永井荷風 もうひとつの「断腸亭日乗」

 銀座禁燈
 永井荷風は、関東大震災後百貨店などが次々と建てられてゆく銀座に興味をおぼえ、しばしば自宅の偏奇館のある麻布から帝都銀座に足を向けるようになる。しかし、永井は酔客が銀座通りで喧嘩をしたり「酒楼」で乱暴を働いたりする姿を見たりするうちに、「断腸亭日乗」と名付けた日記にこう記すようになる 
― 「銀座は年と共にいよ(いよ)厭ふべき処となれり」(昭10・7・9)
 新しい盛り場の散歩 ― 銀ブラという新造語はすでに定着していた ― を楽しみ、その風俗にも接し、料理屋にも理髪店にもしばしば通ったにもかかわらず、荷風は銀座の賑やかさに違和感をおぼえ始める。腰にぶら下げたサーベルを鳴らし、乱暴に通行人に怒鳴る巡査の権柄ずくの態度も小説「濹東綺譚」に描かれる。巡査に呼び止められた時の用心に、荷風は印鑑や戸籍抄本を持ち歩いた。関東大震災後に発布された「国民精神作興ニ関スル詔書」には、すでに震災のことを「享楽に安んずる国民精神の堕落を戒める天罰であった」という立場が打ち出されていた。
 そんな頃、日記の欄外に朱筆で「禁燈ノ令出ヅ」と書かれる日が来る。昭和13年には内務省から出された灯火管制規則が公布されていたから、街は時々暗くなっていたが、その闇はさらに深まってゆく。 ―「軍部の命令ありて銀座通燈火を滅し商舗戸を閉づ。満月の光皎々として街路を照す。亦奇観なり。」(昭9・8・24)。軍部がすでに台頭し権力を振るい始めていることが見て取れるが、さらに驚くのは、明かりの消えた銀座を満月の光が照らし出していることだ。永井は、その後も数日に渡って月の光が銀座を明るく照らし出すことをことさらに繰り返し記述する ― 「既にして明月の昇るを見る」(昭9・9・21)、「幾望の月皎々たり」(9・26、9・23、9・28)。さらには月の出を待ち望む記述も続く(9・24、9・25)
 その前年でもすでに荷風は、銀座の街灯や商店の明かりよりも、街を大きく照らし出す月の光のほうを注目する。
  11月末から数日間ほぼ連続して月光をことさらに描くが、12月2日の日記の末尾に、「月光ます(ます)冴渡りて昼のごとし」と書いたあと、翌日の3日にも触れる、「十六夜の月服部時計店(現・和光、セイコー)の屋根上に照輝きたり。(・・・)築地明石町の河岸を歩み月を賞す」。次の4日にも、月光が町を大きく「籠む」と表現されている。
 銀座の明かりは軍部による禁燈令によってたちまち消されたが、今度は月光が街灯や百貨店の照明に取って代わり、銀座をそれまでとは異なる独自の形で明るく照らし出している。荷風は街に広がった闇と、街に降り注ぐ月光を対比的に書いている。これは軍部や内務省による「暴政」によって強いられた闇に向かっての間接的な抗議であり、また批判なのだ。
 実際、荷風は中秋の明月といった月光に深い愛着を抱いていた。夕暮れ時に月光が川面などを照らすと、川面は光に応えるように輝き始める。月光を浴びた家々やその周囲も月光を反映させ、母性を思わせるような新たな姿で浮かび上がってくる。月光が新たな生活の場 ― 現実逃避の幻想でも夢想でもない ― を現出させると荷風が想像していたと思わせる記述は多い。
 例えば、荒川放水路の堤を長く歩いた昭和7年1月22日の日記― 「日は早くも暮れて黄昏の月中空に輝き出でたり、陰暦十二月の夜の十五夜なるべし、(・・・)円き月の影盃を浮べたるが如くうつりしさま絵にもか(か)れぬ眺めなり」。川面に映る月がただ美しいと言っているのではない。それを盃に、さらには絵画にも例える荷風は、月に誘われるようにして盃を、食卓を、さらには生活の場を独自に構成しようとする。この日の日記には、堀切橋から月と川面と四ツ木橋をのぞむスケッチまで添えられている(下図参照)。さらには、同じ堤を歩き、月光と同じ印象を引き起こす夕陽にも見入る、「晩照の影枯蘆の間の水たまりに映ず、風景ますます佳し」(2・2)
また、宵の明星が川面に浮かぶいくつもの白帆を輝かせる光景にも立ち止まって見入いる。月光や夕陽が現れることによって引き起こされる、静かでのびやかな場面構成は、戦後の昭和21年に千葉県市川に転居し79歳で死去するまで、間隔を空けながらも日記の中で行われている。月への言及は日々の記述の末尾でなされることが多いが、そうでない場合、自らがひねった俳句がしばしば日記を締める。
 創作充実期の昭和12年に「濹東綺譚」や「放水路」とともに刊行された「すみだ川」にしても、主人公の俳諧師は当初こそ銭勘定をして「懐手の大儲け」を思い描きながら、掘割沿いに散策を続ける。しかし、そのうちに竹垣の間から月の光を浴びながら行水を使っている女性 ー 母性的な女性 ー が目に止まる。また、広がる水田のところどころに咲く蓮の花を見るうちに、主人公は次第に本来の俳諧師としての感受性を取り戻し、古人の俳句を巧さを思い返すようになる。つまり、ここにおいても、月光が照らし出す、官能的で、かつ江戸文化を思わせる生活ぶりは、銭勘定という表通りで実践される現実から切り離されない、いわば地続きの所で展開されている。昭和12年といえば、日中戦争が起きている。暗く危機的な世相においても、その一角に、月は本来の賑やかな生活の場を静かに照らし出す。
 「濹東綺譚」のドブ川のほとりの色街「玉の井」にしても、それは欲望が渦巻く街ではなく、わいざつな界隈は時に月光を浴び、ノスタルジックなまでの不思議な魅力を放つ街に変容する。お雪も、性の対象ではなく、その家も静かな安らぎの家として描かれる。一方、銀座の大通りは、厳格な父性の場として描かれているようだ。なお、荷風の母親恒は下町の下谷生まれで、芝居を好み、江戸文化にくわしかったが、父親久一郎のほうは山の手の小石川生まれで、アメリアに留学後官職につくが、最後は日本郵船社に入社した。エリート官僚の天下りだ。久一郎は漢詩人でもあり、息子の荷風もその素養を受け継いだが、父は荷風が「文藝の遊戯」にふけることを好まず、「実用の学」を学ぶようにアメリカ留学を薦めている。なお、荷風アメリカ留学については、後述したい。

