Ⅱ. 恋人アルベルチーヌ もうひとつの愛 「失われた時を求めて」対話的創造のほうへ 2/4

 第二篇「花咲く乙女たちのかげに」に恋人になるアルベルチーヌが登場します。彼女は英仏海峡を臨む保養地バルベックの海を背景にして現れる娘たちのグループのひとりです。女性もまたがるようになった自転車を好んでいて、その頬は冬の朝の輝きのように紅潮します。娘たちとイタチ回しという遊びをしていて彼女の手を握った時など、「無数の希望が一気に結晶する」のを感じ、「官能的なやさしさ」を主人公はおぼえます。しかし、彼女が下品な言い回しを使うのを耳にするうちに、グループの娘たちと同性愛的関係にあるのではないかと疑い始めます。しかし、彼女の姿は変化し続け、はっきりした像を結びません。

Bing image creatorによる

 
 主人公とアルベルチーヌは、祖母に勧められて、高級避暑地バルベックの中心「グランド・ホテル」の対岸の寒村リヴベルにある画家エルスチールのアトリエを訪れます。社交界の軽薄な取り持ち役ビッシュを、祖母は新たに「エルスチール」と名付け、画家としてその力量を認めていました。主人公はこの画家エルスチールが力動感溢れる新しい海洋画を創出していることを見て取り、その描き方に強い印象を受けます。エルスチールの海洋画では、海と陸が互いに他方に働きかけ合っていて、その相互に働きかけ合う作用によって海も陸も新たに生動するような面を見せていました。静止する物の写実による再現ではなく、海と陸の一方は他方へ今までに似た、しかし新たな側面を与えていました。そのことによって海も陸も変容し、「メタモルフォーズ」が引き起こされていました。この動的な状態は、絵画固有のテクニカルな用語ではなく、文学用語でもって説明されていて、「隠喩(メタファー)」によって起きるともとも書かれていますが、この時隠喩は「物の名前を取り去り、別の名前を与えることによって、それを再創造すること」とも説明されます。このメタファーは、コンブレの就寝劇でも明らかにされていましたが、祖母が小説において好むものです。プルーストは最晩年の1922年にも、「文体に永遠性を与えるものはメタファーだけだ」と評論の中で書いています(「フロベールの「文体」について」)。その後、主人公とアルベルチーヌは、画家エルスチールの物を生動させ賦活させるような描き方を実際に再確認しようとするかのようにドライブに出掛け、バルベック周辺の教会を見て回ったりします(写真参照)。

運転手アルフレッド・アゴスティネッリ。のちにプルーストの秘書も兼ね、アルベルチーヌの主要モデルとなる

 第五篇「囚われの女」で、主人公はパリでアルベルチーヌと同棲生活を始め、彼女が同性愛の娘たちと接触しないように監視します。絶え間のない嫉妬の目にさらされるアルベルチーヌは嘘まで口にするようになります。不安にかられて、主人公は尋問のような質問をします。しかし、彼女の説明は納得できるものではなく、彼は彼女について立てる仮説を何度も修正せざるをえなくなります。キスも交わしますが、キスは「物の表面をさまよって、(・・・)頬にぶつかり、中にまで入り込めない」。彼女を所有することなどできないし、女性同性愛ゴモラ疑惑もその確証は得られません。恋愛についてペシミックな考察が続き、恋愛は苦痛をもたらすものとなります。
 アルベルチーヌの背後には、判読不可能の「おそろしい未知の土地」が広がっています。心理分析では届かない存在、理知による定義では理解不可能な存在の根底に、最初に登場したときのバルベックの海のうねりも広がります。心理分析は多くのことを教えてくれますが、アルベルチーヌの実態はつかめません。「ついに心理の極限に触れる」(ジュリア・クリステーヴァ「想像界」「プルーストと過ごす夏」所収)。確かに、理知や意識による分析を続けても、心理という表面の下に広がるアルベルチーヌの深層には到達することがむずしくなります。1917年にはフロイトの「精神分析入門」が刊行されていました。無意識のよって突き動かされ、知性によっては統御されることのないもうひとりの自己への注視がさまざまな領域において行われ始めた時代でもあります。愛撫されても、アルベルチーは「閉ざされた蓋」のままです。「人間的性格をひとつずつ脱いでゆき、草や木」の状態にもなります。
