創作 火の鳥


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 東京からようやくキャンプ場に着く。友人Oの小さなワンボックスカーのカーナビが不調で、長野県に入ったあたりか、ディスプレイのマップが突然真っ白になる。道案内の標識を読み間違えてしまい、大回りする羽目になり、夕方遅くになってやっとサイトにたどり着く。テントをはり、事務所で薪の束を買う。
 谷間にあるキャンプ地はすでに薄暗い。夜が迫っていて、目の前の池も月を浮かべて鈍い銀色だ。釣りはもうできない。北アルプス連峰が黒々と盛り上っている。峠近くだからか、夏の終わりなのにもう冷気が肌を通して浸みてくる。東西南北の方位が消えていて、方角がわからない。夏の主役白鳥座が天の川に大きな翼を広げたまま近づいてくる。深く低い羽音が聞こえてくるようだ。流れる風に吹かれているうちに、呼吸が深くなり、長旅による緊張が少しずつほぐれてゆく。
 Oがさっそくヘッド・ライトを渡してくれる。Oはほぼ半世紀ぶりに東京の路上でばったり再会した幼な馴染みだ。会社勤めを終え、今では奥さんとふたり暮らしをしているが、十五年前に癌で女房を亡くしたわたしのことを気遣ってくれたのだろうか、長野県の人里離れたキャンプ地でのテント泊と山登りにわたしを誘ってくれた。  
 ヘッド・ライトを着けて歩いてみる。手探りをするようにしか歩けない。まるで遊泳する宇宙飛行士だ。そんなわたしを見ても、Oは少し笑うだけだ。ふたりとも寡黙でも饒舌でもなく、互いを適度な距離を置いて認め合っている。人の心理を詮索しないし、相手に過度に立ち入ろうとしない。
 キャンプのベテランOはさっそくテキパキと支度を始める。乾いた小枝を集め、焚き火の火もおこすが、着火も巧みで速い。わたしは下働きに徹するが、時々ヘマをやらかす。暗闇の中では足元が特に暗いし、サイトの地面の凸凹には注意したが、地面に転がっていた玉ネギに気づかず、それを思いっきり踏んづけてしまう。踏み剥がされたひと玉のネギからは、驚くほどの香が水分とともにはじけ出てくる。火に煽られ、香は立ち広がり、鼻をツンと刺激する。ネギはこんなにも香るのか。「柚子存在す爪たてられて匂うとき」、加藤楸邨の句が浮かぶ。
 Oもわたしも、社会の中で与えられたささやかな役割を演じてきた。組織や制度が設けてくれた舞台に立ち、そこで編まれる人間関係もそれなりの良識や熱意でもって生きてきた。もちろん失敗も犯したし、悔いも残る。しかし、そうして演じてきた表舞台から降りて、時間もたってみると、心身の衰えを感じ始めると同時に、今度は今まで送ってきた日常生活には縛られない世界、気づくことなく見過ごしてきた世界がどこかにあるかもしれない、それに触れてみようという気持ちに駆られはじめた。不可解なものとして排除してきた不思議な領域がどこか向こう側に広がっているかもしれない。
 今のうちだ。終わりの始まりが、明日にでもやってくるのだ。そんな日がドアのベルを鳴らす前に、摩訶不思議なものとして避けてきたものに触れてみてみよう。肌のように硬く鈍くなったわたしのセンサーでも触知することができる何かがあるはずだ。
 でもしかし、この歳になって、潜在的な不機嫌やら、順応力欠如やらに目を止めず、高揚感だけを探そうなどと思い立ってみたところで、幻滅や疲れをおぼえるのが関の山。テント泊に山登りなど、絵に描いた餅さ。
 でも、今少しの冒険なら、遅まきながら万事に用心を始めた今ならまだ可能かもしれない。
 希求のようなものと、それを否定する気持ちとが、またぞろ交互に現れる。決行、いや不参加・・・。気持ちはあれこれ揺れ動き、もう牛の反芻となった。

