Ⅰ.「失われた時を求めて」 対話的創造のほうへ 1/4

 マルセル・プルースト(1871−1922)の長編小説「失われた時を求めて」は大伽藍に例えられることもあって、何やら近寄りがたい長編のように語られることがあります。しかし、その特有な展開の仕方に慣れれば、けっして難解な書物でも美の巨峰などでもありません。重要な場面もむしろ身近な所で繰り広げられることが多く、多彩なアプローチが可能な小説だということがわかるはずです。安定していた社会が傾く時の迫力に富む描写もあり、人生にうがたれる深淵をのぞきこむような場面も描かれはします。でも一方では、人間に秘められている可能性も繰り返し語られているし、親近感もユーモアも感じることができる小説です。それまでの近代小説にはなかったような新しいタイプの長編小説です。二十世紀初頭の芸術創造の刷新期に書かれ、第一篇「スワン家のほうへ」は1913年に出版されましたが、1910年には、精神分析の領域を切り拓くフロイトの「夢の解釈」が刊行され、1924年には二十世紀最大の文学運動となるシュルレアリスムの「宣言」がアンドレ・ブルトンによって出版されます。
 読み進むにつれ、読者も主人公とともに自分のうちに潜んでいる豊かな可能性の探索へと導かれてゆくはずです。「失われた時を求めて」は、最後はわれわれ読者にも創造的な表現をするように呼びかけてきます。

