『失われた時を求めて』 もうひとつの愛

 この長編小説では当初主役として舞台前面で照明を浴びて目立っていたものが、読み進むにつれやがて少しずつその存在を希薄にしてゆきます。反対にそうした全般的な流れに逆らうようにして、それまで目立たなかった脇役たちが舞台の袖から登場してきます。長く主役をはってきたものは翳り、それに代わりそれまで役割も明確ではなかったものが新たに活躍を始めます。
 まず社交界で、次に恋愛において起きる大きな変化を追ってみますが、それに重なるようにして主人公マルセルの内面においても大きな変化が起き、主人公は変貌することになります。

<ゲルマント公爵家の没落>
 社交界の中心となるのは、なんといってゲルマント公爵家です。王家とも姻戚関係を結ぶ公爵一族の権勢に富む生活が描かれます。しかし、次第に公爵家に宿る脆弱さのようなものが暴かれるようになります。小説後半では一族の斜陽が残酷ともいえる筆致で描かれます。こうまとめてしまうと階級社会を批判するレアリスム小説のようですが、そうではありません。たしかにプルーストのこの小説にはフランス19世紀末に実際に起きた貴族階級の決定的な消滅や台頭する新興ブルジョワ階級の繁栄ぶりも描かれます。しかし、社会風俗はこの小説ではかなり誇張して描かれています。ブルジョワのヴェルデュラン家による浪費は当時のフランスではまずありえないような話です。フランスは金融や土地の価格が乱高下する変動の時期にあり、富裕層でも誕生日に宝石を贈ったりヴァカンスに高級リゾート地のお城を毎年借り出すほどの金銭的余裕など持てなかったはずです。
 傾き始めるゲルマン公爵家の実態は独特な形で読者に暗示されます。公爵家の生活は、主人公が春の休暇を過ごす、パリから約40キロ離れた田舎町コンブレの生活と対比されます。公爵家はコンブレの教会内に6世紀以来領主として私的礼拝堂を構え、その不可侵性を誇る「父なる神」である公爵は、教皇の即位にも関与しているなどと言います。公爵の弟シャルリュス男爵も爵位の称号を列挙してみせては、こうした自分の家系は「フランスの玉座」に据えられるべきものだなどと自慢話を長々と続けます。第5篇「囚われの女」で開かれるコンサートでも演奏されるヴァントゥイユの7重奏曲を「偉大なる大芸術」などと大袈裟に例えてみせては、「司祭」よろしくその場を取り仕切ろうとします。
 コンブレの教会でもコンサートでも、公爵家はそのど真ん中に自分たちだけの特権的な地位を築きます。しかし、コンブレの教会は、そこに料理女フランソワーズやサズラ夫人やテオドールといった町民たちが出入りし聖人たちの彫像群と親しげに話を交わし、教会が人が住める「住居」のような様子に変容する時にこそはじめてその魅力を見せるものなのです。
 公爵はゲルマント家はヨーロッパ中に広がる高貴な家柄の起源となっているなどと主張しますが、しかしその起源の場所たるやじつはコンブレのはずれのひなびた共同洗濯場でしかありません。こうしてゲルマント家と田舎町コンブレの生活は対照的に対置させられてゆきますが、公爵家よりもコンブレの生活のほうが精彩に富んでいて、その後の小説の展開に関わってくることが予想されるものとなっています。こうして比較されながら描かれてゆくうちに、ゲルマント家では、その伝統墨守の頑迷さのほうが目立つことになります。
 主人公一家はコンブレからパリの貴族のサン=ジェルマン街に引っ越し、ゲルマント公爵家とは中庭をはさんだ正面にあたるアパルトマンに住み込みます。華やかな公爵夫人に憧れる主人公はそのサロンに招き入れられても、夫人特有の発音や才気をひけらかす発言に長いこと魅了されます。しかし、次第に夫人の時にべらんめえ口調で言い放たれる警句 ― 優越感を保とうとする陳腐な戦略 ― が、しきたりにとらわれない開放的な精神によるものではなく、引き立て役の公爵や取り巻き連中に乗せられ煽られたものでしかないことに気づくようになります。夫人にも一族特有の霊が取り付いていて、家名に傷がつくと判断するや、ざっくばらんな態度をたちまち硬化させ無愛想で横柄になります。女優ラシェルが評判をとると、彼女をサロンに招きはしますが、そのユダヤ人女優にゲルマント家の基準に照らして容認できない点があると見てとると、たちどころにラシェルの才能を否定し、芸名ではなく「あの子」と侮蔑的に呼んで、サロンから排斥してしまいます。主人公は最後には公爵夫人の皮相で偏った芸術受容に失望し、怒りをおぼえるようにもなります。パリの大きな館には蔵書を並べた図書室が設けられていることがあり、公爵家もその例ですが、公爵夫人の知性は、「豪華絢爛たる城館」内に構えられた「時代錯誤で不完全」な「知性を育むことができない図書室」にたとえられることにもなります。
