酉の市の招福熊手、パン生地、土鍋


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  神社で開かれていた酉の市に行ってきました。以前にもまして賑わっていて、招福熊手もよく売れていました。商談成立後の威勢のいい三本締めの掛け声が小雨模様の露店のあちこちからはじけました。手締めによって売り手は活気溢れるパワーを買い手に返礼として送っていました。招福熊手は商売繁盛や開運を祈り「福をかき集める」熊手とされ、そこにはお多福や七福神や宝船や大判小判などの縁起物が豪華に盛り上がるように飾り付けられています。
 残念ながら今ではほとんどすたれましたが、おもしろいのは、その買い方の作法です。招福熊手を安く買うほど縁起が良いとされていたので、買い手はまず売り手と値切り交渉をはじめます。しかし、割り引いてもらっても、買い手はそれをお釣りとして懐に収めてしまうのではなく、そのままお釣りは全額売り手に御祝儀として返金します。すると、売り手は買い手からの返金に応えて、例の勢いのある三本締めで応えます。返礼という気持ちのやり取りが売り手と買い手のあいだで交わされ、そのことによって熊手はさらに輝かしくされます。熊手という商品には情緒という付加価値が付け加えられてゆきます。
 セルフ・レジや通販にすっかり慣れてしまい、つい忘れがちになりますが、物を買うという行為は買い手一人だけで成立するものではなく、金額に還元される交換だけに終始することのない、返礼や贈答の要素をも含んだやり取りが売り手と買い手のあいだで交わされて成り立つものでもあったのです。忙しい日常を送っていると、こうしたやり取りなどまどろこしく映るでしょう。でも、共感が生まれる対面での、人間臭いとも言えるこうした売買には、通りがかった人を立ち止まらせるような活気に溢れていました。
 熊手を買った人は、福を多くかき集めることができるように、熊手をそのまま高く掲げて持ち帰ることが勧められています。大丈夫です、そんなことは知らなくとも買った人は熊手を高く抱えて権助坂の長い急坂を意気揚々と上って行きます。人ごみをかきわけ、背筋をピンと伸ばして・・・・。賑やかさに囲まれて、私もなんだか大鳥神社を中心とする下目黒という地域社会に参加したような気分になり、気持ちがほっこりしました。

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パン生地

 コロナ禍が長く続いているため、外出を控えめにする巣ごもり生活のような日常を送っています。刺激の少ない、単調な日々・・・・。
 でも、そんな中にあっても、小さな驚きが足元に転がっていることに気づきます。例えば、Vlogの動画がゆっくりと映し出す身近な日常が妙に生気をおびてこちらに迫ってくる瞬間があります。
 トントントントン、包丁の音は実際たしかにこんな音だったっけ・・・・。シロウトカメラマンによる異様なまでの沈黙の長回しに付き合ううちに、時間というものがこんなにも遅延されるものだったことに気づきます。ビデオのこのアングル、こんなのは「ナナメッテル!」と言われて、許されてこなかったけど、でもこうして見直してみると、これも意外にざん新でおもしろい。セザンヌ静物画でも上下左右は少し歪んでいる。カメラは時に手振れも起こしつつも、常態化した空間構成でない、独自の世界を時におどおどしながらも作り始める。
 Vlogの中でも、〈おうちでパンを焼こう!〉といったタイトルのものはいくつか見ました。料理はあまり得意ではないので、ふだんは料理番組には興味が湧きません。でも、パン生地が、パンを作る人の手でもまれ、適度の湿気や温度も与えられて、うまく整えられ休まされると、物質の塊と思えてきたパン生地が発酵を始め、つまり生を得ます。 それが自ら何度もふくらむでありませんか。それも見事な大きな張り切った球体となって・・・・。生物のようにふくらみ、充満した球体をものも言わずに視線にさらすではありませんか! 物の形の中でもっとも美しいのは、円だ、とフランス哲学者ガストン・バシュラールは書きました。見るだけで満足することなく、手を伸ばして、生き始める球体の手触り感を確かめたくなります。
 とりわけ、レシピ後半のベンチ・タイムに惹きつけられました。一次発酵後のパン生地からガスを抜き、それを手で丸めて、綺麗ないくつもの球体にする。乾かないように、時には霧吹きを吹きかけ、絞った濡れぶきんをかけ、ベンチで十五分ほど休ませる。パン生地を緩め、最後の成形のために伸びやすくするためです。だから、ベンチ・タイムのあいだは作る人はその場を離れずに、休んでいる球体をウォッチングするほうが良いだろう、そう言う人もいる。肝心の箇所なのだ。その後トッピングなどとともに形成されると、素材はまた生成し始める。作る人のもみ方などに応じて、息づき始め、時には気難しく反応する。生地はモノを言わないだけに、作る人はその球体のご機嫌をじっとうかがう。ベンチ・タイムで休む球体を女性にたとえる人もいる。
 時には二倍にまでにふくらむ球体群が、シロウトカメラマンの薄暗い動画像の奥から静かに浮き上がり、こちらに迫ってくる。ナレーションもなく、音楽も流れない。予想外の角度と距離でカメラがパン生地を執拗に追う。薄暗がりの奥から、パン生地は少しずつ、裸形の生々しくはりきった姿を現わす。ベンチ脇に立つ監督の手を離れ、球体は堂々と独り立ちする。トッピングなどで美味しく仕上げられる前の、素の健康美に立ち会うことができる。