 偏奇館焼亡
 格調の高い漢文調の名文として知られる「断腸亭日乗」の白眉は、たしかに昭20年3月9日の日記だろう。「夜半空襲あり、翌暁四時わが偏奇館焼亡す」。小説二、三作の草稿と断腸亭日乗を入れてあらかじめ準備しておいた手革包を持って逃げる。断腸亭日乗をすぐれた作品だと思っていたのだ。あたり一面も火で焼かれる緊迫した夜の記述が長く続く。たしかに、感情に流されない、腰の据わった名文だ。出会った78歳の老人と女の子を溜池のほうに導き、火から逃す。スリッパのまま飛び出してきた隣人と言葉は交わすものの、荷風は反対方向にひとり向かい、偏奇舘に立ち戻ろうとする。26年間住みなれた自宅が「焼倒るるさまを心の行くがきり眺め飽かさむ」ものとする。自宅には大久保の旧宅から二、三十本もの沈丁花を移し植えてあるし、フランスから持ち帰った多数の蔵書もある。しかし、「黒烟」が渦巻き吹き付けてくるので、「見定ること能はず」。火は3時間でようやく衰えるが、防火用水道水からは水が出ない。「空既に明く夜は明け放れたり」。その直前にはこう書かれている、「下弦の繊月凄然として愛宕山の方に昇るを見る」。
 空襲によって起きた惨劇直後に朝陽が登るが、それ以前にも闇に包まれた現場に「繊月」が「凄然として」昇ってくる。簡潔にその現れ方が描かれるだけだが、朝陽と月光には強い力が与えられている。その鋭い光が偏奇館を取り囲み渦巻く黒煙や周囲に点在する焦土に向けて、その消滅を見定めようとするだけでなく、崩壊や消失を嘆き、それにあらがおうとするかのようにして現場に差し込む。深くなる闇や黒煙に巻かれまいとするだけでなく、すでに被災に流されまいとする精神の勁い光だ。生の場の消滅を見定め、そのことによってその惨劇に毅然として立ち向かおうとする強い姿勢がうかがわれる。
 この焼亡の夜以前にも、崩壊した街を荷風はすでに何度も目撃していた。その時も、水も来ない悲惨な「滅亡」の現場に立ち向かうかのように、月の光が現れる。近所では警報が何度も響き、砲声も聞こえ、「天地全く死せるが如し」(2・22)。そして、「日本軍人内閣の悪政」を嘆く。
 しかし、一方では「この世の終わり」とも表現される現場に、「冴渡る」月光が注がれる(1・21)。月光は昼よりも明るく雪を照らし(2・22)、「月明昼の如し」(2・27)であり、その強度は強靭なものだ。「半輪の月」(3・20)にしろ、北斗星(2・13)にしろ、その光からは大きな喪失に立ち向かう静かな、しかし毅然として屈しない荷風の姿勢が私にはうかがわれる。
 焼け出された荷風は、友人を頼って、明石、総社、熱海、そして最後は千葉県市川へと移ってゆく。途中で何度も罹災する。消化器系に持病を抱えていたので、また断腸花という別名を持つ秋海棠が好きだったことから、自らを断腸亭と名付けた荷風は落ち込まない。荷風とともに耽美派作家とも称されることのあった谷崎潤一郎とも連絡が取れた。永井も谷崎も性的本能に突き動かされる人々を描き、新たな創作の可能性を切り拓いたが、当時の官憲はこれを公序良俗を乱すものとして、ふたりの創作をいくつも発売禁止にした。永井の「ふらんす物語」(1909年)も、谷崎が永井が主宰する文芸雑誌「三田文学」に発表した「颱風」までも発売禁止処分になっていた。なお、谷崎も「小将滋幹の母」において、春のおぼろ月夜が滋幹に幼児の頃に見た不思議なまでに明るい月の光を回想させている。
 自炊のために倒壊家屋の木屑を集め、「生活水も火もなく悲惨の極みに達した」が、荷風には生活を支える根源的な原風景 ― 月光が触媒になって働き、残されていた断片が集められて再構成される生活の場 ― が根強く息づいていた。それが喪失の現場に現出し、何度も立ち広がろうとする。
 6月3日に明石に移るが、淡路島をのぞむ風光が気に入り、マラルメの詩「牧神の午後」を思い出す。夏菊芥子を見ると、背景に海を広げる静物画を思い描いたりする。掘割沿いを何日も歩く ― 「帆船貨物船輻輳す、崖上に娼家十余軒あり」、「弦歌の声を聞く」(6・7)。汽船の桟橋を見ていて、「往年見たりし仏国ローン河畔」を思い出す(6・20)、明石の「船着場黄昏」が、浮世絵の中でもっとも愛好する歌川広重の風景版画を思い出させる。荷風は電車に乗らずに、「月を踏んで客舎にかへる」(6・21)。暮れなずむ夕暮れ時の生活の情景を荷風は何日も確かめるように日乗に記述する。「深夜名月の光窓より入りて蚊帳を照しぬ」 ー どこか、母性のようなものが広がる。(8・27)
 時に「東都の滅亡」を思い、「暗愁」に沈むものの、荷風はフランス滞在生活と江戸文化に支えられる生活の情景を再構成しようと試みる。アメリカの自然描写とは異なり、フランスの自然には月が昇る ー「この艶めく優しい景色は折から昇る半月の光に、一層の美しさを添え初めた」(「船と車」)。岡山の市街を望んだ7月18日の日記はこう終わる。
 日未没せざるに半輪の月次第に輝くにつれ、山色樹影色調の妙を極め、水田の面に反映す。願望彽徊。夜色の迫り来るに驚き、道をいそぎて家にかへる。途上詩を思うふこと次の如し。