Ⅰ. コンブレの就寝劇
 巻頭のコンブレという小さな町で起きる就寝劇において、すでに作品の基本的なテーマを予告する重要なことが起きます。夕食に招かれて来訪してきたスワンをもてなすために、主人公の母親は忙しくなります。スワンといえば、傾きはじめたとはいえまだ華やかだったパリ社交界の寵児なのです。母は幼い主人公に毎晩与えていたおやすみのキスさえ与えることができなくなります。母の不在を予期し恐れていた主人公は、スワン来訪によって実際に起きた母の不在を前にしてうろたえます。不在の母は自分を排除して、夕食という快楽をスワンと共有しているのではないか ― 愛情における嫉妬という、のちに恋愛において展開されることになる大きなテーマがすでに読み取れます。母の長引く不在を前にして感情を抑制することができなくなった主人公は、スワンの帰宅後、深夜になって片付けを終え、ようやく寝室に入ろうとしていた母親に、禁を犯して廊下に飛び出しすがりつきます。困惑する母におやすみのキスをねだります。最後に譲歩した母は、しぶしぶ主人公の部屋に入り、夜通しジョルジュ・サンドの小説「捨て子フランソワ」 ― 主人公の誕生日プレゼントとして祖母によって厳選され購入されていた ― を読み聞かせます。
 ここで特徴的なことは、母がサンドの原文を原型のまま忠実に再現してはいないことです。母は原文をそのままの形で手渡すようにして音読はしてはいません。原文に自分なりの創意で一工夫を加えて主人公に読み聞かせています。母は音楽の流れに乗せるようにして独自に手を加えて朗読をしました。
 また、母親の分身である祖母も、今までのものに、それに類似する新たなものを付加する創造的表現である隠喩が使われている小説をとりわけ好んで選び出して購入し、それを主人公の誕生日の贈り物に決めました。プルーストは、隠喩という言葉を、<新しい意味を生み、それをそれまでの意味に追加させる創造的表現>として使っていて、自らの創造行為を表現する語として何度も使っています。プルーストは隠喩を古典修辞学のように説得や美のための表現としては考えていませんでした(佐藤信夫「レトリック感覚」)。
 母のほうも読み聞かせの声を独自に工夫して、声に音楽の調べを加え、増幅させ、新たな意味を原文に加えていました。祖母も母も生活において創意工夫を発揮し新たな形で表現することのできる創造的センスの持ち主です。
 主人公は母が創意に富む素晴らしい読み手であることに気づきます。母が朗読に作曲家ヴァントゥイユの楽曲の抑揚をつけていることに気づき、主人公は喜びます。ジョルジュ・サンドの「平凡な散文」に「いとおしい思いのこもった一種の生命」が吹きこまれているのです。母からの愛情は幼い子供の身体に直接注がれる母子未分化の時期特有のものではありません。自ら才気を発揮し、それを創造的実践に移し、子供にその行為を差し向けることによって、子供自身にも主体性を発揮させようとうながしています。子供にも自らの内に潜んでいる能動性を発揮することを母は願っているのです。
 まず、母は独自に作った三つの愛称で繰り返し主人公に呼びかけます。その次に語りかけられる創意に富む朗読の声には、子供にまだ眠っている創造性を呼び醒まそうとする深い愛情が込められています。長編小説冒頭から重要なテーマの萌芽を読み取ることができます。
 このほかにも、就寝劇にはその後に展開されることになるテーマがいくつか伏線となって置かれています。コンブレの就寝劇で主人公は不在となった母を会食者スワンの元から一刻でも早く取り戻そうとして、両親に罰せられるのを覚悟のうえで家の慣例を無視して、深夜に自室から廊下に飛び出して母にすがりつき、おやすみのキスをねだります。悪を犯したことになりましたが、その行為は主人公の記憶に深く刻みこまれ、このため同様の悪行を主人公はその後も犯すようになります。例えば、後に相続によって自分のものになったレオニー叔母の家具を主人公は売春宿に売り飛ばしてしまいます(プルーストの母親は、家具を愛好した)。第6篇のおいても性的誘惑に駆られる主人公は母をてこずらせる退行現象を演じます。また祖母と恋人アルベルチーヌに対しても過誤を犯したと思い、のちにふたりが死ぬと、その死を自分が犯した過誤によるものだと思い、主人公は自責の念にかられます。
 また、就寝劇において母の不在という現実を突きつけられた幼い主人公は、不安にかられ、ただ泣きじゃくるだけですが、この時おぼえた無力感もその後になってやはり再び体験することになります ― 「実のところ、この嗚咽の声はけっして止むことがなかった」。
 主人公は、こうして母や祖母をはじめとするコンブレの人物たちからうながされ導かれ、そのうちに次第に自分の内に潜む能動性の表現の機会を自ら探ることになります。しかし、その能動性の習得のためには長いプロセスを踏むことが必要となり、それは予定調和のように容易には実現されるものではなく、その行程には挫折や失望や嫉妬や悪といったさまざまな要素が絡んでくることが、こうして小説冒頭から暗示されます。不幸や悪という試練に遭うことによってはじめて新たなものを習得することへの渇望が生まれます。贖罪の気持ちも混じり、文章は時に悲歌のようになり、陰影に富むものになります。
 コンブレの就寝劇は、「失われた時を求めて」全体を予告するものであり、オペラの序曲 ― オペラ全体の粗筋や雰囲気をまとめて演奏し、展開を予告する ― を想起させます。また、母はそれ以降も主人公を支え、創造的表現に向かわせようとします。
