(1/2)なぜ「銀河鉄道の夜」の続篇「銀河ふたたび」を創作するのか


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 「銀河鉄道の夜」は、作者宮沢賢治が亡くなる1933年(昭和8年)までの10年間、繰り返し書き直されました。現在残されている最終稿にしてもそれは決定稿ではなく、賢治が生きていれば、その後にも加筆や訂正が行われたはずの未定稿と考えられています。
 「銀河鉄道の夜」は死後出版された未完の童話ですが、その枠を越えるような傑作です。大正時代に全盛を迎えた私小説には見られなかったような、社会への問いかけが含まれた、斬新な詩情に富む作品です。私小説では多くの場合、ウエットな風土において作家個人の<私性>が執拗に凝視されましたが、昭和に入ると、そうした狭い殻は打ち破られ、新しい創作の時代が到来し、多くの傑作が生まれます。「銀河鉄道の夜」は、こうした昭和初期の文芸興隆期を代表する作品のひとつです。
 沈痛な美しい闇も描かれますが、物語の舞台ははるかな銀河へ、天空へと膨らみ、銀河を旅するふたりの少年の周囲で繰り広げられる物語には多くの魅力が秘められています。暗黒星雲も現れ、時には神秘的にもなるし、少年がおぼえる孤独も喪失感も描かれますが、星々は実在感に富み、そこに宿る生命感はわれわれ読者を新しいファンタジー、幻想の世界へと連れ出してくれます。しかし、同時にこの童話にはそれだけにはとどまらない、生と死とか社会活動といった大きな問題も実ははらまれていて、それらはこの童話に深みのようなものを与えています。

画像はGAHGより

 しかし同時に、この傑作には展開がなめらかに進まない箇所が何箇所かあり、このため読者はある当惑をおぼえることになることは指摘しておきましょう。
 例えば、作品巻末で主人公ジョバンニの親友カムパネルラは水死しますが、親友との死別というこの作品の最大の事件にしても、その箇所では話があまりにも速く性急に進んでしまいます。もちろん、親友カムパネルラが川に落ちた友人を救おうとして自己犠牲ともいえる行為を行い、溺死を遂げることはよくわかりますし、そこに緊迫感が広がり、事故現場に駆けつけた主人公ジョバンニが覚える絶望や喪失感も伝わってはきます。しかし、友情の喪失という悲劇を描写するにしては、事態は何度かあわただしく急変するし、主人公の心情も充分には描かれません。傑作にしては結末はあまりにも唐突なものになっています。この結末には、もっと多くの字数が必要ですし、もっとたっぷりとした展開が必要だったはずです。さらなる加筆補筆がなされるべきだったのではないか、と思ってしまいます。尻切れトンボ状態で終わっている、という思いがぬぐいきれません。
 結末がそれに先行する物語とは違う性急な調子で書かれていることを確かめるためにも、まずはカムパネルラとジョバンニの友情にまつわる場面を少し具体的に見てゆきましょう。

