「失われた時を求めて」第1篇「スワン家のほうへ」を読む

 「失われた時を求めて」の第1篇「スワン家のほうへ」を読む愉しみはどこにあるのだろうか。第一部の田舎町コンブレや第三部のパリの平凡とも見える日常の描写にも魅力は潜んでいる。その生活描写には実は主人公を創造行為へと誘い導いてゆく力が底流となって潜んでいる。読者は推理や記憶を刺激され、共感をおぼえながら創造へと向かう長いプロセスを追い始める。
 「スワン家のほうへ」冒頭からエピソードをいくつか選び出し、それらがどのように反復されつつ長編小説全般におよぶ底流を形成してゆくかを見てみよう。(なお、邦訳では第一篇のタイトルが「・・・の方へ」と訳されることが多いが、ここではひらがな表記を使用したい。第一篇の仏語タイトルは、Du côté de ・・・であり、これは地方特有の話体表現だからであり、これを生かすにはひらがな表記のほうが適しているからである。)

 第1部 コンブレ
 「スワン家のほうへ」冒頭近くで、母親に勧められて紅茶に浸したマドレーヌ菓子を口にした主人公は、その味と香りに刺激され、かつて少年時代に同様にマドレーヌ菓子を勧めてくれたコンブレのレオニ叔母の寝室を思い出す。有名な無意識的記憶の場面。以下に引用するのは、思い出された日曜日のレオニ叔母の部屋の描写だ。なんでもない散文のようだが、そこではコンブレの人物たちがその後に起きる無意識的記憶を連携を取りながらすでに準備している。複数人による活発な実践の場面は、その後に母親によって引き起こされる無意識的記憶が、レオニ叔母の寝室の延長で起きたのだという印象を読者に与える。

 女中のフランソワーズが叔母の紅茶を淹れるが、叔母は気がたかぶっていると感じると、紅茶ではなく、例のハーブ・ティーを欲しがる。そんなときには、菩提樹の花を薬袋から必要なだけ取り出し、皿に載せ、それを熱湯に入れるのは、私の役目だった。(・・・)やがて、叔母は枯れた葉やしおれた花の風味を十分に味わってから、その沸騰したハーブ・ティーにプチット・マドレーヌを浸し、それが十分にやわらかくなると、それを私に差し出すのだった。

 無意識的記憶は、主人公一人の内面に特権的な瞬間となって前後関係もなく一回性の偶発となって啓示や救済のようにもたらされたものではない。上の引用文でも明らかなように、レオニ叔母や、女中フランソワーズや、まだ幼かった主人公までが参加して、実践し協力しあうコンブレの活発で感覚豊かな場が無意識的記憶の前座として組まれていた。いわば、お膳立てがなされていた。
 また、無意識的記憶によって思い出される過去は叔母の寝室にはとどまらずに、「コンブレ全体」にまで広がってゆくが、これもレオニ叔母の部屋が、コンブレという町のさまざまないとなみを事前に取り込み、外部の諸活動を集約し、さらにはそれらを賦活させる場になっていたからなのだ。なにしろ、叔母の部屋には「果物が果樹園を離れたあと、(・・・)絶品の透明なゼリーとなって戸棚にしまわれた匂い」が漂うだけでなく、季節の香りも「家具と化して家の一部」となり、村の大時計も「暇そうだが、几帳面な匂い」となって部屋の中にまで浸透する。部屋はコンブレの聖なるもの俗なるものが匂いとなって充満し、「汲み尽くせない巨大な詩の源泉」となって高められ、人を養う場であるかのようになっていた。外部のさまざまなものが集約され、それらの中心である菩提樹の薬袋のほうにわれわれの関心はまず向かう。
 コンブレの香りは寝室におとなしく収納されたままにはならない。部屋に来るコンブレの人たちによって、さらに付加価値をつけられ、次の人に手渡されてゆく。まだ幼い主人公もすでにその活性化作業に参加する。レオニ叔母に言われて、コンブレの菩提樹のハーブ・ティーの薬の袋をあけ、その花を取り出し、皿に載せ、熱湯の中に入れる。そして、「駅前大通りに植っているような正真正銘の菩提樹の茎」にぶら下がっている「小さな金色の薔薇に似た花が、はっきり浮き出る」のを熱湯の中に認める。衰えているものの、その薔薇色の花を、「なかばまどろんでいる」生命の色だとみなす。主人公は干からびた菩提樹の花を枯れたとは思わず、「まどろんでいる」と思う。消滅したものなのに、すでに隠喩を使って再活性化しよう、賦活しようと試みている。レオニ叔母も、コンブレのさまざまな香りをただ収納にしまい込むだけではない、菩提樹の枯れた花や葉がふたたび放つ風味を味わう。そればかりか、そこにマドレーヌ菓子を浸し、やわらかくなるのを待って、それを主人公に差し出す。叔母も彼女特有のやり方で消滅したものをふたたび生動させ、その後に引き起こされる無意識的記憶をすでに同様の手順で演じていた。部屋に閉じこもり、寝たきり状態とも言えるレオニ叔母も、母親と同様、意外にも主人公をより積極的な活動へとうながしていた。無意識的記憶は、個人の内面にだけ起きる一回性の特異な現象ではない。この記憶が甦るためには、その前段階において叔母をふくめた幾人ものコンブレの人たちや事物たちの積極的な関与が必要だったのだ。
 甦ってくるコンブレは、日本の水中花のプロセスにたとえられる。折り込まれていた水中花の和紙は、瀬戸物の茶碗の水につけられると広がり、「はっきり花や家や人たちだとわかる」形を取り始め、「コンブレすべてとその周辺」が一杯のお茶から出てくる。水中花が花開く過程は、干からびて煎じ茶の袋に入れられていた菩提樹の花がレオニ叔母と主人公によって熱湯に入れられることによって花ひらいたプロセスの再演なのだ。乾いて収縮していた花の再生は、その後に今度は母親からうながされた成長した主人公によって実現されるが、それ以前にすでにレオニ叔母によって試みられていた。彼女はそこでマドレーヌ菓子を幼い主人公に与え、彼を「養う」役割をすでに演じている。
 最終篇「見出された時」において主人公が作家としての使命を自覚すると、レオニ叔母の寝室が主人公の寝室の中に転入してくるように描かれている。彼女の寝室は、主人公の創作を予告するものでもあったのだ。

