戦時下のフランスに島崎藤村が見たもの

 小説家島崎藤村(1872−1943)は、第一次世界大戦前後の混沌としたフランスに3年間滞在する。藤村はすでに『家』などの自伝作家として評価を得ていた。社会の偏見に苦しみつつ目覚めてゆく個人の内面を凝視する求道的作風で知られていた。しかし、「家」は家父長という旧弊に取りつかれた人の悲劇を描いたものであり、家を包む大きな時代状況を描く視座はまだ獲得できないでいた。また、藤村は実生活において姪との不倫の恋に悩んでいた。葛藤を抱え、壁に取り囲まれるような思いにとらわれ、深い危機に陥っていた。私生活に関わるスキャンダルから逃れるようにして、藤村は42歳の時に神戸港からフランスに向けて旅立つ。華やかな門出でも留学でもなかった。日本を後にする船上から兄に手紙を出し、姪との不倫の後始末を頼んでさえいる。
 パリに着いても、朝日新聞に書き送る記事は当初は単なる旅行記に近いものだった。藤村にとってのフランスは、流行を追い珍奇なものを好む倦怠の国であり、常套句でもって描かれる国であった。しかし、第一次世界大戦戦時下(1914−1918)、空襲にさらされたパリは、惨禍から立ち直ろうとして強靭なまでの生活力を発揮していた。そうしたフランスの庶民の生活に間近から接し、見聞を深めてゆくうちに、藤村の描く『仏蘭西だより』は、その調子を変えてゆく。
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1914年8月30日 パリでの最初の空襲、ドイツの航空機が4発の爆弾を投下した。
(写真はセーヌサンドニ駅構内)法医学鑑定サービス/BHVP/ロジャー・バイオレット


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1914-1918 畑では女が男にかわり家畜のように働いた。
Paysan Breton  Les paysannes, ces héroïnes oubliées de la guerre 14-18  Carole David
 そこには、たゆまずひたむきに働き続ける職工たちや、戦地にすすんで赴こうとする芸術家たちや、農作業に励み続ける農夫たちの姿が描かれる事になる。現実に根差して生きる人々に関心を抱くようになる。自己凝視を続けてきた藤村は、庶民のたくましさを追うことによって、それまで自らのものとすることができなかった外部への視線を習得するようになる。大きな歴史観や思想によっては取り上げられてこなかっった、具体的な生活の諸相は、やがて「芽をつむぎつづける力」とも表現されることになり、藤村のその後の創作活動の幅を広げる原動力のひとつになっていった。
 藤村はノートルダム大聖堂にしても、そこに建立当時の中世ゴチック期だけでなく、さらに紀元前に遡るフランスのルーツのガリア時代の精神の発露を見てとるようになる。大聖堂が過去と重層的につながりながら建立されてきたことを知り、伝統には「死から持来たす回生の力」が潜んでいると書くようになる。文学者では、伝統に創造との連続性を見出そうとするシャルル・ペギーやシャルル・モーラスを好んでいる。遠い過去にまで遡り長い時間のスパンで物事を俯瞰する視座は、やがて『夜明け前』に盛り込まれることになる。こうして、フランスの庶民たちの生活力と、今に生いる伝統の力は、藤村に新たな展開をうながすものとなった。
 渡仏してから一年あまりたった頃、藤村はパリから約400キロ離れた自然豊かな地方都市リモージュに2ヶ月あまり滞在する。リモージュの子供たちに日本の子供の遊びなどを教えたりして、滞在を楽しむ。こうした幼い子供との無邪気な交流が、藤村に幼年時代の記憶を呼びさましたことは想像にかたくない。藤村は童話を5冊も出版しているが、そこにおいては物語は父親が子供に話しかけるという一方向的な形で進められる。しかし、リモージュでは父親役の藤村は当地の子供達に遊びを教えるだけではなく、子供たちからの情愛に富む反応を受けて楽しんでいる。藤村は遊びにおいて父親役である自分を見上げる子供の立場に自分自身を何度も置いてみたはずだ。そうすることによって、藤村は自らのうちに実父正樹への深い情愛が潜んでいたことを意識し、それを顕在化しようと思い立ったとしても不思議ではない。文明開花の首都東京に10歳の時に出たまま疎遠になっていた父正樹への情愛を意識化し、父と故郷を言葉の力で復興させてみよう・・・・。童話における父から子供への呼びかけは、リモージュにおいて父子相互間の交歓に展開され、交わされるその無邪気な交流は藤村を動かすことになった。藤村は父親正樹や故郷との再会の機会を探るようになった。藤村は、短いながらもリモージュ滞在が、自分にとっては「蘇生」のきっかけになった、と書いている。小説『新生』にも、「何よりも自分は幼い心に立ち返らねばならない」という文が書かれている。
 実際、代表作『夜明け前』には、フランス滞在中に習得したものの見方が盛り込まれている。渡仏以前に執筆された『家』では小説舞台は個人や家という狭く閉鎖的なものだったが、フランス滞在中に個的なものを包摂するより大きな新しい見方 ― 空間と同時に時間においても ― が盛り込まれ、小説世界は大きく変貌する。上京以降ほとんど帰郷しなかった藤村は、父親を含むより広い母胎としての故郷に回帰する。
 『夜明け前』で描かれる明治維新は、江戸から明治へという時代区分が強行される地点ではない。短いスパンの時代区分のよっては無視される中仙道馬籠宿周辺の生活が長い時間軸に沿って辿られてゆく。「少なくとも百年以前に遡らねば成るまい」という文も書かれている。あわただしく変動する明治維新にあって列強による植民地化を防ぎ国の独立を守るのに貢献したとして、中世以来の伝統や平田国学の役割が再検討されている。長い時間をかけて国民意識が胎動し始め、また内発的な力が発揮されてゆく姿が多角度から追われるようになった。明治維新が西欧文明によるインパクトによっってもたらされたもので、日本はただその外圧を受動的に受け入れられたとする文明論を再検討しようとする。日本は明治維新でめざめたわけではなく、それ以前から内発性が継続して培われていたという考えだ。思い起こそう、藤村はノートルダム大聖堂が建立されたフランス中世の精神だけでなく、さらに遡ってフランスのルーツである紀元前の「ガリアの血を示した野生」によっても建立されたことを指摘していた。
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降嫁のため江戸へ下向する和宮の壮麗な大行列(『和宮江戸下向絵巻』部分)
サイト「江戸ガイド」より