 そう書いて、荷風は9句もの俳句を載せる。そのうちの一句 ― 「日は暮れぬ。日はくれて道を照す月かげ」。
 なお、荷風歌川広重の浮世絵を「手ばなしで」ほめていたし(古屋健三「永井荷風 冬との出会い」)、この広重への偏愛ぶり ― 北斎でも歌麿でもない ― は、荷風の「浮世絵の山水画面と江戸名所」でも確認することができる。
広重の「東海道五拾三次」の中の「沼津 黄昏図」などを荷風はとりわけ好んだのではないだろうか。広重のこの黄昏図(上図参照)では、前かがみになって歩く旅人たちによって寂しい雰囲気が前面に広がるが、三枚橋の向こうには満月に照らし出される沼津宿での安らぎが待っている。「宿場の家並みの屋根と白壁が月の光に浮かび上がり、安息の場が近いことを示しています」(「謎解き浮世絵叢書 歌川広重 保永堂版東海道五拾三次」)。この黄昏図は上に掲載した荷風四ツ木橋のスケッチと類似する構図で描かれている ― 海へと導くような逆「く」の字型に蛇行する川、その右岸の堤の道、画面奥の正面に架けられた小さな橋、平らな広い平面にたいして直立する、荷風が好んでいた樹木や煙突群、それらすべてを静かに照らし出し集める中央の満月・・・。