 なお、就寝劇での母の読み聞かせの声は、それ以降バルベック滞在中においても、母の分身である祖母からも変奏された形で主人公に向けて発せられます。避暑地バルベックの中心の「グランド・ホテル」の個室で孤立感をおぼえ気持ちを苛立たせる主人公に向かって、隣室にいた祖母は壁越しにノックの音を送り、孫の気持ちをなだめて落ち着かせます(写真参照)。コンブレの就寝劇のように、祖母も主人公に自分で作った愛称で呼びかけます ー「可哀想なおいたさん」「小さなネズミさん」・・・。その時、祖母が叩いたノックの音は、音楽と言葉が一体となったように響いてきて、その音によって主人公は落ち着きを取り戻します。コンブレでは母による朗読の声も音楽のように響きましたが、バルベックでの祖母のノックの音もやはり音楽に重なる呼びかけの声として聞こえてきます。
 しかし、主人公はここでは不安を鎮めるだけではありません。その主人公は呼びかけてくる音に高揚感をおぼえ、自らも祖母にノックで応えます。部屋の仕切り壁の両側から交わされる祖母と主人公のノックの音は、声をはらむ音楽の二重奏として描かれています。ノックの音は楽音として聞こえますが、壁越しに交わされる楽音は壁越しに交わされ、それは相手の気持ちを高めようとする愛情のこもる対話の声として表現されます。
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上および下の写真:カブール(バルベックのモデルのひとつ)のグランドホテル
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 第5篇「ソドムとゴモラ」の「無意識的記憶」と題された一章において今は亡き祖母は甦ってきますが、この時も祖母は第一回目のバルベック逗留時に主人公と壁越しに交わしたノックという、ヴァントゥイユの主要なピアノとヴァイオリンのソナタを思わせる響きになって忘却の彼方から愛情のこもる対話の声となって思い出されます。密接な関係で結ばれ、主人公を励起させようとする祖母は、母親同様、「私」を独自に作った愛称で呼びかけます。
 コンブレは作家志望の主人公が創作へ向かうための揺籃の地です。そこには教養や知識を直接教授し伝授する形ではなく、そこに自らの創意工夫も盛り込み、生きた知恵として表現し実践できる人物たちが登場し、実は主人公の主体性を引き出そうとしています。
 母親や祖母だけでなく、料理女フランソワーズやその仲間でもあるテオドールや、さらには多大な影響を主人公に与える作曲家ヴァントゥイユなども、生活から遊離しない場であるコンブレにおいて独自の創意に富むセンスを発揮して、主人公に創造的表現のヒントを与えます。
 レオニー伯母の料理女フランソワーズは、表面上では頑固で、病弱な下働きの女中をこき使う人物ですが、実は同時に主人公を創造へと導く重要な役割を演じます。彼女が料理の腕を振るい始めると、それは既成のものにとらわれない創造のセンスの自由奔放な表現となっていて、その才気によって彼女の道徳上の欠点はいわば看過され許されることになります。プルーストは、ドストエフスキーの欠点だらけの登場人物が高い精神性に富む行為を行うことに注目しています(「見出された時」「書簡」)。
 フランソワーズは、日曜になると腕によりをかけて正餐である昼食を主人公一家にふるまいますが、その入念な準備は前日の土曜日から主人公一家の習慣を打ち破る形で開始され、日常生活という規範にとらわれない途方もないその料理の腕前は、彼女の針仕事と同様、主人公に創作のヒントを与えることになります。
 実に多様な食材がまず集められ、新鮮な海の幸までもが遠くの海から食卓に上ります。日曜のミサに供えられたブリオッシュも、ミサが終わると食卓にいつのまにか並べられています。聖と俗の間に引かれていたはずの境界線は平然と乗り越えられ、コンブレの中世の教会に彫りこまれていた聖王ルイも、まるで知り合いであるかのように台所でフランスワーズと語り合います。彼女が焼く肉のローストの香は、コンブレの町のはずれまで運ばれてしまう。規格外の、その奔放な腕のよって作られる料理は、それが芸術ではない生活という分野のものであれ、音楽作品にたとえられ、慣習にとらわれない創造力を表現します。
 土曜から日曜にかけて繰り広げられるフランソワーズの料理は、平日の「おだやかで、閉ざされた社会」、「カースト制」とも見なされるコンブレに、「ほとんど全市民のものと言えるような小事件」を引き起こします。そして、土日になるたびに料理の活動的な時空間は繰り広げられるので、ついには週日の穏やかな慣習とは異なる「ふたつ目の慣習」が土日に出来上がります。料理の腕たるや、おそるべし、です。
 なお、穏やかなコンブレの日々にフランソワーズによって作り出される「ふたつ目の慣習」は、その後もそれと共通する「ふたつ目の作品」という表現となってふたたび立ち現れます。パリの美の殿堂オペラ座で女優ラ・ベルマによって朗誦されるラシーヌ劇の台詞が描写される時も、ラ・ベルマ特有の台詞回しが、台本のラシーヌの「フェードル」に忠実でありつつも、さらにはそれが「素材」として使われ、そこに女優ラ・ベルマは独自に解釈した表現 ー「ふたつ目の作品」 ー を加えていました。
 最初にラ・ベルマを観劇した時は、憧れていたラ・ベルマをひたすら「女神の完璧さ」を示す「絶対的な存在」としてあがめ、その「演劇の天才というあらかじめ作られた抽象的で誤った観念」にひたすら同一化しようと焦ったため、主人公はラ・ベルマの創意工夫を聞き取ることができず、結局那一回目の観劇は主人公に失望をもたらすことになりました。女優ラ・ベルマが原作に対して加えた独自の創意である「ふたつ目の作品」などは聞き取ることができませんでした。