 東京からクーラー・ボックスに入れてキンキンに冷やして持参したビールで、Oと乾杯する。お互い勤め人の頃の習癖が抜けず、「とりあえず、まずビールで・・・」などと信州の山奥で言う。グビグビ始める。赤ワインを抜くあたりから、時間がマッタリ流れ始める。
 ロープでぐるぐる巻きにして池に沈め冷やしておいた白ワインをゆっくりとたぐる。素晴らしい手応え。ふたりとも自然に口元がゆるむ。たぐっている漁網に豊かな釣果が約束されていることに気づいた漁師たちがおぼえる手の感触もかくや、だ。
 Oはスマホでひとり麻雀に興じ始めたらしい。闇を通して、マージャン用語が叫ばれる。ちょうどツモった瞬間の声が聞こえた時だった。絶叫だったので、満貫に違いない。それを打ち消して、スマホに割り込み電話が鳴る。とたんに、Oの口調がブッキラボウになる。急に無口になる。東京に残り、あれこれ心配する奥さんからの割り込み電話に違いない。相手の余計な詮索はしない、と私は先ほど言ったのに、でももう始めている・・・。
 到着が大幅に遅れ、釣りができないと判断したOは、途中のスーパーで車を停め、鶏の半分を買い込んでいた。それをさばき、燃えさかる焚き火に掛けた大鍋に放り込んでゆく。野菜や他の食材もあれこれ入れ、味噌を大事そうに取り出す。いつのまにか調味料が並べられている。薪の束は有料だが、この際焚き火にどんどんくべる。なにしろ東京では焚き火はずいぶん以前に禁止されたから、焚き火にあたるのは半世紀ぶりくらいか。豪勢に、不意に大きな音も立て、火が燃えさかる。ボッと炎が放電となってはじけ、火の粉や薪木までが勢いよく撒き散らされる。炎の奥をのぞきこむと、若い木の芽が蛇の舌のような炎に舐められ絡みつかれている。湿った焚き木からジューッと湯気が一気に噴き出る。グツグツ煮込まれる鶏鍋味噌仕立てからも、火に入れた焼き芋アルミホイール巻きからも香が広がる。暖められた松の木が芳香性樹脂の香を加える。火と風でそれらがかき混ぜられ、混沌となって溶け合い、ゆらめく。テントのサイトは木々に囲まれているので、大きな鳥の巣がぬくもるみたいだ。時刻はどうやらテッペンか。ワインは二本目になり、その白もすぐカラになりそうだ。身体もあたりも温められ、陶然となる。
 一瞬、閃光か、何かが落下して、間をおいてから、一気に上昇する。青い矢のようなものが、上下に素早く動き、草や水面が切り裂かれる。何んだ、この異様な急降下と跳躍は・・・。衝撃のあと、沈黙が続く。しかし、水辺で上下に青い光が走った、ということだけで、わたしは即断する ― 「今のは、水に飛び込み水中で餌を捕獲したカワセミに違いない」。
 ジェージェーという、押し殺したしわがれ声がすぐ目の前でする。声と声のあいだに間があくが、なんだかこちらの出方が探られているようだ。人の声のようにも聞こえる。Oが、「カケスじゃないか」と言う。カケスには物音や鳴き声を真似る習性があり、枝打ちの時の作業音だけでなく、人語まで真似るそうだ。Oは鳥類図鑑に書かれていないことまで知っている。
 火がゆらぎ、身体に熱が浸み込んでくる。勤労生活では視覚が酷使されたが、ここでは触覚やら味覚、嗅覚といった、視覚に比べれば、より原初的な身体感覚のほうが活発になる。今では事典によっては人間には五感が備わっている、とはされていない。五感に新たに<移動感覚>と<熱感覚>が加えられて、七感あると数えられる、などとわたしはポツリと独りごつ。今感じている気分は、「言ってみれば異邦感かな」、などとあまりよくわからないことをつぶやく。
 ふたりとも酔いと眠気で、半睡になる。積み上げるようにくべた薪が崩れ、その一本は火から離れた所まで飛んだ。Oがボソッと言う、「いつか、火にくべようとして、薪を取ったら、山椒の匂いがするから、ヘンだなとは思ったけれど、気にしないでその薪をそのまま火にくべたんだ。そうしたら、とたんに山椒魚のヤツが一匹、大あわてで火の中から飛び出してきたことがあったよ。薪にくっついていたんだ。 山椒魚が「火トカゲ」と呼ばれることがあるのもわかったよ」。酔眼もうろうのわたしは、既製の知識をまた披露する、「そうか、それでか、火を司る精霊サラマンドルの図像がどことなく山椒魚に似ているのは」。

