本書「謎とき」の前半と後半で論じられている二点に絞って、感想を述べたい。本書の後半で著者は、主人公と母親がヴェネチア滞在中に訪れる洗礼堂の場面(第6篇「消え去ったアルベルチーヌ」)に注目する。このサン=マルコ寺院では、母親は聖母のイコンとして描かれ、母の聖別式も行われたと著者は主張する。また、聖別された母親のモデルを実際に当地に出向いて探した著者は、それを洗礼堂内で突き止め特定することができたと主張する。
しかし、先を急がずに、まずは母と息子のヴェネチア滞在の場面の最後の文を引用しよう。
いまその洗礼堂とモザイクを思い浮かべると、ひんやりとした薄明かりに包まれて私のかたわらにひとりの婦人がいたことを無視するわけにはゆかない。それを大切に思う時が今ややってきた。ヴェネチアにあるカルパッチョの描いた「聖ウルスラ物語」のなかの年とった婦人のように、うやうやしくも熱狂的な心をこめて喪服に身をくるんだ彼女は、頬を赤くして、悲しげな目つきで、黒いヴェールを垂らしている。(・・・)まるでモザイクと化したように、そこに彼女用の不動の席が確保されているのだから、今でもサン=マルコ寺院に行きさえすればかならず彼女に再会できるだろう。この婦人は、私の母なのだ。
カルパッチョ「聖ウルスラ物語8:巡礼者たちの殉教と聖ウルスラの埋葬」(部分)
「謎とき「失われた時を求めて」」の著者芳川氏は、この箇所を前後に渡って長く引用し、またプルースト自身による実際のヴェネチア滞在記録やそれに関する個別研究論文も踏まえたうえで、このサン=マルコ洗礼堂内にいる「ひとりの婦人」である主人公の母親は、洗礼堂内の「イコン」として見なされるべきであり、さらには洗礼堂という「聖域」では、母親を神にささげて「聖なるもの」にする「聖別式」が行われていると結論づける。母はここにおいて超越的で絶対的な存在に収斂され、聖母にまで高められることになる。
こう解釈した著者は「矢も盾もたまらなくなり」、そのイコンを実際に探し出し、この目で見て確かめようとヴェネチアへの旅を思い立つ。そして当地で母である聖母が、洗礼堂祭壇のモザイク画に描かれている聖母のことだと断定する。
しかし、このあたりで文章が突然旅行記風の調子に変わってしまっていて、現地での性急なモデル探しは客観性を欠くものとなってている。モデルを特定する根拠が十分ではない。
急ぎ足のモデル探しに立ち会う前に、少し立ち止まって考えたい。
そもそも母親は「イコン」に回収され、ヴェネチアで「聖母」として崇められるようになってしまう存在なのだろうか。主人公が母親を聖母と同一視するとしたなら、主人公はここで作者プルーストが避けてきた偶像崇拝の見方をあえて肯定し踏襲することになるし、プルーストに反して作品に求心的に自己同一してしまう態度をとることになるのではないだろうか。
まずは、ヴェネチア滞在中の母の描写を読み返してみよう。母はたしかに洗礼堂内で喪服を着て敬虔な態度でいるが、母の演じる役目はそれだけではない。母は他方で、すでに取り掛かっている主人公の仕事が進捗するように多方面に気をくばっている。また自らカルパッチョの絵画「ウルスラ物語」 ― 洗礼堂ではなく、アカデミア美術館に展示されている ー に描かれた婦人に例えられるようになり、その芸術作品としての高みに主人公が注意を向けるようにうながしてもいる。また、母は洗礼堂内のモザイク画に見入る主人公の肩にショールを掛け、彼の芸術受容の姿勢の継続を励ましてもいる。(同様の仕草はそれ以前にも書かれている)。母をイコンや聖母にここで一気に昇華させてしまうことはできない。
