越境する芸術・文化

 現代文学では、都市が描かれることが多くなる。「失われた時を求めて」第一ペン篇「スワン家のほうへ」と同年に刊行されたアポリネールの詩集「アルコール」(1913年)巻頭の「地帯」と題された詩でも、自由な詩法で現代都市パリの活気に富む生活が、 オフィスで女性が叩くタイプライターの音も含めて歌いあげられている。アポリネールは二十世紀初頭の開放的なパリだけでなく、パリを取り囲む大きな世界までも縦横無尽に闊歩してゆく。

     地帯
とうとう君は古ぼけたこの世界に飽いた

羊飼娘よ おお エッフェル塔 橋々の群羊が今朝は泣きごとを並べたてる

君はもうギリシャやローマの古風な生活に飽きはてた(・・・)

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     ニューヨーク マンハッタン

 そうしたパリをしばしば訪れたアメリカの作家ドス・パソスハーヴァード大学出のインテリで詩を愛好する画家でもあったが、革新の意欲に溢れるパリに影響される。ドス・パソスはパリでピカソの絵画に親しみ、シュールレアリスムを準備するアーティストたちと交わった。
 そうした経歴から、ニューヨークの中心に位置するマンハッタン島についての詩的な散文が生まれた。この小説ではニューヨークを生きる数十人もの人物たちが、時に万華鏡のような散文詩になって描かれている。
      
 メキシコ湾流の霧から赤い薄明の中に流れこみ、硬った手をした街々にわめく真鍮の喉笛を震わせ、五つの橋の桁ばりの太腿に赤い鉛を飛び散らし、港の煙の林のよろめく下で、さかりのついた猫のように鳴く引き船をけしかけて怒らせる。
 春は人々の口をとがらせ、春は人々に鳥肌立たせ、サイレンのとどろきの中から巨大な姿を現わし、爪先で立ったまま身動きもせず聞き耳をたてる家々の間で、停止した人馬の群れの中で、耳を聾する轟音とともに炸裂する(「マンハッタン乗換駅」)。

 この詩的散文の前半では、現代文学で多用されるようになるサスペンスがはられていて、前半4行の文の主語は隠されている。「薄明の中に流れ込む」の主語は何なのか、「真鍮の喉笛を振るわせる」の主語は何なのか。しかしそれは引用文の後半冒頭まで読み進まないとわからない。主語を求めて推理をめぐらす読者は身を乗り出す。すると、後半の冒頭まで来て、はじめて主語が明らかにされる。主語は「春」なのだ。大都市を突き動かし撹乱させているのは、「春」なのだ。コンクリートと鉄で築かれた無機質な近代都市に、突然乱暴なまでの生の息吹きをあちこちに浴びせかけているのは、「春」なのだ。ニューヨークの冬は東京よりは寒く、そのためまるで到来の遅れを取り戻そうとするかのように、「春」は大都市に突如出現し、橋桁に荒々しくその「赤い鉛を飛び散らし」、引き船をけしかけ、はては「轟音とともに炸裂する」。近代都市ニューヨーク、は原初の春の荒々しいまでの飛沫を浴びせかけられている。
 この散文詩が強い印象を残すのは、対象を見る目がひとつだけに限定されず、多視点から都市が描かれているからでもある。冒頭の「湾流」を描く視点は、「引き船」に至るまでいくつかのカメラアイを切り替えるようにして描かれてゆく。短い文が、時系列を無視して、いくつも並列される。海から街の「家々」まで幅広く散文は展開される。固定された一視点から時間軸に沿うように直線的に記述が単調に流れるのではない。二十世紀は時間よりも空間に関心が集めることが多くなる。しかし、ルネサンス期に人工的に考案された遠近法という理知的な秩序や規範には従わない。都市という巨大な生きた立体は、パッチワークのように動的に多面的に組み合わされてゆく。   
 ドス・パソスの引用文では長い文の中央に「春」という主語が置かれているが、このことによって作品は時間に流されないものになった。この主語「春」は後半の文だけでなく、先行する前半の文にもかかることになった。写実の構文ではない。物事を消滅させることもある時間を超えて、造形的な構成が図られるようになった。
 常識的なものとされてきた描写とは根本的に異なる見方から都市という巨大建造物が造形され直されてゆく。なお、対象を多視点から描く手法は、映画のテクニックを思わせるが、いくつかのカメラを切り替えて対象を立体的に追う映画は、当時すでに市民生活の中に広く定着していた。
 このドス・パソスの小説「マンハッタン乗換駅」刊行の3年後の1928年(昭和3)に、上海という大都市の同じ港湾風景が日本人作家によって書かれた。横光利一である。小説「上海」冒頭に展開されているこの文も詩的散文だが、昭和初期の文芸復興期の中心的作家でもあった横光は、ドス・パソスと同様、フランスの新しい文学運動シュールレアリスムに強い影響を受けている。横光の文を以下に引用して、ドス・パソスの上記の引用文と比較してみたい。

