【再掲】マルセル・プルースト『失われた時を求めて』通読のための道しるべ

 マルセル・プルースト失われた時を求めて』を読みはじめたが、あまりの長さに最後まで読み切ることができなかった、迷路にまぎれこんだようになった ― こうした話はよく耳にします。挫折せずに長編小説を読み進む、しかも味読する秘訣はあるのでしょうか。あります!などと大声で断言することはできません。でも、わたしなりの読書道しるべといったものでよろしければ、持ってます、とわたしは小声でお答えします。以下にその一端をご紹介させていただきましょう。迷宮脱出のためのアリアドネの糸が見つかることを願いつつ・・・。
 わたしは、2014年にフランスの権威あるプルースト研究誌Bulletin Marcel Proust (査問付き)に仏語論文 <Nommer dans A la recherche du temps perdu> を発表しましたが、その論文(一部省略)に長い日本語レジュメを付け、『失われた時を求めて』の読書案内としてこの記事の末尾にリンクを載せることにします。  この論文は『失われた時を求めて』の今まで論じられてこなかった主題を扱っていて専門性の高い学術論文ではあります。しかし、この論文には長篇小説を通読するためのヒントが含まれているので、それが道しるべとなって読者の皆さんを導くこともできると思います。
 仏語論文のタイトルを訳せば、「『失われた時を求めて』における名付け」となります。この長編小説における名前の問題は、以前からさかんに論じられてきました。私が論文で提示した新しいアプローチは、名前を<名を与える>という行為の観点から捉え直すことでした。ふつう小説では登場人物にはひとつの名前とひとつの性格が与えられ、それは変化しません。しかし、プルーストの場合は人物にいくつか複数の名前が付けられてゆくし、またその性格も時に大きく変化します。
ごくかいつまんで論文をまとめましょう ― 他者から新たな名前(姓をのぞいたファーストネーム、愛称、通称)が与えられ、それにともないその他者から芸術の創造性の可能性が示されると、呼びかけられた人物はそれに応えるようにして自己のうちに潜んでいた新たな可能性をみずから切り開こうと試みるようになります。名付けるという行為を通して名と創造性が与えられた人物は、それにうながされるようにして自らの内に潜む未知の素質を涵養し、自己変容を遂げ、主体となり創意に富む実践を行いはじめます。また、そうした自己変容を共通する根源的な主題とする寸劇は巻頭から巻末まで登場人物を変えつつ繰り返し演じられ、たがいにつながり小説の新しい時空間が編成されてゆきます。主人公の内面だけが独白される小説ではありません。
 長編小説通読のためのヒントが含まれているこの論文 ― フランスで予想外の高い評価を得ました ― に長い日本語レジュメを付けてブログに載せる次第です。

 <Nommer dans La Recherche (『失われた時を求めて』における名付け)>のレジュメ

@ 序曲としての就寝劇
 『失われた時を求めて』巻頭で展開される就寝劇は、オペラや劇作品冒頭で演奏される序曲に相当するものです。序曲にふさわしく、長編小説全体のあらすじを集約して予告する物語性と形式を備えています。
この就寝劇は次のように展開されます ― 母親は訪ねてきたパリ社交界の寵児スワンをもてなすために忙しく、部屋で待つ幼い主人公におやすみのキスを与えることができなくなります。キスを奪われることは幼児期の子供にとっては母親との身体的な合一が奪われることで、主人公は悲嘆にくれます。夕食の片付けがすむと母親はようやく主人公の部屋に入ってきます。息子を愛称である「わたしの金貨さん」、「わたしのカナリアさん」などと呼びかけてから、ジョルジュ・サンドの小説『捨て子フランソワ』 ― 主人公の誕生日のために祖母によってあらかじめ用意されていたプレゼント ― を創意に富む調子で主人公に読み聞かせます。その朗読の声は泣きじゃくる主人公を落ちつかせます。主人公は次第に母親の朗読の声に聞き入り、母親の声が小説の散文に新たな生命を吹きこんでいることに気づき、その状態に未知の心地よさをおぼえるようになります。すでに母親との関係が新たに結び直され、潜んでいた自分の資質が陶冶され、主人公が幼児期から脱皮しようとしていることが暗示されます。
 こうして就寝劇においては、主人公は他者性をおびた母親から名前でもって呼びかけられ、母から朗読という創意に富む声が贈与されます。孤立していた幼い主人公は、母親の音楽を思わせる朗読の声によって導かれ、幼児期の孤独から脱却し、新たな自己の可能性を主体的に探るようにうながされます。就寝劇は「新たな時代のはじまり」を告げ、新たな自我の誕生を予告する寸劇でもあったのです。母は平凡でもあったサンドの散文に、「どこまでもつづくいとしい思いのこもった一種の生命を吹きこみ」、主人公はその創造的な朗読に喜びをおぼえます。こうした経緯は、それだけでもすでに『失われた時を求めて』の主要な展開を暗示しているといえます。