 無意識的記憶の前に就寝劇が演じられる。その就寝劇後半で母親は、おやすみのキスが与えられずに泣きぬれる幼い主人公に、ジョルジュ・サンド「捨て子フランソワ」を創意に富んだ独自の調子で読み聞かせ、主人公を落ち着かせる。その時、原文に忠実ではない創意に富む朗読の描写には音楽用語が多く用いられているし、のちに主人公を導くことになる作曲家ヴァントゥイユの曲の描写に使われる表現も一部そのまま使われている。母親の朗読の声には「一種の生命」が吹き込まれていて、幼い主人公の苦悩は鎮まり、彼は母の朗読の声によって得られた嬉しさに身をまかせる。
 こうまとめてしまうと、就寝劇後半の朗読の場面も母親と主人公のふたりだけで演じられているように見える。しかし、ここでも就寝劇が演じられる以前に、コンブレのもうひとりの登場人物 ― 祖母 ― が この朗読劇を準備している。この祖母も無意識的記憶の場面におけるレオニ叔母と同じように、母親がはたす重要な役割の前座をつとめている。
 父親とは異なる教育方針の祖母は、主人公の誕生日プレゼントを買うためにコンブレ近郊の村に二度も足を運び、「隠喩が含まれている」ジョルジュ・サンドの小説を四冊も購入し、その袋包みを主人公の部屋に贈答の袋として置いておく。サンドの小説が祖母によって選ばれたのは、そこに隠喩が使われていたからだが、この隠喩はのちにバルベックで画家エルスチールの創作の秘密として主人公が学び取ることになる造形性に富む重要な概念だ。その隠喩をすでに小説冒頭から祖母がとりわけ好んでいたことがわかる。その隠喩が多く使われているサンド「捨て子フランソワ」を、今度は就寝劇の晩に母親が引き継ぐことになる。母は原文に忠実な読み方でなく創意に富む調子で主人公に朗読し、隠喩の重要性を読み伝えたことになる。祖母は母親の分身であり文学上の好みも共通していて、二人とも隠喩を評価する。隠喩とは、従来の類似性の中に新たな側面を見出し発掘しようとする創意ある姿勢である(佐藤信夫「レトリック感覚 ことばは新しい視点をひらく」)。主人公もそうした母親や祖母の態度に導かれ、自らも隠喩表現を用いる創作態度を重視するようになり、母親による「捨て子フランソワ」の朗読に応えるようにして自らも創作を始めることを最終篇巻末において決意する。したがって、祖母が外部から取り入れた隠喩は、母親によって実際に使われ、それを受容する主人公は隠喩 ― 類似に基づく造形性の創出 ― を自らの創意の基本に据え、創作に取りかかろうとする。3代に渡る時間の流れにおいて、隠喩がふくむ造形性が受容され、そこからはまたさらに新しい創作が試みられてゆく。
 レオニ叔母や祖母が外部の生活から取り入れたものは、コンブレの人たちの協力もあって高められるが、その活動的な実践の姿勢は最後は母親から主人公に伝えられる。こうした演出は、無意識的記憶や就寝劇の場面に共通するものとなっている。

