村上春樹「羊をめぐる冒険」における名付け

 ユニークな傑作「羊をめぐる冒険」(1982)は、様々な横糸縦糸から織りなされているので、あらすじを一筋縄でまとめることは容易ではない。しかし、次のようにレジュメすることもできるのではないか ― 主人公「僕」は人の名前をすぐ忘れる男で、小説冒頭で知り合いの女の子が交通事故で死んでも、彼女の名前が思い出せない。「あるところに、誰とも寝る女の子がいた。それが彼女の名前だ」などとひとりごつ。「僕」は、「名前というものが好きじゃない」などと宣言までする。謎の人物に謎の羊を北海道に探しに行く仕事を依頼される場面でも、見せられた名刺はすぐに回収され、その場で直ちに焼き捨てられてしまう。氏名は消される。「1973年のピンボール」にも、恋人直子が現れるが、彼女は死に、むしろ名前がなく「208/209」と書かれる双子の女の子が登場してくる。
 ところが、話が進み体験を重ねるうちに、対象に新たな名前(苗字ではないファーストネーム・愛称・通称)を付けて呼びかけると、そのうちに呼びかけられた対象が新たな姿を見せることに「僕」は気づくようになる。ファンタジーによって展開される村上の小説を因果関係では説明することはできないので、具体的なエピソードを例示しながら説明してみよう。
 当初こそ名前を嫌い名付けることを嫌っていた「僕」は、新しく名を与えられる対象が、それに応じて賦活され、新たな精彩を帯びることを何度か目撃する。例えば、「僕」は当初こそ飼い猫にも名前を付けないが、猫を預けた北海道の「先生」の運転手が、「あなたは自分の名前さえわからない」と不思議がり、預かった猫に「いわし」という名を付け、「おいで、いわし」と呼び、抱きしめるのを見る。その後、運転手はさらに新たな名を猫に付ける。すると、猫はそれに応えるようにして、丸く太り始める。その変化に立ちあったガール・フレンドは、それまでは「僕」に「どうして猫に名前を付けてあげないの」と非難してきたのだが、これは「天地創造みたいね」と言って驚く、というよりも喜ぶ。
 村上の小説は一作ごとに独立せずに、前後に書かれた他の小説たちと密接な関連を結ぶことが多いが、この飼い猫も「ねじまき鳥クロニクル」(1993)に出てくる「ワタヤ・ノボル」という猫を想起させる。この猫は一度失踪し、名前も失うが、「僕」のところに戻ってきて魚のサワラを食べるので、今度は「サワラ」という愛称で呼ばれるようになる。すると、それとともにそれまで行方不明だった「僕」の妻までもが家に戻ってくることになる。新しい呼称が発せられるうちに、新しい事態が生じる。
 苗字ではない新しい名前(ファーストネーム、愛称、通称)でもって呼び直される対象(人物、動物、事物、地名)は、繰り返される新たな命名から刺激を受け、可能性に富む姿に変容する。新たな名付けとともに、新たなポジティヴな局面が切り開かれる。
 「僕」の恋人の場合もその一例である。彼女は処女作「風の歌を聴け」では名がなく、ただ「僕」が「三人目に寝た女の子」と描写されるだけだった。しかし、次作「1973年のピンボール」(1980)でその無名の恋人に「直子」という名が与えられると、「直子」は変容し、「僕」に影響力を発揮するようになり彼を導くまでになる。バルザックの<人物再登場>という手法が大胆に取り入れられている。
 「僕」は、強権的な暴力をふるう父権を思わせる羊に取りつかれた「先生」の名前を探し出すという仕事を請け負うことになり、北海道の「部落」にたどり着く。その土地では「部落には名前は付けない」という決議までが出されていた。しかし、部落の脇に12の滝があったことから、「部落」には「12滝村」という名が土地の職員によって付けられる。その地名はさらには、「12滝町」と名付け直される。そして、「北海道 ― 郡12滝町」と新たに表記された土地に関連する文書を読むうちに、「僕」は「先生」の名前をついに見つけ出すことになる。土地は何度か名付け直されるが、その数度の異なった名付けに応えるようにして、土地はそこに潜められてきた北海道の貧農出身である「先生」の名前を明らかにする。ここにおいても、新たに名付け直されることによって活性化する土地は、その名付け直しという呼びかけに反応し、土地に秘められてきた可能性を切り開いてみせる。「僕」の捜索は成功する。