 ふたりの友情は、作品全般にわたって間歇的に反復されて描かれてゆきますが、その関係は、サスペンスのように未知の部分をはらみながら、作品を構成する重要なテーマとなってゆきます。精神上の探究を共有しつつ次第に深まる少年同士の友情は作品を貫き、その豊かな主調は読者を強く引きつけます。
 カムパネルラとジョバンニは学校の同級生ですが、カムパネルラのほうが精神的には成熟していて、示唆し暗示するようなやり方でジョバンニに多くのことを教え、彼を導こうとします。銀河のことをジョバンニに教えたのはカムパネルラですし、級友たちから仲間はずれをされるジョバンニのことをなにかと気遣うのもカムパネルラです。
 銀河鉄道の白鳥の停車場で、「白鳥を見るなら、ほんとうにすきだ」と言って ― といってもただほのめかすだけで理由は言いません ― 白鳥地区の野原の美しさにジョバンニの目を開かせるのもカムパネルラです。
 カムパネルラはその後に突然銀河鉄道の車内から姿を消しますが、その失踪直前にはるか彼方の野原 ― おそらく白鳥地区の野原 ― を眺めながら、何かを「決心」したかのような態度で謎めいたことをジョバンニに語りかけます ― 「みんな集ってるねえ。あそこがほんとうの天上なんだ。あっあすこにいるのはぼくのお母さんだよ」。
 ジョバンニはその内容が理解できませんが、何かしら重大なことを口にするかのような真剣なカムパネルラの態度に圧倒されたのか、彼に「どこまでもどこまでも」ついてゆこうと心に決めます。
 実際、作者宮沢賢治は、人から投げかけられた友情には応えなくていけないという信念の持ち主でしたし、それが芸術作品を生む力にもなると考えていました。
 カムパネルラが溺れかけた友人を救うものの、自らは川で水死する最後の場面にしても、親友との別離の現場を前にして、ジョバンニは悲しみにかきくれてただその場に立ちつくすわけではありません。ジョバンニは、意外にも、自己犠牲を遂げたカンパネルラがそのままただちに転生して、銀河のほとりでまだ生き続けていると思います。そして、川ではなく、親友が転生しているはずの銀河のほうを見上げます。カンパネルラの死ではなく、天の川にのぼって受けた新たな生のほうを思い浮かべます ー「ジョバンニはそのカムパネルラはもうあの銀河のはずれにしかいなゐといふやうな気がしてしかたなかったのです」。
 しかし、ジョバンニに起きたこの大きな心境の変化についての賢治による説明は書かれていません。賢治は登場人物の心理をあまり分析しない作家です。でも、死から生へ突然の転生が起きたのです、何らかの説明のような記述があってもおかしくないはずです。賢治は、カンパネルラの再生については、いずれ加筆によってなんらかのか説明を書き足そうと考えていたのではないでしょうか。
 また、作品の結末においては、ジョバンニは病気のおっかさんの滋養のために探していた牛乳を首尾よく手に入れ、牛乳を家に持って帰ります。その直後に、作品は次の文で突然終ります ― ジョバンニは「(・・・)一目散に河原を街の方へ走り出しました」。
 つまり、親友の溺死という大事件にもかかわらず、親友の転生を天の川に確かめると、現場を離れ、家にすぐに帰り、そこで母親と北方への漁のために長く不在だった父親の久しぶりのの帰宅を知り、家にとどまって小さな慰安に浸ろうとするのかと思いきや、最後の最後に、今度はジョバンニは家から不意にふたたび外へ走り出してしまう。
 こうしたいくつかの短いエピソードだけが立て続けに並べられているばかりで、急激ないくつかの場面転換を無理なくつなぎ合わす大きな脈絡のような流れが十分には感じ取ることができません。
 いったいどうして水死したばかりのカンパネルラが生き返って銀河にのぼったように見えるのでしょう。なぜ、突然、家族の団欒が再び構成されたのでしょうか。なぜ、ジョバンニはその地上のハッピーエンド風の家を飛び出して、また外に走り出たのでしょうか。
 