 一方、主人公の書棚の本のほうはアルベルチーヌや使用人によっても読まれていて、書棚は知的刺激を与える場として機能しています。貧しい孤児であったアルベルチーヌも主人公の書架に置かれていたドストエフスキーを読み込み、画家エルスチールや作曲家ヴァントゥイユからも多くのことを学び取り、精神的な成長をとげてゆきます。主人公の書棚は、公爵家の豪華な蔵書が眠る閉塞感漂う図書室とは対照的なものです。
暗記することができない公爵は、引用するための文をメモに書きとめ、それをサロンで気の利いた引用として読み上げようとします。女性蔑視の、またドレフュス事件の際は人種差別の発言も口走ります。隣人の主人公の祖母が重体に陥ったときは、隣人として訪ねてきますが、早すぎるお悔やみを悲しみに暮れる主人公一家を前に口にしてしまい、社交喜劇を演じてしまいます。祖母は公爵のことをのちに一言で評します、「俗っぽい方」と。
 自分はパリの由緒ある男爵だから本当はより高位の爵位の貴族だなどと主張するシャルリュス男爵は、スワンと同様偶像崇拝という狭い受け身の芸術受容を繰り返します。男爵はバルザックの革製装丁本をフェティッシュに愛蔵し、何かというと「それははなはだバルザック風ですな」などとバルザックになり代わってひとりごちます。しかし、結局のところスワンと同じような「芸術の独身者」にとどまり、作品の字義通りの受容だけで満足し、深い呼びかけやうながしを作品から聞き出すことができません。なるほど主人公はシャルリュスが執筆活動に打ち込むことを望みますが、期待されるのは「無尽蔵の目録」でしかありません。バルザックから受けた影響が創意工夫によって独自のものとして育まれ、そこから男爵自身の創意によって執筆が始まることが期待されたわけではありません。
 シャルリュス男爵はサロンで傍若無人にスカトロジックなことを口走りますが、その時主人公はその傲岸不遜な態度に怒り、男爵のシルクハットを踏みにじるようになります。同性愛者シャルリュス男爵は最後は苦痛常習者のようになり、かつて愛した美貌のバイオリン奏者モレルに似た男娼に鞭打たれる快楽を追い求めるようになります。そして世界ではじめて空爆にさらされる第一次大戦下のパリの夜をさまよいます。欲望に駆られた「地獄めぐり」(バンジャマン・クレミュ「見出された時」)の様相が描かれます。
 小説巻末でゲルマント公爵家内外に暗い闇がたれ込めます。ゲルマント大公夫人邸の午後の集い(マチネ)に久しぶりに足を踏みれた主人公マルセルには、社交界人士が老いという「仮装」をしているように見えます ― 嵐に打たれる岩のような面貌と化した公爵、地層学的なまでの深いシワに刻まれた貴族、声によってしか見分けがつかなくなった旧友・・・・。今や時間による侵食作業がいたる所で進行している。大公は最高級の、しかし閉鎖的なジョッキークラブ会員にも選出されないし、貴族のサン=ジェルマン街の「居城」も手放さざるをえなくなっている。公爵の歩行は困難になり、よろめき、鐘楼よりも高くなった竹馬もろとも転落しそうです。大ブルジョワのヴェルデュラン夫人は三度目の結婚でいつのまにかゲルマント大公夫人におさまっていますが、相変わらず派閥作りに励みます。驚くことに、そのサロンにはコンブレの教会を住居に変容させてみせたサズラ夫人も来ています。貴族のサン=ジェルマン街に「民衆的」で「田舎風」の生活までが入り込もうとしています。すでに第3篇「ゲルマントのほう」には次のような文が書かれていました ― 「当時のゲルマントの名は、酸素なり別の気体なりを封じ込めた小さな風船のようなものだ。それを破って中の気体を発散させれば、私にはその年その日のコンブレの空気を吸うことができる」。
 崩壊へと向かう凄みに富んだ描写が続く。しかし、小説はここでは終りませんし、主人公マルセルは社会の変動に立ち会うだけの傍観者ではありません。しばらく前から読者はこうした現実に接しながらも、まだ何か重要なことがマルセルの内面で起きるはずだと思うはずです。
 そういえば最終篇「見出された時」には「千一夜物語」がしばしば引用されています。このアラブの物語では主人公シェーラザードは語り始めることによって自らを危機から救い出します。作家志望の、しかしすでにかなりの年齢になった主人公マルセルも、ゲルマント大公夫人邸図書室の中でコンブレの就寝劇で母親によって朗読されたジョルジュ・サンド「捨て子フランソワ」を見つけます。マルセルは今度は語り手に変身した姿となってその小説を読もうともします。3回も繰り返される無意識的記憶によって過去へ遡る流れがすでに準備され用意されています。いよいよその小説を読み聞かせてくれたのコンブレの母親と交代し、今度は自らが語る主体となり、自らを、そしてまたコンブレの人々を過去から救い出そうとします。
 次章<恋人アルベルチーヌともうひとつの愛>では、恋人アルベルチーヌと付きあうにつれて嫉妬や失望を味わう主人公の姿をまとめることになります。しかし、ここでも主人公の語り手への変貌という最大のテーマが関連してきます。主人公は最後に深い所から響き出てくる歌に導かれて語り手に変貌します。そして、暗い事態を反転させるような創意に富む試みに挑もうとします。
 
