プルースト『花咲く乙女たちのかげに』の愉しみ
『失われた時を求めて』第二篇『花咲く乙女たちのかげに』の前半「第一部」は、第一篇『スワン家のほうへ』の続きであり、そこではスワンの結婚生活や、主人公とジルベルトとの恋が描かれ、古典演劇『フェードル』の観劇がそれに続く。
後半の「第二部」「土地の名―土地」では、ノルマンディー海岸とおぼしいリゾート地バルベックでの生活が描かれる。
こうして話が多面的に展開されるので、従来の『花咲く乙女たちのかげに』の要約や梗概には、数多いテーマの羅列や場面ごとの注釈に終始するものが少なくない。核心となる構成なり、文学上の狙いを広い視野に立って深掘りする試みはあまり行われていない。
本稿では、『花咲く乙女たちのかげに』の主要な舞台である「第二部」「土地の名―土地」を取り上げ、避暑地バルベックの回想の下に潜められている、より本源的な展開を、『失われた時を求めて』全編を視野に収めつつ、明るみに出すように試みてみたい。

1. 開けられないカーテン/窓
高級リゾート地で避暑を過ごすことになっても、ブルジョワやパリの貴族たちは、それまでの独自の生活スタイルをかたくなに守ろうとする。たとえば、彼らはバルベックの中心グランドホテルのカーテンを開けようとはせず、英仏海峡を臨む新しい外界に接しようとはしない。城をレンタルで毎夏大金を払って借り出すヴェルデュラン夫人も、パリから運び入れた所有する家具に取り囲まれることを好む。
ヴィルパリジ侯爵夫人もグランドホテルに落ち着くや、部屋の品をパリから持ってきたカーテンや家具に取り替えてしまう。「窓にかかるカーテンをすべて持参のものに取り替え、あちこちに衝立や写真を置いて、適応できそうにない外界と自分のあいだに慣れ親しんだものでもって仕切りを築く」。仕切りといえば、ホテルのダイニングルームの海に面した大きなガラス壁は常連客にとっては、地元の漁師たちとの接触を阻んでくれる仕切りとして機能する。漁師たちにしてみれば、ダイニングルームは魚が泳ぐ「水槽」でしかないのだが。
外界の自然と触れ合うことを好み、コンブレでは雨が降っていても庭を歩いた祖母は、グランドホテルの閉じられたガラスの食堂に息苦しさをおぼえ、食堂の窓を開けてしまう。しかし、その大胆な行為は、食堂でランチを囲んでいた常連の裁判所長や公証人たちからたちまち顰蹙を買うことになってしまう。
17−18才頃と思われる主人公自身も、グランドホテルに逗留した当初は、部屋のカーテンをやはり開けない。反対に、その大きな紫色のカーテンが仕掛けてくる「攻撃」を前にして「反撃」する術もなく、ひたすら「おびえ、たえず、鼻をぐずぐずいわせる」だけとなる。主人公も多くのことが起きるであろう外の世界へまなざしを向けることが滞在当初はできないでいる。
2. 開けられるカーテン/窓/導き手たち
しかし、『花咲く乙女たちのかげに』巻末では、こうしてパリでの習慣に縛られ続ける逗留客たちを室内に閉じ込める大きなカーテンや窓の描写は見当たらなくなる。記憶によって思い出されるバルベック滞在のいくつかの重要な場面では、部屋のカーテンはそれまでとは異なる様相を見せ、開放的な時空間が広がる。
この変化を引き起こすのは、女中のフランソワーズである。当初、主人公は医師の指示に従い、大きなカーテンを「できるだけ長く閉めておくようにしていた」。祖母と主人公に同行する女中フランソワーズも布切れなどを重ね、過度なほど入念に主人公の部屋にカーテン越しに陽の光が侵入しないように独自の工夫を施す ―「朝の光が入ってこないように毎晩フランソワーズは自分にしか外せないようにピンでカーテン同士を重ね合わせ、さらにその上に毛布や、赤いクレトンのテーブル掛けや、あちこちから集めてきた布を何枚もあてがった」。ところが、である。コンブレでレオニー叔母の料理女でいた時と同様に、フランソワーズはバルベックでも不思議なことを引き起こしてしまう。厳重に目張りによって陽の光をふさいでも、どうしても光は部屋に差し込んでくるのだ ―「(フランソワーズは)それでも隙間を完全にふさぐことはできず、(・・・)隙間から漏れてくる光で絨毯のうえはアネモネの真っ赤な花が散ったようになり、私はいっときその花のあいだにそっと足を置かずにはいられなかった」。