洗礼堂自体はなるほど元来聖別式が執り行われる場所でもあるが、プルーストはここをたんなる「歴史建造物」とは見ていない。むしろコンブレでの生活を思い起こさせる所であり、俗なる生活にも開かれた場所としても描いている。寺院は聖域として内部に閉じるのではなく、周囲の海と「分割できない生きた全体」を形作っている。聖なる内部は俗なる外部と隔絶されることなく、その間には豊かな相互浸透が起きている。
この洗礼堂の場面の直後に、「祭壇の彫刻」の美について考察がめぐらされている。しかし、そこでもその立派な祭壇彫刻固有の「永遠の美」だけが描かれているわけではいない。むしろ、地方の古びた教会の木製の祈祷台につけられた名札から教会の周辺にいる「ぴちぴちした田舎娘たちの顔を想像する」楽しみのほうが述べられている。
母も祖母も篤い信仰の持ち主としては描かれていない。プルースト自身もキリスト教の熱心な信者ではなかったし、第一、母親ジャンヌはユダヤ人で、カトリックの信者である夫と結婚しても、生涯カトリックに改宗しなかった。それに、母が信仰するユダヤ教では偶像崇拝は避けられていたし、声による対話のほうが重んじられ実践されていた。プルーストは、表現レベルではキリスト教の用語を独自の形にして使ったが、「キリスト教的象徴主義を自分のものとして使うことはない」(フィリップ・ルジュンヌ「エクリチュールと性」)。
なるほど、小説では母は祖母の死をいたんではいるが、ここで母は過去にだけ意識を固着させてはいない。母は同時に同行する息子マルセルに働きかけて、その精神上の成長を願っている。母はここでもマルセルっを誘い教導する役も演じていて、未来へ向かう利他的な行為も行なっている。
このエピソードの最後の文において、主人公は洗礼堂内の自分の脇にいる婦人についてこう言う ― 「この婦人は私の母だ」。これは重要な発言だ。ヴェネチア滞在中に母が主人公に投げかける芸術的な活動への誘いや勧めを主人公はここにおいてようやく聞き止める。祖母からの影響もあり、母は自らも活発な精神活動を行うが、それを今度は主人公に届けようとする存在としての母を ― 幼児期の自分を保護してくれる絶対的な母性としてではなく ― 芸術的な実践へとうながしてくれる新しい母としてようやく再認したのだ。そして、その出会い直した存在を、「私の母だ」と新たに名付け直し、向き合おうとしている。洗礼堂にいるひとりの婦人は、イコンでも聖母でもないはずだ。彼女は、社交界に出入りし恋愛においては嫉妬に苦しんできた主人公に新たな芸術的な実践を呼びかけ続ける母なのだ。そのことに気づいた主人公は、小説巻頭の就寝劇以来母や祖母から直接間接繰り返し発せられてきた声を芸術的なるものへのうながしとしてようやく受け止め、自らもそれに応じようとする。作家志望という漠とした夢から目覚め、言葉を得て創作を意識する語り手に脱皮しようとする。そして、自らも言葉を ― まだ一時的な覚醒ではあるが ― 現在形や未来形の動詞も使いながら発する。無名だった主人公は、恋人アルベルチーヌから「マルセル」という名を与えられ、ここでは母と新たに創造へ向かう関係を築き、主語という実在を得て、動詞を繰ろうと試みている。言語の獲得は、主人公ひとりの意思によって得られるものではなく、母や祖母という他者たちによってっ繰り返しうながされて形成されてゆくものなのだ。
母は祖母の死をいたみ、また同時に主人公の自覚をうながすという過去と未来に向かう役割を演じ、
主人公を導くものの、彼のほうは一面ではその母にいわば抵抗する面をまだいくつも見せる。ヴェネチアのドリニィのプールの描写は、主人公が逆に母親に対してまだ時おり胎内回帰という密かな幼児性の願望を抱くことがあることを物語っている。彼は成長どころか幼児期に退行する危惧をまだ抱かせる人物でもあるのだ。また、洗礼堂の場面後の第6篇「消え去ったアルベルチーヌ」巻末では、ピュットビュス男爵夫人の小間使いにかつて覚えた性的欲望が主人公に再燃する。ヴェネチアを離れパリに帰ろうとする母親に逆らい、母に同行することを拒んでヴェネチアにひとり残り、小間使いと性的な快楽にふけろうとする。コンブレの就寝劇前半で見せた母への攻撃性と反抗が甦りそうになる。しかし、葛藤を覚えつつもそうした危機や試練を主人公は最後になってかろうじて乗り越え、母と一緒にパリに戻ることにする。主人公は次の最終第7篇「見出された時」においてふたたび創作へと誘う母親と向かい合い、そしてコンブレの就寝劇で耳にした母の朗読の声に自らも応えようとすることになる。
