(1/2)なぜ「銀河鉄道の夜」の続篇「銀河ふたたび イーハトーヴのほうへ」を創作するのか


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 「銀河鉄道の夜」は、作者宮沢賢治が亡くなる1933年(昭和8年)までの10年間、繰り返し書き直されました。現在残されている最終稿にしてもそれは決定稿ではなく、賢治が生きていれば、その後にも加筆や訂正が行われたはずの未定稿と考えられています。
 「銀河鉄道の夜」は死後出版された未完の童話ですが、その枠を越えるような傑作です。大正時代に全盛を迎えた私小説には見られなかったような、社会への問いかけが含まれた、斬新な詩情に富む作品です。私小説では多くの場合、ウエットな風土において作家個人の<私性>が執拗に凝視されましたが、昭和に入ると、そうした狭い殻は打ち破られ、新しい創作の時代が到来し、多くの傑作が生まれます。「銀河鉄道の夜」は、こうした昭和初期の文芸興隆期を代表する作品のひとつです。
 沈痛な美しい闇も描かれますが、物語の舞台ははるかな銀河へ、天空へと膨らみ、銀河を旅するふたりの少年の周囲で繰り広げられる物語には多くの魅力が秘められています。暗黒星雲も現れ、時には神秘的にもなるし、少年がおぼえる孤独も喪失感も描かれますが、星々は実在感に富み、そこに宿る生命感はわれわれ読者を新しいファンタジー、幻想の世界へと連れ出してくれます。同時にこの童話にはそれだけにはとどまらない、生と死とか社会活動といった大きな問題も実ははらまれていて、それらはこの童話に深みのようなものを与えています。

画像はGAHGより

 しかし同時に、この傑作には展開がなめらかに進まない箇所が何箇所かあり、このため読者はある当惑をおぼえることになることは指摘しておきましょう。
 例えば、作品巻末で主人公ジョバンニの親友カムパネルラは水死しますが、親友との死別というこの作品の最大の事件にしても、その箇所では話があまりにも速く性急に進んでしまいます。もちろん、親友カムパネルラが川に落ちた友人を救おうとして自己犠牲ともいえる行為を行い、溺死を遂げることはよくわかりますし、そこに緊迫感が広がり、事故現場に駆けつけた主人公ジョバンニが覚える絶望や喪失感も伝わってはきます。しかし、友情の喪失という悲劇を描写するにしては、事態は何度かあわただしく急変するし、主人公の心情も充分には描かれません。傑作にしては結末はあまりにも唐突なものになっています。この結末には、もっと多くの字数が必要ですし、もっとたっぷりとしたテンポの展開が必要だったはずです。さらなる加筆補筆がなされるべきだったのではないか、と思ってしまいます。尻切れトンボ状態で終わっている、という思いがぬぐいきれません。
 結末がそれに先行する物語とは違う性急な調子で書かれていることを確かめるためにも、まずはカムパネルラとジョバンニの友情にまつわる場面を少し具体的に見てゆきましょう。

 ふたりの友情は、作品全般にわたって間欠的に反復されて描かれてゆきますが、その関係はサスペンスのように未知の部分をはらみながら、作品を構成する重要なテーマとなってゆきます。精神上の探究を共有しつつ次第に深まる少年同士の友情は作品を貫き、その豊かな主調は読者を強く引きつけます。
 カムパネルラとジョバンニは学校の同級生ですが、カムパネルラのほうが精神的には成熟していて、示唆し暗示するようなやり方でジョバンニに多くのことを教え、彼を導こうとします。銀河のことをジョバンニに教えたのはカムパネルラですし、級友たちから仲間はずれをされるジョバンニのことをなにかと気遣うのもカムパネルラです。
 銀河鉄道の白鳥の停車場で、「白鳥を見るなら、ほんとうにすきだ」と言って ― といってもただほのめかすだけで理由は言いません ― 白鳥地区の野原の美しさにジョバンニの目を開かせるのもカムパネルラです。
 カムパネルラはその後に突然銀河鉄道の車内から姿を消しますが、その失踪直前にはるか彼方の野原 ― おそらく白鳥地区の野原 ― を眺めながら、何かを「決心」したかのような態度で謎めいたことをジョバンニに語りかけます ― 「みんな集ってるねえ。あそこがほんとうの天上なんだ。あっあすこにいるのはぼくのお母さんだよ」。
 ジョバンニはその内容が理解できませんが、何かしら重大なことを口にするかのような真剣なカムパネルラの態度に圧倒されたのか、彼に「どこまでもどこまでも」ついてゆこうと心に決めます。
 実際、作者宮沢賢治は、人から投げかけられた友情には応えなくていけないという信念の持ち主でしたし、それが芸術作品を生む力にもなると考えていました。
 カムパネルラが溺れかけた友人を救うものの、自らは川で水死する最後の場面にしても、意外なことが書かれています。親友カンパネルラとの死別の現場を前にして、ジョバンニは悲しみにかきくれて、ただその場に立ちつくすわけではありません。ジョバンニは、意外にも、自己犠牲を遂げたカンパネルラがそのままただちに転生して、銀河のほとりでまだ生き続けていると思います。そして、川ではなく、親友が転生しているはずの銀河のほうを見上げます。カンパネルラの死ではなく、天の川にのぼって受けた新たな生のほうを思い浮かべます。そのとき、人はジョバンニに「水死」とは告げません、「カンパネルラが川にはひったよ」と告げています。川は銀河のように見え、「ジョバンニはそのカムパネルラはもうあの銀河のはずれにしかいなゐといふやうな気がしてしかたなかったのです」。
 しかし、ジョバンニに起きたこの大きな心境の変化についての賢治による説明は書かれていません。賢治は登場人物の心理をあまり分析しない作家です。でも、死から生へ突然の転生が起きたのです、何らかの説明のような記述があってもおかしくないはずです。賢治は、カンパネルラの再生については、いずれ加筆によってなんらかのか説明を書き足そうと考えていたのではないでしょうか。
 また、作品の結末においては、ジョバンニは病気のおっかさんの滋養のために探していた牛乳を首尾よく手に入れ、牛乳を家に持って帰ります。その直後に、作品は次の文で突然終ります ― ジョバンニは「(・・・)一目散に河原を街の方へ走り出しました」。
 つまり、親友の溺死という大事件にもかかわらず、親友の転生を天の川に確かめると、現場を離れ、家にすぐに帰り、そこで母親と北方への漁のために長く不在だった父親の久しぶりのの帰宅を知り、家にとどまって小さな慰安に浸ろうとするのかと思いきや、最後の最後に今度はジョバンニは家から不意にふたたび外へ走り出してしまう。まるで、これから何か大きなことがさらに起きるかのような所で作品は終わってしまいます。こうしたいくつかの短いエピソードだけが立て続けに並べられているばかりで、急激ないくつかの場面転換を無理なくつなぎ合わす大きな脈絡のような流れが十分には感じ取ることができません。
 いったいどうして川で水死したばかりのカンパネルラが生き返って銀河にのぼったように見えたのでしょうか。なぜ、突然家族の団欒が再び構成されたのでしょうか。なぜ、ジョバンニはその地上のハッピーエンド風の家を飛び出して、何かに駆り立てられるようにまた外に走り出て、街のほうに向かったのでしょうか。
 
 賢治がもう少し長生きしていたら、このあわただしく進行するカンパネルラの自己犠牲の場面に加筆を行い、読者を納得させるような展開を新たに執筆し、未完の最終稿を決定稿に高めようとしたのではないか ― そんな想像が脳裏をかすめます。
 浅学非才も顧みずに、私なりの「銀河鉄道の夜」続篇を、<創作「銀河ふたたび イーハトーブのほうへ」>と題して創作することをお許しください。病のために最晩年の代表作とも言われる作品に自らの思いを具体的に託すことができなかった賢治の無念のようなものが私を促し、続篇創作のペンを私に握らせようとするのです。
 私としては、次のような大筋で続篇を構想してみます ― 最後に家から飛び出たジョバンニは、溺死後に転生して銀河にのぼったと思われるカムパネルラを追いかけて、自らも地上から離陸し、銀河へ向かう旅をふたたび試み始めはじめたのではないでしょうか。そうした想像の翼が私の中で広がりはじめます。そう、カンパネルラに「どこまでもどこまでも」ついてゆく、とジョバンニは銀河鉄道の車内で誓ったのです。
 大胆な想定ですが、私はカムパネルラと銀河において再会しようとする、ジョバンニ単独行の旅を次回ブログにおいて「続篇」と題して描いてみたいと思います。ジョバンニが死後のカムパネルラを追って銀河へふたたび舞い上がる二度目の旅を。きっと、カンパネルラは、銀河鉄道の車内で出会ったような土地の人々と一緒になって、銀河のほとりで働いているように思えるのです。
 そして、現行版では伏線のまま回収されることなく未完の状態で放置されている白鳥停車場周辺の美しい野原にもっと記述を加え、さらに具体的な文脈の中に入れて魅力に富むものにしてみたい。そこでは銀河で転生したカンパネムラがもうすでに率先して働いている、野原をさらに輝かそうとしてきっと土地の人たちとも話し合いながら・・・。そこに、ジョバンニは地上からようやく合流します。根源的な母性を想わせ豊かな収穫が予感される白鳥停車場周辺の広場は作品の核にもなるはずだったと思われてならない・・・・。
 ジョバンニは、必死になって銀河まで上昇し、白鳥停車場周辺でカムパネルラに追いつこうとします。彼と一緒に働こう、野原をさらに輝かしいものにしようとして。
 こうした独自の「続編」を構想するとき、賢治のいくつかの先行作品がヒントを与えてくれました。「薤露行」、「マリヴロンと少女」だけでなく、「銀河鉄道の夜」と類似点があるとされる三編の長編童話「ポラーノの広場」、「風の又三郎」、「グスコンブドリの伝記」などです。
 とりわけ、「グスコンブドリの伝記」における自己犠牲の描かれ方からは強い示唆を受けました。この長編童話の主人公グスコンブドリは、噴火する火山に身を投じ、自分の命を犠牲にしてその地方の気温を上昇させます。そのことによって、イーハトーブ ― 岩手をもじった理想郷 ― の人たちを冷害からまもります。そこには、カムパネルラの溺死後にはついに描かれることのなかった自己犠牲の後に展開されるはずだった後日談がすでに ー 萌芽の形ではあれ ー 書かれていると私は考えます。 
 「けれどもそれから三四日立ちますと、気候はぐんぐん暖くなってきて、その秋はほぼ普通の作柄の年になりました。そしてちょうど、このお話のはじまりのやうになる筈の、たくさんのブドリのお父さんやお母さんたちは、たくさんのブドリやネリといっしょに、その冬を暖いたべものと、明るい薪で楽しく暮すことができたのでした」。
 賢治においては、自己を犠牲にしてもその結果は絶望や喪失で終わることはありません。人びとを生のほうへと向かわせることにつながるのです。
 ブドリの自己犠牲によって豊かな実りを迎えるようになった土地には、母親が複数人描かれています。時間を超えて、次世代を生み、育て、命を命につないでゆく根源としての「お母さん」たちが生きています。このため土地における作物の生育が代が変わっても引き続き行われてゆくことが暗示されています。
 賢治の作品で描かれる自己犠牲のテーマは、現行版「銀河鉄道の夜」のように死それ自体や、その直後に描かれる家の中での小さなハッピーエンドでもって突然切断されるように終わってしまうものではないはずです。
 現行版「銀河鉄道の夜」に未完の断片のように取り残されている輝かしい白鳥停車場の野原にしても、「グスコンブドリの伝記」における「イーハトーブ」のような豊かな場としてさらに加筆され賦活されるはずの共同体の場だったのではないでしょうか。ブドリの自己犠牲によって凶作からまもられた「イーハトーブ」のように白鳥停車場の野原も、 転生してそこに合流したカンパネルラによって、また彼に合流するジョバンニよって、 また銀河のほとりに生きる人々の活動によってさら活性化されにぎやかになるはずだったのではないでしょうか。
 「よだかの星」のサソリのエピソードでも明らかなように、自己犠牲を行なった者はその後に人びとを生かすより積極的で肯定的な役割をはたします。自己犠牲を行なう者は死の状態にとどまることなく、その後スケールの大きな生への活動へと反転するように向かいます。そして、このテーマは賢治の作品でしばしば扱われています。
 川で溺れかけた級友を救うために水死したカムパネルラは、生前に車内で白鳥停車場地区の野原の豊かさをジョバンニに教えています。その広場には「みんな」がいるし、豊かな生産を示す根源的な母性である「お母さん」もいることもカンパネルラはすでに暗示しています。カンパネルラは見えないものを見る力を持っていました。白鳥地区には絶え間なく生成や生育が行われ続けることを意味する、「お母さん」がいることをカムパネルラは生前にすでにこうして示唆しています。この「お母さん」は自分自身の実際の母親のことではありません。彼は自身の母親なら、「おっかさん」と呼んでいますし、病気のおっかさんの看病のことなら現行版で書かれています。しかし、それはごく短い記述でしかなく、後にさらに展開されるはずの伏線でしかありません。しかし、この伏線も現行版ではその後に回収されることなく孤立したままです。この伏線も萌芽のまま取り残されていて、その着地点は不明のままです。
 自作<創作「銀河ふたたび イーハトーブのほうへ」」>では、カンパネルラとジョバンニは、かつて訪れた白鳥停車場の野原を再訪します。そして、今度は実際にそこで働き始めます。銀河のほとりで生きる土地の人たちと協力して野原をさらに耕し始めます。賢治はカンパネルラ個人をひとりだけ救い出そうとはしません。生の根源でもある食を支えようとして土地の人たちとともにカンパネルラは農業を実践します。彼の自己犠牲の死は悲劇ではなかったのです。賢治は書いています ー 「みんなむかしからきやうだいだから けつしてひとりをいのつてはいけない」(青森挽歌)。
 