<アルベルチーヌともうひとつの愛>
 アルベルチーヌは英仏海峡を臨む保養地バルベックの海を背景にして現れた娘たちのグループのひとりです。女性もまたがるようになった自転車を好んでいて、その頬は冬の朝の輝きのように紅潮します。娘たちとイタチ回しという遊びをしていて彼女の手を握った時など、「無数の希望が一気に結晶する」のを感じ、「官能的なやさしさ」を主人公はおぼえます。しかし、彼女が下品な言い回しを使うのを耳にするうちに、グループの娘たちと同性愛的関係にあるのではないかと疑います。しかし、彼女の姿は変化し続け、はっきりした像を結びません。ふたりは知り合いの画家エルスチールのアトリエで新しいものの描き方 ― 物の「メタモルフォーズ」の描出 ― をおぼえ、教会巡りのドライブに出掛けたりします。
 第五篇「囚われの女」では、主人公はパリでアルベルチーヌと同棲生活を始め、彼女が同性愛の娘たちと接触しないように監視します。絶え間のない嫉妬の目にさらされるアルベルチーヌは嘘を口にするようになります。不安にかられた主人公からの質問は、尋問のようになります。しかし、彼女の説明は納得できるものではなく、彼は彼女について立てる仮説を何度も修正せざるをえなくなります。キスも交わしますが、キスは「物の表面をさまよって、(・・・)頬にぶつかり、中にまで入り込めない」。彼女を所有することなどできないし、女性同性愛ゴモラ疑惑もその確証は得られません。恋愛についてペシミックな考察が続き、恋愛は苦痛をもたらすものとなります。
 アルベルチーヌの背後には、判読不可能だが刺激的な「おそろしい未知の土地(テラ・アンコニタ)」が広がっています。心理分析では届かない存在、理知による定義では解明することのできない存在の根底に、登場したときのような海のうねりも広がります。意外な展開を演じる多面的で複雑な、現代的ともいえる人物です。

 その存在の根底から不意にもうひとりの未知のアルベルチーヌの声が聞こえてきます。第5篇「囚われの女」においてアルベルチーヌは画家エルスチールばかりか作曲家ヴァントゥイユの作品も理解し、さらには自らの創意も表現する女性となって登場します。ヴァントゥイユの音楽をピアノや自動ピアノで主人公マルセルに聞かせ、彼の音楽受容をさらに深めさせ、彼を創造へ導こうとする女性に変貌しています。
 主人公は社交界においても、また恋愛にも虚無をおぼえるようになっていましたが、ヴァントゥイユの7重奏曲を聞いたとき、すでにこう考えていました ― 「(・・・)恋愛の中にさえ見出してきた虚無とは別のもの、おそらく芸術によって実現できるものが存在するという約束として、また私の人生がいかに空しいものに見えようともそれでもまだ完全に終わったわけではないという約束として、私が生涯耳を傾けることになるあの奇妙な呼びかけが届けられた」。
 ヴァントゥイユの曲に感動した主人公は、アルベルチーヌによって数度にわたって聞かされたピアノ演奏にうながされ、曲から受けた呼びかけについての考察を深めます。そして、曲からの呼びかけが、コンブレの就寝劇においてジョルジュ・サンド「捨て子フランソワ」を読み聞かせてくれたときの母親の声に類似することに気づきます。ヴァントゥイユの曲も母親の朗読の声も、ともにいくつかの共通する音楽用語でもって描写されています。創意溢れる曲も朗読の声も、親しみをこめて話しかけてくる歌となって主人公をまだ未知の世界へ誘おうとします。母親の声はまだ幼かった主人公にとっては幼児期との決別を強いる声となったために、その夜はこの点では「悲劇」ともなりましたが、「自然の愛情や豊かなやさしさ」に溢れる母の声は主人公にとっては、むしろ「最初の学び」や「よろこび」であり、「新しい時代の始まり」を告げるものとなったのです。この就寝劇は無意識的記憶によって甦るコンブレの生活の中心ともなっています。
 この夜、母親は来客スワンをもてなすことに忙しく、習慣としてきたおやすみのキスを幼児期の主人公に与えることができず、不安にかられた主人公は母親の愛情を疑っていました。同様にパリでも主人公はアルベルチーヌの愛情を疑っていました。そうして孤独に陥る主人公に、母親とアルベルチーヌは外から訪れてきて、情愛を込めて彼に新たな名をつけて呼びかけ、歌ともいえる創意に富む実践 ― 朗読とピアノ演奏 ― を行ってみせ、彼の意欲をかき立てようとします。ヴァントゥイユを弾く成熟したアルベルチーヌがコンブレで れた母親の姿に類似することにマルセルは気づきます。
 創意に富む歌はバルベックで母親の分身である祖母によっても外部から聞かされることになりますが、小説冒頭の就寝劇以降さまざまな機会に変奏される歌は、時間を超えて互いに共鳴し合います。「私が生を受けたコンブレからは池の水がいく筋もの噴水となって、私と並んで噴き上がっていることがわかった」。
 社交界は時間に蝕まれて衰退へと向かい、恋愛も嫉妬や喪失へと向かう中にあって、当初こそ小声で、しかも断続的にしか伝わってこなかった歌声は、それを歌う主体を変えつつ多声的交響となって繋がってゆきます。時間によって消されることがない豊かな印象ともなって主人公を導いていたのです。社会や人間によって織りなされる筋立てに隠れるように繰り返されてきた歌を演奏によって連鎖のように繋げたアルベルチーヌに主人公は「偉大な「時」の女神」を感じるようになります。