これは小説巻頭の就寝劇に対応する展開だが、こうしたスケールの大きな構成は、母親がヴェネチアでイコンや聖母に固着されてしまうと、起伏に富む動的なものとしては機能しなくなってしまう。母親も祖母も多面的存在だが、潜在的レベルで一貫して主人公に働きかけ、その創意を呼びさまそうとし続ける存在であるはずだ。母はまだ聖別されないし、聖母にも昇華されないはずだ。
このヴェネチアの洗礼堂の場面の前に、それに類似するもうひとつの場面が先行して書かれている。「心の間歇」(第4篇「ソドムとゴモラ」)と題された一章がそれだ。「心の間歇」では、母の分身である祖母の最後の日々も描かれる。パリで瀕死の状態に陥った祖母の荒い呼吸音は、主人公に祖母の真の心情を伝える「歌声」となって呼びかけていた ― 「私たちに言うべきすべてのことが、さながら祖母からあふれ出てくるようだった」(第3篇「ゲルマントのほう」)。祖母はその時「長々と熱をこめて、私たちに心情を吐露しているようだった」。そして、その歌声は、部分によっては作曲家ヴァントゥイユの音楽のように聞こえてきた。また、臨終の祖母は、「中世の彫刻家」によって彫られた「若い娘」の姿ともなっていて、これも強い印象を読者に残す。
祖母も作曲家ヴァントゥイユや中世の彫刻家の作品を体する存在となり、その芸術作品によって主人公をうながそうとしていた。パリの主人公一家のアパルトマンの一室においても、祖母は死の苦しみさえも乗り越える創意に富む精神の働きかけを枕元にいた主人公に届けようとしていたのだ。それは「私にしか読めない言語」で書かれていたが、存在の根底から発せられるその祖母の言語を無意識的記憶(「心の間歇」)によって受け止め、触発される主人公は、それに応えて今度は自自身も言葉を発しようとする。
「彼女は私の祖母であり、私は彼女の孫なのだ」。これもすでに自らが語り手になることを自覚する発言であり、この時の目覚める「私」は、一時的な変貌であるにせよ、すでにそれまでの寡黙な主人公ではない。この発言は、上述した洗礼堂内で母親に向けて主人公が語り手のように言った、「この婦人は私の母なのだ」と同工異曲のものなのだ。作家志望でありながらその夢を実現する術を見出せなかった主人公は、こうして時に母や祖母に話しかけるように言葉を話し、まるで語り手のように変貌(メタモルフォーズ)をする。主人公はここでたんに親子関係の血筋を確認しようとしているのではない。喪失や忘却の淵に沈みこみそうになりながらも、創意によって新たな関係性を母とも祖母とも築こうとしている。主体になり、言葉をすでに獲得しようとしている。
「失われた時を求めて」では利己的な愛、またそれに伴う嫉妬も長く描かれるが、その愛は利他的な愛と切り離せないものなのだ。母や祖母とふたりに時間を置いて間欠的に何度も向かい合う主人公は、互いに創意をもって働きかけ合う実践の関係によって結ばれ直される。
主人公の私は自己完結していないし、ただ独白をする独我論の私ではない。他者と創造へ向かう関係性を新たに作ろうとする私だ。「失われた時を求めて」の出発点は、「サント=ブーヴに反論する」の母との対話にあるのだ。