「ウィーン写本」(6世紀)より、サラマンダー

 くべてきた薪も尽き、火も燠になり灰になってゆくので、わたしは火吹き棒を火に突っ込み、燠に息を吹き込む。最後にもう一度炎をかき立てようと思ったのだ。すると、炎ではなく、灰のほうが燠の高熱にあおられ、あたり一面に巻き上がった。初心者がやりそうなミスだ。
 その時だった、周囲に広がって漂う灰の中に、何かが見えた。女性の薄い赤いスカーフのようなものがゆらぐ。驚いて目をこらす。赤い鳥が、一羽、音もなく灰の中に浮き、照り輝く羽根をはばたかしている。たしかに、鳥だ、赤い。幻影でも幻視でもない。残り火が火吹き棒によって突然燃え盛る、その一瞬に広がる灰の中を、赤い鳥、たしかに火の鳥が飛び立とうとしている。それは炎のようにゆらめき、きらめく翼で舞いあがろうとする。真っ赤に輝く、火の鳥・・・。
 だが、その鳥の影はすぐに消える。私は火吹き棒を握りしめ、燠をかき混ぜる。顔が火照るにもかかわらず、炎をまたかき立てる。火花がほとばしる。熱風で灰が巻き上がるが、今チラッと見えた火の鳥がもう一度見たい。か弱い手でもその鳥をつかまえるのだ。手を火のほうにのばす。残された短い生に、未知の地平が不意に開かれたのかもしれないのだ・・・。

(Bing image creatorによる作図)

 火の鳥はどこかに消え、驚異の美しい鳥は二度と現れない。あれは人間にはかない望みを抱かせる、火のいたずらだったのか。しかし、一瞬味わった突き上げてくる高揚感をなんとかしてもう一度味わおうとして、わたしは食べ残しの鶏の骨をすべて火に放り込む、コップに残っていたワインも。しかし、そのたびに灰が広がるだけで、鳥がふたたび舞うことはなかった。わたしは火の鳥を飛来させようとして無謀な試みを繰り返した。
 そうだ、大鍋なら先ほど飛翔した火の鳥の行方を知っているはずだ。大鍋をじっと見つめる。しかし、大鍋は何も語ろうとはしない。苛立ち始めたわたしは、鍋の美味しいスープを入れた器をそれごと大鍋目がけて投げつけた。鍋は湯気を猛烈に吹き散らし、甲高い怒りの音を立てただけだ。何も言わない。
 きっとOのことだ、先程から焚き火の前でわたしが挙動不審の動きを繰り返していることに気づいているはずだ。わたしがさっきからしている奇妙な動きをOに聞かれる前に、こちらから先に切り出して、彼に説明するほうがよさそうだ。そうだ、リュックに入れて持参した志賀直哉の短編「焚き火」に書かれていることと同じことをしようと準備していただけさ、と言おう。「焚き火」の主人公たちがやったことをこれからやってみないか。おもしろそうだぞ。
 Oが納得したような顔になったので、わたしは短編「焚き火」のその場面を彼に声に出して読んだ。