 満潮になると河は膨れて逆流した。火を消して蝟集しているモーターボートの首の波。舵の並列。抛り出された揚げ荷の山。鎖で縛られた桟橋の黒い足。測候所のシグナルが平和な風速を示して塔の上へ昇っていった。海関の尖塔が夜霧の中で煙り出した。突堤に積み上げられた樽の上で、苦力(クリー)達が湿って来た。鈍重な波のまにまに、破れた黒い帆が、傾いてぎしぎし動き出した。
 白皙明敏な、中古代の勇士のような顔をしている参木は、街を廻ってバンドまで帰って来た。波打際のベンチには、ロシア人の疲れた売春婦達が並んでいた。

 この引用文でも、映画を思わせる多視点から港湾風景が描かれ、満潮から始り、モーターボートを経由して、街の情景へと視点はカメラアイが切り替わるようにして並列する。文も短く、この点でもドス・パソスの引用文と共通する。視野は、「概念あるいは観念の与えてくれるものにしたがって」構成されるのではないとする横光は、ひたすら多角度から港湾風景を現場で見る。実際、彼の小説「日輪」(1923年(大12))は映画化されたし、彼の呼びかけから、「新感覚派映画聯盟」が結成されることにもなる。
 また、「モーターボート」が「蝟集する」や、「シグナル」が「昇っていった」などの文では、無生物が主語になっていて、人間や生物が主語になることが常識でもあった当時の日本人には、こうした表現は当初は新奇で、実験的なものと映ったであろう。無生物を主語に置くことができ、またメタファーを使う欧文脈の表現があえて和文脈の中に移植されていて、そこに日本語表現の新たな可能性が模索されている。日本語の表現に大胆にも新たな富を植え付けようと試みたのだ。ヨーロッパ滞在中に行った講演の中で、横光は関東大震災を取り上げて、天災が古い文化を破壊したため新しい文化が必要とされている、と述べている。すべてではないものの、こうした表現は現在では不自然なものではなくなっている。横光の当時の先端的な試みは、それを十分に咀嚼するための長い時間が必要ではあったものの成功したと言えるだろう。
 もっとも、横光の小説は抒情に流れてしまう箇所があり、緊密な構成や迫力という点ではドス・パソスにやや劣る。しかし、総体として見るならば、横光自身この小説を「最も力を尽くした」と自賛しているし、「魔都」上海の群衆の貪欲な生活欲といったものまで活写されていて、意欲溢れる傑作である。さらに、「上海」には列強諸国の植民地主義に対する批判も、またそれに対峙するアジアにおける、時に愚直なまでになる民族主義も描かれている。こうした社会や思想、ひいては文明への言及は、横光のその後の著作においても展開されることになる。社会や文明にも考察が及ぶこの小説は、新たな表現技法が移入された実験的な作品として注目すべきではない。スケールの大きな問題意識でもって創作された小説なのである。他者たちとの関係性よりも個人の自我を写実的な文体でもって描き、大正時代に全盛を迎えた私小説とはすでに異なる問題意識によって執筆されたと言えるだろう。
 横光と同様の斬新な文章表現の模索は、同じ時期に他の同世代の文筆家たちによっても行われた。従来の写実を基調とする表現に飽き足らないものをおぼえる文学者が現れるようにになった。例えば、「上海」刊行の一年前の1927年(昭2)に小説家で劇作家の藤森成吉の「何が彼女をそうさせたか」というタイトルの戯曲が上演されたが、当初こそ無生物である「何が」を主語にする使役表現に当惑をおぼえた当時の日本の読者も、次第にその使役表現が新鮮な印象を生むことに気づくことになった。こうした文型は現在では奇異な感じを与えなくなっている。なお、藤森は脚本執筆で得た印税収入で妻とともに渡欧し、二年間ドイツに滞在する。
 当時、翻訳家で詩人の堀口大學も日本語表現に新風を吹き込んだ。フランスのポール・モランの小説「夜ひらく」の堀口訳は、横光利一を旗手とする新感覚派誕生の契機にもなったが、とりわけ同年の1924年(大14)に刊行された堀口の訳詞集「月下の一群」の訳文は多くの読者を魅了し、昭和に新しい詩を招いたとまで評されることになった。堀口の訳文はおおむね原文のフランス語表現に忠実で、自然に流れるものでもあったが、そこには官能的とも言える新鮮な感覚が知性に支えられつつ盛り込まれていた。私小説風の重く湿潤なレアリズムに慣れ親しんでいた読者には、堀口の訳文は瀟洒ダンディーで、めざましく斬新なものに映った。昭和の代表的な詩人三好達治も堀口の「月下の一群」から、「新しい機智 ー 速度と省略」を教えられたと書いている(「現代詩概観」)。
 堀口はまた明快な短唱詩人でもあったが、ここではジャン・コクトーの「耳」という詩の翻訳を引用しよう。

