パリに留学していた時、クリスマス・イヴにシャルトル大聖堂に向かった。大都会パリを出ると、すぐに闇が広がる。真っ暗な麦畑を友人の車で一時間走っただろうか。やがて遠くに何か黒々とした細いものが、小さいながらも空に屹立するのが見えてきた。視線はそこに釘付けとなる。
実のところ、大聖堂で行われていたはずの深夜ミサは、まったく記憶から消えてしまっている。でも、ステンド・グラスを見上げた時におぼえた不思議な感覚は今でも鮮明に甦ってくる。
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大聖堂は日常生活とは異なる聖なる異界なのだから、中に入れば私のような無信仰の者でも霊の高みの一端に触れることができるかもしれない、それに今夜はクリスマス・イヴなのだ、などと勝手に期待をふくらましていた。
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しかし、感じたのは、薔薇窓(写真参照)と称される大きな円形のステンド・グラスが深夜にもかかわらず、はるか上部で青く光り輝いていることだった。見上げるほどの高さから、巨大なステンド・グラスは多彩な彩りを含みながら、シャルトル・ブルーと言われる青い光を大聖堂内部に降り注いでいた。形の中でもっとも完璧なのは円形だとされているが、青い円が宙に浮いていた。大きな森の木漏れ日のようだ。シャルトル大聖堂以前のロマネスク建築様式の聖堂は石を積み上げて作られていて、暗くずんぐりとしていたのに・・・、それに、先ほど走ってきた周囲の麦畑はあんなにも濃い闇に包まれていたのに、堂内の薔薇窓は明るい・・・。
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後から知ることになったのだが ― シャルトル大聖堂のようなゴシック建築では長い石柱が何本も立てられ、重い石の天井を支える上げることができるようになり、それ以前のロマネスク建築様式の厚く窓のない壁は取り払われることになった。樹木の幹を思わせる石柱を立てることで、大きな高窓を作ることが可能になり、そこにステンド・グラスがはめ込まれた。こうして、たとえ微光であっても外部の光が採光され、薔薇窓を通して大聖堂内部に光が注がれるようになった。
これは一種の先祖返りだ。ローマ帝国が侵入するまでは、フランス人の祖先ガリア人はうっそうとした森の中で暮らしていた。当時の樹木に囲まれた生活の記憶が、その後に広まったキリスト教の中心である大聖堂内にも立ち返ってきたのだ。作家シャトーブリアンも、フランス人の祖先であるガリア人は背の高いナラの森の中で生活し、そこで彼らの神々を崇めたが、12、3世紀に建立された大聖堂内にもそうした生活の記憶は表現されていると書いている(「キリスト教精髄」1802年)。確かに、シャルトル大聖堂には高い樹木を思わせる石柱が立ち並び、花や葉や家畜などだけでなく農耕の年中行事等までが聖人たちの彫像に寄り添うように彫られている。壮麗で霊的でもある大聖堂にも、周囲の世俗的生活の要素が取り入れられている。聖堂内に長くいると、次第に身近な生活感覚が見て取れるようになった。
そういえば、フランスではクリスマス・イヴに暖炉に普段では使われないような太い薪をくべる慣わしがある。森で暮らした以前のガリア人の生活の一断片が、<イヴにくべる太い薪>となって現在でも今なお思い出されていることになる。
クリスマスには、フランスでは ― 最近では日本でも ― ビュッシュ・ド・ノエル bûche de Noël「クリマスの薪」というケーキが売り出される(写真参照)。この「クリスマスの薪」もかつてのガリア時代の生活から派生したものということができるはずだ。(なお、日本ではこの「薪」の発音表記が、「ブッシュ」になっている。しかし、このカタカナ表記では「薪」ではなく、「口」boucheになってしまう。できれば「ビュッシュ」と改めたい。老婆心ながら、ひとこと。
ところで、イギリスではクリスマス・プディングが作られるが、レシピを読むとなんと牛脂を入れるし、家庭によっては生姜まで加えるではないか。13種もの具材を足したうえで、長く熟成させる家もある。ケーキでもあるが、これはむしろお雑煮に近い。以前、料理のことならイギリスに対して突然断固たる優越感を見せるフランスの友人が、このイギリスのクリスマス・プディングのことが話題になったとき、そのクリスマスの伝統的な菓子を揶揄するように、「ネッシー(ネス湖の怪物)」と呼ぶので、私はそのフランス人の発言に驚き、ムッとしたことがある。「その上から目線の蔑称は、ナンダ!」と、いささかムッとしたことがあった。でも今では、そのフランス人もイギリスの伝統料理にリスぺクトを感じていたからこそ、「ネッシー」などと親しみを込めて発言したのだと解釈している。
