(2/2) 「銀河鉄道の夜」続篇創作 「銀河ふたたび イーハトーヴのほうへ」


 カムパネルラは銀河のほとりでまだ生きているのです。カムパネルラはいつもそうして少し遠くから振り返るようにしてジョバンニを導いてきたし、何かとジョバンニのことを気遣ってくれたのです。
 ジョバンニはもう何も云うことができず、家を飛び出し、町のほうへ走りました。そこに立っていた天気輪の柱めがけてです。この前は、その柱を上って銀河鉄道に乗りこんだからです。でも、今度は陽はすでに沈んでいて、太陽柱は現れません。いくら待っても待っても、銀河鉄道の汽車はやってきません。
 しびれを切らしたジョバンニは、今度はみんなが海岸と呼ぶ川の河岸のほうに向かって走り出しました。
 家で病気のために寝ているおっかさんには牛乳を届けることができたし、漁師のおとっつあんも北方へ漁に出て長いあいだ留守だったけれど、ようやく家に帰ってくる。でも、今は家のことよりも、川から銀河のほとりに昇ったカムパネルラのことのほうが気になって仕方がありません。彼に追いつこう、銀河にいる彼に会いたい。銀河鉄道の旅はまだ続いているのだ。 
 川の「海岸」は命を育む場所で、そこには多くの生物が生きているはずです。泥岩層に見つかるクルミの実には、まだ始原の生が宿っていて、生きているものもあるはずです。この生き物が棲む海岸を、ジョバンニとカンパネルラは裸足で踏みしめるように歩いたのです。
 夏のこの時期、川の川面に天の川がその姿を映し出しています。天の川は川と重なり一体となっていました。不意に、いきなりどうと風が吹き上がり、川の流れが上流のほうへ青白く逆流し始め、波立ち遡り始めます。栗でしょうかブナでしょうか、あたりは急にざわざわと鳴り、揺らぎはじめました。
 その時です、川面に映っていた天の川が、川面から身をふりほどき、身をもたげ、竜のようになって立ち上がりました。天の川は、突然上空へとまっすぐ舞い上がりました。
 川面には、ホタルの群れが乱舞していたので、ジョバンニは錯覚して、舞い上がるホタルの群れの光を、川面から上昇する天の川だと見誤ってしっまったのかもしれません。でも、確かに、川面に映り込み静かだった天の川は、一気に滝のような水流となり、上空めがけて駆け上ります。滝が逆流します。

(Bing image creatorによる)

 さらに、不思議なことが起きました。
 この海岸には無数のわたり鳥が飛来しますが、突然、一羽のコハクチョウが川岸のクルミをくわえたまま、川面から勢いよく舞い上がり、上空へと吸い上げられました。ジョバンニには、そのコハクチョウが、カムパネルラの魂をくわえて舞い上がったように見えました。白い鳥は人の魂をくわえて舞い上がるという言い伝えがあることをジョバンニは知ってはいましたが・・・。
 天の川は映り込んでいた川面から身をふりほどき、川面から立ち上がりました。上昇気流が周囲に浮力を与え、それにつられるようにして、一羽のコハクチョウが一気に上空へと舞い上がります。
 その竜巻のような動きはもう逆らうことのできないものとなり、あたり一面は巻き上がるすごい勢いになり、ついにはジョバンニ自身も旋風に巻き込まれます。空に向かって一気に吸い上げられたジョバンニの全身は強く揺すられます。自分は不意にコハクチョウという鳥になって空に舞い上がっている、青黒く透き通った冷たい光に自分は包まれている、とだけ感じます。親友カンパネルラの水死という悲しみの現場から離れ、ひたすら上昇を始めました。
 さらに上空にまで上昇したのでしょうか、遠くに星くずが集まっていて、それが山の雪嶺のように輝きます。いつのまにかコハクチョウに変身したジョバンニは、星雲に囲まれます。とても遠くから星が近づいてきては、キインキインと聞いたこともない音をたてながら斜めにかすめます。銀河を渡る舟の櫂のしずくなのか、光が束となって降ってきて、ジョバンニは光のシャワーを浴びます。流星群の中に迷い込みますが、東に西に北へ南へと飛ぶ向きを変えては星との衝突を避けます。もう、上下だとか方位だとか地軸だとか、そういった尺度などは役に立ちません。ただ天空の中を漂うように上昇します。地図や高度計など役に立たないはずです。上昇しているということだけが感じられます。
 上空で深い淋しさにとらわれます。あたりには誰もいません。天空のどこに連れていかれるのだろう。深い沈黙の中で自分の
息をする音だけが聞こえます。でも、ジョバンニは気持ちを奮い立たせます。銀河のどこかにカムパネルラがいるはずだ、いや、いてほしいという願いがジョバンニを励まし駆り立てます。いつもは表側しか見せない月が、その裏側までその姿をさらしています。そのはるか下のほうで、稲妻がツンツンと点滅しています。でもいったい、コハクチョウとなって舞上げられた自分は、天空のどこに行けばよいのだろう。