第3部 土地の名・名
 主人公の初恋の相手ジルベルトとの愛は成就されることなく終わるが、彼女の場合も上記で確かめた大きな展開に沿う形で主人公を導くことになる。ジルベルトもまた外部から受け取ったつつましくもある事物 ― この場合、主人公が彼女に書き送ったプチ・ブルー (気送郵便) ― を周囲の外部の人たちを巻き込む形で光輝あるものに高める術を知っていて、そうして魅力あるものにされたプチ・ブルーを主人公に手渡し、彼に実践をうながすという役目をやってのける。
 「それは、昨日まではなにものでもなく、小さなプチ・ブルーでしかなかったのだが、私が文面をしたため、それを配達人がジルベルトの門番に届け、召使いが彼女の部屋まで運んだことによって、値がつけられないほど価値のあるもの」に変容する。当初こそ、主人公がプチ・ブルーの宛名欄に書いた「ジルベルト・スワン」という字は「空虚で孤独な線」でしかなかったが、そこには外部を経由するうちに郵便スタンプが押され、配達人による走り書きが書き加えられ、召使によってジルベルトに手渡され、それを彼女から見せられることによって、プチ・ブルーは「私の夢に加担し、それを維持し、さらに引き上げ、私を喜ばしてくれた」。さらには、主人公がそのプチ・ブルーで貸してくれるように頼んでおいた作家ベルゴットの著作を入れて封蝋が押されリボンがかけられた小包 ― これも外部を集約する豊かな包み ― をジルベルトは主人公に手渡す、「ほら、これでしょ、あなたが私に頼んだものは」。そして、主人公はベルゴットの著作を読み、そこからやはり隠喩の重要性を学び取ることになる。
 のちに、彼女は主人公にゴンクールの日記も貸し、彼の文学観形成に貢献する。またサン=ルー侯爵と結婚することによって、貴族社会における爵位や階級制の恣意性を明らかにするし、またコンブレにおける二つの「ほう」が貴族とユダヤ人の所有地を狭く厳密に仕切る確定されたものではなく、二つの「ほう」は実は隣接していて交通が可能であることもあばく。いずれ、ジルベルトへの愛は、アルベルチーヌへのより深い愛に発展的に受け継がれることになる。ジルベルトとの恋は、アルベルチーヌとの恋と同様に実ることなく終わるが、ジルベルトが主人公を作家ベルゴットへ導いたのに対して、アルベルチーヌは画家エルスチールや作曲家ヴァントゥイユの世界へと主人公を導くことになる。この三人の芸術家の作品には、主人公を創作活動へと誘う表現が多くふくまれている。
 ジルベルトの母親のオデットは当初、名も教養もない大部屋女優だ。オデットも、結婚する以前はスワンの嫉妬をかきたてるが、その本当の姿は心理分析だけでは見えてこない。ボワ・ド・ブーローニュに隣接する自宅内で身を飾る見事なファッションがまず描かれ、その高級娼婦としての性的なものが秘められた魅力や主人公の父親の「意味のない言葉」にたちどころに「繊細な加工を施す」巧みな話術も語られる。しかし、それらはただ室内で輝くものではなくなる。当時、日曜になるとブーローニュの森は近くの高級住宅地の婦人たちが自慢のファッションで身を飾り、馬車に乗って「ピクニック」に繰り出し、その斬新なモードに立ち合おうとしてボワの沿道には庶民たちが集まった。パリのベスト・ドレッサーのひとりオデットがこうした<見る見られる>双方向の視線が交わされる華やかな公開ファッション・ショーの機会 ―  日曜の朝のアンペラトリス通り、5時の湖水一周、金曜の競馬場・・・ ― を見逃すはずがない。「女性のエレガンスの数々の傑作」が室内だけでなく、休日のボワという開かれた華やかな場においていっそう見事に披露されることになる。オデットは森で主人公とも親し気に会話を交わす。オデットの室内に隠されてきたセンスが、ここにおいても外部にも発揮される。モードという新しい傑作群も、ボワという、また「1878年万国博覧会」という外部によってさらに若々しいものに昇華されるかもしれない。そんな予感も最後は漂う。オデットのモードは、いずれアルベルチーヌにもさらに発展された形で受け継がれてゆくことになる。