シャルトル大聖堂では三方向に大きな薔薇窓が開けられ、こうして採光に工夫が施され、集光が追求されたが、この光へのあくなき執着はフランス人が以前森に住んでいたということだけでは説明がつかないだろう。当時のフランス人はまた聖書においては光が神だとされていることを知ったはずだ。光を神と思い、その来訪を希求したのだ。
はじめに神は天と地を創造された。地には形はなく、虚しく、闇と神の霊が水面を覆っていた。神は、「光あれ」と言われた。すると、光が現れた。神はその光を見て、「よし」と言われた(「創世記」、「新約聖書」所収)。
今では人口の約10%しか信者としての務めを行なっていないが(ピエール・ノラ「カテドラル」「記憶の場」所収)、フランスは「バチカンの長女」と呼ばれ、カトリック信者が多いことで知られている。このため、クリスマスに関連する言い伝えや慣わしが多く、クリスマスは教会内だけではなく、家庭や街でも広く祝われるものとなっている。
例えば、イヴにはブーダン・ブラン(写真参照)という白いソーセージを食べる家庭が多い。普段食べるブーダン・ノワールに比べ、ブーダン・ブランのほうはトリッフや香料でもって風味が加えられている。
また、日本ではイヴに枕元に靴下をぶら下げれば、翌朝そこにプレゼントが入っていると言われるが、フランスでは靴下は枕元ではなく、暖炉の脇にぶら下げるものとされている(写真参照)。次のような言い伝えがあるからだ ― 貧しい家の前を通りかかったサンタクロースはその家の煙突口から金貨を投げ込んだ。すると、その金貨はその煙突につながる暖炉に掛けてあった靴下に入った、と語り継がれているからだ。
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暖炉に飾る靴下 Chaussettes et porte-chaussettes de Noël
よじ登るサンタ・クロース(挿入図参照)は最近の新商品だ。20年くらい前からは家の外壁にぶら下げる大きなビニール製サンタ人形が売り出された。クリスマスが近づくと、パリの街でもあちこちの外壁にこの大きなサンタ人形がぶら下がる。
生活や町のさまざまな所に自然に溶け込みながらクリスマスは祝われているが、大聖堂内でも聖なる日にはクリスマス・イヴ限定とも思われる<行為>が行われることがある。いつか、イヴにパリのノートルダム大聖堂の深夜ミサにまたしてもこっそり参加した。つめかけた立ったままの信者たちの数は多かったが、日頃、東京の雑踏にもまれている私は、聖堂内の人の群れをすり抜け、いつのまにか祭壇の目の前まで出た。フランスでの人混みはどこかゆったりしていて、人と人のあいだには間隔が空いている。そのうちに、パイプオルガンが大聖堂を揺るがし、腹の底まで響き渡る大音響を響かせ、深夜ミサがおごそかに始まった。あれはミサが終わった時だったか、それともミサが始まる前のことだったかもしれない、堂内の薄暗がりの奥から人影がゆっくりと現れる。まさにしずしずと、式服に威儀を正して、外見からして明らかに高位の聖職たちが、ひとりずつ祭壇に歩み寄ってくる。先頭は、真っ黒な衣装に身を包んだギリシャ正教の代表者らしい。続いてかなりの間をあけて、カトリックの、またプロテスタントの聖職者。4、5人の、それぞれのキリスト教の諸宗派を代表するような高位聖職者たちが祭壇前で出会う。何も語らない。動作も挙手もしない。しかし、圧倒的な精神的な存在感。犯しがたいオーラが沈黙の堂内に広がる。ミサには加わらない、ただ出会う。宗派間には多くの問題や対立さえ横たわる。しかし、カトリックはその語源からして、普遍的なものを目指す宗教だ。何かを解決することなどできないし、実りある結果にもつながらない、儀礼的な出会いでしかない。祭儀でもなく、記録にも残されない。一部の有志による自発的な行為なのだろう。でも、クリスマスを機に、抗争を越え出会うことだけはしておきたい・・・。
キリスト教は、そのルーツからしても、一枚岩ではできてはいない。それどころではなく、実に多様な構成要素から長い時間をかけて成り立ってきた宗教だ。そうした多様な宗派の聖職者同士の出会いは、クリスマス以外の他の機会においてもさまざまな形で試みられてきた。このことは、歴史書でも確かめることができる。諸派の力関係の調整を図ろうとして、キリスト教の内部では、さまざまなバランス感覚が働く。私がクリスマスに集まるのを見た諸派の聖職者たちは、私たちに表面化で働くそうした活動のごく一端を垣間見せてくれたのだ。キリスト教が抱える実像を垣間見たようなクリスマス・イヴとなった。
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編集協力 KOINOBORI8
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