 Kさんは勢いよく燃え残りの薪を湖水へ遠く抛った。薪は赤い火の粉を散らしながら飛んで行った。それが、水に映って、水の中でも赤い火の粉を散らした薪が飛んで行く。上と下と、同じ孤を描いて水面で結びつくと同時に、ジュッと消えて了う。そしてあたりが暗くなる。それが面白かった。皆で抛った。

 志賀直哉の充実した創作期の文だ。忠実な写実文のようだが、平板な自然描写ではない。水の上を飛ぶ薪は水面に映るだけではない。実は、薪は水中に潜んでいたものを目覚めさせ、水中のその赤いものは空中を飛ぶ火を水中で追いかけ始める ― 志賀直哉の文はそうも読めるはずだ。闇の背後のどこかに生の神秘が潜んでいるようで、この一文からでも緊迫感が広がった。
 この文章に書かれていることを、これからふたりでやってみないか、とわたしはOに持ちかけた。彼はすぐに同意する。ふたりは燃え残りの薪を池のほとりまで引きずって運び、そこから暗い水面に向かって一本一本投げ入れた。たしかに、赤い火が火の粉を散らしながら水面の上を飛ぶと、それと並行して、水面だけでなく、水中でもやはり真っ赤なものが走った。水面に火が映った、というただそれだけではなかった。闇の中では水面はところどころでかすかに小さく光るだけで、どこまでが水面で、どこからが水中なのか判然としない。水面ではなく、水中を赤いものが生きもののように走る。それは驚異的なものとなって目に焼きついた。
 池にOが薪を投げたときも同じことが起きる。やはり水面に薪の火が映されるだけではなかった。闇の水中に何かが潜んでいる。それが空中の火によって賦活され、意思を持つものとなって水中を走り出す。これはいったいは何なんだ。

 翌朝、日の出前にキャンプ地を後にした。山の天気は午前中は安定することをOは知っていた。ひと汗かいて途中の峠まで上り、そこから山頂に背を向けて腰を下ろし、谷間のャンプ地を鳥瞰するように見下ろした。平らに整備されたキャンプ場は遠く、上から見下ろすと緑の小さな飛行場だった。朝もやに包まれて点在するテントからはかすかな白い煙も立ち始めていた。
 「未確認飛行物体たちだな、これは」と、O。たしかに、そう見えた。しかし、テントには生が宿っているかもしれない、そんな気配がする、とわたしは感じた。
 やがて、背後にそびえる山頂から朝陽が湧き出た。雲間から一条の光が漏れた。太陽がさらに昇ると、朝陽はわたしの頭越しに背後から遠くのまだ暗い谷間に差し込んだ、大陽がさらに上昇すると、光は山のふもとのキャンプ地の中の島に近づく。朝霧で濡れる川沿いを舐めるように近づく光は、やがて手前に見える中の島を照らした。テントは陽の強い光を浴びると、たちまち赤く染まった。水面に顔を伏せたようなテントが風に吹かれたのか、その布がそよぐ。かすかにテントが動いている。テントが朝陽を浴び、生の気配を宿すものに変貌してゆく・・・。