 正午戦争停止(欄外墨書)
 戦争は終わった。「流浪の身」となって、熱海にたどり着く。しかし、戦後の混乱期においても荷風の日記は変わらない ― 「夕飯の後月よければ(・・・)神社の山に登る」(昭20・8・18)、「深夜月佳なり」(8・19)。8月22日はほぼ次の記述のみだ ― 「夜月色清奇なり」、続けて二句ばかり俳句が書かれているが、その最後の一句は、「庭の夜や踊らぬ町の盆の月」。9月18日の記述は戦争中の岡山での記述と基本において変わらない。「戦敗国の窮状いよ(いよ)見るに忍びず」とあるが、熱海でも荷風は月が湾を照す光景を見て、「今年の中秋は思ふに良夜なるべし」と書き、秋晴れの日にはセザンヌマチスの絵画だけでなく、北斎や広重の浮世絵まで連想することができるだろうと続ける。
 荷風はまたフランスの夏の長い夕暮れ時の美しさも繰り返し書いた。例えば、河原から夕映にけむるリヨンの街の暮れやらぬ姿を倦むことなく、「ローン河のほとり」などで語り続けた。
 逃避とか敗残の姿勢ではない。惨憺たる現実と向き合いつつも、もうひとつの生活を再構成しようと試みている。断腸亭日乗では当時の日本人の生活がローアングルから追われていて、歴史的資料としても貴重なものではある。しかし、同時にここからは戦争へと暴走する軍部と崩壊してゆく社会に対峙しようとする荷風の創意に富む強靭な批判精神が透けて見えてくる。荷風が希求した生活の場を、月光は静かに照らし出し、その場に光彩を添える。
 断腸亭日乗はいわば羊皮紙に書かれている。戦争へと、破壊へと突き進む権力が庶民レベルでどう受け止められたかを知ることができる。しかし、その表面の下からもうひとつの層が浮き上がってくる。危機にありつつも荷風が編もうとした独自の生活が立ち広がろうとする。それは黄昏めいた光に浸されている。しかし、荷風は、圧倒的に多くの文学者が自局迎合の姿勢であった中にあって、体制順応の文學奉国会に入ろうとしなかった稀な作家だった。風変わりな文人の生活だったと思われるかもしれない。しかし、作品から感じられるのは、歴史文化の土壌に基づく深い批判精神であり、それはセンチメンタリズムでも一時の情緒的高揚でもない。そこから聞こえてくる抵抗の、抗議の声は小声でもある。しかし、それは直接的なものではないものだけに、かえってわれわれの想像力をかき立て、根強い訴えの力を語り続けている。崩壊してゆくものへ差し入れるようにして、荷風は本来存在するいとなみの場を現出しようとした。月光によって投影されるその生の場は本来存在し続けるものであり、それは輝き続けている。「竹取物語」に描かれているように、日本においては月は古来から穢れに満ちた地上とは異なり、清らかで精神を高める不死の力に満ちた場でもあったのだ。

 「あめりか物語」(明41年)
 荷風アメリカ・フランス滞在生活は通算するとほぼ5年間に及ぶが、特徴的なことは日本大使館の小間使いや正金銀行行員として気の進まないまま父親久一郎に勧められたアメリカでの生活を送っていた荷風が、滞在3年目を迎えるあたりからその生活の基調を変化させていることだ。アメリカ流の機械文明の繁栄ぶりに馴染めず、英語嫌いだった荷風アメリカでカレッジなどに在籍して仏語学習に励み、この頃ボードレール理解を深め始めている。また、念願のフランス滞在のための資金も溜まり始め、フランスに行く準備が整い始めていた。荷風はその頃すでに独自の世界を見出し、精神も高揚することになった。
 アメリカ滞在が終わる頃になって、「あめりか物語」に月光が恋人とともに頻出するようになるし、ボードレールの詩句が引用されるようになる。「自分は、この年、この夏ほど、毎夜正しく、三日月の一夜一夜に大きくなってゆくのを見定めた事はない。(・・・)月の光さえなくば、(・・・)自分は・・・ロザリンは・・・二人はかくも軽々しく互いの唇をば接するには至らなかったであろう」。「二人は(・・・)相抱いたまま月中に立竦(たちすく)んでいたのだ」。「断腸亭日乗」以前に書かれた「あめりか物語」後半に恋人ロザリンともに頻出する月光は、月の光が現出させる世界が、いかに若い頃から深く荷風の存在に根差していたかを物語っているのだ。

 



                                    編集協力  KOINOBORI8
                              
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