「みんな」や「お母さん」が集まる現行版「銀河鉄道の夜」の野原をさらに展開させる際には、「ポラーノの広場」も参照しました。主人公キューストは、小学校生の友人ファゼーロとともに農民たちが共同で運営するポラーノ広場を探しに出かけます。見つけるにはみつけましたが、その広場は選挙のための酒盛りや乱闘騒ぎが起きる所でしかありません。しかし、最後に、つめくさが咲き乱れる野原の向こうに自分たちの手によって新たな広場を「こしらえよう」と、キューストとファゼーロのふたりは誓い合います。このふたりは、カンパネルラとジョバンニを思わせます。
 少年キューストが口笛を吹きながら作詞作曲した楽譜「ポラーノの広場」が、同名の作品の最後に引用されていますが、その数行を引用します。

  まさしきねがひに いさかふとも
  銀河のかなたに ともにわらひ
  なべてのなやみを たきゞともしつゝ、
  はえある世界を ともにつくらん

 賢治は、昭和初期に盛り上がった農民運動や産業組合運動といった実践的な社会運動に共鳴し、実際に農民の生活と接触を深めますが、農作業の経験のない賢治は病にも冒され、現実において共同生活を組織することは断念せざるをえなくなりました。しかし、地上の現実とは異なる銀河という天空において、賢治はもうひとつの、やはり共同体のような場を ― カンパネルラと手を携えながら、白鳥停車場の野原において ― 作り上げようとしたのだと思われます。
 その社会的背景として、当時の地方文化の知的文化的成熟を挙げることができます。昭和初期にはすでに地方に設置されていた旧制高校に続き、商業高校や工業高校が次々に新設されます。また、大正14年に開始されたラジオ放送は全国にリアルタイムで全国中等野球大会(現在のいわゆる「甲子園大会」)の放送も始めます。それ以前には厳然として存在していた帝都東京と地方とのあいだの文化的格差は相対化され、昭和10年代は「一種の地方の時代」ともなっています(亀井秀雄「都市と記号の時代」「講座昭和文学史1」所収)。

 白鳥停車場の広場のすぐそばには石炭袋と呼ばれる暗黒星雲が死の孔となって顔を覗かせ、すべてを飲み込もうとしています。「どほん」と巨大な口を大きくあけています。そうです、賢治の周囲では死がいつも辺りをうかがっています。
 賢治が死んだ最愛の妹トシを悼んでひたすら北に向かう汽車の旅を続けたとき、「さびしい停車場」を通ったことも指摘しておきます。賢治は花巻から夜行列車で旅立つが、それは当時の日本の最北端樺太までの孤独な単独行であり、それは死に魅入られたような彼岸への道行でもありました。「青森挽歌」では次のように「さびしい停車場」のことが書かれています ー「あいつはこんなさびしい停車場を/たったひとりで通っていったろうか」。
 しかし、この「さびしい停車場」は、「銀河鉄道の夜」において「お母さん」を含む多くの人びとが集まる銀河の白鳥停車場に最後に変貌する。最愛の妹トシの死という絶望を乗り越えようとする賢治は、汽車の進行方向も北から南へと最後に反転させます。死に抵抗し死にあらがいながら、かすかな生のしるしと交信しながら、賢治は生がいとなまれる場を紡ぎだそうとします。
 「みじんに散らばる」かすかなものであれ、星々にも生が宿ります。賢治はそれらにも名を付けようとします。星めぐりの歌に合わせて、双子の星は一晩銀笛を吹く。名付けられたことに応えるようにして、「あおいめだま」や「あかいめだま」の星も光ります。
「すぎなの胞子」と呼ばれる星も光ます。今晩は星祭りの最後の夜です。お祭りのにぎやかさは、星々に生を与え土地の記憶も呼び醒まされます。

 現行版「銀河鉄道の夜」は九章から成り、それらは第一章から順に次のように題されています。1.午后の授業、2.活版所、3.家、4.ケンタウルス祭の夜、5.天気輪の柱、6.銀河ステーション、7.北十字とプリオシン海岸、8.鳥を捕る人、9.ジョバンニの切符。
 これらの現行版の9章に、あえて想像上の10章を設け、それを「銀河ふたたび イーハトーブのほうへ」と題して創作します。目立たない萌芽のままとなっている、しかし重要なテーマに育つはずだった断片に息吹きを吹き込み、諸家の論考からも想を得つつ、新たな「銀河鉄道の夜」を独自の形に増幅し展開させてみます。

                            編集協力・KOINOBORI8
                               

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絶品 鴨とクレソンの山椒鍋


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 コロナ禍もピークを越え、店にも客足が戻り始めた4月、中軽井沢の村民食堂に行きました。村民食堂入り口の季節限定ランチ・メニューに、目が釘付けになりました。そこには、「鴨とクレソンの山椒鍋」というメニューが大きく書かれています。鴨も、クレソンも、山椒も、いずれも私の大好物です。これを頼まないわけにはいきません。

 まずは、リボン状にそがれた春ごぼうと薄切り長ネギを、薄味のお出汁に入れ、あたためます。お鍋には ― ちょっと驚きましたが ― 山椒の実も入れます。和食の木の芽和えなどでは山椒の葉のほうが使われますが、ここでは実のほうを、それもかなり沢山入れます。すると、香り豊かで、かすかなしびれ感のある実山椒の小さな粒々が、次第にそのパンチ力を発揮し始め、それまで薄味だったお出汁が突然パワー十分な逸品に変貌するではありませんか。
 バランス良く味が出た頃を見計らって、鍋に薄くスライスされた鴨肉をさっとくぐらせます。鴨は、若いからなのか、とてもやわらかく、美味しい。しゃぶしゃぶで頂くといくらでもおなかに入りそう。
 新鮮で青々としたクレソンがたっぷり添えられていて、素材の季節感も満喫。東京では味わえないシャキシャキ感です。
 〆には、鴨の味が出たお出汁に手打ちそば ー もちろん信州蕎麦 ― をつけます。これもあたためるくらいで十分です。つるつるっと、これもノンストップ。つけ蕎麦にも箸が止まりません。 
 味わえるのは、地産地消の愉しみだけではありません。土地から得た食材に秘められていた味が引き出され、それらは巧みに混ぜ合わされ、新たな旨みが生まれます。実山椒を使って素晴らしい鴨しゃぶを作り出した豊かな想像力に、乾杯!です。鍋から思わぬ味が生まれ出ることに、一驚しました。このような新しい「作品」を創出した村民食堂のシェフの腕前に、脱帽!です。