 恋愛において孤独でもあった主人公は、アルベルチーヌから初めて「マルセル」と親しく呼びかけられ、彼女の歌を秘めたピアノ演奏に応えて、自分なりの創意を模索し始めます。そして、今度はヴァントゥイユを自らピアノで弾き、芸術についての深い考察をアルベルチーヌに語り始めます。スワンやシャルリュス男爵のような「芸術の独身者」とは異なり、他者たちの歌を充分に受容し、自らの創意をそこから主体的に発掘するのです。母親や祖母やアルベルチーヌ、作曲家ヴァントゥイユなどからの間欠的に繰り返される呼びかけに応えようとします。作家志望である主人公は自らの創作観を練ります。
 巻末においてまるで時間が止まったような一回性の啓示を特権的瞬間のように受け止めるだけではありません。主人公は芸術や時間についてひとりだけで抽象的な考察にふけるのでもありません。
 恋愛において心理分析の対象であったアルベルチーヌはマルセルのもとから逃げ去り、その後に落馬事故で亡くなり、結局は確たる像を結びません。しかし、最後に彼女は母なるものを思わせる、歌いかけ呼びかける新たな親密な面を見せます。「失われた時を求めて」は心理分析を基調とする古典的なフランス小説よりも、アルベルチーヌが読み込んでいたドストエフスキーの小説を思わせます(ヴァンサン・デコンブ「セヴィニェ夫人のドストエフスキー的側面」)。例えば、やさしさの下に粗暴で復讐心の強い一面を見せるアルベルチーヌの友人アンドレも、そのさらに下には善意と隣人愛を秘めています。アンドレも両極端ともいえる面を持ち合わせていて、複雑な人物です。
 主人公は巻末において創作を始めようと決意しますが、それ以前からさまざまな形で創作行為へうながされ、また導かれていたのです。巻頭の就寝劇でも祖母と母親は幼い主人公に誕生日プレゼントとして朗読という創造性に富む歌をすでに贈っていました。その歌は通奏低音となり、小説全編にわたって響きます。共感が、そして共鳴が連鎖となって広がります。コンブレの町民たちも参加する共感に満ちた呼びかけによって、主人公マルセルの創意が引き出され高められてゆきます。アルベルチーヌは落馬事故によって亡くなりますが、彼女の歌はマルセルに歌いかけ、彼をうながし続けます。それに応えてマルセルは語り手となってアルベルチーヌを再生させ、コンブレの生活を復元しようとします。この広く親密な愛は相互に交わされてゆき、相手を導こうとします。

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ジャン・コクトー 「オルフェウスと竪琴」

 語り手の歌は、ある面 では吟遊詩人オルフェウスの歌を思わせます。詩人で音楽家オルフェウスも芸術の神である父アポロンから竪琴を授かり、それを弾き、また歌を歌いながら木々や岩を魅了し、亡くなった妻エウリディケに歌いかけます。彼女の生を呼び醒まそうとします。吟遊詩人オルフェウスは歌には生かす力が潜んでいることを知っていました、歌には新たな生を呼び醒ます力が秘められていることを。

(なお、主人公の名前「マルセル」については、第一回ブログ記事<マルセル・プルースト失われた時を求めて」を通読する> 2021.6.25)を参照されたい)
aushiba.hatenablog.com



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