@ 導き手としての祖母
 主人公に名を与え彼を精神的な成長へと導くのは、母親だけではありません。祖母や、恋人アルベルチーヌや、ジルベルトや、画家エルスチールや、作曲家ヴァントゥイユや、料理女フランソワーズなどもそうした重要な役割をはたしてゆきます。この人物たちも、小説の他の構成要素と関連しつつも就寝劇に類似する場面構成に従い、主人公を高揚する領域へと導いてゆきます。
 母親の分身である母方の祖母も、コンブレでの就寝劇における母親と類似する役割を避暑地バルベックで演じます。高級リゾート地の豪華ホテルの一室で主人公は孤立感を深めますが、その時無意識的記憶によって思い出された部屋の仕切り壁から主人公を愛称で呼ぶ祖母の声が響いてきます ― 「わたしのネズミさん」、「わたしのキャベツさん」。主人公を安心させとする、「すぐに行きますよ」という祖母の声も響くが、仕切り壁は次に祖母のピアノ演奏の音を伝えます。主人公は不安や孤独を忘れ、その精神を高揚させる場面が永遠につづくことを願うようになります。
 母と祖母によって演じられたコンブレとバルベックのふたつの場面は、無意識的記憶によって思い出されたものとして描かれていて、時間の流れによって消し去られない重要なものとして強調さています。コンブレの就寝劇もその直後にマドレーヌ菓子による無意識的記憶によって甦ってくるコンブレの全生活を先取るようにして描かれていますが、バルベックのホテルで主人公を新たな世界へ導こうとする祖母も同様に無意識的記憶によって甦ってきます。

@ エルスチールと名付けられる画家
 バルベックに向かう汽車の中で祖母は主人公に「エルスチール」という名前のすぐれた画家がいることを教え、その画業を高く評価します。エルスチールは小説に登場した時はサロンの軽薄な常連でしかなく、女主人ヴェルデュラン夫人によって「ビッシュ」と呼ばれていましたが、祖母はこのビッシュに新たに「エルスチール」という名前を与え、その絵画をセヴィニェ夫人の文学作品に比肩するほどだと主人公に語ります。祖母によってすぐれた画家とされたエルスチールは、社交界の花形ヴェルデュラン夫人たちが避暑を送るバルベックから離れた所にアトリエを構え、そこには傑作「カルクチュイの港」が置かれています。祖母にうながされてそのアトリエを訪れた主人公は、習作群や海洋画を見るうちにエルスチールの創意が、詩でいうところのメタファーによって現実を豊かに変貌させることにあることを学び取ります。エルスチールは、海には陸の用語を用い、陸には海の用語を用いて描いてました。物にそれまでとは別の名を与えて物を生動させ、新たな可塑性を付け加え、対象に「メタモルフォーズ」をうながしていたのです。また、彼の絵画は音楽や文学などの芸術のさまざまなジャンルの用語が使われて描写され、ジャンルを越えて息づく作品そのものとなって迫ってきます。