 この味は、誰かに吹聴したくなるような代物です。
 きっと、舌の肥えたフランス人でも、この鴨しゃぶには舌鼓を打つことでしょう。そうだ、友人ジャン=ルイを今度この村民食堂に連れてこよう。ジャン=ルイは、以前我が家で木の芽和えを食べさせたとき、妻が最後に葉山椒の葉を手のひらで勢いよく、パンパンと叩いて、眠っていた山椒の香りを引き立ててから、その葉を木の芽和えに添えましたが、ジャン=ルイはその香りが器から食卓いっぱいに広がることに目を丸くして驚いたことがあったからです。
 でも、ジャン=ルイにどうやって鴨しゃぶの山椒とか牛蒡をフランス語で説明しようか?
 牛蒡は、確かbardaneだ。でも、ここではあえて「bardaneの根っこ(racine)」と丁寧に説明しよう。フランス人は、bardane と聞くと、根っこの部分ではなく、その花のほうを思い浮かべるはずだからだ。それに、フランス人は、bardane の根っこの部分は食べない。
 では、実山椒はなんと言おう? ネットで調べると、poivre du Sichan (四川の胡椒)とある。そうか、フランスでは、山椒は知られていない植物なので、仕方なく、山椒は「中国四川料理によく使われる胡椒」と説明的に百科事典のように表現されている。確かに、四川料理には山椒 ― 胡椒ではなく ― が多く使われるのだが。「山椒」に一対一で対応する訳語がフランス語には存在しないから、こうして長く、ややアバウトに説明するしかないのか・・・。
 こんな未知の山椒の小さな粒でも、実はこうして驚くような旨みを作り上げるんだ、どうだい?、とつけ加えて、鴨しゃぶ鍋を囲む仏人ジャン=ルイの反応を見てみよう。鴨しゃぶの美味しさに、腰を抜かして驚くかもしれない。山椒の葉の香りにだけでなく、今度は実山椒が秘めるパンチ力に表現する言葉を失い、ただ無言で圧倒されているかもしれない。
 でも、フランスは、食の国でもある。料理に彩りや、風味を添えるハーブ類なら無数に栽培されているし、スープ鍋にはブーケ・ガルニ(パセリ、月桂樹、タイムなどの香草の束)を放り込んで煮込み、香りを添え味を引き立たせよう(relever)とする。このまま黙ったまま、無反応でいることはないないだろう。フランスは、葉山椒や実山椒という摩訶不思議な植物にやがて貪欲な好奇心を抱き、旺盛な吸収力を発揮して、この不思議な効果をもたらすサンショなるものの正体を暴こうと調査を始めるのではないだろうか。いつかフランスの料理本に、SANSHO という項目が立てられ、その葉と実の有するパンチ力が詳しく、見事に論理的に、流れるような文章で記述されていることを発見する日が来るような気がする。SANSHOという項目が立っているフランスの料理本を読んで、その綿密な取材力と見事な記述に驚愕しのけぞってしまうのが、今度はジャン=ルイではなく、私の番になることだってありえない話ではない。
 それにしても、恐るべし、山椒のパンチ力。
 山椒は小粒でもぴりりと・・・。

                 編集協力: KOINOBORI8


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私の好きな俳句 加藤楸邨と芭蕉

 私は加藤楸邨の俳句に惹かれる。表現される世界は多様で多彩で、俳句特有の俳味に溢れる句も少なくない。

    くすぐつたいぞ円空仏に子猫の手     「吹越」

 円空が彫った精神性に富む仏に、子猫の手がじゃれている。親しみを含んだ笑いが広がるが、謹厳な仏が「くすぐったいぞ」と実際に子猫に向かって口にしているようで、まるで加藤楸邨が仏になり代わったかのようだ。「すべての物の中にひそんでゐ声は、こちらが聞きとめる心の耳を持ちさえすれば、かならずきこえてくるはずのものである」と楸邨は書いている。
   
    梨食ふと目鼻片づけこの乙女        同前 

 梨に少女が無中になってかぶりついていて、その大きく開けた口だけが眼に止まる。目や鼻などはどこかに片付けられてしまっている。「この」乙女と書かれているので、乙女が目の前にいるようで、彼女への親しみがさらに湧いてくる。
 いわゆる花鳥諷詠の句や、こじんまりとした、またこまやかな日本的情緒の作品はあまり多くない。より鳥瞰的で、よりダイナミックな視点から句が構成されることが多い。例えば、この二句。

    息白く寝し子ペガサス軒を駆け    「山脈」
    放電に似て少年語朝虹に       「まぼろしの鹿」

 ペガサスは、ギリシャ神話では天馬とも表記され、天にも昇り、雷鳴と雷光を運ぶ役割を担う。こうして二句を並べてみると、寝ている間にペガサスから雷鳴を聞き取リ、雷光を眼に留めた少年が翌朝不思議なペガサスの言葉を口にし、虹を空にかけているといった光景が目に浮かぶ。大きな時空が編まれ想像が自由に大胆に駆け巡る。

Bing image creatorによる

 といっても、私がとりわけ強い印象を受けたのは、次のような句のほうだ。

    隠岐やいま木の芽をかこむ怒涛かな   「雪後の天」

 前書に「後鳥羽院御火葬塚 三十三句」とあり、掲出句はその末尾の句。隠岐島の御火葬塚をかこむ木々の芽吹きに目をみはり、そこに押し寄せる怒涛に楸邨は自らの思いを託している。隠岐を訪れるときの楸邨の心の昂りが感じられる。
 後鳥羽上皇鎌倉幕府によって島流しにされ、悲運の生涯を隠岐で閉じるが、楸邨は優れた歌人としての上皇に会おうと思い立ち、東京から旅をする。芭蕉の「後鳥羽院の書かせ給ひしもの」「この御ことばを力として、その細き一筋をうしなうことなかれ」(「野ざらし紀行」)という文を読んだ楸邨はその文に突き動かされ、隠岐への旅を決意する。楸邨は大病を乗り越え、俳誌「寒雷」を創刊したばかりだった。旅行鞄には、芭蕉野ざらし紀行」と後鳥羽院撰定「新古今集」の二冊が入れられた。列車事故による不通のため予定は大幅に遅れる。境港に着くものの、海は荒れ、隠岐島への連絡船は欠航。翌日になって荒波にもまれながら船はようやく島に向かう。
 これはただの客観写生ではない。木の芽は、後鳥羽上皇の優れた歌群を表しているように私には読める。そこに隠岐に向かう楸邨の熱情が怒涛となって打ち寄せている。楸邨は、後鳥羽上皇と出逢おうとしている。上皇と邂逅することによって自らの文業を高め、また確たるものにしようとしている。
 また、楸邨は俳句改革を試み、虚子の「ホトギス」から脱皮する機会を模索するようになる。その頃、同じ意欲に燃えていた水原秋桜子と出逢うが、次の句はそうした場面を彷彿させる。

    はしりきて二つの畦火相搏てる     「寒雷」

 前後する句を読むと、句の背景には田園風景が広がり、夕暮れ時の畦火(あぜび)はその赤みを増してゆく。この畦火には人間の深い心情が潜んでいる。自己の内面だけでなく他者の生き様も描かれ、他者と自己との出逢いが劇的とも言える激しさで演じられている。
 主宰する「寒雷」創刊号(昭和15年)の巻頭言で楸邨は高揚した調子で書いているー「現今の如き時代の雑誌は、かういふ時代にふさわしく、新しい人間の力を呼び起すやうなものでなくてはならぬと信ずる」。
 確かに人間探究派とも呼ばれた楸邨は、人事をよく詠んだ。しかし、また同時に自然詠の傑作も数多く残している。

    秋蝉のこゑ澄み透り幾山河       「寒雷」

 芭蕉の「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」を踏まえて作られた句だろう。高館で作られた作品だが、ここは義経終焉の地であり、中学時代の加藤愀邨はここを何度も訪れている。
 蝉の声を聞き止めた山河は、蝉に呼応するようして生動し、声を豊かに増幅させてゆく。山河が蝉の声を反響させる、幾重にも。微細なものを受け止めた山河は、自らの生の時空間を呼び覚ましてゆく。

 愀邨の「隠岐やいま木の芽をかこむ怒涛かな」の句は、芭蕉佐渡島を詠んだ句を連想させる。

    荒海や佐渡に横たふ天の河       「奥の細道

 佐渡島に渡る舟が出る出雲崎に数日止まり、佐渡島に流刑された順徳天皇 ― 父親後鳥羽上皇と同じく優れた歌人 ― に共感をおぼえた芭蕉は、悲しみに暮れている。「奥の細道」で訪れたそれぞれの土地で、芭蕉はその地ゆかりの西行や能因や実方などの歌人たちをしのび、追慕している。佐渡にもっとも近く、島への舟が出る出雲崎の港でも順德天皇という悲運の歌人に思いをはせている。安寿と逗子王の母親のことを思ったかもしれない。「銀河の序」で遠島を言い渡された人に思いを巡らせるが、そればかりか芭蕉俳諧でも流人たちの生活をしばしば詠んでいる。

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 しかし、佐渡出雲崎の間には、天の河がかかる。実際は、天の河は島に横たわるようには見えないようだ。しかし、事実に反してでも現実を昇華させ、芭蕉は天の河を島と出雲崎の間の空にかけた。情景は静止的ではなく、写生を超えた動的な心象風景が形成される。そうすることで、芭蕉は天空にはるかなものにつながる道を作り、島にまで届く橋をかけようとしたのではないか。天の河でもってつながる佐渡出雲崎は、かすかな光を投げかけ合う。
 芭蕉は、また琵琶湖の東西にそびえる比良山と三上山のあいだに巨大な橋をかけようとする。幾羽もの鷺が湖面の雪から舞い上がり、橋を形作ることを幻想する。

   比良三上雪さしわたせ鷺の橋        「俳諧翁艸」

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 楸邨も芭蕉もモノローグにふけっているのはない。旅情を風景に託しただけでもない。自己完結した一元的な世界に自閉するのではなく、他者に働きかけている。ふたりの俳人はともに流刑地としての小さな島に情愛を込めて呼びかけ語りかけている。そればかりか、島からの応答を引き出そうとして、耳を澄ましている。
 現在という瞬間にとどまってもいない。いずれの俳人も流刑に処せられた後鳥羽上皇や息子の順德天皇という遠い過去にまで分け入り、幾重にも重層する時間を揺り動かそうとしている。
 楸邨は、畏敬のような思いを抱きながら、荒波をついて隠岐島に向かう船の上で後鳥羽上皇の歌を繰り返していたのではないだろうか。


   われこそは新島守よ隠岐の島の海の荒き波風心して吹け
 

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プルーストの文はなぜ長いのか

 『失われた時を求めて』の文体は長い。平均的な文の長さの二倍にもなることもしばしばだ。冒頭のまどろみや、それに続く小さな田舎町コンブレの描写においても、使われる表現はむしろ平明なまま静かにゆったりと文章が繰り広げられてゆく。難解な語彙や美辞麗句が連なるのでもなく、また知性による分析が続くだけでもない。
 しかし、読み進むにつれ、われわれ読者はこの長い文章が、作者プルーストの精神の息遣いのようなもので構成されていて、それが間隔をおきつつも反復されてゆくことに気づくようになる。小説の主要テーマが文章の中にすでに表現されるのだ。文はそれだけで作品のヴィジョンを語っている、とプルーストは最終篇『見出された時』で述べている ― 文体はテクニックでも、レトリックでもない、ヴィジョンの問題だ、と。
 長い文章を以下に引用して、文体というミクロでの動きが、マクロのレベルでのヴィジョンをどのように先取りし予告しているかを具体的に追ってみよう。まず、コンブレの中心であるサン=タンドレ=デ=シャン教会の鐘塔を好んで眺める祖母 ― 母親の分身 ― の描写から読んでみよう。祖母はこの教会を好み、その鐘塔を見つめるが、この場面も長い文で描かれる。(文体分析を容易にするために、引用文中に//記号をひとつ挿入させていただく)