 カメラアイが切り替わり、木曽の中仙道馬籠宿周辺の庶民の生活がローアングルから活写されることもある。野鳥を食する魅力あふれる食卓や、中仙道を京都から江戸へと中仙道を下向する皇女和宮お輿入れの長い行列の見事な描写。和宮を無数の嫁入り道具とともに迎え入れる馬籠宿本宿側のこれまた無数の行き届いた支度。大政奉還の噂に、「ええじゃないか」と歌い踊る村人たち。官軍に追われて街道を辿り、北陸にまで落ちのびようとする旧幕臣の手負いの名もない残党たち。東海道はまだ整備されていなかったから、中仙道のほうが幹線であり、それは山の中の道だが、歴史が刻される街道でもあった。それぞれにおいて史実が踏まえられ、詩人藤村の文は想像に走ることが抑えられていて、平明でのびやかだ。歴史上知られた人物群だけでなく、「下積みの人たち」、「従順で忍耐深いもの」への共感が底流している。個人は同時に風土や共同体や歴史のいとなみによって取り巻かれているという見方は、藤村がフランス滞在で学び取った視点だ。藤村はそれを独自に展開させ、「草叢の中」から小説を書いた。時代の大きな変革期に右往左往する日本の姿が、中仙道を軸にして何層にも渡りながら一大絵巻となって繰り広げられる。
 「夜明け前」という稀有の大作は、1929年から7年かけて執筆されたが、その際馬籠宿での生活が40年に渡って書かれた大黒屋日記などが資料として使われている。この造り酒屋当主の筆による日記によって木曽の人々の生活や風土の描写は、時間の推移にともなうものとなり現実感に富むものになった。
 第二部において、平田派の国学者として王政復古という見果てぬ夢を追う主人公青山半蔵は、家運が傾いたこともあり宮司にもなるが、馬籠で生きることを決意する。しかし、新時代に託した思いも遂げられず、深い失意や悔いをおぼえ、最後は焦燥にもかられ、座敷牢で狂死する。巻末では小説を支えてきた大黒屋日記の記述が消え、半蔵個人の悲劇がやや突出して描かれているような印象を受けるが、しかし半蔵のおぼえる危機感は切迫する思いとなって伝わってくる。青山半蔵のモデルは、平田派の国学者として数奇な生涯を終えた父島崎正樹であるが、正樹は参勤交代の大名や公家が泊まる馬籠宿本陣・問屋・庄屋を兼ねる17代目の当主だった。その内面に息子の藤村は愛情のこもる照明を当てた。
 この小説は、文明史的考察をはらみながら、時に個々人の生の深みにまで踏み込み、多声的に交響しながら展開される。この稀有な長編小説の執筆は、藤村が3年間フランスに滞在したからこそ始められたのであり、またその実を結ぶことができたのである。
『二十世紀の十大小説』で著者篠田一士は、第10章を藤村の『夜明け前』に割き、そこでこの小説の魅力を縦横に論じている。
 