  しかし、これはレヴィナスの言う、「創造に先立つまったくの虚無(「倫理と虚無」)です。彼女は心理の下に広がる存在の根底において、主人公に新たな名を与えピアノ演奏を聞かせ、人の意識を目覚めさせる根源の力をまだ有していました。プルーストは音楽の本質を、「魂の神秘的な奥底を私たちのうちに呼び醒ます」ことだと考えていました(「シュゼット・ルメール宛て書簡 1895年」)
 その存在の根底からアルベルチーヌの未知の、しかし真の声が聞こえてきます。第5篇「囚われの女」において、アルベルチーヌは画家エルスチールばかりか作曲家ヴァントゥイユの作品も理解し、そこから自らの創意も習得し、それを表現する「見違えるような」女性となって再登場してきます。彼女は、母親と同様、主人公に朗読も聞かせます。アルベルチーヌのこうした変容は、エルスチールのアトリエ ー「世界創造の実験室」 ー で、それまでのバカンス気分を楽しむ奔放そうな「シモネ嬢」を画家エルスチールが「アルベルチーヌ」と新たに呼び直して、主人公に紹介した時から始まります。アルベルチーヌと呼ばれるようになると、彼女は母や祖母が好んだ文学作品からの引用も行うだけでなく、さらにはヴァントゥイユの曲をピアノや自動ピアノで主人公マルセルに弾き聞かせを行うようになります。その時、彼の音楽受容をさらに深めさせようとして、彼が理解しやすいように、ヴァントゥイユの原曲に手を加えて演奏します。アルベルチーヌは彼を創造的実践へ導こうとする情愛に富む聡明な女性に変貌しています。
 新たな名前がつけられるのを機に、その人物は心理分析の対象にとどまらなくなり、しばしば芸術的な創意に富む活動的な人物に変貌します。なお、主人公も、アルベルチーヌに「マルセル」と名付けられ、彼女のピアノ演奏に触発される形で創造性の表現のほうへ教導されますが、この点については、ブログ記事末尾でもさらに後述します。
 主人公は恋愛それ自体には虚無や幻滅をおぼえるようになりますが、サロンでヴァントゥイユの7重奏曲を聞いたとき、すでにこう考えていました ― 「(・・・)恋愛の中にさえ見出してきた虚無とは別のもの、おそらく芸術によって実現できるものが存在するという約束として、また私の人生がいかに空しいものに見えようともそれでもまだ完全に終わったわけではないという約束として、私が生涯耳を傾けることになるあの不思議な呼びかけが7重奏曲から届けられた」。
 ヴァントゥイユの曲に感動した主人公は、アルベルチーヌによって数度にわたって聞かされたピアノ演奏にもうながされる形で、曲から受けた呼びかけについて考察を深めます。そして、アルベルチーヌのピアノ演奏からの呼びかけが、コンブレの就寝劇においてジョルジュ・サンド「捨て子フランソワ」を読み聞かせてくれたときの母親の創意に富む声に類似することに気づきます。触発される主人公は、自分に胚胎する、しかしまだ未知の状態にとどまる創造性について思い巡らします。
 コンブレで聞いた母親の朗読は、母子未分化の時期特有の母性的なものではなかったため、まだ幼かった主人公にとってはその声はむしろ幼児期や少年期との決別を強いる声ともなりました。このため、就寝劇の夜はこの点では、まだ幼なかった主人公には「悲劇」ともなりました。しかし、「自然の愛情や豊かなやさしさ」に溢れる母の声は、むしろ「最初の学び」や「よろこび」であり、「新しい時代の始まり」を告げるものとなったのです。創造性の表現の習得に向かう「新しい時代」が彼の前に切り開かれたのです。母による「最初の学び」では、主人公は一度母の不在によって突きつけられた根源的な危機に陥ります。しかし、その底から母が多くの意味の詰まった創造的な贈り物 ー ヴァントゥイユの音楽を思わせる朗読の声 ー をしてくれます。「囚われの女」でも、主人公はアルベルチーヌとの愛の消滅に苦しみます。しかし、その危機の底にあって、彼女も豊かな意味のこもるピアノ演奏という創造的表現を贈ります。母もアルベルチーヌも、ふたりはその行為の直前にそれぞれ、独自に作った愛称と、マルセルというファースト・ネームを彼に繰り返し与えます。