 自意識過剰気味で引きこもるようにして他者の名前にさえも関心を示さなかった「僕」は、次第に反復される名付けが引き起こす可能性に気づき始める。以前は、「美しい耳を持った」と呼ばれるガール・フレンドに、「あなたは自分自身の半分でしか生きてない」と非難されたが、北海道での羊の追跡を終えて12滝町を離れる時には、変容している。羊博士に「君は生き始めたばかりだ」と言われるようになる。名付けるという行為が引き起こす新たな事態へ興味をおぼえるようになっている。
 最近作「色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の旅」(2013)においても、父親は息子のファーストネームを漢字の「作」に決めるが、母親は「創」という表記を提案する。息子自身や友人たちは普段は「つくる」という表記を愛称のように使う。また、母とふたりの姉も彼を「さく」とか「さくちゃん」と呼ぶ。家庭という場において何通りかの呼称が飛び交い、そのことに刺激される「つくる」は、それまでの受け身だった個性から脱皮する。沙羅に促されて、自分が標的とされたシカトという陰湿ないじめを乗り越え、4人の実行犯 ― かつての仲間たち ― を許そうと決意する。そして、巡礼の旅に出る。2013年刊行のこの小説においても、「羊をめぐる冒険」において展開された<名付けという行為が引き起こす可能性>というテーマが、変奏されつつ反復されているのである。
 北海道の「12滝町」も何度か名付け直された土地だが、その12滝町はその名付けに応えるようにして、「先生」の名前を「僕」に明らかにする。それだけでなく、捜索していた危険な羊が鼠の体内に取りついたことも明らかにする。この12滝町という場所は、鼠の父が別荘を築かせた父親固有の土地でもあるのだ。そして、この邪悪な父権的存在の羊に取りつかれた鼠は、羊が周囲に増殖するのを恐れ、その伝播を自ら阻止しようとして、自分の体内に宿っている羊もろとも自爆する。
 港町のジェイズ・バーに戻った「僕」は、中国人オーナーの長いフルネームを、そのバーの常連のアメリカ兵たちにならって「ジェイ」という愛称に変えて呼びかける。そして、バーを港町に転入させた時の借金を抱えるジェイに、北海道での羊の追跡完遂の謝礼としてもらった報奨金の小切手を差し出す ― 「どうだろう、この分で僕と鼠をここの共同経営者にしてくれないかな?配当も利子もいらない。ただ名前だけでいいんだよ」。ここでは、「名前」はまだ正式の契約書類に署名されるような苗字が中心となる氏名のことではない。バーの親しい常連仲間同士で交わされるあだ名や愛称のことだ。苗字が使われる以前のあだ名が交わされることによって、そこから何か新たな可能性が生じることに「僕」はすでに何回か立ち会ってきたのだ。そこから共感や信頼感が広がるかもしれないし、自爆した鼠だってまたジェイのバーに来ることだって起きるかもしれない、そのことだって起きるかもしれないのだ・・・。
 でも、である。そんなことはありえない。鼠はすでに北海道で権威ずくの父を思わせる羊もろとも自死していて、いないはずだ。「僕」の分身でもあった鼠は、「僕」のように名付けという行為を習得する機会をついに持てなかった。金持ちで、高圧的でもあっただろう父親を嫌いはするが、家の苗字のほうにとらわれ続けた。父からの反対があったことが想像されるが、鼠は母のいない貧しい家の恋人「小指のない女の子」と結婚することができない。彼女は鼠の子を宿すが、堕胎した。鼠の「小指のない女の子」は、「僕」の恋人「直子」のように名でもって呼ばれることがついにない。父親が別荘を構える場所 ー 家名がここでも使われる ー で取りつかれた邪悪な羊が身体に巣食っていることを知り、それが周囲に広がり伝播することを恐れた鼠は自ら命を絶ったのだ。鼠は港町のジェイのバーを後にしたあと、もう戻ってこれない。