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ディープなフランス

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 1972年にフランス政府給費留学生試験なるものを受けたら、運よく合格。26歳の時にパリの高等師範学校(エコールノルマルシューペリウール)とパリ第四大学大学院に在籍することになった。印象派の美術館オランジュリやルーブル美術館にしばしば歩いて通ううちに、ゴッホレンブラントの絵画に魂を奪われるような体験をした。絵の前に立ち尽くし、原画が奥深い魅力を秘めていることを知った。画布の奥から画家の精神の息遣いというのか、声のようなものが聞こえてくるではないか。別世界に連れ去られてゆくような、生々しくもある経験を何度かした。東京にいたときは、絵は教養のため、また珍しい光景や美を味わうためだけのものだったのだが・・・・。
 靴がすぐに擦り切れたが、5区の学生街カルチエラタンにある学校の男子寮から歩いて美術館を巡ったためだろうと僕は勝手に思い込んだ。ほぼ一日中靴を履く生活を始めたのだから当然の結果だったのだが、当時の僕は美術館通いのために靴がすぐ減る、と即断してしまった。
 フランスでは、日本の高度経済成長が「日本の奇跡」などとして驚きをもって語られ始めていたが、ミナマタという言葉も同時によく口にされていた。ヨーロッパは中国とは陸続きということもあって昔から交易が盛んであり、ヨーロッパでアジアといえば、まず中国が挙げられてきたが、その中国の向こうから、ジャポンという小さな国が日出ずる国となって台頭してきたのだ。留学した1972年当時は、そんな世界の図式がヨーロッパには浸透し広がっていた。
 そのうちに、日本との貿易を始めたいらしい親切なおじさんと知り合いになった。男子寮でも、「日本人と結婚したい」という物理学専攻の青年と親しくなった。「お前は俺の友人だ」と言われるようになると、フランス人の友情は篤い。
 渡仏二年目の夏に、フランスのおじさんが、「バカンスを田舎で一緒に過ごそう」と誘ってくれた。もちろん、返事は即答で、ウイだ。グラン・デパール(大出発)と呼ばれる8月1日に、おじさんのシトロエンに乗って、リヨンの先の中央山塊に向けて出発。当時は日本にはまだ高速道路網もなかったし、これだ本場のバカンスは、という高揚した気分になった。中央山塊に差し掛かるあたりから、同乗のフランス人がなんだかニヤニヤしはじめる。ハンドルを握るおじさんのフランス語がおかしいと言って、クスクス笑う。よく聞けば、おじさんの語尾に確かに抑揚がついていて、少し歌うような調子で話し始めている。中部フランスに差しかかったばかりなのに、おじさんの仏語にはもう南仏訛りが混じり始めている。パリはやはり大変な中央集権の都市なのだ。中央山塊の麓のサン=テティエンヌという地方都市出身のおじさんは学生時代から首都パリで生活しているのに、まだパリでは少し緊張しているのだろうか。田舎出身であることにプレッシャーを感じているのかもしれない。でも、日本では東京から実家に向かう帰省途中の車内で、その人がふるさとの田舎の訛りで話し始めるなんていう話は聞いたことがない。
 700キロくらい走って中央山塊にあるおじさんの別荘に到着。おじさんの親戚が二十人以上も集まっている。フランス人は個人主義だと聞かされてきたが、なんだか大勢で楽しそうだ。夕食でなく、昼ごはんにご馳走が出される。この昼のご馳走は四時間も続く。ジョークや、ほのめかしや、あてこすり、政治談義などがえんえんと続き、僕などは4日目には疲れ、夜はコーヒーをすするだけとなる。それでも、若者たちは夜もかなりきちんと食べる、とりわけチーズは絶対に不可欠だ。
 20人以上の親戚の多くが鳩をあしらった十字架を首に掛けている。プロテスタントたちだ。プロテスタントには勤勉な人が多いということは知ってはいたが、実際おじさんの親戚たちは、先生や、研究者や、警察官などだ。
 おじさんの甥っ子ステッフは化学の学生で、人懐っこいジュードーカだ。「ジャポトー」(日本製オートバイ)は頑丈でなかなか壊れないぜ、などと話しかけてくる。2日目あたりから、もう僕に柔道の技をかけようとする。マッチョで腕が長くて力があるから、油断はできない。ジュードーカの「カ」は、どうやら「家」らしい。日本男性はみんな柔道家とでも思っているのだろうか。チャーミングなガールフレンドが一緒だ。聞けば、地域随一の都市サン=テティエンヌのデパートのブティックで働いている。メシュイというアラブのBBQをしても、彼女は身体の線を気にするのか、あまり食べないでみんなの騒ぎをチョッと遠くから見ている。余計なお世話だが、彼女が気まぐれでなく、心変わりしないことを願ってしまう。ジュードーカのステッフをつい応援したくなってしまう。