 そういえば、嫉妬で悩むとき、アルベルチーヌは、彼には「海」にも見えましたし、また愛撫した時も、彼女は「容器」の「閉ざされた蓋」のようになりました。つまり、彼は彼女に拒絶されつつも、彼女の存在の奥底には、母性を思わせる「海」が広がり、そこには彼を受け止める可能性も感じられます。また彼女は容器の「閉ざされた蓋」にも見えますが、その蓋も開かれ、容器の中身の豊かさに触れる可能性も実は感じられます。不在によって深い不安と欠乏感に突き落とされる主人公は、闇の中で不意に渡された創造性という未知の贈り物の中身を懸命になって推し測ろうとします。哲学者レヴィナスは、失意にかられるマルセルが最後にもらうこの創造性という贈り物を「詩」と名付けて、この「詩」を手にすることによって、マルセルの孤独は、創意が交わされる開かれたコミュニケーションへと反転すると指摘します ー「孤独の絶望は、数々の希望の尽きることのない源泉」に転換するのです(「プルーストにおける他者」)。
 就寝劇とアルベルチーヌのピアノ演奏の場面は互いに類似する演出で展開されます。就寝劇の母親は来客スワンをもてなすことに忙しくなり、不安と嫉妬にかられた主人公は母親の愛情を疑っていましたが、同様に第五篇「囚われの女」のパリでも主人公ははじめはアルベルチーヌの愛情を疑っていました。そうして嫉妬にかられ孤独に陥る主人公に、コンブレの母親も、パリにいるアルベルチーヌも、外部から訪れてきて、情愛を込めて主人公に新たな名を与え、その名でそれぞれ数回ずつ呼びます。 母のほうはコンブレではじめて主人公を独自に作った愛称で呼びましたが、アルベルチーヌのほうもはじめて「マルセル」という名で主人公を呼びます。
 それから、アルベルチーヌは、「コンブレの母のように安らぎを与えてくれるキス」をマルセルにします、さらに、ふたりとも創意に富む実践を行います。 つまり、母は創意に富む朗読を、アルベルチーヌのほうはマルセルのために手を加えたピアノ演奏をそれぞれ行ってみせて、マルセルがそれに反応して、彼のまだ眠っている創造的表現の意欲が喚起されるのを待ちます。アルベルチーヌは「肉体的欲望を感じ直させることはできなかったが、私に一種の幸福への渇望をふたたび味あわせ始めた」(「ソドムとゴモラ」)。
 第五篇のヴァントゥイユを弾く成熟したアルベルチーヌが、コンブレで朗読を聞かせてくれた就寝劇の母親の姿に類似し、重なることにマルセルははっきりと意識します。「このように毎晩アルベルチーヌをそばに置きたいという欲求の中には(・・・)私の生涯でまったく新しいものではないにしても、少なくともこれまでの恋愛にはなかった何かがあった。それは、はるかなコンブレの夜、母が私のベッドにかがみ込んでキスとともに安らぎを与えてくれたとき以来、たえて感じたことのない心を鎮めるある力だった」。深い欠落感を与える母やアルベルチーヌに怒りも覚えますが、その根底においてふたりは創造性に富む呼びかけを行います。コンブレでの原点の声に主人公は回帰します。「新しい時代」に入るということは、まだ無主体だった彼が少しずつ創造的表現を習得するようになるということです。
 小説冒頭の就寝劇以降さまざまな機会に反復され変奏されるこの呼びかけてくる声は、時間を超えて互いに共鳴し増幅されてゆきます。最終篇には、こうした文が書かれています ― 「私が生を受けたコンブレからは池の水がいく筋もの噴水となって、私と並んで噴き上がっていることがわかった」。
 恋愛自体は嫉妬や消滅へ向かう中にあって、当初こそ小声で、しかも断続的にしか伝わってこなかった声は、それを語る主体を変えつつも互いに繋がって増幅され、時間によって消されることがない豊かな印象ともなって主人公を導きます。社会や人間によって織りなされる筋立ての下に隠されるように繰り返されてきた就寝劇での母の朗読の声やバルベックの祖母からのノックの音を、アルベルチーヌはピアノ演奏によって時間の流れを遡って繋げてみせます。主人公に創造的な表現という糧を与えるアルベルチーヌに主人公マルセルは「偉大な「時」の女神」を感じるようになります。