「お前たちはたんと笑うがいいいよ。あの鐘塔は美の規則にははまっていないかもしれないけれど、でもあの奇妙な古い形が私には気に入っているの。もしあの鐘塔にピアノが弾けたら、けっしてガサガサした音は出さないでしょうよ」。祖母は塔を眺め,合掌して祈る手のように上に行くしたがって狭まる石塔の穏やかで緊迫し熱っぽい勾配を目で追うのだったが、尖塔の溢れんばかりの気持ちと完全に一体になろうとして、祖母の視線は尖塔といっしょに飛び立つようになった。同時に、祖母は摩滅した古い鐘塔の石に親しげに微笑みかけるのだった。// そのとき、石の天辺は傾いた太陽に照らされるだけだったが、石が陽の当たる部分に入ると、とたんに光に和らげられて、まるで1オクターヴ高い所で、「裏声で」引き継がれる歌のようになり、石は一気にはるかに高く遠い所にまで駆け上がるように見えた。


 8行目の//印までの前半では、祖母が主語となり、ピアノでの演奏を鐘塔に促すかのように鐘塔に呼びかける。また、鐘塔に微笑みかけるだけでなく、鐘塔の気持ちと一体となってしまう。//印以降の後半では、そうした祖母からの熱い呼びかけに応えて、今度は鐘塔のほうが主語になり、歌を裏声で歌い返す。鐘塔を凝視し、高みへと飛び立つように上る祖母の視線を追い、鐘塔のほうも一気にはるかな高みにまで駆け上がろうとする。
 ここで起きていることは、コンブレの生活の場と教会という異質なもの同士のたんなる取り合わせといった安易な表現でまとめることはできない。祖母の周囲で繰り広げられる俗世間側からの働きかけは、教会という別世界の聖なるものに呼びかけ、俗なるものの生活の面を聖なる空間に新たにもたらす。それを機に、引用文後半では教会に秘められていた未知の新たな「裏声」という側面が引き出される。それだけには止まらない。文の後半では聖なるものが、今度は反対に祖母の周囲で行われるピアノ演奏活動に新たな「歌」という精神的なるものを付与しようとする。
 鐘塔はたんなる描写の常識的な枠組みのなかに自閉する、リアルで静止した対象には止まらなくなる。祖母と鐘塔は異質なもの同士であり、両者の間に交流が交わされるはずはないのだが、長い文中においては、祖母からの働きかけから始まる協働の動きに入り始める。「尖塔の気持ちと完全に一体」になるほど鐘塔に近づき呼びかけてくる祖母に呼応して、鐘塔のほうも反応を示し、「裏声で」歌い出し、両者は向かい合って接近するだけでなく、互いが互いを高め合おうとする。鐘塔という物質に宿っていた生命が賦活され、石は生動し、その精神上の生命が祖母に新たなものを付与しようとしている。次元の異なる俗と聖、生と石という物質、現在と過去の間に厳然として従来引かれていた境界線がその双方から越境され、内と外とを隔て、それぞれ固有の領域を画してきた区画とか輪郭線が消えてゆく。われわれ読者は、確かな現実描写を読みつつも、次第に自由で勁い想像力の展開に巻き込まれてゆく。個々の不動の事物や人間を、さらに大きく俯瞰的に包摂してしまう動的な多視点を習得し獲得する。俗なる生活のピアノ演奏と鐘塔の聖なる裏声は互いに呼び掛け合い、双方からの働きかけによって相乗される新しい響きが増幅され、広く大きな時空間が共感とともに醸成されようとする。
 こうした長文は、1870年代 ー プルーストは同時期の1871年生まれ ー から盛んになった印象派の技法を想起させる。プルーストが時に引用した印象派画家モネやマネの画業においては、引用したプルーストの引用文において立ち会った要素が共通して認められるのである。印象派の主要な新技法も、それまで試みられることの少なかった日常生活を戸外制作することであり、また物の固有色だけに限定的に焦点を当てるのではなく、モノ同士が反映を送り合う様子を、補色を足して、同時対比のように描くことであった。したがって、キャンバスには、モノとモノのあいあだを隔絶するような輪郭線は引かれなくなる。印象派の絵画を見る者は、モノとモノを大きく包摂する自由なアングルを習得し、視線は複眼的に揺らぐように動くことにもなる。こうしたモノを再現しつつも、絵筆を握る者の主観性を重視する印象派は、その基本において、同時代のプルーストの描写方法を想起されるものなのである。
  
 長い文をもうひとつ引用したいので、今しばらくお付き合い願いたい・・・。以下に引用する文も、前文と基本において同様の構文になっている。唐突で謎めいた出会いがその都度起きるシュールレアリスムの文とは異なり、同様のものが変奏されつつ反復されて文脈が形成されてゆく。その文脈を辿ってゆくうちに、われわれ読者は、文中に隠されていたもの ー  同時に対比され相補されるもの ー を次第に発掘し、顕在化するようになる。

  
潜在的な形でサン=アンドレ=デ=シャン教会のゴシック様式彫刻の中に予告されたものとして私が認めることのできたコンブレの人物は、カミュの店の若い店員テオドールだった。(・・・)ところで、はなはだよからぬ男として通っていたこのテオドールは、一方で教会を飾る彫刻にこめられた精神に満ちていて、(・・・)「かわいそうな病人たち」や「わたしたちのかわいそうなご主人さま」に当然ささげられるべきものとして考えられているあの尊敬の念に溢れていたので、叔母の頭を支えてその下に枕をあてがう時は、浅浮き彫りで刻まれた小天使たち、弱ってゆく聖母のまわりにロウソクを片手に大急ぎで集まってくる小天使たちの素朴で熱心な顔付きになったが、// すると教会の石に刻まれた灰色がかったむき出しの顔は冬の木立と同様にただひたすら眠りながら力を蓄え、やがてふたたびテオドールの顔のような崇高で抜け目のない無数の民衆の顔となり、熟れたリンゴの赤みで輝く顔となって人生に花咲こうとするのだった。



 前半で、小天使に似る、しかし素行が悪い、きわめて俗なる人物テオドールが叔母の看病に熱心に取り組むと、テオドールは「小天使たちの素朴で熱心な顔付きになった」が、それに応じるようにして、//記号以降の後半では、反対に教会の石に刻まれた小天使たちの顔が、テオドールの顔に似た「民衆の顔、熟れたリンゴの赤み」で輝き始め、生動し、「人生に花咲こう」とする。引用した前文と同様、俗なるテオドールが聖なるものに境界を越境して近づき、新しい聖なる精神性を体現するようになるが、その働きかけに応じて、引用文後半では今度は聖なる小天使たちが主体に転じ、俗なる世界の生命を得て、いつのまにか俗世界に打って出ようとする。
 食料品店員テオドールは、聖歌隊員で教会の地下の案内係でもあり、教会の維持にも一役買っている。こうした「二重の職業」のおかげで彼は、「普遍的な知識」の持ち主とされてもいるし、またのちに主人公マルセルがフィガロ紙に記事を書いたときでも、「魅力的な言葉遣い」で祝福の手紙をマルセルに送っている。この時、テオドールには、ソートンという名前が付けられていて、素行の怪しげな店員は脱皮し、いつのまにか成長し、執筆活動を理解する人物に変貌している。新たな名前で呼ばれることによって、豊かな可能性を実践する人物に変貌するというプルースト特有の系譜にテオドールもここで加わることになる。
 俗と聖がただ静態的に隣接しているだけではない。両者は互いに他方からの呼びかけを聞き止め、それに積極的に応え、新たな刺激を得て、自らも主体に変貌するし、また他方を変貌させようともする。この文中においても新たな創造性、可塑性といったものが、両者が強く相互に関与することによって生じようとしている。個々のものは、独自の固有のものに止まることなく、より多彩で多義的な可能性をもう一方にももたらそうとしている。それぞれのものだけでは得られなかった相乗効果が生み出されようとしている。
 プルーストの場合、この俗と聖の相互関与は、実は作者自身の一時の思いつきや幻想によるものではない。引用した前文における教会にも当てはめられることだが、フランス語の「教会」église の語源は「集会」であり、また「呼びかけ」でもあり、教会は本来自閉し閉塞する閉域ではなく、外部の俗なるものをも招き入れる開かれた、相互浸透の場所でもあるのだ。最終巻には次のような文が書かれている ― 「芸術は、かつて実在したものがわれわれに知られずに横たわっている深みへとわれわれを回帰させるだろう。おそらく真の生命を再創造し、印象を甦らせることは大きな誘惑だ」。
プルーストの長い文は、協働性から生じる創造性を表現してゆくが、その一方でコンブレの教会に関心を示そうとしない人物も登場する。ゲルマント公爵家といえば、コンブレの教会内に私的礼拝室を構える由緒ある貴族だが、実はゲルマント公爵夫人はこのコンブレの教会を軽視している。『失われた時を求めて』における主要な主題は、その流れに逆行するような挿話を所々に挟みつつ断続的に展開されてゆく。  
 また、創意が交わされる深い対話性は間欠的に反復されてゆくが、その流れに逆行するようにして、長いモノローグもその合間に挟まれる。ソルボンヌ大学教授のブリショがふるう長広舌はその一例で、地名の語源に関する衒学的な知識を長々と披露して、主人公の地名にまつわる夢想を打ち破る。元大使のノルポワも意見を明確なものにすることを避ける紋切り型のレトリックを重ね、その長広舌でもって相手を煙に巻く。

 プルーストの長い文がそれだけですでに長編小説のヴィジョンを予告することは、次の最後の引用文によっても例示することができる。第二篇『花咲く乙女たちのかげに』で主人公は画家エルスチールのアトリエで代表作の海洋画『カルクチュイの港』を見て、その絵に魅入られる。

(その絵を)私はゆっくりと眺めたが、その中でエルスチールは、小さな町を表すにのに海の用語しか用いず、また海には町の用語しか用いていなかったが、そうすることで絵を見る者の精神を今述べたたぐいの隠喩に慣らしていった