 「羊をめぐる冒険」の最後には、何かが習得されようとしている時のような明るさが広がるが、それと背中合わせになるようにして深い喪失の悲しみも広がる。鼠は父権のような強大なものにとらわれ続け、ついに自らの意思で不在になってしまったのだ。
 実際、鼠は前作「1973年のピンボール」では恋人「小指のない女の子」と霊園の中でデートをする。家名の苗字が大きくっ深く彫り込まれた不動の墓石は、鼠を、そして「小指のない女の子」を見下ろし、強いグリップを利かし続ける。鼠は恋人を愛称で呼ぶことができない。
 「僕」は鼠の「小指のない女の子」を慰めようとしたこともあった。港町のバーでも、オーナーのジェイに報奨金の小切手を見せながら、「僕」はそれが鼠の手柄であるかのように言う、「その金は僕と鼠で稼いだんだぜ」。
 しかし、そんなことはない。亡き親友を持ち上げようとしたまでだ。
 その後、バーを出た「僕」は砂浜に腰を降ろし、泣く、二時間くらい。明るい歌だけが聴えてくるのではない、深い喪失の歌も風の中からは聴えてくる。「「僕」は強い父親の力の下で影が薄く存在感のなかった鼠のことを哀惜を込めて思い出す。
 なお、「僕」とその分身である鼠との関係に注目するならば、この小説には先行する小説がふたつある ー チャンドラーの「ロング・グッドバイ」(1953)と、スコット・フィッツ・ジェラルドの「ザ・グレート・ギャツビー」(1925)だ(内田樹「「言葉の檻」から「鉱脈」へ」「街場の文体論」所収)。この二作品にも、主人公の分身が登場するし、この分身はふたりとも弱くて、邪悪さを抱え込んだ富豪の父親の息子だ。最後には、この二人の息子も、突然姿を消す。「羊をめぐる冒険」における主人公「僕」の分身である鼠の相似形のような人物だ。このことは、村上の傑作がけっして特異な個人の発想から恣意的に思いつかれたものではなく、広い文学の継承の流れの中に位置するものであることを示してもいて、この小説は確かな分厚い存在感を獲得している。
 「羊をめぐる冒険」はファンタジーに頼って作られ、伏線も置かれていないし状況説明もない。話はやや唐突に展開するし、主人公の内面描写も省かれている。このため、推理と想像で補いつつ繰り返し解釈し判断するしかない。しかし、それが直接的でリアルな訴えからでは得られない、複雑で、しかし痛切な思いを読者にかき立て、深い余韻を響かせることになる。
 「羊をめぐる冒険」は、「風の歌を聴け」(1979)と「1973年のピンボール」とともに、<鼠三連作>を構成するとも言われているが、それ以降に執筆された小説のいくつかとも密接な関連を結ぶ。
 小説「羊をめぐる冒険」は、単なる恣意的な空想譚でもなければ、独創的な表現や形式上の実験作でもない。過激なセックス描写も自殺も多い。しかし、その下には深い人間的な問いかけが潜んでいる。自己と他者との関係性をふたたび構築しようとする試みが内包されている。
 鼠が弱いながらも阻止しようとした強権的で<邪悪で危険な羊>というテーマは、「羊をめぐる冒険」以降も ー より現実的で社会的なスケールでもって ー 展開されることになる。我々は、この多岐に渡って複雑で、しかし豊かな小説を、その多様性を矮小化することなく、また細部に拘泥することなく、読み解かなくてはならない。


                編集協力  KOINOBORI8
                               
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