@ アルベルチーヌの登場と成長
 エルスチールは事物にだけでなく人物にも新たな名を与え、その人物に新たな可能性を付与し、人物像を変貌させます。「シモネ嬢」と呼ばれ、仲間とともにリゾート地で遊び、下品な表現も大胆に使う貧しいみなしごをエルスチールは「アルベルチーヌ」とアトリエで新たに名付けて、主人公に紹介します。アルベルチーヌは同性愛疑惑を主人公に抱かせ、嘘もつくなどして彼の嫉妬をかき立てつづけますが、しかしアルベルチーヌという名が与えられると、それ以降はエルスチールから学んだ物の見方を時として自分なりに応用して表現するようになり、主人公を驚かすようになります。彼女が示すようになった教会や地名や服飾への生き生きとした関心には、エルスチールから学んだ物の見方が独自の形にされて反映されています。さらには、その口癖から「さんざんだ」とあだ名されていたバルベックの無知で断言好きな青年に、アルベルチーヌは「オクターヴ」という新たな名を与えますが、それは「さんざんだ」というあだ名の青年が才能豊かな劇作家として成功する時なのです。名を与え、その当人に覚醒をうながすことは、エルスチールが行っていたことでもあります。
 小説から退出する母親や祖母に替わり、エルスチールから名をもらい創造性を発揮して自己変容するアルベルチーヌは、次第に重要な役割を演じるようになります。第五篇『囚われの女』のパリで主人公と同棲生活をはじめるアルベルチーヌは、それまで母親や祖母から愛称で呼びかけられ創造性へと導かれたものの無為な日々を送りつづける主人公に「マルセル」と三度呼びかけ、「マルセル」の前でラシーヌの劇『エステル』を引用したり、ピアノを演奏したり、すぐれた着こなしのセンスを披露したりします。そのことによって主人公マルセルから創造的な反応を引き出し、主人公を創造性を発揮するマルセルに脱皮させようとします。こうしたアルベルチーヌの姿が就寝劇を演じた母親に重なることにマルセルは気づきます。主体的な創作活動を一日延ばしにしてきた作家志望の主人公も、アルベルチーヌに「マルセル」と名付けられると、「以前のわたしとは別の名前を持つ新たな自我」が生まれのを感じ、彼女から届けられる創意に応える形で自らもピアノを演奏するようになります。また、サロンでヴァントゥイユの七重奏曲を聴き、楽節と楽節が相互に働きかけ合い、そこから楽節が他の楽節を活性化する関係の場が生成していることを聞き取ります。ここからは就寝劇での母親の朗読の描写に使われた表現を読み取ることができます。そして、「アルベルチーヌへの愛よりも神秘的な何か」が生まれてくることに気づきます。 先行作品ソナタを展開させた七重奏曲から得られる詩的な感覚が、恋愛における幻滅や嫉妬といった心理よりもはるかに長く持続することにマルセルは気づきます。

@ ジルベルト
 こうして主要人物たちは孤立せずに、たがいに離れて登場しても一連の人物群となって基本において共通する役割を演じます。愛情や性や社交界といった小説の他の大きなテーマにも関連しつつ多岐に渡って演じられる創造性への導きをマルセルは学び取り、自身の創造的実践を模索するようになります。
 こうした大きな流れに沿っていくつか傍流ともいえる脇筋も編まれてゆきます。たとえば、ジルベルトとその母親の関連がそのひとつの例です。ジルベルトは当初、「スワン嬢」として小説に登場しますが、その母親スワン夫人 ― 名もない大部屋女優であり元高級娼婦オデット・ド・クレシーでしたが、エルスチールは彼女の肖像画を描き、その絵に「ミス・サクリパン」という名を与えます ― からタンソンヴィルにある自宅のサンザシの生垣というやはり外部と接する所ではじめて、「ジルベルト」という名前でもって呼ばれ、そこを通りがかった主人公は「スワン嬢」の名前が「ジルベルト」であることを知ります。シモネ嬢がエルスチールによってアルベルチーヌとアトリエで呼び直される経緯と並行します。ジルベルトが現れるサンザシの生垣もやはり音楽や絵画の用語でもって描かれ、精彩に富む場面になっています。ジルベルトもアルベルチーヌと同様に教会巡りを行いますし、親しい友人の作家ベルゴットの作品を主人公に貸すなどして自分なりに彼を創造性へと導こうとします。主人公をエルスチールや作曲家ヴァントュイユへと導くアルベルトと同様に、です。さらにアルベルチーヌがパリで行ったように、ジルベルトも主人公の名前をシャンゼリゼ公園で呼びます。しかし、ここではその名前はついに表記されません。ふたりとも主人公の恋愛の対象ですし、こうしてふたつの恋は並行して展開されることもありますが、主人公を「マルセル」と呼んだアルベルチーヌに比べると、ジルベルトは副次的な存在なのです。

