上の写真は左から、
展示会案内状、作品「風と共に去りぬ」、作品「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」
小林雅子さんの作品 ― アート作品と呼ぶべきか― の一部は当ブログのタイトルバックとして掲載させて頂いています。
6月のとある日、小林雅子さんの展覧会を東京銀座のど真ん中にある小松庵総本家銀座に観に行きました。小松庵はお蕎麦屋さんですが、17時までは展示会場・サロン会場として開放されています。展示を観たあと、お蕎麦屋さんに変わった会場でおいしいお蕎麦も食べました。
本が大好きな小林さんは、鋭利なカッター・ナイフを握りながら、本の急所とも思われる所へ踏みこみ、そこに切り目をつけます。切り開かれた所は、窓に、穴に、ドアに、隙間になり、わたしたちをその奥へと誘います。本のページの下に秘めれられていた、今まで気づかなかった魅力が垣間見えてきます。
ふだん、本には活字がおとなしく整然と並べられていて、読者は静かにページの平面を追ってゆきます。目は線状に並べられた文章の上を滑ってゆきます。しかし、小林雅子さんはそのページの下に隠れ潜んでいるものにまで目をこらします。ページに窓を、隙間を開け、そこから湧き出してくる熱や、香りや未知の形までも受けとめ、それにページの紙でもって形を与えてゆきます。
本には壺が潜んでいるのです。その壺とも殻ともいえるものにつけられる切りこみからは、字面を追うだけでは得られなかった多様で強烈な何かが溢れてきます。背紙から何かがこちらに迫ってきます。本の読後感といったものだけにはとどまらないものが強いインパクトとなって伝わってきます。わたしたちは少しあわてて、整理済みとばかり思いこんでいたその本の読後感を思い起こし、その再点検に取りかかりだします。
本の急所に潜む壺につけられた切り口からは、次々と斬新なイメージや、特有の音や、貴重な肌触りなどが溢れてきます。謎めいた動物の骨片まで飛び出します。それらは小林さんの箱状の作品さえも無視する勢いで湧出し、わたしたちの目の前に迫ってきます。額縁からもはみ出してきます。本はただおとなしく読むためだけの、つつましい外見をなくしています。わたしたちはいつしか受動的に享受する読者といった規定など忘れてしまい、次々と現れてくる本の秘密の世界と交信を始めています、身を乗り出して。
ページに開けられたドアや隙間からは、春琴の周囲で点滅する真っ赤な色や、『風とともに去りぬ』の家を取り巻く綿花や、『幻獣図鑑』の幻獣たちの匂いまでもが立ち広がります。ページの紙が作品の素材として使われているので、ページをめくった時の感触の記憶が、小林さんの作品から露出するものを現実感に富む確かなものとしています。
谷崎潤一郎『春琴抄』に切りこみを入れて作った作品に小林さんはこういった文をつけています ー 琴柱をイメージしたものをページに挟むことで、本の途中に空間ができる。その空間に椿を入れてみた。赤は、文庫本の表紙と椿の赤。本に開けられた隙間は、和室の格子窓のイメージ。その格子の奥に、永遠に美しく激しい春琴が座っていてほしい・・・。(「作品解説」)
この赤は鮮烈です。奉公人佐助は、時に矯激になる盲目の琴の師匠春琴の美しい姿を脳裏にとどめようと、縫い針で両目を突き、自分も盲目になろうとしますが、赤はその時飛び散った鮮血の色でもあり、『春琴抄』そのものの凝縮された色です。それに、春琴の墓とそれに寄り添う佐助の墓の脇には、赤い椿が咲くといわれています。この赤はさまざまな思いを呼びさましかき立てます・・・。
楽しい思いへ連れていってくれる作品もあります。バーネット『秘密の花園』では、庭の奥の奥にある花園へとひとつひとつ鍵を開けて分け入ってゆきます。秘密の花園に近づくと、わたしたちは閉ざされ気味だった感受性が解放され、心が広がるのを感じます。花園の風や香りが紙質の感触とともに伝わってきます。本をただ読むという行為からだけでは味わうことができない生々しく多彩な追体験をすることができます。
大作マルセル・プルースト『失われた時を求めて』は箱のような大きな額に入れられています。文庫本の並べられた背表紙が、ピアノの鍵盤に見立てられています。そうです、作中に聞こえる作曲家ヴァントゥイユのソナタは主人公を導く重要な役割をはたします。作品上部には、見開きの文庫本が羽根を広げて飛び立とうとする鳥のように見えます。ライラック、忘れな草、そこから黄色い蝶が舞い上り、全体が額縁から溢れ出ようとします。
確かに、この『失われた時を求めて』では、作家志望の主人公の精神的成長をうながす作家ベルゴットの著作は、作家の死後、翼を広げた天使のように本屋に置かれ、ベルゴットの通夜をします。その飛び立つかのような著作は、亡きベルゴットの甦りの象徴です。小林さんの共感と批評に支えられた選択は鋭かったのです。小林さんが作ったピアノの鍵盤といい、飛翔するような見開きの本といい、これらはいずれも『失われた時を求めて』の重要な構成要素なのです。本にたいする愛着に支えられた問いかけ、本の真髄へ向けられる真摯な問いかけに、本が反応しています。思わぬ姿を出現させています。
本の読後感といたものが、おおいに刺激され再活性化されるはずです。<教養のために読むべき書籍一覧>といった安直なラベルを貼って標本化して満足してきた怠惰な読書の態度に、強い揺さぶりがかけられます。眠りこんでいると思いこんできた本たちは、実はその背後からまだまだ強い生きたシグナルをわたしたちに送りつづけているのです。いつのまにか、再読に誘われている自分がいるではありませんか・・・。
追記
作品を観たあと、美味しいお蕎麦もいただきました。作品を鑑賞してから、あまり間もおかずにお蕎麦を味わうことになりましたが、どういうわけかその両者 ― 芸術作品と料理 ― がしっくり自然につながりました。
そうそう、プルーストは、料理女フランソワーズが腕によりかけて作る日曜日の途方もない量の大盛餐を、音楽や絵画といった芸術作品にたとえました。
また、プルーストは書いています、芸術家が死ぬとうっそうとした草が生い茂る。しかしそれは忘却の草ではない。豊かな新たな生の作品が作られる草なのだ。その草の上に後の世の人々がやって来る。そして、陽気に楽しむことになるのだ、彼らの「草上の昼食」を、と。
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