エルスチールが自分のまわりに置いている海の絵の中でもっともひんぱんに用いられる隠喩は、まさに海と陸とを比較して両者の輪郭をことごとく取り払ってしまうものだった。同じ画布の中で黙々と飽くことなく繰り返されるそうした比較、それこそがそこに多様な形を取りながらも強力な統一を導入するもので、それが何人かの愛好家たちにエルスチールの絵が引き起こす熱狂の原因だった。


 印象派の絵画を想起させる海洋画を見て、主人公は喜びを覚える。引用した文中において海と陸は二重写しになり、協働し合うようにしてその両者から新たなものが生まれようとしている。このプロセスは、初めに引用した祖母と教会の鐘塔が向かい合い、祖母のピアノ演奏と鐘塔の歌声から、個々の音からだけでは得られなかった音楽の新たな恊働が生じるプロセスの変奏とみなすこともできるだろう。
 こうして、エルスチールの海辺の避暑地バルベック近くにあるアトリエで主人公マルセルは思う ー ここは「新しい創世の実験室」
だ、と。いずれは自分も「形態の歓びに溢れる詩的認識」に到達することができるはずだ、と。マルセルは見てとる、「どの絵の魅力も描かれた事物の一種の変貌にある」こと、また「その変貌は詩で隠喩と呼ばれるそれに似通っていて、父なる神が物に命名することで物を創造したのだとすれば、エルスチールのほうは物から名前を奪い取るか、あるいは物に別の名前を与えることで物を再創造する」ことを。
 コンブレの教会が、祖母やテオドールと新たな創造的な対話的な相互関与で結ばれたように、エルスチールの場合も隣接し相互依存するような海と陸は、ダイナミックで豊かな関連を緊密に結び直していて、そこからは新たなものが生起しようとしている。まったくの無からの、個人によって行われる一時の独創ではない。固有であること、固定であることにこだわらない、複眼的で共感に満ちた視点が豊かに組み合わされてゆく。
 2度目のバルベック滞在の際、マルセルと恋人アルベルチーヌはこうして習得した、現実の単なるコピーには終わらない、隠されていた側面を掘り起こし賦活するようなエルスチールの物の見方を実際に風景や教会に当てはめて見ようとする。しかし、ゲルマント公爵夫妻のほうは、エルスチールの絵画を購入するものの、絵の魅力が理解できない。
 なお、画家エルスチールと同様、マルセルを芸術創作へと促し導くヴァントゥイユの7重奏曲も、その基本はすでにスワンによって感じ取られたように、「創造」に向かうピアノとヴァイオリンのソナタで交わされていた問いと応えからさらに展開され増幅されるものであり、それはエルスチール絵画の延長において、その変奏として把握されるものなのだ。
    

 プルーストの長い文は、長編小説の中心的主題を劇中劇 ー 中心紋 ー のようにミクロのレベルで演出する。『失われた時』では、「私」は実はあまり独白をしないし、ドラマの筋立ても時系列に沿って繰り広げられないことがある、登場人物の性格が一定せず、人物の名前も途中で変わることがある。しかし、いわゆる近代小説の小説観に基づく先入主にとらわれずに、長い文やそれを支える複眼的思考の動きに慣れてゆけば、そうした諸点における違和感は少しずつ解消されてゆくだろう。
 また、この長い文に慣れてゆけば、翻訳において「・・・である」といった断定的で理知的合理的な語尾の頻出は、この小説にはふさわしいものではないことも理解されるだろう。長い時間の中で多くのものが失われてゆくし、人物たちも死んでゆくが、一方増幅されながら反復される親しみと促しの声も聞こえてくる。そうした対話を交わし創造へ向かう世界を表現するためには、「である」という語尾では文章同士が分断されてしまうように思われ、いささか適していないと言わざるをえない。『失われた時」には母親と祖母が愛読したセヴィニェ夫人の往復書簡集も含めて50通もの手紙が登場するし、プルースト自身リセ・コンドルセ時代には学友たちと恋愛書簡体小説を試みたことがあったが、しなやかでどこか親しみのこもる長い文の翻訳文の基調は、語りの口語口調のほうにこそにある。邦訳に適した語尾は、多用される「・・・である」という語尾ではなく、例えば親しみのこもる往復書簡の文体のほうにあるのかるもしれない。
 アントワーヌ・コンパニョンも、プルーストの文章が「くだけた書簡体の文」に近いものであり、時に口語口調に近づくことを指摘している(「時間」「プルーストと過ごす夏」所収。

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戦時下のフランスに島崎藤村が見たもの

 小説家島崎藤村(1872−1943)は、第一次世界大戦前後の混沌としたフランスに3年間滞在する。藤村はすでに『家』などの自伝作家として評価を得ていた。社会の偏見に苦しみつつ目覚めてゆく個人の内面を凝視する求道的作風で知られていた。しかし、「家」は家父長という旧弊に取りつかれた人の悲劇を描いたものであり、家を包む大きな時代状況を描く視座はまだ獲得できないでいた。また、藤村は実生活において姪との不倫の恋に悩んでいた。葛藤を抱え、壁に取り囲まれるような思いにとらわれ、深い危機に陥っていた。私生活に関わるスキャンダルから逃れるようにして、藤村は42歳の時に神戸港からフランスに向けて旅立つ。華やかな門出でも留学でもなかった。日本を後にする船上から兄に手紙を出し、姪との不倫の後始末を頼んでさえいる。
 パリに着いても、朝日新聞に書き送る記事は当初は単なる旅行記に近いものだった。藤村にとってのフランスは、流行を追い珍奇なものを好む倦怠の国であり、常套句でもって描かれる国であった。しかし、第一次世界大戦戦時下(1914−1918)、空襲にさらされたパリは、惨禍から立ち直ろうとして強靭なまでの生活力を発揮していた。そうしたフランスの庶民の生活に間近から接し見聞を深めてゆくうちに、藤村の描く『仏蘭西だより』はその調子を変えてゆく。

1914年8月30日 パリでの最初の空襲、ドイツの航空機が4発の爆弾を投下した。
(写真はセーヌサンドニ駅構内)法医学鑑定サービス/BHVP/ロジャー・バイオレット



1914-1918 畑では女が男にかわり家畜のように働いた。
Paysan Breton  Les paysannes, ces héroïnes oubliées de la guerre 14-18  Carole David
 そこにはたゆまずひたむきに働き続けるフランスの職工たちや、戦地にすすんで赴こうとする芸術家たちや、農作業に励み続ける農夫たちの姿が描かれるようになる。藤村は現実に根差して生きる人々に関心を抱くようになる。自己凝視を続けてきた藤村は、庶民のたくましさを追うことによって、それまで自らのものとすることができなかった外部への視線を習得するようになる。大きな歴史観や思想によっては取り上げられてこなかっった具体的な生活の諸相は、やがて「芽をつむぎつづける力」とも表現されることになり、藤村のその後の創作活動の幅を広げる原動力のひとつになっていった。
 藤村はノートルダム大聖堂にしても、そこに建立当時の中世ゴチック期の精神だけでなく、さらに遡りフランスのルーツの紀元前ガリア時代の精神の発露を見てとるようになる。大聖堂が遠い過去と重層的につながりながら建立されてきたことを知り、伝統には「死から持来たす回生の力」が潜んでいると書くようになる。フランスの文学者の中では、創造実践が伝統と連続することを論じていたシャルル・ペギーやシャルル・モーラスに関心を抱いている。遠い過去にまで遡り、長い時間のスパンで物事を俯瞰する視座は、やがて『夜明け前』に据えられることになる。こうしてフランスの庶民たちの生活力や今に生きる長い伝統の力は、藤村に新たな展開をうながすものとなった。
 渡仏してから一年あまりたった頃、藤村はパリから約400キロ離れた自然豊かな地方都市リモージュに2ヶ月あまり滞在する。リモージュの子供たちに日本の子供の遊びなどを教えたりして、滞在を楽しむ。こうした幼い子供との無邪気な交流が、藤村に幼年時代の記憶を呼びさましたことは想像にかたくない。藤村は童話を日本ですでに5冊も出版していたが、そこにおいては物語は父親が子供に話しかけるという一方向的な形で進められていた。視点は固定してもいた。しかし、リモージュでは父親役の藤村は当地の子供達に遊びを教えるだけではなく、子供たちからの情愛に富む反応を受けて楽しんでいる。藤村は遊びにおいて父親役である自分を見上げる子供の立場に自分自身を何度も置いてみたはずだ。常に同一の大人の役割を自らに課していた藤村は、子どもたちから呼びかけられる、また反対に子供に呼びかける立場に何度も交代して身を置き直さなくてはならなかった。そうすることによって、藤村は父親を見上げるような視線がある自分のうちに眠っていたことに気づく。
 自らのうちに実父正樹への深い情愛が潜んでいたことを意識し、それを顕在化しようと思い立つことになる。文明開花の首都東京に10歳の時に出たまま疎遠になっていた父正樹への情愛を意識化し、父と故郷を言葉の力で復興させてみようと思い立つ。それまで日本で書いた童話においては父から子供への一方向的な呼びかけだったが、リモージュにおいて父子相互間の交歓という新たな多様な展開へのヒントを藤村は得ることになった。子供たちと交わす無邪気な交流は強い自我からの見方に固執していた藤村を動かすことになった。それ以降、藤村は父親正樹や故郷との再会の機会を探るようになる。藤村は、短いながらもリモージュ滞在が自分にとっては新たな「蘇生」のきっかけになったと書いている。小説『新生』(大8)にも、「何よりも自分は幼い心に立ち返らねばならない」という文が書かれる。
 実際、代表作『夜明け前』にはフランス滞在中に習得したものの見方が盛り込まれている。渡仏以前に執筆された『家』では小説舞台は家という狭く閉鎖的なものであり、また個人もその殻に閉じたものだったが、フランス滞在中に個的なものを包摂するより大きなものへの複眼的な新しい見方 ― 空間と同時に時間においても ― が習得されるようになると、藤村の小説世界は大きく変貌する。上京以降ほとんど帰郷しなかった藤村は、父親を含むより広い母胎としての故郷に回帰する。
 『夜明け前』で描かれる明治維新は、江戸から明治へという時代区分が強行される地点ではない。短いスパンの時代区分のよっては無視される中仙道馬籠宿周辺の生活が長い時間軸に沿って辿られてゆく。「少なくとも百年以前に遡らねば成るまい」という文も書かれている。あわただしく変動する明治維新にあって列強による植民地化を防ぎ国の独立を守るのに貢献したとして、中世以来の伝統や平田国学の役割が再検討されている。長い時間をかけて国民意識が胎動し始め、また内発的な力が発揮されてゆく中で維新が起きたという考えで、日本の姿が多角度から追われるようになった。
  明治維新が西欧文明からもたらされた強いインパクトによって起きたもので、日本はただその外圧を受動的に受け入れざるをえなかったとする文明論を藤村は再検討しようとする。日本は明治維新で突然めざめたわけではなく、それ以前から外圧によるものではない自然発生的な内発性が継続して培われていたという考えだ。思い起こそう、藤村はノートルダム大聖堂が建立された当時の12−13世紀のフランス中世の精神だけでなく、さらに遡ってフランスのルーツである紀元前の「ガリアの血を示した野生」によっても建立されたことを指摘していた。