 風音に混じってかすかなハマナスの香り届けられますが、どこかで聞いた声が近づいてきます。
 
  いまこそわたれわたり鳥
  いまこそわたれわたり鳥

 銀河鉄道に乗って旅をした時も、天の川のほとりで赤帽の信号手が青い旗を振りながら、幾組ものわたり鳥に叫んでいました。
 信号手は、天の川流域に飛来するわたり鳥にエサがうまく行き渡るように、あれこれ工夫をこらしていました。わたり鳥たちの交通整理をする信号手という人が流域にいても不思議ではないのです。なにしろ秋から冬にかけて、流域にはオオハクチョウが二百羽も、コハクチョウが百二十羽も飛来するのです。
 赤帽信号手は、銀河に小舟を入れ、川筋に杭を列状に打ち込み、その杭の列に明かりを点灯させながら、渡り鳥たちに指示を与えています。この声は自分を導いてくれる声だ、とジョバンニは思いました。みおつくしのように輝く杭の列をたどり、自分たちコハクチョウのために割り当てられた星入り水場に水脈を引くようにして着水することができました。コハクチョウの群れからは鳴き声が上がります。

 銀河に沿って飛び続けると、苹果や野茨の匂が追いかけてくるように漂ってきます。汽車の軌道の両側に広がる農地を上から見渡していると、銀河鉄道で乗り合わした鳥捕りが、河原で働いているのが目に止まりました。商店を構え、捕まえた鳥を保存食にして、通りかかる町の人たちに鳥を売っています。商店から、鳥を保存食にするための機械のゴトンゴトンという音が聞こえてきます。
 「寄ってらっしゃい! 栄養満点だよ!」
 自分の商店の屋号を染め抜いた法被を羽織っています。鳥捕りの大将が鳥を捕まえていたのは、奇妙な暇つぶしなどではなかったのです。銀河鉄道に乗りこんできたときは、どこか不思議な人だと思い込み、鳥捕りの饒舌を半信半疑で聞いたことを思い出し、ジョバンニはその時の自分の思い込みを悔やみました。土地の気のいい働き者の鳥捕り大将が銀河鉄道の車内で遠来の乗客たちに勧めていた食べ物は、お菓子などではなく、実は地方の重要なタンパク源だったのです。
 それに鳥捕りは車内でジョバンニの切符を見ながら、「切符」と云わずに、もっと有効区域の広い「通行券」と云ってくれました。ジョバンニの銀河への今回の二度目の旅が自由に飛び回る旅になることを密かに予告し、また励ましてくれてもいたのです。
 「おや、こいつは大したもんですぜ。どこでも勝手に行ける通行券です。こいつをお持ちになれぁ、いろんな所まで行けます。こんな銀河鉄道なんか使うよりも、もっとどこまででも行ける筈でさあ。大したもんです」。鳥捕りの大将は、鉄道切符が、実はどこにでも何度でも行けることを保証する通行手形であることを請けあってくれたのです。ジョバンニは、銀河鉄道の車内でカンパネルラとばかり話し、あまり鳥捕りと話さなかったことを悔やみなした。

  あかいめだまの さそり
  ひろげた鷲の つばさ
  あをいめだまの 子いぬ

 星めぐりの歌が聞こえてきました。風に運ばれてきて、切れ切れになっていました。ジョバンニはその透明な声の歌をたがいにつなぎ合わせようとします。ふた子の星が向かい合い、銀笛を吹き交わします。ひとつの星が、虹を飛ばして遊ぼう、ともうひとつの星にもちかけます。そのうちにジョバンニも誘われて、その歌と遊びの輪に加わります。
 星は物質の塊りですが、歌を作ってはそれを歌うし、他のいろんな物とも交信します。生きているとは見えない物の奥にも、歌が、命が潜んでいる。それに、この前に乗った銀河鉄道蒸気機関車だって、煙突から火の粉を夜空に撒き散らしながら、「新世界交響曲」を周囲の千億もの星々に響かせていました。その長い全長を震わせて音楽を奏でていました。
 ジョバンニは楽しくなって、歌を聞くだけでなく曲を身体でもって表現しようとします。まわりの動きに合わせた動きが、身体の奥から自然に湧いてきます。心にもはずみがつきます。