(Bing image creatorによる作図)

 しかし、パリ・オペラ座での第二回目の観劇の際は、ラ・ベルマの演技に感激することになります。彼女が「原作のまわりに生み出される第二の作品」を表現していることに気づいたからです。この「第二の作品」は、フランソワーズがコンブレで現出した「ふたつ目の慣習」という表現に類似し、その延長上で用いられた表現です。こうして、コンブレの生活に「ふたつ目の慣習」を創出したフランソワーズの料理は、いつのまにか首都パリで演じられる格調高い古典演劇 ー 「第二の作品」を現出させる女優ラ・ベルマの朗誦 ー と肩を並べています。創作上のカテゴリーやジャンルを無視するような、また社会のヒエラルキーが横断されるような、驚くほどのスケール感に富むユーモアとも社会風刺とも解釈できるエピソードです。
 なお、その際、「第二の作品」を受け止め、それを正しく評価して喝采を送るのは、主人公のいる安価な平土間の「民衆」のほうです。一方、桟敷席やボックス席に陣取るゲルマント公爵夫人たちのラ・ベルマの朗誦への反応は描かれてはいません。公爵夫人たちにとっては、オペラ座は観劇の場ではなく、むしろ華やかな社交の場なのです(生成AI画像参照)。

The Opera Box (La Loge de L’Opera) (1894) Alexandre Lunois (French, 1863-1916)

 主人公一家と一緒に片田舎とも言えるコンブレから約100キロ離れたパリの貴族街サン=ジェルマンのアパルトマンに引っ越しても、フランソワーズの料理はその勢いを失いません。主人公の高級官吏の父が仕事上の便宜も考えて、自宅に元大使のノルポワ侯爵を招いた時も、料理女フランソワーズが供した多くの食材を長く煮込んで作るコンブレでの得意料理「ニンジン入り牛肉ゼリー寄せ」は、パリのサロンではいつも高級官僚として断言を慎重に避ける元大使のノルポワ侯爵にまで絶賛されます。当時は、中央集権の首都パリから地方へと何事も運ばれていました。食卓において料理が供される現在のような順序 ー 前菜に始まりデザートで終わる順序 ー にしても、それはパリで1880年頃に順序が定まり、それもその頃やはりパリから地方へと広まりつつありました。しかし、フランソワーズはコンブレにいる時でもこの新しい順序を断固として取り入れようとはしません。フランソワーズは敢然として慣行を無視し、「逆さまの旅」を周縁のコンブレから中央のパリに向かって行います。