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アラブ風子羊のBBQ Mechoui 写真:サイトCuisine Collectionより

この時、食べたメシュイは12キロあった。

 ジュードーカ・ステッフの妹バブーも実にフレンドリーだ。ボーイフレンドのジャノーには、少しアラブの血が入っているようだ。南仏の文化を教えようとするのか近づいてきて、自分が手掛けているソーセージ作りを身振り手ぶりで演じてくれる。豚の腸の膜は、こうして口で吸い込むようにして裏返して、その中に詰め物をするんだ、豚は全部食べるんだ、鼻も含めてね・・・・。丸い目がさらに丸くなり、迫力に富んでいる。
 でも、時々バブーのお父さんの元警察官が人をうかがうような鋭い目つきになって、娘のボーイフレンドのジャノーを見ることに気づく。後で誰かが教えてくれる ― ジャノーはフランス領だった時期のアルジェリアに入植したフランス人で、1972年にアルジェリアが独立すると、本国フランスに帰還した。しかしフランス人の一部にはそうしたアルジェリアを逃れて帰還する多数の同国人を、「俺たちのパンを食べに帰ってきた」と言って差別しようとする と。
 滞在3日目だったか、しっかり者のおばさんが現れ、ドライブに連れ出してくれる。きっと先生ではないだろうか、テキパキとしている。実に雄弁で、僕のフランス語能力でもよく理解できる。そのうちに、「あの山はカトリックだ、陰気でしょう?」などと始まる。中央山塊は16世紀宗教戦争の戦場だったのだ。それにしても、カトリックとの戦いに敗れ、今やマイノリティになったプロテスタンは、古戦場の山でまだカトリックと対峙しようとするのか。プロテスタントのおじさんの田舎の別荘は平家の落人のような所だったのか。おばさんのカトリック憎しのプロテスタント擁護論の熱っぽさは、長いこと強烈な疑問となって記憶に残り続けたが、最近ピエール・ノラ編『記憶の場』の「宗教的マイノリティ」の項目を読んで、合点がいった。おばさんの半端ない熱っぽさの理由がようやく理解できた。1970年代にアメリカのジャーナリストは同じ中央山塊を訪れて、土地の立派な未亡人に食事に招待されるが、素晴らしい山々を眺めながらそのプロテスタントの未亡人が最初に口にしたのは、「あそこは(宗教戦争の)戦場だったんです」という言葉だった。歴史家も書いている、「そこでは、宗教戦争がもたらした熱気が、20世紀のさなかになってもほとんど衰えていない。その地方の人たちは、まだ宗教戦争当時の16世紀の空気を吸っている」。そして、この地方で毎年夏に開かれる数千人規模のプロテスタントたちの集会は熱気で溢れ、今でも多くのフランス人たちの共感を呼んでいるという。
 木靴を履いた羊飼いのおばあさんにも会うが、彼女のフランス語がまったくわからない。おばあさんは、オーヴェルニュ語を話したのだ。オーヴェルニュ語は今では約8万人しか話さなくなった、絶滅危惧種の古い地方言語だ。木靴は北のブルターニュやオランダで土産物として売られるものとばかり思ってきたが、オーヴェルニュ地方でも家畜の世話をする時にまだ履かれていたらしい。牛などに足を踏まれてもケガをしないようするためだし、防水のためでもあったのだ。

