戦時下のフランスに島崎藤村が見たもの

 小説家島崎藤村(1872−1943)は、第一次世界大戦前後の混沌としたフランスに3年間滞在する。藤村はすでに『家』などの自伝作家として評価を得ていた。社会の偏見に苦しみつつ目覚めてゆく個人の内面を凝視する求道的作風で知られていた。しかし、「家」は家父長という旧弊に取りつかれた人の悲劇を描いたものであり、家を包む大きな時代状況を描く視座はまだ獲得できないでいた。また、藤村は実生活において姪との不倫の恋に悩んでいた。葛藤を抱え、壁に取り囲まれるような思いにとらわれ、深い危機に陥っていた。私生活に関わるスキャンダルから逃れるようにして、藤村は42歳の時に神戸港からフランスに向けて旅立つ。華やかな門出でも留学でもなかった。日本を後にする船上から兄に手紙を出し、姪との不倫の後始末を頼んでさえいる。
 パリに着いても、朝日新聞に書き送る記事は当初は単なる旅行記に近いものだった。藤村にとってのフランスは、流行を追い珍奇なものを好む倦怠の国であり、常套句でもって描かれる国であった。しかし、第一次世界大戦戦時下(1914−1918)、空襲にさらされたパリは、惨禍から立ち直ろうとして強靭なまでの生活力を発揮していた。そうしたフランスの庶民の生活に間近から接し、見聞を深めてゆくうちに、藤村の描く『仏蘭西だより』は、その調子を変えてゆく。
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1914年8月30日 パリでの最初の空襲、ドイツの航空機が4発の爆弾を投下した。
(写真はセーヌサンドニ駅構内)法医学鑑定サービス/BHVP/ロジャー・バイオレット


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1914-1918 畑では女が男にかわり家畜のように働いた。
Paysan Breton  Les paysannes, ces héroïnes oubliées de la guerre 14-18  Carole David
 そこには、たゆまずひたむきに働き続ける職工たちや、戦地にすすんで赴こうとする芸術家たちや、農作業に励み続ける農夫たちの姿が描かれる事になる。現実に根差して生きる人々に関心を抱くようになる。自己凝視を続けてきた藤村は、庶民のたくましさを追うことによって、それまで自らのものとすることができなかった外部への視線を習得するようになる。大きな歴史観や思想によっては取り上げられてこなかっった、具体的な生活の諸相は、やがて「芽をつむぎつづける力」とも表現されることになり、藤村のその後の創作活動の幅を広げる原動力のひとつになっていった。
 藤村はノートルダム大聖堂にしても、そこに建立当時の中世ゴチック期だけでなく、さらに紀元前に遡るフランスのルーツのガリア時代の精神の発露を見てとるようになる。大聖堂が過去と重層的につながりながら建立されてきたことを知り、伝統には「死から持来たす回生の力」が潜んでいると書くようになる。文学者では、伝統に創造との連続性を見出そうとするシャルル・ペギーやシャルル・モーラスを好んでいる。遠い過去にまで遡り長い時間のスパンで物事を俯瞰する視座は、やがて『夜明け前』に盛り込まれることになる。こうして、フランスの庶民たちの生活力と、今に生いる伝統の力は、藤村に新たな展開をうながすものとなった。
 渡仏してから一年あまりたった頃、藤村はパリから約400キロ離れた自然豊かな地方都市リモージュに2ヶ月あまり滞在する。リモージュの子供たちに日本の子供の遊びなどを教えたりして、滞在を楽しむ。こうした幼い子供との無邪気な交流が、藤村に幼年時代の記憶を呼びさましたことは想像にかたくない。藤村は童話を5冊も出版しているが、そこにおいては物語は父親が子供に話しかけるという一方向的な形で進められる。しかし、リモージュでは父親役の藤村は当地の子供達に遊びを教えるだけではなく、子供たちからの情愛に富む反応を受けて楽しんでいる。藤村は遊びにおいて父親役である自分を見上げる子供の立場に自分自身を何度も置いてみたはずだ。そうすることによって、藤村は自らのうちに実父正樹への深い情愛が潜んでいたことを意識し、それを顕在化しようと思い立ったとしても不思議ではない。文明開花の首都東京に10歳の時に出たまま疎遠になっていた父正樹への情愛を意識化し、父と故郷を言葉の力で復興させてみよう・・・・。童話における父から子供への呼びかけは、リモージュにおいて父子相互間の交歓に展開され、交わされるその無邪気な交流は藤村を動かすことになった。藤村は父親正樹や故郷との再会の機会を探るようになった。藤村は、短いながらもリモージュ滞在が、自分にとっては「蘇生」のきっかけになった、と書いている。小説『新生』にも、「何よりも自分は幼い心に立ち返らねばならない」という文が書かれている。
 実際、代表作『夜明け前』には、フランス滞在中に習得したものの見方が盛り込まれている。渡仏以前に執筆された『家』では小説舞台は個人や家という狭く閉鎖的なものだったが、フランス滞在中に個的なものを包摂するより大きな新しい見方 ― 空間と同時に時間においても ― が盛り込まれ、小説世界は大きく変貌する。上京以降ほとんど帰郷しなかった藤村は、父親を含むより広い母胎としての故郷に回帰する。
 『夜明け前』で描かれる明治維新は、江戸から明治へという時代区分が強行される地点ではない。短いスパンの時代区分のよっては無視される中仙道馬籠宿周辺の生活が長い時間軸に沿って辿られてゆく。「少なくとも百年以前に遡らねば成るまい」という文も書かれている。あわただしく変動する明治維新にあって列強による植民地化を防ぎ国の独立を守るのに貢献したとして、中世以来の伝統や平田国学の役割が再検討されている。長い時間をかけて国民意識が胎動し始め、また内発的な力が発揮されてゆく姿が多角度から追われるようになった。明治維新が西欧文明によるインパクトによっってもたらされたもので、日本はただその外圧を受動的に受け入れられたとする文明論を再検討しようとする。日本は明治維新でめざめたわけではなく、それ以前から内発性が継続して培われていたという考えだ。思い起こそう、藤村はノートルダム大聖堂が建立されたフランス中世の精神だけでなく、さらに遡ってフランスのルーツである紀元前の「ガリアの血を示した野生」によっても建立されたことを指摘していた。
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降嫁のため江戸へ下向する和宮の壮麗な大行列(『和宮江戸下向絵巻』部分)
サイト「江戸ガイド」より

