が口ずさむ口三味線の声(音)にうながされて妙子が踊った舞い ― 郷土芸術である山村流の舞い ― がきっかけとなって引き起こされたとも言えるのである。
 当初計画では、「細雪」は現行版よりもはるかに社会性に富む小説であり、「その頃の蘆屋夙川」辺りの上流階級の「腐敗した」実相を描くことにあった」(「「細雪」を書いたころ」)ったと作者谷崎は後日談において語っている。


地唄「雪」(部分)


地唄「雪」歌詞

 意外な結末かもしれないし、実際、今までの流れが反転するようなこの結末に驚く読者は多い。しかし、長編小説ではこのような展開は起きるのであり、この巻末は「失われた時を求めて」のそれを思い起こさせる。マルセル・プルーストの長編小説巻末においても、王家とも姻戚関係にある押しも押されぬゲルマント公爵家は急速に傾き、公爵は名誉職も失うし、パリの貴族の街フォーブール=サンジェルマンから立ち退かざるをえなくなり、マチネ(午後の集い)では人前で老残ぶりもさらす有様となる。主人公が若い時に憧れ、美貌と機知を誇っていた公爵夫人も秘めてきた冷酷さを最後にあらわにし始める。公爵の弟シャルリュス男爵も才能に恵まれていたにもかかかわらず、それを発揮することなく、血まみれになってマゾヒススムの快楽を追い求める。しかし、それとは反対に、田舎町コンブレ出の作家志望の主人公は長く意思薄弱だった末にようやく創作のヴィヴジョンを、母親たちからの度重なる呼びかけに応える形で獲得し、創作に取りかかることを決意する。ゲルマント公爵家のサロンはすでにその栄光をかげらせるが、その隣りの図書室とも称される小さな控室において主人公は語り手マルセルとして創作を決意する。巻末における残酷でもある光と影の反転。長編小説の場合、細部のエピソードだけではなく、巻頭から巻末に至るまでの大きな展開を俯瞰するもうひとつの大きな目も必要になるはずだ。
 上方に根づく音曲によって活性化される家郷を谷崎は作品に取り入れた。三味線の音には母の声だけでなく、生活の現場で交わされる人の声も混じっていた。音曲を生活から切り離し高尚な芸術作品と見なし、そこに自己同一するかのような審美的で内省的な鑑賞の姿勢はここには見られない。三味線を芸術作品として、それを偶像崇拝視するような受動的な受容も書かれなくなった。「瘋癲老人日記」(1962年)でも、主人公はもはやオスカー・ワイルドを思わせる美の崇拝者ではない。美の夢とは対極にいる老いと病いに捕えれた老人である。老人の関心はまろやかで完璧な女体でなくなり、若い颯子の足のほうに向かう。しかし、この颯子の足は、男をフット・フェティシズムに、またマゾに誘いもするが、ここでは「ダンシング・チームの踊り子」の足なのだ。生活の場で活躍し、颯子を支える足だ。妙子や、春琴などが新たに編む系譜に連なっている。

 名作とされる「卍」や「盲目物語」でも音曲こそ使われないが、は実は一人で告白調で語るのではない。女は谷崎とおぼしい人物と関西弁で豊かな会話を交わす。女と谷崎が交わすやり取りからは、音曲でのやり取りを思わせる魅力が感じられる。言文一致体の一人称での語りでもない。私小説特有の一人称叙述によるレアリズムとは大きく異なる、親密感に富む語りが交わされるようになった。「細雪」も、松子夫人をはじめとする親戚が語る船場の生活を谷崎が創作に高めた。聞き語りという口承性が、この長編小説に、特有の生活感や親密感や官能性を与えている。
 私小説は大正時代に全盛期を迎えたが、大正12年の関東大震災後、昭に和に入り、時代は新たな表現を求め始めていた(中村光夫「風俗小説論」)。昭和初期に関西に移住した谷崎の後期の作品群は、人びとが求めていたそうした新しい表現の願望に沿うものでもあった。性の官能という領域を表現する芸術家として強烈な自我意識に貫かれていた谷崎も、関西移住後は他者たちにょっていとなまれる生活という社会性を作品に取り入れることになる。
 後期の傑作に登場する主要人物たちは、音曲などによって交わされるやり取りに深く耳を傾け、そこから密室内だけには限定されないものが幅広く響くことを感じたはずだ。その時空間の広がりに参加するように誘われた谷崎もその音に深く耳を傾け、また自らも音曲を実践することによって、母の喪失が起因となったトラウマへの固着から少しずつ身を引き離すことができるようになった。
 「細雪」には、1930年代の阪神間中流家庭の賑やかな生活ぶりが描かれているだけではない。花見や見合いや洋画鑑賞ピアノのレッスンや病気やホームパーティなどが華やかなエピソードとしてただ描かれているだけではない。
 日本文学では、「源氏物語」以降、母恋いのテーマはさまざまな作家を表現へ誘ってきた。「潤一郎源氏物語」(昭14−26)の訳者でもある谷崎は、その主題を知悉していたはずだ。しかし、谷崎は母恋いの原型を知りつつも、そこに独自に音曲やそれにまつわる上方文化にうながされる実践を盛り込んだ。従来の舞台を広げ、妙子や颯子や春琴たちも幅広く活動させた。そうすることでこの古くからのテーマに社会的で現代的な新しい装いを加えた。かつて描かれなかったような<母恋い>が多彩に繰り広げられることになったのだ。

                編集協力  KOINOBORI8
                               
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