『失われた時を求めて』第6篇『消え去ったアルベルチーヌ』を読む
1. 恋人アルベルチーヌは突然マルセルと別れ、その出奔後に落馬事故に遭い、死亡する。主人公マルセルは絶望にかられるが、アルベルチーヌの真の姿を知ろうとして、彼女が生前に見せたさまざまな面を思い出しては、真実の追求を様々な角度から続ける。しかし、彼女の同性愛疑惑についても、確証は得られない。
やがて、忘却の時期が始まり、それは三つの段階にわたって詳述される。確かに、アルベルチーヌは少しずつ消えてゆく。しかし特徴的な点は、習得を重ねつつ「書く」という実践へと向かういわば肯定的なプロセスも同時に描かれていることだ。アルベルチーヌの失踪、そして忘却へ向かう動きとは反対に、次篇『見出された時』掉尾でマルセルに「書く」決意をさせるための挿話もいくつか点在する。

<忘却の第一段階>においては、コンブレのマルタンヴィル鐘塔について書き、フィガロ紙に投稿しておいた小文がようやく紙面に掲載されることになる。コンブレでひとり興奮して書き上げた若書きの文章を新聞という公共媒体の読者として再読する体験をすることで、マルセルは書くという行為が単独では成立するものではなく、それを読む読者たちという他者の関与があってはじめて成り立つ社会的実践であることを知る。書くことがそれだけで行われる単独の行為ではなく、読むことと可逆的に密接に結びつきつつ実践されることをマルセルはここではじめて習得する。こうした「書く」作者の相対性は、最終篇『見出された時』掉尾を準備するものだ。この最終篇では母に導かれるマルセルは、母が読む声を聞くという受動的行為が、自らが書くという主体的な行為に反転することを自ら演じる。
<忘却の第一段階>末尾においてマルセルはゲルマント公爵夫人からのオペラ・コミック座への招待を断り、こう言う、愛していた女性を亡くしたのでいけない、と。 「それを話すことがはじめて私にある快感を味わわしてくれた。この時からだった、私は最近大きな悲しみを知った、とみんなに書き始めた。そして、私はその悲しみを感じなくなり始めていた」。ここでもゲルマント公爵夫人からの招待に応じない決意は出入りしてきた社交界と距離を置くことを意味している。マルセルは時に虚栄心や高慢がむき出しになる社交界に長いあいだ浸ってきたが、ここでは書くことに取り組もうとする成熟した精神の高揚を意識している。
アルベルチーヌの出奔と落馬事故による死が引き起こす絶望と忘却という悲劇だけでは終わらない。マルセルは次の最終篇『見出された時』において「書く」決意するために必要な点を第6篇においても習得してゆく。
<忘却の第二段階>でも、アルベルチーヌとの同性愛をにおわすアンドレの発言を聞いても、マルセルは以前とは違い深く悩まなくなる。バルベックの軽薄で肺病病みの青年オクターヴが、演劇に「革命」をもたらすほどの才能に富む劇作家に変容したことを知る。オクターヴのモデルは、劇作家でもあるジャン・コクトー、あるいはプルースト自身であるともされている。オクターヴも、書くことへ向かう友人のひとりといえる。
こうして、『消え去ったアルベルチーヌ』は別離や喪失による影が主調になってはいるものの、そこに微妙に光が次第に遠くから差し込んでくる。悲哀に高揚も混じりあう。
<忘却の第3段階>では母に連れられてやってきたヴェネチア滞在が語られる。マルセルは街をさまよい、性の欲望にも駆られるが、最後は自分を創造のほうへうながそうとする、コンブレの頃の母 ― しかし実在感を失い喪失感を漂わせ始めつつも、自分をさらに導こうとする母 ― の世界に回帰しようとする。ヴェネチアでマルセルを遠くからであれ見守り励まそうとする母の姿は、最終篇でマルセルを書くことへ決定的に方向づける母をすでに彷彿とさせる。
『消え去ったアルベルチーヌ』では別離やそれに伴う悲しみが主調となって響く。しかし、反面では母やさまざまな声がマルセルを書くこと向かわせようとする。
アルベルチーヌも消え去るだけでなく、間欠的によみがえるが、それももはや恋愛や性の対象としての彼女ではない。ヴェネチアの美術館に展示されていたカルパッチオの絵画がマルセルに思い起こさせたのは、フォルチュニのコートを見事に着こなすことを知った、いわば芸術を理解する変容したアルベルチーヌの姿なのだ。その彼女は、マルセルに喪失の悲哀を味あわせるとともに、芸術的なものが喚起する高揚へと導く。
2.ガリマール社新プレイヤッド叢書版とグラッセ社版
以上述べてきた内容は、ガリマール社新プレイヤッド版(1989)を底本としている。ところが、1987年にグラッセ社から、<第6篇の決定版>と銘打った版が刊行された。
私がグラッセ社版でなく、プレイヤッド版を底本として採用した理由を簡略に述べたい。グラッセ社版の『消え去ったアルベルチーヌ』は、1986年に新たに発見された第6篇のタイプ原稿を出版したものだ。プレイヤッド版と比較すると、そこに大きな違いが認められる。日本の文庫本のページ数に換算すると、300ページ近くがごっそり削除されていて、上述した<忘却の第1段階>も、<忘却の第2段階>も大幅にカットされてしまっている。書くことへ向かうベクトルも読むことができない。さらには、<第3段階>の「コンブレよりも豊かな」ヴェネチア滞在中の感動的なサン=マルコ寺院の挿話も消えていて、マルセルの精神的な成熟をたどることができず、最終篇になめらかに続かない。最終篇掉尾は先行する各篇から孤立するので、抽象的な文学論が唐突に始まるような印象を受ける。しかし、ヴェネチアで母が喪服に身を包み実在感を希薄にしつつも、マルセルが書くことに目覚めるように静かに導くはずだ。
コンブレやバルベック以来まるで間欠泉のように吹き上がる書くことへのうながしは、この第6篇でも変奏されつつ反復され、多様な形を取りつつ強くマルセルの背中を押し続けるはずなのだ。
管見ではあるが、目下のところグラッセ社版を決定版とする論拠は生成研究においてもいまだに見出せないのが現状のようだ。私のように、微視を忘れずに、しかし同時に『失われた時を求めて』全編における展開を追う読者にとってしてみれば、プレイヤッド新叢書の長い版のほうを底本に採用したくなるのだ。
なお、日本では、光文社だけがグラッセ社版を底本として採用し、高遠弘美による邦訳が2008年に刊行された。しかし、第6篇前後の合計3篇(第4篇『ソドムとゴモラ』と第5篇『囚われの女』、それに第7篇『見出された時』)の邦訳は、その後現在にいたるまで刊行されていない。第1篇から第3篇『ゲルマントのほう』までの同じ訳者による邦訳は刊行されたが、それも2018年までのことで、以降邦訳は中断されたままだ。
奇妙なことは、邦訳刊行がこうして長いあいだに渡り中断されているにもかかわらず、訳者がこの間プルースト翻訳以外のエッセーなどの文学活動には旺盛に取り組まれていることだ・・・・・。
多様な仕事に手を染めることなく、訳者が整合的なプルースト『失われた時を求めて』個人全訳という大業を最優先に再開され、初志貫徹されること願う読者は少なくないはずだ。

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