甦る旧軽井沢別荘


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 山荘風の旧別荘を久しぶりに訪ねてみた。近親者が所有していた縁で、三十年以上毎年夏になると家族でその別荘に通った。しかし、昭和6年に建てられた木造の別荘は、骨組みこそしっかりしたものではあったが、軽井沢特有の湿気に90年間さらされさすがに少しずつ傷み始めていた。台所の屋根などは
大きく傾き始めた。
 維持するにしても、二階には部屋が四つもあり、補修や管理には大きな困難が予想される。一家族で使い続けることは不可能だ。ポストモダンの先例として再評価されているアメリカの建築家ウイリアムヴォーリズによる設計であったために、保存することも検討しなくてはならない。となると、どうすべきか。
 別荘の所有者の代替わりを機に、別荘全体を移築して保存する方向で可能性を探ることになった。しかし、一口に移築といっても、台所の屋根だけでなく窓枠なども相当朽ちてきている。補修工事だけでも相当な規模のものになるはずだ。模索や交渉は長く続いた。いっそ保存などではなく、分割してはどうかという案まで出された。しかし、ふだんはおとなしい私の妻が、この軸のぶれた案を断固として拒否した。まさに、「却下」で、一蹴した。じつは妻はその時何も口に出しては言わなかった。圧倒的な無言の、しかしとても雄弁の「否!」だった。毎年一ヶ月は過ごした少女時代の夏の軽井沢の思い出を壊したり、食堂と居間が一体となった「グレートホール」での賑やかなさんざめきの残響を消し去るようなことはしたくなかったのだ。
 大きな企業も二、三乗り出してきた。しかし、話はやはりまとまらなかった。私有という形にこだわる所有者側の一部からは苛立った発言も飛び出した。しかし、最後の最後になって、文化財の保護や維持に関心を寄せる篤志家のような方が現れた。大きな別荘はそのまま原型をとどめる姿で中軽井沢の塩沢湖畔に移築され、全体が補修されることなった。
 町民の方々が移築と補修に協力してくださった。自然石を積みあげた野趣に富む暖炉は、石のひとつひとつにまでナンバリングされたうえで搬出され、隣の中軽井沢まで運搬されていった。軽井沢の歴史文化の保存活動を行う軽井沢ナショナルトラストには本当にお世話になった。2008年に移築工事は完成した。個人の力だけでは起きないような展開が、最後に起きた。
 その後、手放した別荘にはしばらくのあいだ足を向けないでいた。というよりも、足を向ける気持ちになれなかった。旧軽井沢碓氷峠麓の二手橋付近の初期別荘地から、中軽井沢の一般公開される施設の中に移築されれば、新しい環境の中で別荘は大きな変質をこうむるだろうし、夏の思い出そのものまでもが変容してしまうのではないか。博物館のような所に標本として置かれて、別荘はただひたすら身を縮めて眠り込んでいるのでは・・・・。
 しかし、数年おいて晩秋にひとりで塩沢湖畔に行ってみた。そこに移築されて静かにたたずむ旧別荘が遠くから目に入ったとき、抱いていた危惧など一気に消え去った。杞憂にすぎなかった。山荘風別荘は新たに湖と森に囲まれていて、今まで気づかなかったような新鮮で開放感溢れるシルエットで甦っていた。思わず息を呑み、しばらくその場に立ちつくした。

石積みの暖炉

 昭和六年に建てられた時は「グレート・ホール」と呼ばれた、居間と食堂がひとつなぎになった居心地の良い空間 ― 現在この間取りは、家作りにおいてもまたマンションにおいても、主流の形となっている ― の何本もの丸太大梁の天井は、湖面からの反射光によって浮き彫りにされ、新しい表情を見せていた。別荘全体に光と風がたっぷり入ってくる。石積み暖炉の野趣に富む大きな自然石は、別荘が本来閉ざされたものではなく周囲に開かれているものであることを改めて語り始めている。木々に隠れて見えなかった瓦屋根の緩やかな勾配も、建築家ヴォーリズが洋風建築の直接的な移入は好まず、日本の風土に適した和風の屋根のやわらかさも取り入れたことを物語っている。丸太板の外壁も、親密感漂う素朴なものだ。音を軋ませながら上った緩やかな勾配の階段の手摺りは、子供たちが滑り台としてまたがろうとした幅の広いものだったが、そのどっしり感が温かい手触りとともに甦ってくる。何層にも積み重なる和洋の記憶が立ち広がってきた。


