吉田健一『金沢』の愉しみ ― 床の間と町

 吉田健一の小説『金沢』には、内山という主人公が登場する。といっても、この内山、主人公と呼ぶには少々ふさわしくない人物だ。なにしろこの人物、「自分というものに固執することもなさそう」なのだ。吉田の世界では、たとえば『東京の昔』でも、自分のことを「こつち」と言う主語が現れる。自我とか我執をリアルに暴く私小説のいつも一人称単数の主人公とははじめから異なる立場に立っている。
 もっともこの内山は、小説においてさまざまな独自の体験を重ねるうちにいつのまにか交友の人としての豊かなものの見方まで身につける。この内山という人物はいったいどのようして成熟ともいえる境地に達したのだろうか。
 はじめ内山は寺の床の間に掛かっている山水画を見に行く。仙人が月に見入っているが、そのうちに仙人である「男も酔っていったのだろうか」、月光を探して山水画から外のほうへ出てしまう。内山もこの画中の仙人にならい、床の間の山水よりも外の犀川や森が月光を反射させるのに見入る。虫が月光に応えるように鳴き始める。山水画という絵画作品だけが審美的受容の対象になっているのではない。遠くの犀川にかかる鉄橋は金沢という「町」 ― 街とも市とも表記されない ー を造形するための重要な手駒とのひとつとして小説に何度も登場するが、ここでも橋は月の光を浴びるだけでなく、意思を持つもののように月光を「射返し」ている。寺の薄暗い床の間から外部に拡がる月光は、町の空間や時間を押し拡げ、光に反応するものたちを次々に闇の中から静かに目覚まさせてゆく。

 月光によって新たに現出される町の大きな空間は、近景を中心として背景をマイナー扱いする遠近法という制約に縛られない。また時間にしても仙人のいる山水から始まり、過去が継続的にさらに現在にまで展開されていて、過去という制限の中だけに封じ込まれるものではない。過去だけでもなく、また現在だけでもなく、その両方こそが重要という吉田の時間はここでも生かされている(『時間』)。
 『金沢』は、床の間の山水画から展開されるだけではない。金沢のなじみの骨董屋が第一章において内山に見せた、その底に紅を浮かべる青磁の湯呑みも、上述した床の間の山水のテーマと並走しつつ、類似する展開を見せる。内山は金沢の裏町の料理屋で3人の女を見かけるが、3人とも「緑色の着物に紅の帯を締めている」のに気づく。のちに金沢の山奥でも、同じ配色の服装の女が現れる。杯はいつのまにか紅を浮かべる。湯呑みにも紅葉する桜の葉の紅色が浮かぶ。青磁の名器も美的な対象物にとどまらずに、ここでもその外縁を拡げ、町に出て、生活を活性化するかのようにさまざまな日常の品に紅や青磁の青をつける。どこかに香りまで漂う。

 吉田健一はここでフランスのポール・ヴァレリーの文明論を思い浮かべたのかもしれない。吉田はその『ヨオロッパの世紀末』においてしばしばヴァレリーに言及しているからだし、ヴァレリーは20世紀に入り、美は生に置き換えられたと主張しているからだ。いずれにせよ、美は吉田にとってもヴァレリーにとっても抽象的な別世界に閉じこもる大時代がかった大文字の「美」ではなくなり、生活の領域とも相互浸透を起こし始める、身近な場にまでその活動を拡げるものだったのだ。
 床の間の山水画や座敷に置かれた宋の青磁の名器から外のほうに小説世界は拡がり、全6章のうち4章目に来た所で、「内山は金沢の町を感じてその午後がそこから遠くまで拡った」という文が書かれている。たしかに、舞台は床の間や座敷から町へ、さらには周辺に拡がる山々や、最後には山あいの温泉にまで拡がる。
 しかし、ただ拡がるだけではない。「温み」が通う広い場といったものが形成され始める。町中でも家同士は挨拶を交わし、山々も向かい合い、声まで発する。

 登場人物たちがある晩に温泉に集まる。みんなは「縦横に網を張り巡らせる」、「全体が互いに働き合う」。最後には物たちも音を、声を発し、歌うまでになる。音楽まで響く。きっと、聞こえてくるのは、幾つのも弦楽器による合奏曲だろう。金沢は前田藩公が治める都ではなくなっている。金沢を囲む山あいの温泉では最後に登場人物たちが集まり、酒宴がはられる。普通は自然と呼ばれているものがただの木や石でなくなっていて、「何か語り掛けて来る」。登場人物たちと杯を交わすだけではない、「内山は山や川と飲んでいるようなものだった」。
  高揚する精神が流動し、その交歓は長く持続する。




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