 恋愛において孤独でもあった主人公は、アルベルチーヌから初めて「マルセル」と親しく数回呼びかけられ、母の朗読の声を想起させる彼女のピアノ演奏に触発されます。そして、それに応える形で自分なりの創意を模索し始めます。
 そして、アルベルチーヌによってうながされるマルセルは、今度はヴァントゥイユの曲を自らピアノで弾き、芸術創造についての深い考察をアルベルチーヌに語り始めます。スワンや、スワンと親しい仲のシャルリュス男爵のような「芸術の独身者」とは異なり、他者たちの歌を充分に受容したうえで、批判精神も働かせ、自らの創意をそこから主体的に発掘し、それをアルベルチーヌに向かうように表現します。母親や祖母やアルベルチーヌ、作曲家ヴァントゥイユなどからの間欠的に繰り返される呼びかけに、マルセルもようやく独自の創造的表現でもって応えようとします。
 主人公の初恋の相手ジルベルトも、スワン嬢でなくジルベルトと呼ばれるようになると、今度はパリで主人公をファースト・ネームでもって呼ぶようになります。さらには、彼の成熟をうながすかのように作家ベルゴットの著作を主人公に貸し与えます。ジルベルトはアルベルチーヌの副次的人物ですが、基本においてはアルベルチーヌと同様の重要な役割を演じていて、主人公の成長を導こうとします。二人との恋は結果的には失恋に終わりますが、両者の間には「深い類似性」(「消え去ったアルベルチーヌ」)が見られます。「失われた時を求めて」はここにおいても反復と変奏によって展開してゆきます。
 主人公マルセルは相変わらず嫉妬にかられるし、無力感や罪悪感にもとらわれ続けますが、反面では芸術作品の受容においては鋭い感受性を発揮します。作家志望である主人公は、長いあいだ無為に日々を過ごしましたが、繰り返し先行作品を吟味し検討したうえで、自らの創作観を練り始めます。
 偶発的な一回性の啓示が特権的瞬間のように起きるのではありません。主人公はひとりで独創にのみ頼る形で創造的行為を始めるのでもありません。
 作家志望の主人公は巻末において創作を始めようと決意しますが、それ以前からさまざまな形で創作行為へうながされ、また導かれていたからです。巻頭の就寝劇でも母親だけでなく、母の分身である祖母も、一度父親の反対に会いますが、幼い主人公の誕生日プレゼントとして隠喩が多く使われている、ジョルジュ・サンドの小説数冊を創造性に富む小説としてことさらに選んで購入しました。それを母が音楽を思わせる調子に乗せて主人公に読み聞かせます。主人公の能動性を引き出そうとするいくつもの歌は、通奏低音となり、小説全編にわたって繰り返し響き、連鎖となって広がります。マルセルは、「現在の自我と、過去および未来とのすべての交流」を断ち切らないような作品を創作しようと最後に思い立ちます。コンブレの町民たちも参加する共感に富んだ呼びかけによって、主人公マルセルの創意が引き出されてゆきます。
 間欠とは、一定の時間的間隔を置いて物事が起きることで、消えたと思われていた記憶や感情が不意に立ち返ってくることを意味します。執筆の初期段階では、プルーストは「心情の間欠」を自作の総題にしようと構想していました。
 アルベルチーヌはマルセルから別れ、その直後に落馬事故によって亡くなりますが、彼女のピアノ演奏はマルセルに歌いかけ、彼をうながし続けます。それに応えてマルセルは最後にアルベルチーヌを再生させ、またコンブレの生活を再創造しようとします。たとえ喪失や忘却にのみこまれ、声に悲歌のような響きがこもるようになったとしても、この広く親密な愛は相互に交わされてゆき、相手を導き高めようとします。プルーストにおける愛は、相手に合一し相手と同じ語法を繰り返すことではありません、また、相手の内面を完全に熟知することでもありません。
 プルーストの愛において特徴的なのは、愛が最後は相手を所有することではなく、深い欠落感に突き落とすものである反面、その根源において創造的な表現へと向かわせるものであり、精神的な高揚へと誘う愛へと変容してゆくことです。愛は直接相手を専有しようとする自己を中心とした自己決定の愛から脱皮することになり、嫉妬からも解放されることになります。