 ジョバンニは思い出しました。銀河鉄道の車中でもカムパネルラがこれと同じ曲を口笛で歌ってくれた。アルバイトのために銀河星祭りに参加することができなかったジョバンニのために、カムパネルラは星祭りの楽しい音楽を口笛で吹いて聞かせてくれた。今もこうして銀河のどこかにいるカンパネルラは、ふたつの星に歌を歌わせているのだ。きっと、そうして自分の居所を僕に探らせているのだ。カンパネルラは遠くない所に隠れているのだ・・・。
 「おほぉっ、おほぉっ」、奇妙な声が応えます。奇妙な・・・、でもそれは自分の身体から聞こえてきます。声変わりの時期特有の変な声などではありません。そうでした、ジョバンニはコハクチョウニに変身しているのです。
 とたんにジョバンニはカムパネルラに会えない淋しさに胸を締めつけられます。星めぐりの歌の調子が快活なものだっただけに、ふたたび襲ってきた悲しみは強烈なもので、ジョバンニの心は強く締めつけられます。
 川で友達を救おうとして水死したカンパネルラの姿が目に焼きついて離れず、深い悲しみにとらわれます。でも、ジョバンニは気持ちを強くもって銀河上空を飛び続けます。カンパネルラは、きっときっと銀河で生き返っているのだ・・・。
 なんといっても鳥捕りの大将が、銀河鉄道の切符がどこまでも飛んで行ける通行手形であることを請けあってくれたのです。この通行券をくわえたまま飛び続ければ、銀河のほとりで生きているカムパネルラを見つけ出せるはずだ。ジョバンニは羽根を懸命に羽ばたかせます。それに自分は銀河鉄道沿線地帯を上空から鳥瞰することができるのだ。

 大きく旋回して、ふたご座の所に来ました。「ふたご座は船の航行を守ってくれる、船が嵐に遭うと、嵐をしずめる火を送ってくれる」、とカムパネルラは、以前彼の家に遊びに行った時に教えてくれました。
 そのとき、カンパネルラは家の奥から一枚の絵の複製を取り出してきて、「これは僕の好きな絵なんだ」と言って、それをジョバンニに見せてくれました。ゴッホの「星月夜」(動画参照)でした。
 「なんだか、見る人によっては、とってもこわい絵だと言う人もいるけど・・・」。
 大きく描かれた夜空が青暗くうねる渦となり、星々がその中に吸い込まれてゆくように見えて、確かに不気味な絵でした。ふだんは直立したまま動かない糸杉も、餌を探すイソギンチャクのようにゆらぎ、黒くて不吉なものでした。
 「でも」、とカンパネルラは語り始めました、「僕は、青黒い渦に飲み込まれまいとして光を放つ星々や、絵の下に広がるゴッホの故郷の寒村に光る小さな窓がとても好きなんだ。すべてを吸い込もうとしている暗い夜空の、青黒い渦巻きを前にして、斑点のような星や窓はそこで暖かい生活の光 ー こわれそうな光 ー を精一杯放っている。自分たちに迫ってくる消滅にあらがい、自分たちの生活の灯りを保とうとしている。夜空の底知れない渦の中に取り囲まれても、小さな星や寒村の窓たちは、その荒い黄色の斑点だけで闇の中に輝こうとしている」。ジョヴァンニには黄色の斑点が鼓動するように見えてきました。

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 カンパネルラは続けます、「それに、もう少しで朝なんだ。この時ゴッホは東のほうを向いていて、朝日が上るのを待っていたんだ。ゴッホが描いた大きな星は、明けの明星と呼ばれる金星で、日の出を告げている。その星をゴッホはとても大きく、好きな黄色で描いている」
 ゴッホは画家ゴーガンたち画家仲間を集めて、共同制作に励もうとして南仏アルルに黄色い家を借りる。その黄色の家のベッドも、ひまわりも、ゴッホは穏やかな生活の憩いを表す黄色を分厚く使って描いてゆく。「黄色い家」と題された絵には、画家仲間を乗せたと思われる蒸気機関車まで描かれている。黄色い家に首都パリからの汽車が直接到着するように描かれている。
 でも、ゴーガンだけがひとりだけだけ黄色い家にようやくやって来る。けれど、結局ふたりは衝突する。激昂したゴーガンが黄色い家から逃げ出しパリに帰ろうとすると、共同制作の夢を壊されたと思い込んだゴッホのほうは、精神のバランスを狂わせ、錯乱する。カミソリを持ち出してきて、自分の耳をひとつ切り落とす・・・。
 黄色い家での芸術家コロニー建設の夢などは空中分解する。いっさいが、砕け散る。これですべては終わった、ゴッホも終わった、という人は多い。