「謎とき」の著者芳川氏が注目するヴェネチアの洗礼堂の一場面の解釈も、反復や記憶や変貌といったものが描く軌跡を長く追う読みこみが行われてはじめて説得力に富むものになる。時間を止めて登場人物を一気に抽象的なモデルに還元するのであれば、長編小説は狭く限られた展開しか示すことができず、暗示され示唆されているものは顕在化されないままになってしまう。
この書評で取り上げる第二の点は、「謎とき」前半で長く論じられている隠喩のことである。プルーストが重視する隠喩表現を、著者はさまざまな描写に認め、それらが互いに「描写のネットワーク」を形成してゆくとする。隠喩表現を言語の個別研究の枠にとどめておくのではなく、隠喩がネットワークのように互いに動的につながってゆく、それも広範囲にまで広がると指摘する。この見方は興味深い。
例えば、著者は第二編「花咲く乙女たちのかげに」で、バルベックに向かう汽車の車窓両側から見たふたつの「朝の光景」と「夜の村」がプルーストによって同じ画面に「並置」されると指摘し、これは異なるものの「共存」であり、隠喩だとする ― 「異なるものどうしを等価性によって結ぶこと、つまり隠喩」。この隠喩は、バルベックに登場する画家エルスチールのものの見方の根本を表現する隠喩でもあるとする。
著者は長い引用を数多く羅列してゆくが、突然、原典の文末脚韻の手短な分析に取り掛かったりするので、いささか驚く。正直言って、どこか腑に落ちないし、釈然としない思いが残る。プルーストの言う隠喩は、著者の言う隠喩とは微妙にズレているのではないだろうか。著者によれば、プルーストが重視する隠喩は同じ画面内での「並置」であり「共存」であり。異なるもの同士は互いに積極的に関与せず、静止した状態で並べられているだけとなる。
しかし、プルーストの言う隠喩の場合、異なるもの同士の関与はより動的に行われるはずで、異なる両者を隔てる境界線は取り払われ、両者からはそれまでになかった新たなものが生成し、発見されようとしている。プルーストは、隠喩は「メタモルフォーズ」だとする。つまり第三のものが創出され、「再創造」されようとする ― 「海が陸に食いこみ、陸がすでに海となる」ような絵画だ。
著者はエルスチールの代表作の海景画を、並置されていたものを「錯視」によって異なったものに見せ、「海を陸に、陸を海に見せる」「錯視」がその基本となる絵画だとする。しかし、エルスチールが描いたのは、海と陸がその双方から境界線を越えて継続して混じり合うような、より躍動感溢れる絵画であるはずだ。船が出入りし、立ち騒ぐ港湾全景の活気あふれる活動から生気に富む、いわば第三のものが生起されようとしている ― そんな光景が想像される。海や陸はすでにその個別の固有性を失っているだろう、印象派画家モネの海洋画が思い浮かぶはずだ。最終篇「見出された時」でプルーストは隠喩の重要性についてまとめている ― ふたつの感覚に共通な特質を見つけ、それらをひとつの隠喩のなかで結び合わせる。そして、「それらに共通する本質」を引き出すこと、そこからは真実が生まれる、と。
従来の古典的な言語学の隠喩解釈が、修辞レベルにおける一方から他方への全的な「置き換え」や「代入」の分析にとどまっていたのに対して、プルーストはその枠を広げ、隠喩には新たなものを発見し発掘する可能性があることを指摘した。
繰り返すようで恐縮だが、平均的な小説の十倍もあるこの長大な長編小説の場合、引用や個別専門研究(モノグラフィ)や訳註は、間欠的に反復されるテーマを追い、小説の総体的な把握や理解がなされてこそはじめて説得力に富むものになるだろう。
(なお、著者芳川氏は、「失われた時を求めて」の主人公「私」が無名であることを繰り返し指摘している。しかし、この、<「私」無名論>は現在では否定されている。この点については「『失われた時を求めて」 対話的創造のほうへ Ⅱ 恋人アルベルチーヌ もうひとつの愛 2/4 を参照されたい。)