        ボワ・ド・ブーローニュのパリジェンヌ
        作者:フランソワ・ゴルゲ(1862-1927)

 こうして、当時新しく価値が認められつつあったモードとか料理とか工芸も、従来の大芸術に次ぐ芸術の作品群として、その豊かな可能性が描かれる。アール・ヌーヴォーを代表するガラス工芸家エミール・ガレの作品も小説の中に登場する。レオニ叔母の女中フランソワーズにしても、主人公の母親によってもかわいがられ、「失われた時を求めて」巻末ではその途方もない料理の腕だけでなく、その芸術的センスそのものが高く評価される。創作を決意する主人公も、執筆しようとしている作品をフランソワーズがブフ・モード ー ニンジンなどを添えた牛肉の蒸し煮 ー やドレスを仕立てるようにして書いてゆこうと語る。その創作を手伝うフランソワーズは、一方では妊娠中の下働きの女中をいじめたりするのだが・・・(牛場暁夫「料理女フランソワーズ」「『失われた時を求めて』交響する小説」所収)。
 たとえ罪深く、過失を犯したとしても、創意に富む活動を実践することによって人はいずれ変貌するかもしれない。そんな贖罪の可能性さえ最後には感じられる。コンブレに住む、のちに大作曲家になるピアノ教師ヴァントゥイユの娘の同性愛の女友だちも同様に創造的な活動を行うことによって自らがかつて犯した悪をあがなうことになるかもしれはい。この女友だちも、ヴァントゥイユが生前に書き残した作曲の草稿を解読して譜面に起こすという創造的実践に取りかかり、その結果彼の作曲家としての名前を不朽のものにする。ヴァントゥイユ嬢との同性愛にふけることによって音楽家の晩年を暗いものにしたが、女友だちが犯した、同性愛という当時過誤とみなされていた行為は、音楽家によって作曲された作品をまとめあげるという創造的行為を行うことによってつぐなわれるという可能性が示唆される。