 カンパネルラは言います、「でも、僕にはそうは見えない。だってこの事件の後に描かれたこの絵「星月夜」を、もう一度よく見てごらん。星も寒村の窓も小さくて、暗黒の巨大な渦に取り囲まれ、溶かされ飲み込まれてしまいそうだ。星や窓はみじんに散らばるばかりだけど、実は懸命に生活の黄色を光らせ続けている。黄色は荒いタッチでしかないし、破片でしかない。だけど、実はとてもたくまくて、光り、まだ生き続けている」。
 「この星や窓の黄色は、芸術家コロニーの夢が砕け散つたあとの、あたりにに飛び散った黄色い家の破片なんだ。残骸でしかない。でも、ゴッホはあきらめない。ゴッホは、破片となってしまった黄色い家を必死にまた集め直そう、拾い直そうとしている。荒いけど、黄色の斑点は、残された共同生活のしるしで輝き続けている」。

 カンパネルラの話に、ジョバンニはただ黙って聞き入るばかりでした。同級生だった少年カンパネルラが今やすっかり青年に脱皮しようとしていることに気づき、ジョバンニはまるでまぶしいものを前にする時のように彼を見つめ直しました。

 ふたご座の所にまで来ると、銀河の彼方に大きな白鳥座が生気を吹き込まれて浮き上がりました。ふたご座と白鳥座は、学校で先生が云ったように、天の川という「巨きな乳の流れ」によってつながっています。
 星々は孤立していたわけではなく、天の川に沿って互いにつながり、町が描き出されていました。さらには町はいくつか連なり、流域という生活圏を形作っていました。
 大きく翼を広げ、白鳥座は南へ南へと向かいます。白鳥座の大きさにジョバンニは思わず息をのみました。夏の夜の主役は、なんといっても白鳥座です。
 オオハクチョウが星々によって描き出され、その背中には美しい野原が広がり目に迫ってきます。ジョバンニはその背中に舞い降りようとして、白鳥座に必死になってさらに近づきます
 銀河鉄道に乗っていて白鳥の停車場に近づいたとき、車窓から外を眺めていたカムパネルラの目が突然輝き、「白鳥を見るなら、ほんとうにすきだ」と言ったたことが思い出されました。白鳥停車場での20分の停車時間を利用して下車し、駅を出て水晶細工のような銀杏で囲まれた野原をカムパネルラとジョバニは連れ立って歩き回りました。夢のような楽しい時間でした。白鳥座の中心に広がる野原には、林や牧場や苹果や三角標や四辺形のものがさまざまに集まっていて、その辺りがボーッと光ります。月長石に刻まれたような紫のりんどうが、時折りツァリンと音を立てて花を咲かせます。野茨が神秘的な匂を放っていました。