 賢治がもう少し長生きしていたら、このあわただしく進行する自己犠牲の場面に加筆を行い、読者を納得させるような展開を新たに執筆し、未完の最終稿を決定稿に高めようとしたのではないか ― そんな想像が脳裏をかすめます。
 浅学非才も顧みずに、八月上旬の次回ブログに、私なりの「銀河鉄道の夜」続篇 ― 創作「銀河ふたたび」 ― をアップすることをお許しください。病のために最晩年の代表作とも言われる作品に自らの思いを具体的に託すことができなかった賢治の無念のようなものが私を促し、続篇創作のペンを私に握らせようとするのです。
 私としては、次のような大筋で続篇を構想したてみます ― 最後に家から飛び出たジョバンニは、溺死後に転生して銀河にのぼったと思われるカムパネルラを追いかけて、自らも地上から離陸し、銀河へ向かう旅をふたたび試み始めはじめたのではないでしょうか。そうした想像の翼が私の中で広がりはじめます。そう、カンパネルラに「どこまでもどこまでも」ついてゆく、とジョバンニは銀河鉄道の車内で誓ったのです。
 大胆な想定ですが、私はカムパネルラと銀河において再会しようとする、ジョバンニ単独行の旅を「続篇」において思い描いてみたい。ジョバンニが死後のカムパネルラを追って銀河へふたたび舞い上がる二度目の旅を。
 そして、伏線のまま回収されることなく現行版作品の中に未完の状態で放置されている白鳥停車場周辺の野原にもっと記述を加え、さらに具体的な魅力に富むものにしてみたい。そこでは銀河で転生したカンパネムラがもうすでに率先して働いている、野原をさらに輝かそうとして、斧でもふるいながら、きっと土地の人たちとも話し合いながら・・・。
 野原にいる彼を見つけたジョバンニは、必死になって銀河を上昇し、白鳥停車場周辺でカムパネルラに追いつこうとするだろう。彼と一緒に働こうとしてとして、そして野原をさらに輝かしいものにしようとして。
 こうした独自の「続編」を構想するとき、賢治のいくつかの先行作品がヒントを提供してくれました。「薤露行」、「マリヴロンと少女」だけでなく、「銀河鉄道の夜」と類似点があるとされる三編の長編童話「ポラーノの広場」、「風の又三郎」、「グスコンブドリの伝記」などです。
 とりわけ、「グスコンブドリの伝記」における自己犠牲の描かれ方からは強い示唆を受けました。この長編童話の主人公グスコンブドリは、噴火する火山に身を投じ、自分の命を犠牲にしてその地方の気温を上昇させます。そのことによって、イーハトーブ ― 岩手をもじった理想郷 ― の人たちを冷害からまもります。そこには、カムパネルラの溺死後にはついに描かれることのなかった自己犠牲の後に展開されるはずだった後日談が書かれています。自己犠牲からは、賢治の場合、生に向かおうとする力が生まれます ―「けれどもそれから三四日立ちますと、気候はぐんぐん暖くなってきて、その秋はほぼ普通の作柄の年になりました。そしてちょうど、このお話のはじまりのやうになる筈の、たくさんのブドリのお父さんやお母さんたちは、たくさんのブドリやネリといっしょに、その冬を暖いたべものと、明るい薪で楽しく暮すことができたのでした」。賢治においては、自己を犠牲にしても、その結果は絶望や喪失で終わることはありません。実は人びとを生のほうへと向かわせることにつながるのです。
 ブドリの自己犠牲によって豊かな実りを迎えるようになった土地には、母親が複数人描かれています。時間を超えて、次世代を生み、育て、命を命につないでゆく根源としての「お母さん」たちが生きています。このため土地における作物の生育が代が変わっても引き続き行われてゆくことが暗示されています。
 賢治の作品で描かれる自己犠牲のテーマは、「銀河鉄道の夜」の場合のように死それ自体や、その直後に描かれる家の中での小さなハッピーエンドでもって突然切断されるように終わってしまうものではないはずです。
 現行版「銀河鉄道の夜」に未完の断片のように取り残されている輝かしい白鳥停車場の野原にしても、「グスコンブドリの伝記」における「イーハトーブ」のような豊かな場としてさらに加筆され賦活されるはずの共同体の場だったのではないでしょうか。ブドリの自己犠牲によって凶作から守られた「イーハトーブ」のように、白鳥停車場の野原も、 転生してそこに合流したカンパネルラによって、懸命に追いついたジョバンニよって、 またそこに生きる人々の活動によってさら活性化され、にぎやかにされるはずだったのではないでしょうか。
 「よだかの星」のサソリのエピソードでも明らかなように、自己犠牲を行なった者は、その後に人びとを生かすより積極的で肯定的な役割をはたします。自己犠牲を行なう者は死の状態にとどまることなく、その後スケールの大きな生への活動へと反転するように向かいます。そして、このテーマは賢治の作品でしばしば扱われています。
 なるほど、自己犠牲によって水死するカムパネルラも、その行為以前に車内で白鳥停車場地区の野原の豊かさをジョバンニに教えてはいます。またそこに、「みんな」がいて、そして「お母さん」もいることも教えてはいます。白鳥地区には絶え間なく生成や生育が行われ続けることを意味する、「お母さん」がいることをカムパネルラは生前にすでにこうして示唆してはいます。この「お母さん」は自分の母親のことではないでしょう。彼は自身の母親を「おっかさん」と呼んでいます。しかし、それはごく短い記述でしかなく、後にさらに展開されるはずの伏線でしかありません。しかし、この伏線も現行版ではその後に回収されることなく孤立したまです。この伏線はいわば萌芽のまま宙に浮いた状態で取り残されていて、着地点もわからず、それがどんな花を咲かせることになるかはわかりません。
 自家版創作「銀河ふたたび」では、カンパネルラとジョバンニは白鳥停車場のこの野原を再訪します。そして、土地の人たちと協力して野原をさらに耕します・・・。
 「みんな」や「お母さん」が集まる現行版「銀河鉄道の夜」の野原をさらに展開させる際には、「ポラーノの広場」も参照しました。主人公キューストは、小学校生の友人ファゼーロとともに農民たちが共同で運営するポラーノ広場を探しに出かけます。見つけるにはみつけましたが、その広場は選挙のための酒盛りや乱闘騒ぎが起きる所でしかありません。しかし、最後に、つめくさが咲き乱れる野原の向こうに自分たちの手によって新たな広場を作ろうとキューストとファゼーロのふたりは誓い合います。このふたりは、カンパネルラとジョバンニを思わせます。
 少年キューストが口笛を吹きながら作詞作曲した楽譜「ポラーノの広場」が、同名の作品の最後に引用されていますが、その数行を引用します。