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土鍋

 土鍋があったはず、と思い、台所の下をはいつくばって探す。積み重なった皿類の一番下から土鍋を引っ張り出す。重ッ。でも、土のぬくもりを感じさせる素朴な風合いが、冬になると活躍してくれるはずだ。
 ぼってりとした丸い形が、食卓の中央に置かれる。すでに意外なほどの場所を占め、すでに今夜の主役然としている。しかし、この土鍋、コンロの上に置いて火にかけても、なかなか反応しない。レンチンなどの手軽さに慣れた身にとっては、この待ち時間がひどく長い。
 でも、スマホには手を伸ばさない。当方、せっかちであることを自認しているので、こんな時はあらかじめ日本酒を用意しておく。チビリチビリとなめながら、正面の土鍋の反応をうかがう。やがてしばらくすると、何かが音を立てる。鍋の中身が動いたのか。鍋の蓋が動いたのか。
とたんに、鍋に顔を近づけるようにして家族が思い思いのことを口にし始める。待ち時間は長かったが、土鍋が調理を始めている、確実に食材の芯まで温め、野菜から味も香りも引き出し、美味しいものを作ってくれている。振る舞ってくれるに違いない。「今日は薄味で行こう」、「ポン酢無くなっている」、「・・・」、「・・・」。みんな鍋を囲み直し、調味料や締めのご飯にまでチェックを入れる。
 土鍋の大きな蓋がガチッと動く。やがて、湯気が吹きこぼれるように噴き出て、香りが広がる。土鍋はたったひとりで食卓を演出し、グツグツ煮込んでホロホロにしたご馳走を仕上げてくれる。保温力もすごい。食材の芯から引き出した旨味を他の食材に浸透させ、翌日もさらに少し違う味に仕立てて出してくれる。まるで何事もなかったかのような顔をして。

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 谷崎潤一郎『陰翳礼讃』の中にこんな一節があります、「西洋人は闇を嫌い、隠を払い除け、明るくしようとする進歩的な気質があるのに対し、東洋人は己のおかれた境遇に満足し、現状に甘んじようとし、それに不満を言わず、仕方ないと諦め、かえってその状況なりの美を発見しようとします」。
 この文の前半の西洋人が「闇を嫌い、隠を払い除ける」との指摘には納得がゆきます、例えば、作家アルベール・カミュは芸術作品を闇の中で虚空を照らす灯台にたとえます。芸術作品には、微力ではありますが、闇に敢然として立ち向かい、進むべき進路を照らし出し、人を導く力があると指摘します。
 後半の東洋人の美意識 ― 「その状況なりの美を発見しようとします」 ― にも賛同します。ただし、私は東洋人が「現状に甘んじようとし、それに不満を言わず、仕方ないと諦める」とは思いませんし、ここにはやや誇張さえ感じられます。東洋人がそれほど消極的であるとは思いません。また、『陰翳礼讃』では東洋人の美の例として、お歯黒や厠、つまり和式トイレのしつらえ、金屏風、行燈、螺鈿といった谷崎美学のやや限定された特殊なものが並べられてもいます。高尚な谷崎美学でなく、もっと身近な日常生活の身辺から美や生の例を見出すことはできないでしょうか。
 こう言ってしまってから、ふと思い出しました。谷崎も、和菓子やお椀といった日常茶飯の中からも美や生の例を見出していたことに気づきました。さっそく、読み直してみました。
 「私は、吸い物椀を前にして、椀が微かに耳の奥へ沁むようにジイと鳴っている、あの遠い虫の音のようなおとを聴きつゝこれから食べる物の味わいに思いをひそめる時、いつも自分が三昧境に惹き入れられるのを覚える」。
 「玉(ぎょく)のような半透明に曇った肌が、奥の方まで光りを吸い取って夢見る如きほの明るさを啣んでいる感じ、あの色あいの深さ、複雑さは、西洋の菓子には絶対に見られない」。
 この日常に食する和菓子は何だと思われますか。そうです、羊羹です。


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