 こんな一節が書かれています ― 「われわれは愛の対象が、身体に閉じこめられ、目の前に横たわってくれそうな人間であると思いこむ。ところが、残念なことに、愛とはこの人が過去と未来に占めるあらゆる諸点において展開されるものなのだ」。「失われた時を求めて」においては、性格も、心理も、名前さえも時間の経過とともに変化します。 個々の人物の終始一貫した性格やアイデンテッティを定めてしまうのではなく、人物たちが互いに密に結ぶ関係性を追い、それが間欠的に反復され変奏される展開を追うと、主人公が創造へ向かい変貌する動きに立ち会うことができます。
 アルベルチーヌの同性愛疑惑を含む恋愛感情の分析は緻密だし、その表現も巧みではあります。ですが、彼女の実際の明確な姿はついに像を結びません。個々人の性格や心理の下には、感覚や記憶や無意識や夢や想像力や性といったさらに深い分野が広がります。自立する個人という狭い枠にとらわれない広い領域にまで降りれば、パリでアルベルチーヌがピアノで弾く音は、それによく似た場面設定においてコンブレで母親が朗読した声と共鳴し、響き合います。
 なお、実生活においては、プルーストは1905年に最愛の母を失いますが、その3年後に重要な「母との会話」(「サント=ブーヴに反論する」所収)を執筆します。そして、これが後の「失われた時を求めて」創作のための重要な萌芽となります。

 なお、「マルセル」という名前は、1922年11月18日の死の前に、第5篇「囚われの女」の原稿類を校正するための時間的余裕がプルーストに与えられていたら、抹消されていたはずだとする学説があります。この説によれば、したがって語り手は無名であり、「マルセル」という名前は存在しません。プルーストは、刊本と草稿において「私」のファースト・ネームを明示するのを周到に避けてきたという説で、1959年にフランスの権威ある研究誌に発表されました。この学説を発表した日本人研究者は、語り手を無名にした理由を、「プルーストが自分の限られた経験を掘り下げながら、普遍的なものに到達することを目指したためである」と書いています(「マルセル・プルースト」「集英社世界文学事典」所収)。
しかし、最近の生成研究においてこの説を覆す資料が見つかりました。<「私」無名説>発表後にさらに集められた当該箇所の草稿類の網羅的な調査・解読が進められた結果、確かに草稿帳「カイエ53」と「カイエ55」(1915年)においては、この「マルセル」は消されているものの、執筆の最終段階とも言える清書原稿(1915―16年)においては、「マルセル」は反対に書き加えられていることが明らかになりました(仏語新版「失われた時を求めて」第三巻 ガリマール社プレイヤッド叢書 1988年)。
 つまり、「囚われの女」において、アルベルチーヌが「マルセル」と呼びかけたとする当該箇所の私の解釈を変更したり訂正する必要性は認められません。生成研究による新発見は、私の解釈にはむしろ裏付けを与えてくれるものとなりました。
  字句の異同の文献学的な確認は当然必要ですが、同時に小説全体の展開において名付けるという行為が持つ文学上の意味も忘れたくはありません。主要な人物たちにおいて新たな名付けが行われると、上述したように、それは多くの場合その人物たちが変貌し、それまでとは異なる豊かな可能性をおびる契機になります。さらには、それは他の名付けの場面を生むことにもなり、大きな文脈が築かれてゆくことになります。当該箇所の「マルセル」という名付けはそうしたコンテクストの重要な一環なのです。テクストの語源は、texere(織る)であり、織物には縦糸だけではなく、横糸も使われているはずです。
  なお、最終篇「見出された時」は1927年に刊行されましたが、その末尾にはプルースト自身の手によって「終わり(fin)」と書かれています。ですから、全編を読み通す際に大きな支障が生じることはありません。

                  編集協力 KOINOBORI8

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