 東京に帰ったあとでも、夜になるとOに返し忘れたヘッド・ランプを頭に装着し、狭いマンションの照明を消しテレビも消してかろうじて得られる暗闇の中をうろついた。火の鳥が、部屋の片隅にでも隠れているのではと思いながら。鳥を探して、火の鳥を。
 しかし、マンションの脇の路地をすり抜けて走るタクシーが放つヘッド・ライトにしても、それは弱々しくマンションの壁を照らすだけだ。壁を貫いて向こう側に潜むものをあぶり出したり、何かを捕獲する力など持ち合わせていなかった。
 そして、さすがに体験からわたしはわきまえるようになった ― 苦難に満ち、危険にさらされる長い長い遍歴や流離を繰り返さないといけないのだ、火の鳥が突然目の前に姿を現し、それに遭遇するためには。神話の英雄のような勇猛果敢でないといけないのだ。豪胆で、宿命を何度も跳ね返す力を持ち合わさないと、旅の途次で火の鳥に出くわすことなどありえない話なのだ。わたしはそう思い直した。そうだ、返し忘れたヘッド・ライトをOに早く返さなくては。
 しかし、である。ある晩、わたしはマンションの小さな本棚から、何気なく志賀直哉の小説「暗夜行路」を手に取り、巻末の山陰の高峰大山の場面を読んだ。というか、注意散漫な態度で、大山の日の出の場面を読み出した。その箇所が有名だからという、ただそれだけの理由で。
 すると途中から、次第にその最後の場面に引き込まれた。大山の場面をナナメ読みするうちに、デジャ・ヴュ感のような感覚にとらわれ始めた ― 「おや、この前、どこかで見たことがあるかもしれない、この光景は・・・」。
 「暗夜行路」では、自らの複雑な出生と、失恋と、妻の犯した過ちと、子どもの死に苦しむ主人公謙作はうつうつと日々を過ごす。多くの試練がふりかかってくる。小説巻末では思いきって山陰の名峰大山の登山を敢行する。しかし、登頂できずに下山する途中に同行者たちとはぐれ、疲労困憊に陥った主人公謙作は動けなくなり、大山の山頂を背にして山の中腹でうずくまる。遠くの眼下には、米子の街も境港もまだ夜の灯りをつけている。外海(そとうみ)と言われる日本海もまだ鼠色に沈んでいる。しかし、そのうちに背後から朝陽が上り始め、さまざまなものが動き始める。

 明方の風物の変化は非常に早かった。少時して、彼が振返って見た時には山頂の彼方から湧上がるように橙色(ダイダイ色)の曙光が昇って来た。(・・・)四辺は急に明るくなって来た。

 中の海の彼方から海へ突出した連山の頂が色づくと、美保の関の白い灯台も火を受け、はっきりと浮かび出した。間もなく、中の海の大根島にも陽が当り、それが赤鱏(赤エイ)を伏せたように平たく、大きく見えた。村々の電灯は消え、その代わりに白い烟が所々に見え始めた。

 背後の山頂から頭越しに差し込む朝陽を浴びると、眼下に広がる大根島も、灯台も、村々も、米子の町も深い闇から目覚め、生動する。特徴的なことは、それらの事物が文章においては主語になり、能動的になることだ。
 それに、それらの主語には通常では助詞「は」がつけられるが、ここでは助詞「が」がつけられている。「が」は、「は」とは異なり、新しい情報を読者にもたらす ― 「曙光が」、「村々の電灯が」、「大山が」、「烟が」・・・。無生物の事物が文章の主語になり、さらにその主語に助詞「が」がつけられることによって、事物までがただ即物的な観察の対象として描写されるだけでなく、能動的な行為を始めている。周囲の事物が人と同じように覚醒し、意思を持つもののように動作を始める様子に謙作は驚いて見入っている。自然の中に潜んでいた様々なものが闇から生起し、自分に働きかけてくるのに謙作は驚く。
 
 わたしは、何度も繰り返し大山の光景を読み直した。
 背後の大陽が高くなるにつれ、陽は遠くの日本海から近づいてきて、中の海に差し込む。やがて、大根島がその陽を浴びると、大根島は「赤鱏(赤えい)」に変貌するように見えてくる。
 太陽を背にする大山は、「大きな動物の背」として仰ぎ見られるが、その影は眼下の中の海に「地引網」となって投げ入れられる。網はゆっくりとたぐられてくる。朝陽を浴びて赤鱏に変貌する大根島は、その地引網によって捕獲されるように読める。朝陽がさらに昇ると、大山の影である「地引網」は大山のふもとまで近づいてくる。地引網は、海岸線といった境界線を平然と大きな力で乗り越えて来て、手前のほうにたぐられてくる。
 謙作は、灯台や赤鱏と化した大根島までも包み込んで自分の足もとにまで近づいてくる地引網の動きを見るうちに、「或る感動」をおぼえる。山の中腹でうずくまる謙作もその地引網の引き手たち ― 漁師たちや村人たち ― の中に加わろうとしている、とわたしは思った。謙作も周囲で生の活動を始める事物や漁師たちに刺激されて、体調を崩し衰弱しながらも、自らも地引網をたぐろうと手を網のほうにのばす・・・。
 大自然の中に合一し、その美を享受し観照し、陶酔感に浸り、安心立命をおぼえるといった従来の自然観とは違う。より力動的なものがさまざまな所から広範囲に生起するようだ。深い闇に閉ざされていた自然だけでなく、「村々」も「米子の町」も「灯台」も覚醒する。賦活され生動する光景に呼応するようにして、謙作の精神も新たな息吹きを得て、再生するように感じられる。
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大山、中海と大根島 Google Earthより