バルベック滞在の主要な思い出として『花咲く乙女たちのかげに』掉尾で列挙されるのは、フランソワーズでも防ぎきれない陽光の室内への侵入と、それに応じる主人公の外部の陽光の下での歩行という主体的な選択だ。
さらにこの文は続く ― 「雲の切れ目から(・・・)陽光に照らされたリヴベルの小さな町が細部まではっきり見える」。バルベック中心グランドホテルの対岸の寒村でもあるリヴベルも重要だ。その寒村には画家エルスチールのアトリエがあり、リヴベルで主人公はエルスチールの海洋画から創作のヒントを学びとるからだ。エルスチールも、独自のアプローチを通して主人公を新たな創造へとうながす導き手なのだ。
巻末におけるバルベック逗留の記憶の列挙はさらに続き、アルベルチーヌ個人も思い出されるが、恋人としての、また嫉妬の対象としてのアルベルチーヌはここでは想起されない。画家エルスチールの知人であり、また音楽へ主人公を導こうとして次のようなことを口にするアルベルチーヌである ― 「『あたしたちよく見ていたのよ、あなたが(グランドホテルから)降りてこないかって。でも、鎧戸が閉まっていたわ、コンサートの時間が来ても』。実際、10時には私の窓の下で音楽演奏の音が鳴り響く」。とりわけ第五篇『囚われの女』において、アルベルチーヌは「見違えるように」変容し、主人公を芸術的なものへと誘う。アルベルチーヌのその精神的に成熟した姿のほうがここではすでに想起され、また予告されている。
列挙の最後に、フランソワーズが正午にふたたび主人公の部屋に現れ、今度は秘めてきた驚異的な腕前 ― コンブレやパリで発揮されてきた料理の腕前だけでなく ― を披露する。カーテンにあてがってきた布をはずし、窓をついに開ける。夏の日がミイラにも見えてくるが、彼女の創造的能力はさらに発揮される。死んだミイラと思われた夏の日は、彼女によってさらにそこから薄い布が丁寧にはがされてゆき。最後には香りたつ黄金の服をまとう姿で出現させられる。まるで夏の日は、彼女から新たな生を授けられたかのようなのだ。
「フランソワーズが明かり取りの窓につけたピンをはずし、あてがった布を取りのぞき、カーテンを引くと、むき出しにされた夏の日は数千年前の贅を尽くしたミイラのように死んで、太古から続くものに見えたが、フランソワーズはというとただそのミイラを包む薄い布をすべて注意深く一枚一枚はがしただけだった、ミイラはかぐわしい金の服をまとう姿で出現するのだった」。
『花咲く乙女たちのかげに』掉尾は、こうして老女中の何気ない生活の動作でもって生気溢れる輝かしい高揚に達する。霧がかかることが多く、くすんだ色調で語られ始めたバルベックは晴天の下で、創造的探求を実践するエルスチール、アルベルチーヌ、そしてとりわけフランソワーズによって主人公は精神的なものの習得へと導かれてゆく。
掉尾において列挙される滞在の記憶の中のバルベックは、『花咲く乙女たちのかげに』の要約でもあり、同時に『失われた時を求めて』全編の予告とも伏線ともなっているのだ。プルーストは、日常生活から大きく外れない領域において、時間や空間によって課される制約や束縛から解放される、いわば流動的な遠近自在の所に新たに創造的な世界を、フランソワーズの手も借りながら、構築しようとしたのだ。(拙書『受容から創造へ 文学・芸術に導かれて』作品社2024・10参照)。

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