牛肉と人参のゼリー寄せ Boeuf carotte en gelée

 フランソワーズの仕事ぶりは母親にも気に入られ、最終巻においても主人公は彼女の、やはり多くの布地を縫い合わせて仕立てるドレスの作り方にも感心し、自分もその仕事ぶりを真似て創作しようと思うようになります。フランソワーズはまたその本能的な直感によって主人公が取りかかる創作を理解し、彼の原稿草稿を巧みに整理して、執筆を手伝うことにもなります。相互性によって創造が日常生活から遊離しない卑近な所でも実践され、互いを高め合います。日常生活において慣例にとらわれずに自由に作られるものに、少しずつ創造されるものが帯びる品格が与えられてゆきます。
 主人公に強い影響を与える作曲家ヴァントゥイユも、元はと言えば娘の同性愛に悩むコンブレのピアノ教師にすぎません。祖母はその生徒でもありました。実は多くの名もない人物たちまでが ― フランソワーズと親しい、食品店の素行不良の青年テオドールでさえも ― 生活の場において蓄積されてきた生活の知恵に基づきつつも、そこからさらに独自のすぐれた腕や技を磨いていて、その創意工夫は作家志望の、しかしまだ無為で執筆を一日延ばしする主人公の背中を押します。それぞれにおいて発揮される才気を目にする主人公は、こうして実は小説冒頭の「コンブレ」からすでに創作のヴィジョンの探求と習得に向けてうながされています。当初こそコンブレの端役でしかないと思われていた人物群も重要な役割を演じます。それぞれの立場から、実は彼らは主人公に創造性という贈りものを何度も贈ります。しかし、主人公のほうはまだその贈与の意味が理解できません。
 フランスでは、19世紀末に日曜日が休日として認められ始めましたが、休日となった日曜日はきわめて貴重な1日であったため、フランンス人はその日を休息の日として何もしないで終日過ごすようなことはしませんでした。むしろ、週日の勤労とは別の活動に励むことができる1日と思い、各自は独自の工夫によってその日を十分に活用するようと知恵をしぼり工夫をこらしました(ピエール・ノラ「村での自由時間」「レジャーの誕生」所収)。なお、フランスでは、日曜を休日として確保するための日曜日法案が1906年に可決成立しています。
 音楽や絵画といった高尚な大芸術の美がただ観念的に審美的に鑑賞されてもいないし、美に主人公は自己同一化してもいません。美がただ受け身のまま享受されるだけではありません。大文字の美の鑑賞にひたすらふけるスワンはといえば、コンブレの老ピアノ教師が、高明な作曲家ヴァントゥイユであることを認めようとしません。スワン ー 一部は若い頃の主人公 ー はコンブレの住民でもありますが、芸術から強い印象を受けてもそれを時間をかけて深めようとはせず、主人公とは異なり、既成の知識に直接還元していまいます。音楽や絵画といった高尚な芸術理解も結局は表面的で画一的なものに堕してしまいます。
 当初は副次的な脇役とも思われた人物や風景のほうは、その外見や表面からだけでは推しはかれない豊かさを秘めています。人物の性格や心理の下には、また物の物質の下には、幾重にも可能性や可塑性が重層的に積み重なっています。人物も事物も「羊皮紙」や、また「壷」にも例えられています。心理という理知で分析する表面の奥底までもを見抜く作業を読者はうながされます。また、物の物質の下に封じ込められている多様な動きを開放させなくてはなりません。その時、読者には知性だけでなく、感性や想像力や記憶も必要になり、能動的な読書を読者は始めることになります。さまざまな人物や風景などから受ける印象にしても、そこに共通して潜められている生動する動きや、そこから呼びかけてくる声を探るためには、共感を抱きながら、「レントゲン透視」や、写真の「ネガの現像作業」を繰り返し行うことが必要になるとプルーストは最終篇でも指摘します。きっと、高感度の集音マイクでもあったら、さらに好都合になるかもしれません・・・。
  第一編「スワン家のほうへ」は、こうして前奏であり、やがてさまざまに展開されることになる予告や伏線が準備されています。やがてそれらは反復・変奏されて、強化・増幅されてゆき、一見忘却されたように思われだすものも回収されますし、最終篇「見出された時」において新たな照明を浴びて回帰し、立ち返ってくるのです。


                  編集協力 KOINOBORI8

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