第2部 スワンの恋
 3部構成の中でこの第2部「スワンの恋」だけ、三人称で執筆されている。スワンは貴族のサロンにも出入りする粋人だが、オデットと出会ったパリのヴェルデュラン夫妻のサロンこそ最高だと判断し、その「小さな核」にこそ真の価値があると思うようになる。そして、審美主義者で偶像崇拝者 ― 「芸術家たちが陥りがちな知性の罪」(「模作と雑録」「サント=ブーヴに反論する」所収)― であるスワンは、その美的教養の知識から愛人オデットをボッティチェリのチッポラと同一視してしまう。「オデットに会うという楽しみが、彼自身の美学的教養によって正当化される」のを喜ぶ。また、サロンでヴァントゥイユのソナタが演奏されても、全曲を聞くことなく、その断片を一義的に恋の「国歌」だと思い込み、恋をそこに還元し固定してしまう。
 見てきたように、第1部や第2部ではプッチット・マドレーヌにしても、プチ・ブルーにしても、また就寝劇において母親から呼びかけられる主人公の名前にしても、それらはいずれも愛称なり通称なり、ファースト・ネームであり、いずれも親しみが感じられる呼びかけであり、うながしだ。しかし一方、スワンのほうは名前を大芸術作品名と取り替える代入作業のような命名を行う。また、第1部や第3部で描かれるものの魅力は、まずその潜在力が多角度から集められたうえ、それらが数次に渡って増幅され、多声構成の作品に造形され高められてゆく。しかし、第2部「スワンの恋」ではスワンはひとりで完結する世界にとどまり続けるので、物事が時間をかけて共同で形成されてゆくプロセスに読者は立ち会うことができない。
 オデットの日常生活に好奇心を抱き、彼女の動向を探ろうとするとき、スワンは「字義通りの知的価値を有する、まさに真実の追究にふさわしい科学的な調査方法」を一方的にあてはめようとする。また、オデットの心変わりを追求するようになった時は、彼女を「症状が悪化した」「病人」のようにみなす。スワンの場合、分析的知識が先行するため、多くの観点や記憶を呼び寄せて時間というプロセスの中で集約するような「時間の中の心理」に立ち会うことができない。
 嫉妬に駆られてオデットの不実をあばこうとするスワンによる恋愛心理の分析は精緻なものだ。しかし、プルースト自身は知的ではあったが、知的であることだけでは十分ではないことをわきまえる知性の持ち主だった。心理分析だけではたどり着くことのできない存在そのものの未知で広大な領域を、時に夢や性や悪の淵源をのぞき込むように探究した。彼は古典的な知性を駆使して十七世紀のモラリスト風表現を組み立ててみせる。例えば、ポルトレと呼ばれたモラリスト風の機知に富む人物・性格描写も描いてはみせる。しかし、アルベルチーヌのような何度も変貌を繰り返す人物はポルトレには回収されず、そこからははみ出してしまう。むしろ、プルーストドストエフスキー ― プルーストは「白痴」を「もっとも美しい小説」と書簡で評した ― やフロイトなどによって切り開かれていた精神の奥深い領域における動きに、また創造という存在の根源的な働きに時間をかけて迫ろうとした。
 人はけっして他の人を知りつくすことはできないことをプルーストは知っていた。「出来事や人物や事物は絶対的な非決定性のうちにとどまる」し、「しばしば分析に付加されていた「説明」もかならずしも私たちを満足させるものではない」。「定義された現実がその定義を逃れてゆくこのような運動、それがプルースト的現実に浸透した神秘をまさに形づくっているのだ」(エマニュエル・レヴィナスプルーストにおける他者」)。
 他者のいない自己完結する世界にいたスワンも、しかしオデットの愛を失いパセティックな思いにかられる時に、サン=トゥーヴェルト侯爵夫人のサロンでヴァントゥイユのソナタを聞き、はじめて感動して、涙が頬を伝わる。恋ははかなく消えてゆくが、その時になって、はじめて創造に向かい多元的に構成される世界を認めることになる。ソナタは一義的な意味に回収され定着されるものではなかった ― 「われわれが一人でいるときの嗚咽ではなく、むしろ友だちといるとき、友だちの中に似たような感動でほろりとなっている別の自分を認めて、もらい泣きをするときのような嗚咽だった」。スワンが初めて聞き留めたのは「知性をもってしては入り込むことはできない」が、ピアノとヴァイオリンが「創造に向けて対話」を交わしていた世界だった。それは、創造に向かう「切々と心に訴えてくる何かしら人間的なもの」の呼びかけであり、うながしだった。それまでの独我論的な狭さは乗り越えられた。聞こえてきたのは、オデットとの対話では立ち会うことが稀だった、創造へ向けてうながし合うような対話だった。
 創造に向かう中にあって建設的なものが多元的に交わされ合う瞬間は、やがてスワンに代わり、主人公がヴァントゥイユのソナタや七重奏曲から聴取することになる。 メロディーよりも多彩なハーモニーが、そして祝祭的な賑やかさが、ソナタからよりも七重奏曲からより明確な形を取って展開され、広がり出てくるのだ。
 この点では、スワンは主人公の精神上の成熟をすでに予告し準備している。また、こうした創作活動は、コンブレの人たちがすでに実践していたことでもあり、コンブレの生活はすでに主人公を先導していたと言えるだろう。、
 「失われた時を求めて」の独訳を試みたことのある哲学者ベンヤミンは、個々人の孤立を越えて、民衆たちが創造する主体になる可能性を構想した。創造には、集団的で多元的なプロセスがその過程に組み込まれることになると主張して、新しい芸術創造の必要性を説いた(「技術的複製可能性の時代の芸術作品」)。
 登場人物の性格や名前の固定的な自律性や、また小説における語りの単線の直進性といった技法は、近代小説の構成を支える普遍的なものとされてきたが、そうした慣例は、見てきたように、プルーストの長編小説においては再検討に付されている。
 創造へ向かう集団によって形成されるプロセスのあいだには、罪をあがなう贖罪の作用も働く。ディストピアや生きづらさや喪失といったテーマがしきりに扱われる現代の文学の中にあって、「失われた時を求めて」全7篇は、珍しく「幸福な書物」(アントワーヌ・コンパニョン「時間」「プルーストと過ごす夏」所収)である。そして、第一篇「スワン家のほうへ」には、長い時間の中を幸福に向かってのびようとする萌芽が多彩にはらまれているのだ。
       
                                           編集協力  KOINOBORI8

                               

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