@ マルセルと名付けられる主人公
 マルセルはのちに母とヴェネチアに旅し、美術館でカルパッチョの『聖女ウルスラ物語』に描かれた年取った婦人を母親だと思います。また、同じカルパッチョの『悪魔に憑かれた男を治癒するグラドの総主教』の描かれたカルツァ信心会員のひとりにアルベルチーヌの姿を重ねて見ます。そうすることで、自分に名を与え創造性へと導いてくれた母親とアルベルチーヌを、今度はマルセル自身が名画に描かれた存在にまで高めようとします。主体となったマルセルは、母親やアルベルチーヌにならいながらも、それをここで愛情をこめて独自の表現にしてふたりに働きかけています。こうして母親とアルベルチーヌは芸術作品の輝く存在となって生きつづけることになります。すでにアルベルチーヌと祖母は死に、死や忘却が広がりますが、そうした時間の流れにさからようにして創意による永続性が登場人物に与えられます。

@ 巻末における『捨て子フランソワ』
 最終篇『見出された時』の巻末近くでマルセルは、ゲルマント大公邸の午後の集いに行き、サロンに入る前に無意識的記憶を立てつづけに三度おぼえますが、その直後大公邸の図書室で小説『捨て子フランソワ』を見つけ、コンブレの就寝劇で母親によって夜通し朗読された小説を思い出します。就寝劇で朗読された本は、「もっとも素晴らしい光を浴びて発見されたが、その光はたんに昔から模索をつづけてきたわたしの思考だけでなく、わたしの人生の目的までも、そしておそらく芸術の目的さえも不意に照らし出した」。創造的主体を獲得し創作に打ちこもうとようやく決意するマルセルは、就寝劇で朗読された小説が幼児期からの自らの変容の軌跡を集約するものであることに気づきます。就寝劇で朗読された『捨て子フランソワ』は『失われた時を求めて』全編の展開を予告する序曲ですが、巻末にふたたび現れて、今度は『失われた時』の主要な展開を記憶によってマルセルに明示します。巻頭から展望へと、また巻末からの回顧へと向けられるふたつの照射によって、間隔をおいて断続的に反復されてきたいくつかの名付けの場面はたがいにつながります。また、母親が巻頭のおいて朗読で行ったことを、今度はマルセルがその創造性を独自の形に増幅させて巻末において実践しようとしていることになります。

@ 孤立する姓や称号
 成長の軌跡を描くこの教養小説 ― 外部からの働きかけを受けた主人公の内面の発展を描く長編小説で、ビルドゥングス・ロマンともいわれる ー には、その流れに逆らい抵抗する人物たちも描かれます。慣例に従い固定化され不動のものと思いこまれてきた大きな姓のほうは、そこに近づくうちに、姓に含まれていた魅力を次第に失ってゆきます。たとえば、憧れていたゲルマント公爵夫人も画家エルスチールをひどく嫌い、最後には自分の名前さえ失うように書かれています。ゲルマント公爵夫人はそっけない性格を露呈するだけでなく、アルベルチーヌが共感を寄せる元売春婦が女優として評価され、「ラシェル」という新たな名を得ても、その新しい名前を無視し、「あの淫売」、「ユダヤ女」などとかたくなに侮蔑的に言いつづけます。大ブルジョワジーのサロンを取り仕切るヴェルデュラン夫人も、自分のサロンの軽薄な常連だった「ビッシュ」あるいは「ティッシュ」が画家「エルスチール」となって成功しても、ビッシュを「エルスチール」と言い換えることを拒みます。ヴェルデュラン夫人は三度目の結婚によって対立関係にあったゲルマント家に嫁ぎ、姓をあっさり置き換え、いつのまにか「ゲルマント大公夫人」になりますが、あいかわらずサロンを取り仕切ります。また、ブロックは姓も名前も「ジャック・デュ・ロジエ」にひとりで勝手にすっかり置き換え、貴族のサロンに足繁く通います。イギリス紳士然として振舞い、一見成功した劇作家に見えます。しかし、彼はその実マルセルの著作を剽窃をする出世主義者にすぎません。
  登場人物が名前を新たにもらい成長する場面は、小説全篇を通して間歇的に変奏されつつ反復されてゆき、脇筋もそこに加わり大きな広がりが編まれてゆきます。その一方、貴族などの姓や称号の慣例によって不変と見なされてきたものの魅力は、そこに近づくにつれ相対化され次第に色褪せたものになってゆきます。恋愛や社交界のような大きな場面のあいだに挟まれたような所で演じられる名付けの寸劇は共通する展開を見せ、たがいにつながり、声量を増し舞台前面にせり出してきますが、一方それとは逆にそれまで舞台中央を占め、安定し不動とも思われてきた大きな姓のいくつかは固定されたまま変質し、その立場をあやうくしてゆきます。称号のついた姓などの社会上の立場のゆらぎにもわれわれは立ち会うことになります。称号と姓の継承には何かしら痛々しいものが感じられる、とプルーストは書いています。なお、主人公マルセルの姓はついに明らかにされません。