 見回すと、白鳥の背に乗る野原には銀河鉄道の車内で出会ったことのある人たちが大勢集まっています ― 鳥捕りの大将、赤帽信号手、燈台看守、そしてカムパネルラも。彼が川から救い出した級友ザネリやそのおっかさんも。野原に集まったみんなは銀河沿いという流域の昔ながらの知り合いのようです。銀河鉄道だけでなく、天の川も生活の大動脈として利用していて、川に舟を浮かべては互いに行き来していました。みんなは野原でなにやら楽しげに話し合っています。そうです、今夜は、銀河祭りの最後の夜なのです。
 カンパネルラも親しげな様子でみんなと話しています。種袋を首から胸に吊るしていて、畑での種蒔きを終えたところのようでした。背中がピンと伸びていて、決断を下す大人のような雰囲気を辺りに漂わせています。カムパネルラはいつのまにか脱皮していて、強さを身につけている。
 大きな鳥が羽根を羽ばたかせる時に起きる風が繰り返し吹きつけてきます。その勢いに煽られ、追いつこうと急ぐジョバンニは裏返され、吹き飛ばされそうになります。それでも、みんなが集まる白鳥座に懸命に近づきます。
 コォーッという鳴き声が響きました。闇に目をこらすと、静止画像のように闇夜に貼り付けられてきた星座が、そこから身をほどき、畳まれていた翼を左右に押し広げしなやかにはばたかせています。天体に潜んでいた無数の微光がその翼を白く染めてゆき、翼は燐光を放ちます。輪郭ははっきりとはしません。でも、みんなが集まっている野原が、南へ向かう一羽の巨きな鳥の背中にそのまま乗って銀河を滑ってゆきます。どこからか深く低い息遣いがとても長い生のリズムを刻むのが聞こえてきます。
 カムパネルラが銀河鉄道の車内から突然身を消す直前に云った最後の言葉の意味が、ジョバンニにはようやくわかってきました。汽車がサウザンクロス駅を後にして旅も終わろうとしていたとき、カムパネルラは銀河鉄道の旅の印象をまとめるように、はるか彼方に去ってゆく白鳥停車場の野原を思い出してこう云いました、
 「あゝ、あすこの野原はなんてきれいだろう、みんな集まっているねえ。あすこがほんとうの天上なんだ。あゝあすこにゐるの僕のお母さんだよ。」
 その時、カンパネルラは何かを決心した様子になりました。この時だけ、いつもとは違い、カムパネルラは「おっかさん」ではなく、「お母さん」という言葉を使いました。ふだんは、ジョバンニも母親を「おっかさん」と呼びます。でも、カンパネルラがこの時だけ口にした「お母さん」とは、いったい誰のことなんだろう。
 ジョバンニは考えました ― カムパネルラの云うこの「お母さん」とは、野原に生を吹きこむ母性、命に命を受け継ぐ根源としての母性のことではないだろうか、と。代がかわっても誕生を贈るお母さんのことではないだろうか、と。
 きっとカムパネルラも、オオハクチョウの背中にみんなが集まることができる共同の場を切り拓き耕そうとしているのだ。ゴッホの絵「星月夜」を見せてくれたのも、生が産みつがれてゆく場を作ろうとする彼の夢を僕に話してくれるためだったんだ。その野原の開拓が可能になるのなら、たとえ自分がおぼれかける友人を救おうとして犠牲になり、気園にみじんとなって飛び散ってしまうとしてもかまわない。そうした心に秘めた決意をカンパネルラは、ゴッホの「星月夜」の絵を見せながら、僕に話してくれたのだ、きっと。
 生の野原の近くに死の孔である石炭袋が大きく深く、どほんと顔のない口を空けています。白鳥座の真ん中近くで暗黒星雲の孔が何かを飲み込もうとしています。その渦巻く黒い孔から離れていない野原の畑で、カンパネルラが大きな黄色い太陽を背にして歩きながら種を蒔いています。
 野原を背負うオオハクチョウにさらに近づきます。見え隠れしていたカムパネルラの姿がいよいよはっきりと目に映ります。
 ふと、こちらを振り返りました。
 「カムパネルラッ、カムパネルラッ」
 必死になって何度も大声で、ジョバンニは叫びます。自分でも驚くような大きな声でした。

 その叫び声で、長い夢想からジョバンニは目をさまし、我に帰りました。自分はまだ北上川の海岸にいて、そこで拾った生の痕跡をとどめるクルミの実をまだ握りしめ続けている。自分はまだ地上にいる・・・。
 夜空に広がる星座を見上げてみると、南へ南へと向かう白鳥座の口ばしのところに美しい二重星がまたたいています。眼もさめるような黄玉と青宝色の二重星がはっきり見えます。この二重星はきっとカムパネルラと自分なのだ、そうに違いない、とジョバンは思います。
 しばらくすると、ジョバンニには、その二重星が銀河で交わしている声が聞こえてきました。二重星は、オオハクチョウの背中に広がる野原のこれからの開墾の仕方などについてあれこれ話し合っています。
 銀河祭りが終わる夜にカムパネルラにようやく追いついて興奮気味のジョバンニは、もう夢中になってカンパネルラに話しかけています ―「ぼくたち、ここで地上よりもいゝとこをこさえなくちゃいけないって、僕の先生が云ってたよ」。
 遠くの地上から息を切らして勢いよく追いついたジョバンニは突然、準備して暗記までしたことを口をとがらせながら懸命に語りかけます。
 そんな教科書の文章を暗記したような発言にたいして、カムパネルラはちょっと驚いてから、苦笑いのような笑いを口元に浮かべます。ジョバンニは、カンパネルラの言葉に比べたら、自分の言葉なんかまだまだなんだかとても軽い、まだ口ばしは黄色い・・・、と思います。でも、話したくて止められません。カンパネルラに会えてとても嬉しくて仕方がないのです。
 オオハクチョウも、自分の脇のところを並んで飛翔するカンパネルラと顔を見合わせ、笑ったように見えます。
 コウコウ、とオオハクチョウが鳴きます。その声は四方八方に、上下左右にどこまでも、いつまでも銀河のほとりに響き渡ります。
 オオハクチョウも、息を切らせて地上から合流してきたジョバンニに、きっと何か言って応えてみたくなったのです。


                       編集協力・写真撮影:KOINOBORI8
                               

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