    耳
 私の耳は貝の殻
 海の響をなつかしむ

 
 ほぼ同時期に、アポリネールジャン・コクトーだけでなく、ドス・パソス横光利一や、藤森成吉も堀口大學もそれぞれの創作活動において、慣例という規範から解放された新たな表現を模索し、斬新な創意に富む表現を自作に盛り込んだ。そして、拒絶反応を見せずに、読者たちはそうした新趣向を柔軟に受け入れた。
 大正時代においては、海外の文化が移入されても、それはブキッシュな教養として直輸入されたし、翻訳された文章や複製画にひたすら沈潜することによって自らを統一するような人格がおのずと形成されるはずだと抽象的に信じられる傾向が実際にあった。いわゆる大正教養主義であり、文化・芸術の受容は東京の山の手のアッパークラスの子弟だけに限られていた。しかし、関東大震災をはさんだ直後の昭和においては、日本人による海外文化受容は受動的なものではなくなり、より幅広い観点から日本人の感性を通して行われるものに変わる。現地で直接文化活動に触れたいという願望を多くの日本人が抱くようになった。実際の社会生活から遊離した抽象的なものとして受容されることの多かった海外文化を、日本人はより具体的に、そしてより多岐にわたって受け入れ始めた。
 横光自身の関心も、上海だけには止まらなかった。欧州航路に就航した箱根丸に1936(昭11)に乗船し、フランスのマルセイユ港に向かう1ヶ月の長い船旅に出る。マルセイユで汽車に乗り換えるが、その先には芸術・文化の都パリが待っている。シュールレアリスムなどの新しい文化・芸術運動の息吹きにその現場において触れた。それだけではない。多様な世界情勢の展開の中にあって政治上の論議で沸き立つパリで、横光は上海滞在時におぼえた西洋と東洋との関係をさらに発展させて思索するようになる。歴史的動向にも目を向け、西洋の植民地主義や合理的科学主義の論理と、それに対峙する東洋の民族主義や自然について考察 ― それは時にカトリック古神道との相剋にもなる ― をめぐらすことにもなる。


郵船の貨客船「箱根丸」(1935年)写真は神戸港離岸時(写真提供:和田恵子)