降嫁のため江戸へ下向する和宮の壮麗な大行列(『和宮江戸下向絵巻』部分)
サイト「江戸ガイド」より

 「夜明け前」では、カメラアイが何度も切りかわる。木曽の中仙道馬籠宿周辺の庶民の生活がローアングルから活写されるようになる。野鳥を食する魅力あふれる食卓や、中仙道を京都から江戸へと下向する皇女和宮お輿入れの長い行列の精彩に富む見事な描写。和宮を無数の嫁入り道具とともに迎え入れる馬籠宿本宿側のこれまた無数の行き届いた支度。大政奉還の噂に、「ええじゃないか」と歌い踊る村人たち。野鳥の宝庫木曽で催されるアトリ食べ較べのとき、藤村は数字を濫発して、無邪気に奔放なまでに執筆を楽しんでいる。あの、謹厳なるレアリストだった藤村が、である。

「ええじゃないか」騒動に興じる人々 wikipediaより

 官軍に追われて街道を辿り北陸にまで落ちのびようとする旧幕臣の手負いの名もない残党たち。東海道はまだ整備されていなかったから、中仙道のほうが幹線であり、それは山の中の道だが歴史が刻される街道でもあった。それぞれにおいて史実が踏まえられ、詩人藤村の文は想像に走ることなく平明でのびやかだ。歴史上知られた人物群だけでなく、「下積みの人たち」、「従順で忍耐深いもの」 ー 下層の農民たちの土俗性までは描かれていないが ー への共感が底流している。個人の活動は家だけでなく同時に風土や共同体や歴史のいとなみによって取り巻かれているという見方は、藤村がフランス滞在中に体験によって学び取った視点だ。藤村はそれを独自に展開させ、「草叢の中」から小説を書いた。明治維新という時代の大きな変革期に右往左往する日本の姿が、中仙道を軸にして何層にも渡り一大絵巻となって繰り広げられる。
 「夜明け前」という稀有の大作は1929年から7年かけて執筆されたが、その際馬籠宿での生活が40年に渡って書かれている大黒屋日記などが貴重な資料として使われている。この造り酒屋当主の筆による日記によって木曽の人々の生活や風土の描写は、時間の推移にともなうものとなり現実感に富むものになった。
 第二部において、平田派の国学者として王政復古という見果てぬ夢を追う主人公青山半蔵は、家運が傾いたこともあり宮司にもなるが、馬籠で生きることを決意する。しかし、新時代に託した思いも遂げられず、深い失意や悔いをおぼえ、最後は焦燥にもかられ、座敷牢で狂死する。
 巻末では小説を支えてきた大黒屋日記の記述が消え、半蔵個人の悲劇がやや突出して描かれているような印象を受ける。言語化された思想や歴史観をついに持ち得なかった半蔵のおぼえる焦燥感は、個人的な危機感となり、切迫する思いとなって伝わってくる。ここには藤村自身の晩年の思いが一部に投影されている(三好行雄「夜明け前」の反近代」)

 青山半蔵のモデルは、平田派の国学者として数奇な生涯を終えた父島崎正樹であるが、正樹は参勤交代の大名や公家が泊まる馬籠宿本陣・問屋・庄屋を兼ねる17代目の当主だった。その複雑な内面に息子の藤村は愛情のこもる照明を当てた。
 この小説は「新精神がこの国に漲る時」、「多くの人たちが胸をはずませて駆け足しても進み出ようとするやうな時」(「家」奥書)、つまり明治維新を中心に置きつつも、文明史的考察をはらみながらも、時に個々人の生の深みにまで踏み込み、また一方では木曽の風俗も美しく描いてゆく。それらが多声的に交響しながら展開される。この本格的な長編小説の執筆は、藤村が3年間フランスに滞在したからこそ始められたのであり、またその実を結ぶことができたのである。
 『二十世紀の十大小説』で著者篠田一士は、第10章のすべてを藤村の「夜明け前」に割き、そこでこの小説の稀有な魅力を縦横に論じている。
 

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ディープなフランス


 1972年にフランス政府給費留学生試験なるものを受けたら、運よく合格。26歳の時にパリの高等師範学校(エコールノルマルシューペリウール)とパリ第四大学大学院に在籍することになった。印象派の美術館オランジュリやルーブル美術館にしばしば歩いて通ううちに、ゴッホレンブラントの絵画に魂を奪われるような体験をした。絵の前に立ち尽くし、原画が奥深い魅力を秘めていることを知った。画布の奥から画家の精神の息遣いというのか、声のようなものが聞こえてくるではないか。別世界に連れ去られてゆくような、生々しくもある経験を何度かした。東京にいたときは、絵は教養のため、また珍しい光景や美を味わうためだけのものだったのだが・・・・。
 靴がすぐに擦り切れたが、5区の学生街カルチエラタンにある学校の男子寮から歩いて美術館を巡ったためだろうと僕は勝手に思い込んだ。ほぼ一日中靴を履く生活を始めたのだから当然の結果だったのだが、当時の僕は美術館通いのために靴がすぐ減る、と即断してしまった。
 フランスでは、日本の高度経済成長が「日本の奇跡」などとして驚きをもって語られ始めていたが、ミナマタという言葉も同時によく口にされていた。ヨーロッパは中国とは陸続きということもあって昔から交易が盛んであり、ヨーロッパでアジアといえば、まず中国が挙げられてきたが、その中国の向こうから、ジャポンという小さな国が日出ずる国となって台頭してきたのだ。留学した1972年当時は、そんな世界の図式がヨーロッパには浸透し広がっていた。
 そのうちに、日本との貿易を始めたいらしい親切なおじさんと知り合いになった。男子寮でも、「日本人と結婚したい」という物理学専攻の青年と親しくなった。「お前は俺の友人だ」と言われるようになると、フランス人の友情は篤い。
 渡仏二年目の夏に、フランスのおじさんが、「バカンスを田舎で一緒に過ごそう」と誘ってくれた。もちろん、返事は即答で、ウイだ。グラン・デパール(大出発)と呼ばれる8月1日に、おじさんのシトロエンに乗って、リヨンの先の中央山塊に向けて出発。当時は日本にはまだ高速道路網もなかったし、これだ本場のバカンスは、という高揚した気分になった。中央山塊に差し掛かるあたりから、同乗のフランス人がなんだかニヤニヤしはじめる。ハンドルを握るおじさんのフランス語がおかしいと言って、クスクス笑う。よく聞けば、おじさんの語尾に確かに抑揚がついていて、少し歌うような調子で話し始めている。中部フランスに差しかかったばかりなのに、おじさんの仏語にはもう南仏訛りが混じり始めている。パリはやはり大変な中央集権の都市なのだ。中央山塊の麓のサン=テティエンヌという地方都市出身のおじさんは学生時代から首都パリで生活しているのに、まだパリでは少し緊張しているのだろうか。田舎出身であることにプレッシャーを感じているのかもしれない。でも、日本では東京から実家に向かう帰省途中の車内で、その人がふるさとの田舎の訛りで話し始めるなんていう話は聞いたことがない。
 700キロくらい走って中央山塊にあるおじさんの別荘に到着。おじさんの親戚が二十人以上も集まっている。フランス人は個人主義だと聞かされてきたが、なんだか大勢で楽しそうだ。夕食でなく、昼ごはんにご馳走が出される。この昼のご馳走は四時間も続く。ジョークや、ほのめかしや、あてこすり、政治談義などがえんえんと続き、僕などは4日目には疲れ、夜はコーヒーをすするだけとなる。それでも、若者たちは夜もかなりきちんと食べる、とりわけチーズは絶対に不可欠だ。
 20人以上の親戚の多くが鳩をあしらった十字架を首に掛けている。プロテスタントたちだ。プロテスタントには勤勉な人が多いということは知ってはいたが、実際おじさんの親戚たちは、先生や、研究者や、警察官などだ。
 おじさんの甥っ子ステッフは化学の学生で、人懐っこいジュードーカだ。「ジャポトー」(日本製オートバイ)は頑丈でなかなか壊れないぜ、などと話しかけてくる。2日目あたりから、もう僕に柔道の技をかけようとする。マッチョで腕が長くて力があるから、油断はできない。ジュードーカの「カ」は、どうやら「家」らしい。日本男性はみんな柔道家とでも思っているのだろうか。チャーミングなガールフレンドが一緒だ。聞けば、地域随一の都市サン=テティエンヌのデパートのブティックで働いている。メシュイというアラブのBBQをしても、彼女は身体の線を気にするのか、あまり食べないでみんなの騒ぎをチョッと遠くから見ている。余計なお世話だが、彼女が気まぐれでなく、心変わりしないことを願ってしまう。ジュードーカのステッフをつい応援したくなってしまう。