  まさしきねがひに いさかふとも
  銀河のかなたに ともにわらひ
  なべてのなやみを たきゞともしつゝ、
  はえある世界を ともにつくらん

 賢治は、昭和初期に盛り上がった農民運動や産業組合運動といった実践的な社会運動に共鳴し、実際に農民の生活と接触を深めますが、農作業の経験のない賢治は病にも冒され、現実において共同生活を組織することは断念せざるをえなくなりました。しかし、地上の現実とは異なる銀河という天空において、賢治はもうひとつの、やはり共同体のような場を ― カンパネルラと手を携えながら、白鳥停車場の野原において ― 作り上げようとしたのだと思われます。
そのすぐそばには、石炭袋と呼ばれる暗黒星雲が死の孔となって顔を覗かせ、すべてを飲み込もうと、どほんと巨大な口を大きくあけています。そうです、賢治の周囲では死がいつも辺りをうかがっています。
 なお、賢治が死んだ妹トシを悼んでひたすら北に向かう汽車の旅を続けたとき、「さびしい停車場」を通ったことも指摘しておきたい。賢治は花巻から夜行列車で旅立つが、それは当時の日本の最北端樺太までの孤独な単独行であり、それは死に魅入られたような彼岸への道行でもあった。「青森挽歌」では次のように「さびしい停車場」のことが書かれているー「あいつはこんなさびしい停車場を/たったひとりで通っていったろうか」。
 しかし、この「さびしい停車場」は、「銀河鉄道の夜」において「お母さん」を含む多くの人びとが集まる銀河の白鳥停車場に最後に変貌する。最愛の妹トシの死という絶望を乗り越えようとする賢治は、汽車の進行方向も北から南へと反転させる。自立して、生を希求する姿勢を引き受けようとする。死に抵抗しながら、死にあらがいながら、賢治は生がいとなまれる場を紡ぎだそうとする。かすかなものであれ、星々にも生が宿る。星めぐりの歌に合わせて、双子の星は一晩銀笛を吹く。「あおいめだま」や「あかいめだま」の星も光る。「すぎなの胞子」のような星もふたつ現れる・・・。

 「銀河鉄道の夜」は九章から成り、それらは第一章から順に次のように題されています。1.午后の授業、2.活版所、3.家、4.ケンタウルス祭の夜、5.天気輪の柱、6.銀河ステーション、7.北十字とプリオシン海岸、8.鳥を捕る人、9.ジョバンニの切符。
 これらの現行版の9章に、あえて想像上の10章を設け、それを「銀河ふたたび」と題して、来月上旬の次回ブログに創作としてアップいたします、失敗を恐れずに。
 そうすることによって、目立たない萌芽のままとなっている、しかし重要なテーマに育つはずだった断片に息吹きを吹き込み、また諸家の論考からも想を得つつも、新たな「銀河鉄道の夜」を独自の形にして展開させてみたい。

                                編集協力・KOINOBORI
                               

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