 フランスのマルセイユに向かう同じ箱根丸には俳人高浜虚子たちも乗り合わし(写真参照)、船内では句会がしばしば開かれた。1938年には作家野上弥生子も夫で英文学者野上豊一郎とともに靖国丸に乗船する。欧州に向かう旅費捻出のために多額の金を工面していた。しかし、不安よりもより大きな期待がふくらむ船出となった(大堀聡「日本郵船 欧州航路を利用した邦人の記録」)。
 ロシア国境に近い中国東北部ハルビンからシベリア鉄道に乗り込み、モスクワ経由で長駆陸路でパリに向かったのは、作家林芙美子である。行商人の娘として旅を重ねた不遇の半生を書いて大ヒットした伝記的小説「放浪記」(昭5)で得た印税収入のおかげで海外旅行に出かけられたわけだが、酷寒の車内に漂う羊の匂いにもめげず、また沿線地帯は当時満州事変が勃発していて政情不安だったにもかかわらず ― 「停車する駅々では物々しく支那兵がドカドカと扉をこづいて行きます」― 過酷で危険な長旅を女ひとりでたくましい生活力と行動力で乗り切る。まさに林芙美子はバック・パッカーの草分けなのだが(「下駄で歩いた巴里」解説)、このバック・パッカー、旅をしただけではない。シベリアの原住民やロシア人たちや蓄音器を持ち込んだドイツ人とも交流を行い、「出鱈目なロシア語で笑わせる」。「信州路行く汽車の三等と少しも変りがありません」(「愉快なる地図 台湾・樺太・パリへ」)。林芙美子は詩的センスに恵まれていたが、それだけではない。日本のマスメディアによって満州で行われていた情報操作というプロパガンダまで批判する。

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    シベリア鉄道

 海外の芸術家たちも日本に来るようになる。昭和七年には親日家の喜劇王チャップリンが来日し、歌舞伎俳優や落語家たちとも交流している(写真参照)。若い映画監督たちに自分の経験を語ったりもした。当時、東京の路上では車よりも人力車のほうが多く走っていたが、その光景に興味を刺激されたのか、チャップリンが実際に人力車を車道で漕いでみせたという話も残されている。

http://2014.tiff-jp.net/news/ja/?p=25987

歌舞伎座を訪れたチャップリンと七世松本幸四郎(1936年3月)、サイト「第27回東京国際映画祭」より

 ジャン・コクトーも1936年(昭11)に日本を訪れ、日本に帰国していた友人の画家藤田嗣治と再会した。訳者堀口大學の案内で見た相撲を「バランスの芸術」と称賛し、歌舞伎観劇も楽しんだ。尾上菊之助演じる「鏡獅子」から、後の映画「美女と野獣」(1946)の野獣のメイクのアイデアを得たとも言われている(写真参照)。

美女と野獣のメイクと鏡獅子の隈取

 国境をまたいだ双方向の文化交流が世界規模ですでに始まりだしている。1920年代には、 パリ、ニューヨーク、東京などの大都市において活性化された新しい芸術・文化活動が相互に刺激し合うという稀有な現象が多様な社会階層においてすでに起きている。国境を越境する文化・芸術の世界同時多発の胎動が感じられる。東京は関東大震災から立ち直り、疲弊することなく生まれ変わろうとしていた。東京の人口は500万人を越え、ロンドン、ニューヨークに次ぐ世界第三の都市になった。民衆レベルでの交流も活発化し、昭和初頭という短い期間ではあったが、日本は二十世紀初頭の西欧モダニスムを受け入れた。震災以前に顕著でもあった根強く狭い自我意識からの脱出が図られたとも言える。
 しかし、世界の大都市によっては、すでに世界大戦へ向かって進軍しようとする軍靴の響きが次第に聴こえてくる。昭和11年満州事変以降、陸軍統制派はすでに戦争へと走り始める。長く持続することなく終わった文芸復興期を含む昭和初期の世界に開かれた文化興隆への機運は、たちまちしぼみ、長く続くことはなかった。


                                編集協力  KOINOBORI8
                               
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