アラブ風子羊のBBQ Mechoui 写真:サイトCuisine Collectionより

この時、食べたメシュイは12キロあった。

 ジュードーカ・ステッフの妹バブーも実にフレンドリーだ。ボーイフレンドのジャノーには、少しアラブの血が入っているようだ。南仏の文化を教えようとするのか近づいてきて、自分が手掛けているソーセージ作りを身振り手ぶりで演じてくれる。豚の腸の膜は、こうして口で吸い込むようにして裏返して、その中に詰め物をするんだ、豚は全部食べるんだ、鼻も含めてね・・・・。丸い目がさらに丸くなり、迫力に富んでいる。
 でも、時々バブーのお父さんの元警察官が人をうかがうような鋭い目つきになって、娘のボーイフレンドのジャノーを見ることに気づく。後で誰かが教えてくれる ― ジャノーはフランス領だった時期のアルジェリアに入植したフランス人で、1962年にフランスからアルジェリアが独立すると、本国フランスに帰還した。しかしフランス人の一部にはそうしたアルジェリアを逃れて帰還する多数の同国人を歓迎しなかったばかりか、「俺たちのパンを食べに帰ってきた」と言って差別しようとする 、と。また、独立したアルジェリアから本国フランスに引き揚げてきたフランス人は、<pied noir 「ピエ・ノワール」黒い脚>と蔑称で名指しされることもある、ピエ・ノワールという呼称は、以前地中海を巡っていた客船の釜たきの多くがアルジェリア人だったことにちなむ、とも。
 滞在3日目だったか、しっかり者のおばさんが現れ、ドライブに連れ出してくれる。きっと先生ではないだろうか、テキパキとしている。実に雄弁で、僕のフランス語能力でもよく理解できる。そのうちに、「あの山はカトリックだ、陰気でしょう?」などと始まる。中央山塊は16世紀宗教戦争の戦場だったのだ。それにしても、カトリックとの戦いに敗れ、今やマイノリティになったプロテスタンは、古戦場の山でまだカトリックと対峙しようとするのか。プロテスタントのおじさんの田舎の別荘は平家の落人のような所だったのか。おばさんのカトリック憎しのプロテスタント擁護論の熱っぽさは、長いこと強烈な疑問となって記憶に残り続けたが、最近ピエール・ノラ編『記憶の場』の「宗教的マイノリティ」の項目を読んで、合点がいった。おばさんの半端ない熱っぽさの理由がようやく理解できた。1970年代にアメリカのジャーナリストは同じ中央山塊を訪れて、土地の立派な未亡人に食事に招待されるが、素晴らしい山々を眺めながらそのプロテスタントの未亡人が最初に口にしたのは、「あそこは(宗教戦争の)戦場だったんです」という言葉だった。歴史家も書いている、「そこでは、宗教戦争がもたらした熱気が、20世紀のさなかになってもほとんど衰えていない。その地方の人たちは、まだ宗教戦争当時の16世紀の空気を吸っている」。そして、この地方で毎年夏に開かれる数千人規模のプロテスタントたちの集会は熱気で溢れ、今でも多くのフランス人たちの共感を呼んでいるという。
 木靴を履いた羊飼いのおばあさんにも会うが、彼女のフランス語がまったくわからない。おばあさんは、オーヴェルニュ語を話したのだ。オーヴェルニュ語は今では約8万人しか話さなくなった、絶滅危惧種の古い地方言語だ。木靴は北のブルターニュやオランダで土産物として売られるものとばかり思ってきたが、オーヴェルニュ地方でも家畜の世話をする時にまだ履かれていたらしい。牛などに足を踏まれてもケガをしないようするためだし、防水のためでもあったのだ。

フランスの古いサボ

フランスの労働者が履いている木靴「sabot(サボ)」で工場の機械を壊したことから、「サボタージュ」「サボる」という言葉が派生した。

 二年連続して中央山塊に招いてもらった。古い歴史が幾重にも重層的に積み重なってまだ息づいているようだったし、そこに直近から立ち会うことができ、たんなる観光旅行では味わうことのできない貴重な体験をさせてもらった。観光ルートからははずれた地域に潜む独特の風土やいとなみに接することができた。ウィリアム・フォークナーの短編集を読んだとき、アメリカのディープ・サウスの不気味なまでの奥深さを知って慄然としたことがあったが、フランスの南西部中央山塊のディープな記憶は僕の中にまだ生き続けている。
 フランスには日本にはない良さが多くあるし、またその反面、慣れ親しみたくない面もある。でも、そうした日常において日々接する現象面は、その下に広がる宗教や文化や歴史といったものを知ると、はじめてより深く理解することができるようになる。フランス中央山塊での経験は、外国を深く知るということはどういうことかを教えてくれる機会になったようだ。
 それからほぼ50年経ったあるとき、東京の自宅の玄関ベルが鳴った。そこでニコニコして立っていたのは、なんとパリの高等師範で親しくなって、「日本人と結婚したい」と言っていた物理学専攻のジャン=ルイではないか。念願かなって良きジャポネーズを見つけ、パリと東京を往復している、と言う。しきりに、「アキオ、もっとフランスへ来い」と繰り返す。
 突然、目の前に中央山塊の夜空が広がり、こぼれるまでの星々がきらめいた。東京の狭い一室に、松の木で焼いたパンの香りが立ち広がった。



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コロナ禍の日々:酉の市招福熊手、パン生地、母


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   11月 某日
 神社で開かれていた酉の市に行ってきました。コロナ禍にあっても、市は以前にもまして賑わっていて、招福熊手もよく売れていました。商談成立後の威勢のいい三本締めの掛け声が小雨模様の露店のあちこちからはじけました。手締めによって売り手は活気溢れるパワーを買い手に返礼として送っていました。招福熊手は商売繁盛や開運を祈り「福をかき集める」熊手とされ、そこにはお多福や七福神や宝船や大判小判などの縁起物が豪華に盛り上がるように飾り付けられています。
 残念ながら今ではほとんどすたれましたが、おもしろいのはその買い方の作法です。招福熊手を安く買うほど縁起が良いとされていたので、買い手はまず売り手と値切り交渉をはじめます。しかし、割り引いてもらっても、買い手はそれをお釣りとして懐に収めてしまうのではなく、そのままお釣りは全額売り手に御祝儀として返金します。すると、売り手は買い手からの返金に応えて、例の勢いのある三本締めで応えます。返礼という気持ちのやり取りが売り手と買い手のあいだで交わされ、そのことによって熊手はモノとしての即物的価値に、売り手と買い手の人格的価値、さらには縁起物としての価値が宿り、さらに輝かしくされます。熊手という商品には、儀式的熱気の中で人と人のあいだで交わされる人情という付加価値付まで加えられてゆきます。
 セルフ・レジや通販にすっかり慣れてしまいつい忘れがちになりますが、物を買うという行為は買い手一人だけで成立するものではないし、額面通りの交換だけに終始するものでもなく、返礼したり贈答したりする時の人間の人格の要素をも含んでいます。気持ちのやり取りが売り手と買い手のあいだで交わされてはじめて成り立つ行為でもあったのです。忙しい日常を送っていると、こうしたやり取りなどまどろこしく映るでしょう。でも、共感が生まれる対面での交歓に基づくこうした売買には、通りがかった人を立ち止まらせる活気に溢れていました。
 熊手を買った人は、福を多くかき集めることができるように熊手をそのまま高く掲げて持ち帰ることが勧められています。大丈夫です、そんなことは知らなくとも買った人は熊手を高く抱えて目黒の権助坂の長い急坂を意気揚々と上って行きます。人ごみをかきわけ、背筋をピンと伸ばして・・・・。交歓の賑やかさに囲まれ。私もなんだか大鳥神社を中心とする下目黒という地域社会に参加したような気分になりましたし、昔ながらの活気に浸ることができました。コロナ禍にあって立ちすくむ日々は続きますが、地域に根付く日常は揺るぎません。町から元気がもらえて、気持ちがほっこりしました。
  マルセル・モースの「贈与論」(1924年)を思い出しました。以前は物の経済的即物的価値だけでなく、そこに人格的価値や霊的な価値が付加されて売買が行われることがあったのですが、そのいくつかの事例を世界から集めて分析したモースは売買における互酬性の重要性を唱えました。売買においては、モノと一緒にモノにまつわる人格や記憶や霊までが足されてモノが贈られあうことがあったのです。そのことにより贈り手と受け手はより親密な絆で結ばれた。このことをモースは、具体的例示に基づいて分析しました(中沢新一「野生の科学」2012年)。これは新鮮なアプローチでした。そして、この互酬論は漫然と無批判に消費社会を生き、利便性や経済合理性に流されて売買を売り手から買い手への一方向的な行為としてのみ考えていた私には一種の警告にもなりましたし、この本は私の記憶に深く刻まれました。

パン生地

 
   ○月 ○日
 コロナ禍が長く続いているため、外出を控えめにする巣ごもりのような生活を送っています。刺激の少ない、単調な日々・・・・。
 でも、そんな中にあっても、小さな驚きが足元に転がっています。
 YouTubeでパン作り動画を見ましたが、パン作りの後半の「ベンチ・タイム」に惹き込まれる。まず、一次発酵後のパン生地からガスを抜き、それを手で丸めて、綺麗ないくつものボールにする。乾かないように霧吹きを吹きかけたり、絞った濡れぶきんをかけたりしながら、ベンチで十五分ほど休ませる。パン生地を柔らかくして、最後の成形の時に作り手の思い通りの形になるようにする。だからベンチ・タイムのあいだは作る人はその場を離れずに、休んでいるパン生地の球体をウォッチングするほうが良いだろう、そう言う人もいる。山場なのだ。
 その後トッピングとともに成形し直すと、素材はまた生成し始め、ふくらみ始める。作る人のもみ方などに合わせて、息づき始める。でも、今度は生地は時に気難しく反応する。生地はモノも言わずに、とんでもない形になってしまうこともある。だから、作る人は、その球体のご機嫌をじっとうかがう。「ベンチ・タイム」で休む球体を女性にたとえる人がいるのもうなずける。
 時には二倍にまでにふくらむ球体群が、シロウト・カメラマンの薄暗い動画像の奥から静かに浮き上がり、音も立てずに、こちらに迫ってきます。ナレーションもなく、音楽も流れない。どこか危うげなカメラが、いつもなら「ナナメッテル!」と言われてしまいそうな思わぬ角度からパン生地を執拗に追う。薄暗がりの奥から、パン生地は少しずつ、裸形の生々しくはりきった姿を現わす。ベンチ脇に立つ監督の手を離れ、球体はいつのまにか堂々と独り立ちしている。トッピングなどで美味しく仕上げられ、パンは圧倒的な素の健康美を人目にさらす。パン生地はたんなる無生物の物質として知覚される対象であるだけにはとどまらなくなる。それを見るわれわれに生き物となって挑み始める。われわれの想像力は刺激される。生が吹き込まれたパン生地はそこに潜められていた生起する力を発揮し始め、目の前でゆっくりとふくらみ始める。
 私がYouTubeでパン生地がこうしてふくらむまでのプロセスに思わず見入ったのは、以前に哲学者ガストン・バシュラールの「大地と意志の夢想」(1948年)を読んだことがあったからだろうか。哲学者バシュラールもその書物の中でパン生地が豊かな夢想へと導く物であることを述べている。たしかに、バシュラールの言うように、パン生地は、土から育てられた小麦粉と水とが人の手でもって混ぜ合わされ、寝かされて空気にしばらく晒され、それから火で焼かれる。世界の四大要素である土、水、空気、火がすべて使われてパン生地は作られ、それはふくらみ、生きもののようになってパンになってゆく。コロナ禍にあって、閉塞感が広がりますが、その中にあっても、パン生地という物質は、なるほどまるで生を得たかのように黄金色に輝き、ふくらみます。
 その本の読後感に、私は自分なりの考えを足してみる ー 聴覚をのぞけば、パン製造のプロセスでは私の五感のほうも総動員されることになるはずだ ー 見る、触る、香る、味わう、私の身体の中で、それらが総動員される。これはめったには起きないことだ。さらにパン製造の際は、時間が普段とは異なる、熟成のゆっくりとした豊かな流れを刻むのに立ち会うことが「できるはずだ。これも稀にしか起きない。
 ステイ・ホームのコロナ禍にあって閉塞感を感じつつも、パンが作られる長いプロセスに立ち会うと、意外にも活動中の身体性のような感覚を感じるようになります。それにしても、パン生地を哲学者が取り上げて、そこに秘められている豊かさを語ってくれるとは・・・。パン生地という物質が生を得てふくらむことを、想像力と科学的な分析によって哲学者バシュラールは語ってゆきます。いつかじっくり再読したくなります。
 でも、ふと思います、私は私なりにパン生地だけでなく、パン種にも注目してみよう、と。ごく少量でも酵母を含んだパン種は、パン生地という物質を自分好みの生き物に変化させ、生地を思い通りの味に、さらには黄金色にふくらませてみせる稀に見るスグレモノなのです。このパン種には、<種>という語が使われています。<種>は、モノだったものを賦活させ、発芽させてみせ、生の植物に変形させ、さらに大きく育ててみせます。パン種には、生の可能性がギッシリつまった<種>という語が使われています。