 カメラアイが切り替わり、木曽の中仙道馬籠宿周辺の庶民の生活がローアングルから活写されることもある。野鳥を食する魅力あふれる食卓や、中仙道を京都から江戸へと中仙道を下向する皇女和宮お輿入れの長い行列の見事な描写。和宮を無数の嫁入り道具とともに迎え入れる馬籠宿本宿側のこれまた無数の行き届いた支度。大政奉還の噂に、「ええじゃないか」と歌い踊る村人たち。官軍に追われて街道を辿り、北陸にまで落ちのびようとする旧幕臣の手負いの名もない残党たち。東海道はまだ整備されていなかったから、中仙道のほうが幹線であり、それは山の中の道だが、歴史が刻される街道でもあった。それぞれにおいて史実が踏まえられ、詩人藤村の文は想像に走ることが抑えられていて、平明でのびやかだ。歴史上知られた人物群だけでなく、「下積みの人たち」、「従順で忍耐深いもの」への共感が底流している。個人は同時に風土や共同体や歴史のいとなみによって取り巻かれているという見方は、藤村がフランス滞在で学び取った視点だ。藤村はそれを独自に展開させ、「草叢の中」から小説を書いた。時代の大きな変革期に右往左往する日本の姿が、中仙道を軸にして何層にも渡りながら一大絵巻となって繰り広げられる。
 「夜明け前」という稀有の大作は、1929年から7年かけて執筆されたが、その際馬籠宿での生活が40年に渡って書かれた大黒屋日記などが資料として使われている。この造り酒屋当主の筆による日記によって木曽の人々の生活や風土の描写は、時間の推移にともなうものとなり現実感に富むものになった。
 第二部において、平田派の国学者として王政復古という見果てぬ夢を追う主人公青山半蔵は、家運が傾いたこともあり宮司にもなるが、馬籠で生きることを決意する。しかし、新時代に託した思いも遂げられず、深い失意や悔いをおぼえ、最後は焦燥にもかられ、座敷牢で狂死する。巻末では小説を支えてきた大黒屋日記の記述が消え、半蔵個人の悲劇がやや突出して描かれているような印象を受けるが、しかし半蔵のおぼえる危機感は切迫する思いとなって伝わってくる。青山半蔵のモデルは、平田派の国学者として数奇な生涯を終えた父島崎正樹であるが、正樹は参勤交代の大名や公家が泊まる馬籠宿本陣・問屋・庄屋を兼ねる17代目の当主だった。その内面に息子の藤村は愛情のこもる照明を当てた。
 この小説は、文明史的考察をはらみながら、時に個々人の生の深みにまで踏み込み、多声的に交響しながら展開される。この稀有な長編小説の執筆は、藤村が3年間フランスに滞在したからこそ始められたのであり、またその実を結ぶことができたのである。
『二十世紀の十大小説』で著者篠田一士は、第10章を藤村の『夜明け前』に割き、そこでこの小説の魅力を縦横に論じている。
 

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