@ 芸術作品
 この小説では芸術作品が重要な役割を演じます。芸術は受容と創造性との関係性において描かれ、しばしばジャンルを越えて描かれる作品は創造的主体によって実践され、それを受容する者によってさらなる創造性は、この小説特有の構成に従って追求されるものとして表現されます。
その創造性は、芸術家個人の独創として発揮されるものではなく、また偶発的にもたらされる天啓のようなものでもありません。

@ 顕微鏡と望遠鏡
 名をもらい、それに応えて数次にわたって脱皮し自己変容する一連の人物たちを追うためには、微視だけでなく巨視も必要となります。プルーストは最終巻『見出された時』で、顕微鏡だけでなく望遠鏡も使って『失われた時を求めて』を読んでほしいと読者に呼びかけています。
細部の表現にも特有の輝きを放つ小説ですし、細部の描写を読んでいるとまるで投げた投網をたぐる時のような手応えをおぼえることもできます。しかし、同時に人物群が時間とともに変容し展開されてゆくのを大きく俯瞰するような視座からながめることもできるのです。これはこの小説が与えてくれる大きな、そして稀有な楽しみでもあります。  
以上                    
                                               
 『失われた時を求めて』の翻訳について論じることは、このブログの主旨ではありません。しかし、せっかくの機会でもあるので、仏語論文で引用した『失われた時』の原文だけに限り、その翻訳がはらむ問題点についても触れておきましょう。

 就寝劇が『失われた時』の序曲であり、そこ演じられる劇が小説全編にわたってライト・モチーフともなって次第に大きく展開されてゆくことは論文で詳述しました。しかし、既訳のひとつではこの就寝劇(drame du coucher)が「就寝の悲劇」と訳されています。この小説全体の調子を予告する劇が「悲劇」であるという解釈には違和感をおぼえざるをえません。
 また、豊かな芸術的感性に富む母親も祖母も、上述したように、愛称で主人公を呼び、受け身の彼を創造的受容へと導きますが、この際に繰り返される愛称が一部訳されていない邦訳があります。その後も反復される特徴的な呼びかけなので、省略することなく訳出するべきだったのではないでしょうか。
 また、ジョルジュ・サンドの小説『フランソワ・ル・シャンピ』の題名は、champiという普通名詞をそのまま訳し、『捨て子フランソワ』としたほうがプルーストの意図が伝わる邦訳になったのではないでしょうか。最終篇『見出された時』のなかで、執筆しようとしている小説についてマルセルはこう語っています ― 「小説のエッセンスは、『捨て子フランソワ』という名前に含まれている」。名もない捨て子に里母が「フランソワ」という名を与え、そのフランソワは成長してゆきますが、こうした展開は基本において『失われた時』全体の展開さえ暗示しています。ちなみに、サンドのこの小説のタイトルは既訳ではchampiが訳されていて、『棄子のフランソワ』と訳されています。
 また、主人公の名はマルセルではなく、全篇を通し一貫して無名でありつづけると主張する邦訳もあります。アルベルチーヌが主人公に「マルセル」と呼びかける第五篇『囚われの女』の三箇所は、これをすべて削除するべきだ、プルーストがもう少し生きながらえていたら自身の手でこの「マルセル」はすべて削除されていたはずだという主張です。この大胆な<主人公無名説>は長いあいだ流布しました。しかし、その後広範に集められた当該箇所の草稿群の調査研究によってこの無名説は否定されることになりました。
 わたしも以下の仏語論文において生成研究とは異なった観点 ― つまり小説の全般的展開の多面的考察 ― からこの<主人公無名説>を再検討しました。その結果、上記のレジュメでもお分かりのように、この<主人公無名説>は否定せざるをえませんでした。この<主人公無名説>では、調査した草稿類がかなり限られたものであったし、またとりわけ小説全般における根源的な展開が考慮に入れられていないからです。

論文<Nommer dans A la recherche du temps perdu>改訂版へのリンクです。
https://drive.google.com/file/d/1OWWyaAlXDg4_sAhWcBVhk3qzI6VGmyls/view?usp=drive_link