ゴッホ、<種まく人>、1888年、クレラー=ミュラー美術館

 秘伝のパン種を密かに保存管理している人は、なにもパン屋さんだけには限られないはずです。モノを生に転換させる秘法を探す私は、ゴッホの「種まく人」が首から吊るす種袋を思い浮かべました。「種まく人」(図像参照)は、大股で畑を歩き、大きく腕を振って種を蒔いてゆきます。
「心の師」である画家ミレーの「種まく人」を繰り返し模写するうちに、ゴッホの「種まく人」には変化が起きます。麦畑の奥の地平線に大きな黄色い太陽が現れるようになります。すると、それまでくすんだ色調だったその絵は、現れた太陽に照らされているうちに、次第に生彩を帯び始め黄色い色合いを帯び始めます。南仏で見た黄色く輝く太陽が、麦畑を生の場に変えます。ゴッホの種まく人が首から吊るす種袋には、太陽に温められた種が生に至り、発芽するまでのその長いプロセスを撮った動画が潜んでいるようなのです。私は畑に蒔かれた種が、何度ものさまざまな刺激を受け、ついに発芽するまでの長い時間を想像してみます。

 加藤楸邨の句も思い出しました。

   パン種の生きてふくらむ夜の霧           野哭
 
 戦後直後に作られた句です。この句を載せた句集「野哭」巻頭には、「この書を今は亡き友に捧げる」と書かれています。

   △月 △日
 谷崎潤一郎『陰翳礼讃』の中にこんな一節があります、「西洋人は闇を嫌い、隠を払い除け、明るくしようとする進歩的な気質があるのに対し、東洋人は己のおかれた境遇に満足し、現状に甘んじようとし、それに不満を言わず、仕方ないと諦め、かえってその状況なりの美を発見しようとします」。
 この文の前半の西洋人が「闇を嫌い、隠を払い除ける」との指摘には納得がゆきます、例えば、作家アルベール・カミュは芸術作品を闇の中で虚空を照らす灯台にたとえます。芸術作品には、闇に敢然として立ち向かい、進むべき進路を照らし出し、人を導く力があるとカミュは指摘します。
 後半の東洋人の美意識 ― 「その状況なりの美を発見しようとします」 ― にも賛同します。ただし、私は東洋人が「現状に甘んじようとし、それに不満を言わず、仕方ないと諦める」とは思いませんし、ここにはやや誇張さえ感じられます。東洋人がそれほど消極的であるとは思いません。また、『陰翳礼讃』では東洋人の美の例として、お歯黒や厠、つまり和式トイレのしつらえ、金屏風、行燈、螺鈿といった谷崎美学のやや限定された特殊なものが並べられてもいます。高尚な谷崎美学でなく、もっと現代の身近な日常生活の身辺から美や生の例を見出すことはできないだろうか。
 こう言ってしまってから、ふと思い出しました。たしか、谷崎も特殊な物ではない、和菓子やお椀といった日常茶飯の品に美や生の例を見出していたはずだ。さっそく、読み直してみる。    

  私は、吸い物椀を前にして、椀が微かに耳の奥へ沁むようにジイと鳴っている、あの遠い虫の音のようなおとを聴きつゝこれから食べる物の味わいに思いをひそめる時、いつも自分が三昧境に惹き入れられるのを覚える。

 谷崎によれば、東洋人は逆境にあってもお椀から虫の音を聞き出す耳を持っている。それに、羊羹(ヨウカン)からも特有の官能美を見てとる目も持っている。

 (ヨウカンの)玉(ぎょく)のような半透明に曇った肌が、奥の方まで光りを吸い取って夢見る如きほの明るさを啣んでいる感じ、あの色あいの深さ、複雑さは、西洋の菓子には絶対に見られない。

 谷崎は、お椀が生き物のように「ジイと鳴る」のを聞き取ります。ヨウカンを女性に見立てて、そこに女性の肌のような美しさを見て取ることができます。なにも選び抜かれ洗練された高尚な芸術作品からでなくともよいのです。日用のお椀やヨウカンからでも、なにげに生のしるしや女性の官能性までも見てとる谷崎のセンスに改めて驚嘆します。

 「で、お前はどうなんだ。美を見抜く力はあるか?」という声が聞こえてきます。
 私にはそんな力などありません。でも、コロナ禍にあっても、小さな「気づき」は体験しました。詩人吉田一穂の「母」という詩についての解説をいくつか読んだ時のことでしたが、私は少し物足りなさ、というのか違和感を覚えました。
 この詩についての私の独自の解釈を述べる前に、まずその詩「母」を以下に引用します。


    あゝ麗はしい距離(デスタンス)、
    つねに遠のいてゆく風景・・・・・

    悲しみの彼方、母への、
    捜り(さぐり)打つ夜半の最弱音(ピアニツシモ)。

 私は「母」という詩に付けられた解説 ー ある一般書につけられた解説 ー に物足りなさをおぼえました。そのエッセイではもっぱら亡き母が消えつつある存在であることが確認されていました。母は喪失に向かうだけの存在としてまとめられていました。そうして死後に沈黙や忘却に飲み込まれてゆくとき、亡き母は言語化され、それはそれだけで美しい詩に純化され昇華する、とも。でもそれだけでしょうか。吉田は母の喪失をただ見守るだけでしょうか。この詩にはもっと多くのことが表現されているはずです。
 詩人吉田を亡き母の捜索へ探求へと駆り立てるようなより強い思いも表現されているはずです。この詩で、作者吉田一穂は母の消失を前にして手をこまねいてたたずむだけではなく、消えてゆく母をより積極的に主体となって探し出そうとしています。たとえそれが無謀で不可能な試みであるを知りつつも、その闇の国に分け入ってゆこうとする吉田の姿勢が感じられます。
 引用文三行目には、「母への /捜り打つ夜半の最弱音」とあります。この文の主語は、明示されてはいませんが、吉田一穂自身です。吉田は楽器でさまざま音を弾き、亡き母に呼びかけ、その音に応えようとする亡き母を探っているはずです。母からの反応を聴取できるように、吉田は最弱音も使いながら、亡き母のほうへ楽器を奏でます。母の気配は次第に消えてゆきます。楽器を奏でながら死の冥界にまで降り立ち、母からの応答を待ち、母の声を聞き漏らすまいとして耳をそば立てて必死に母を探し出そうとする吉田の能動的で意志の力のほうも表現されているはずです。
 この母は神話のエウリュディケを思わせます。吉田は竪琴を弾きながら冥界で亡き妻エウリュディケを探し出し地上に連れ戻そうとする夫の楽人オルフェウスを思わせます。オルフェウスは最後に掟を破って後ろを振り返ってしまい、このためオルフェウスの後ろを歩き地上に帰還しようとしていた亡き妻エリュディケは、地上に戻ることができなくなります。吉田はオルフェウス神話のこの悲劇的な結末は知っていたでしょう。それでも、彼は亡き「母」に呼びかけ続けるのです。
 コロナ禍にあるので、身近にも広がる不安や、死にあらがおう、流されまい、せめて抵抗はしようとする気持ちにうながされて、私は吉田の詩「母」から亡き母を探し、母を地上に呼び戻そうとする強い姿勢をことさらに読み取ろうとしているのかもしれません。しかし、吉田がこの詩に託した、死やその後に来る忘却を甘受し、そこにひたすら忍従するまいとする強い思いに、私は共感や感銘をおぼえました。
 吉田の詩の背後、つまり母の背後には、彼の故郷である北海道古平町やその神威岬が原風景となって広がっています。「望郷は珠の如きものだ」と一穂は書いています。哲学者バシュラールも指摘しますが、球体や円はモノのもっとも張り切った充溢した形態です。故郷はただ感傷的な受け身のままにとどまるものではなく、輝かしさを秘めて、吉田からの呼びかけを待って反応しようとしているようです。その存在を時に充溢させて、「珠」のように故郷は精一杯ふくらみ、呼びかけられるのを待ち構えています。叙情に流されず懐旧にひたることもない吉田は、故郷のその「珠」のほうに視線をこらし、「珠」が反射するように放つ輝きを見てとろう、またかすかなつぶやきでも聞きとろうとしています。その試みを表現しようとします。こうした試みは、精神上のことで、想像上のことです。でも、そこで吉田は亡き母に出逢おうとしています。
 吉田は詩作信条を「生物、生命」に置いていました。詩作品に潜んでいる生動的な力強がどこかで生起し、立ち広がろうとしています。故郷の北海道古平の神威岬(カムイ・ミサキ)には、高位の霊的存在(カムイ)が棲んでいる、とアイヌたちは信じていました。

 3年にも及ぶコロナ禍は、ふだん見過ごしてきた日常生活に宿る生や力を再発見する機会を与えてくれます。猛威をふるうパンデミックによって多くの方が亡くなりました。そうしたパンデミックに前にすれば、詩作品など微力なものかもしれません。しかし、詩作品という小さな断片であっても、それは暗い状況に閉塞することなく生きる姿勢を教えてくれます。深い闇につつまれながら小道をたどる私たちの足もとを照らしてくれる灯りになってくれます。
 立ちすくむ私の背中を押してくれる吉田の詩を、私は美や叙情といったものの結晶としては解釈しません。喪失やそれに伴う虚無の中にあって、詩作品はたんなる鑑賞の対象にとどまるのでもありません。孤立したままになるのでもありません。われわれ読者たちからの呼びかけに応じて、秘めてきた生に向かう知恵や可能性を見せてくれます。そのたくわえてきた力を発揮する機会が来るのを待っています。

                  編集協力 KOINOBORI8

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