 ちょうど、ブライダルの写真撮影のためだったのだろう、カップルが別荘の前に来てポーズをとっていたが、花嫁のドレスの長い裳裾の白が、一階二階のテラスの木組みの白と、足元の湖面とに挟まれて、浮き立って見えた。
 それ以降、私は折を見ては旧別荘を訪れるようになった。別荘は紅葉の時期などスケッチのスポットになっているらしく、数人の町民たちが湖畔に座り湖と別荘を描いていた。また、ある年には別荘は町のカメラ自慢の展覧会場として開放され賑わっていた。
 別荘内部でいとなまれていた所有者のプライベートな生活だけが思い出されたわけではなかった。別荘は所有者個人に限られることなく外に開かれていて、周囲の自然や町民たちの生活にも応えていた。夕映えの中に溶け込む別荘は、周囲の風土と同じリズムで生を刻んでいるようだった。
 山荘風別荘は、今まで気づかなかったような精彩を放っていた。建築家で宣教師でもあったウィリアム・ヴォーリズは軽井沢を好み、避暑団(現軽井沢会)副会長も務め、宣教師たちの活動を支援し、さらには町に別荘や教会なども作った。それらの簡素とも言える建築には、人々が出会い集えるような広い場がどこかに設けられている。山荘風別荘にも、イギリス中世の領主館を思わせるグレートホールが設けられた。この広い居間は日本各地に点在するヴォーリズ建築と相似形となって共鳴するものものであり、そのことを私は遅ればせながら知ることになった。
 長野県には優れた木造建築が数多く存在する。和風と洋風の折衷スタイルの旧開智学校松本市重要文化財)はその代表例だ。オランダ風で茅葺き屋根野尻湖ホテルや長野駅舎の和風の屋根もその例に数えられるが、このふたつの木造建築物のほうはともに取り壊され、現在では見ることができない。別荘はそれらの木造建築群が編む豊かな文脈の中に置かれ、新たな輝きを放っている。なお、旧長野駅舎は、新幹線敷設に伴い、平成8年に取り壊しの決定が下されたが、それ以前は仏都長野の善光寺とともにその堂々とした建築美を誇っていた(「藤森照信「信州の西洋館」)。

野尻湖ホテル(絵葉書)
昭和11年長野駅https://nagano.mypl.net/article/memories_nagano/43204

 しかし、築90年という時間のあいだには、別荘がこうは見えず、小さく見える時期があった。別荘が個人による所有物であることがことさらに語られる時期があった。ある一時期周囲から隔絶された領主館のようになった。出入りしていた旧華族たちの、伯爵だの公爵だのといった称号付きの重々しい名前がノスタルジーに浸りながらゆっくりと発音されるようになった。
 そのうちに、別荘族を招待した舞踏会が催されたなどというあやしげな話までが、まことしやかに語り出された。舞踏会という言葉だけがひとり歩きを始め、さらには外にまで名乗り出るようになった。別荘は、ファンタズムが紡がれる特権的な別世界になってしまった。しかし、居間兼食堂のグレート・ホールは所有者ひとり語りの独演会には大きすぎた。公爵から頂いたという壁に掛けられたアフリカ野牛の長い首だけが、何度も繰り返し語られる流離することのない貴種流離譚を退屈そうに聞いていた・・・。
 建物についてのひとつの考えを手短に紹介させていただきたい。哲学者ヴァルター・ベンヤミンは書いている ―  室内は町や風景にも拡大されることが可能だし、また逆に町や風景は室内の性格を帯びることもあり、客間のような働きをすることもある、と。つまり、室内と町・風景とのあいだの境界や区別が曖昧なものになり、両者のあいだには相互浸透が起こるし、両者が相互補完の関係に入ることがある、と論じている(「パサージュ論」)。
 私などは、この箇所を読んだとき、和風建築における室内と外部との関係を思い浮かべてしまった。障子や雨戸といったものは、家の内と外とを障壁となって遮断する物ではなく、むしろ内と外のあいだで起きる相互浸透の度合いを調節するものではないだろうか・・・・。
 また、ベンヤミンの論考から展開すれば、こうも言えるだろう ― 写真撮影の際には、対象を間近から視点をひとつだけに絞って凝視するようにして接写するだけではなく、時にはカメラを引いて視野を広くして、周囲の空気感も取り込むことも必要なのだ。個々の対象を個別にとらえているだけではなく、他の事物たちも一緒にレンズに収め、対象が他の事物たちや過去と結んでいる関係をその周囲に広がる記憶も含めて、ながめることも必要なのではないだろうか。平板だった一葉の写真は、四次元の立体に変容し、時間の中を動き始める。そうした時、被写体として対象として絵葉書のように静かにおさまりかえっていたものが、不意に動く。周囲のものとも生きた関係を結び始める。戸建ての家も周囲と生きた関係を結び始める。




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