 その場面を読みながら、スケールこそ小さいものだったが、長野県の山の中腹からキャンプ場を見下ろしたとき、朝陽を浴びたテントがやはり赤い生きものに変わったことを思い出した。テントに生の気配が宿ったことを。
 その前夜のテント泊の夜でも、似たようなことが起きた。志賀直哉の短編「焚き火」をまねて池に燃える薪を放り投げたときも、その軌道に並行して水中を赤いものが生き物のように走った。 
  大山の場面でも、地引網が海上ではなく、海中深く赤鱏を探るように読める。ここでも関心は、短編「焚き火」の夜の池の場面と同じように、水面という表面だけにはとどまらない。その下の水中で何かが動き、走る。

 帰京してから一週間たった頃、わたしはOに電話をかけた。キャンプと登山に誘ってくれたことの礼を言い、ヘッド・ライトを返し忘れたことを詫びたが、最後はやはりいつもの居酒屋で会って話そう、というか呑もうということになった。
 わたしは、Oからアドバイスが聞きたかった。ワンタッチの超軽量ソロテント、大山中腹から朝陽に染まる大根島を動画撮影するスマホ用三脚アダプター、それに超望遠のズームレンズ、そのそれぞれについて、Oからアドバイスをもらいたかった。
 そう、わたしはすっかり乗り気になってしまっている。中の海の大根島が赤鱏に変貌する現場に大山中腹から実際に立ち会いたいのだ。
 わたしの想像は止まらなくなっている。ある日、赤鱏と化した大根島から、突然一羽の鳥が、鼠色に沈む日本海に広がる朝焼けの真っ只中に舞い上がるはずなのだ・・・。 
 というのも、「出雲国風土記」の<地名の由来>という項目に、大根島という地名はタコをくわえた大鷲が島に飛来したことに由来する、と書かれているではないか。この大鷲の記述を読んで、わたしの想像にはさらに弾みがついてしまった。今や、タコをくわえる大鷲までが、スプリング・ボードになって、わたしに新たな局面を切り拓かせようとする。
 それに、大根島は小さくとも火山だということも知った。大根島はもはや赤鱏と化す島だけではなくなり始めている。タコをくわえる大鷲が飛来する島でももはやない。いつか、地中と海中で火山のマグマに熱せられて、大根島はたんに生の痕跡が集められる磁場だけではなくなり、その殻は破られ、島はさらに脱皮し、秘めてきた未知の生態を新たに多彩に繰り広げる舞台になるはずなのだ。わたしの想像のギヤーは、一段、いや二段くらい上がってしまっている。
 鼠色に沈む日本海上の朝焼けに翼を広げて大根島から舞い上がるタコをくわえた大鷲は、突然、差し込む真っ赤な朝陽に撃たれ、その陽に焼かれる。その一瞬、大鷲は音もなく一羽の赤い鳥に変貌する。そう、タコでなく赤鱏をくわえる火の鳥に・・・。
 わたしはそんな赤く染まる情景を思い描き続ける。そして、ふと、思った、わたしは、取り憑かれてもいる、と。たしかに、憑かれている、赤鱏に、大鷲に。そう、一羽の赤い火の鳥に・・・。

                 編集協力 KOINOBORI8

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