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フランスの木靴 写真:ブログ 『まいえね 』より

フランスの労働者が履いている木靴「sabot(サボ)」で工場の機械を壊したことから、「サボタージュ」「サボる」という言葉が派生した。

 二年連続して中央山塊に招いてもらった。古い歴史が幾重にも重層的に積み重なって、まだ息づいているようで、貴重な体験をさせてもらった。観光ルートからははずれた地域に潜む独特の風土やいとなみに接することができた。ウィリアム・フォークナーの短編集を読んだとき、アメリカのディープ・サウスの不気味なまでの奥深さを知って慄然としたことがあったが、フランスの南西部中央山塊のディープな記憶は僕の中にまだ生き続けている。

 それからほぼ50年経ったあるとき、東京の自宅の玄関ベルが鳴った。そこでニコニコして立っていたのは、なんとパリの高等師範で親しくなって、「日本人と結婚したい」と言っていた物理学専攻のジャン=ルイではないか。念願かなって良きジャポネーズを見つけ、パリと東京を往復している、と言う。しきりに、「アキオ、もっとフランスへ来い」と繰り返す。
 突然、目の前に中央山塊の夜空が広がり、こぼれるまでの星々がきらめいた。東京の狭い一室に、松の木で焼いたパンの香りが立ち広がった。



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『失われた時を求めて』 もうひとつの愛

 この長編小説では当初主役として舞台前面で照明を浴びて目立っていたものが、読み進むにつれやがて少しずつその存在を希薄にしてゆきます。反対にそうした全般的な流れに逆らうようにして、それまで目立たなかった脇役たちが舞台の袖から登場してきます。長く主役をはってきたものは翳り、それに代わりそれまで役割も明確ではなかったものが新たに活躍を始めます。
 まず社交界で、次に恋愛において起きる大きな変化を追ってみますが、それに重なるようにして主人公マルセルの内面においても大きな変化が起き、主人公は変貌することになります。

<ゲルマント公爵家の没落>
 社交界の中心となるのは、なんといってゲルマント公爵家です。王家とも姻戚関係を結ぶ公爵一族の権勢に富む生活が描かれます。しかし、次第に公爵家に宿る脆弱さのようなものが暴かれるようになります。小説後半では一族の斜陽が残酷ともいえる筆致で描かれます。こうまとめてしまうと階級社会を批判するレアリスム小説のようですが、そうではありません。たしかにプルーストのこの小説にはフランス19世紀末に実際に起きた貴族階級の決定的な消滅や台頭する新興ブルジョワ階級の繁栄ぶりも描かれます。しかし、社会風俗はこの小説ではかなり誇張して描かれています。ブルジョワのヴェルデュラン家による浪費は当時のフランスではまずありえないような話です。フランスは金融や土地の価格が乱高下する変動の時期にあり、富裕層でも誕生日に宝石を贈ったりヴァカンスに高級リゾート地のお城を毎年借り出すほどの金銭的余裕など持てなかったはずです。
 傾き始めるゲルマン公爵家の実態は独特な形で読者に暗示されます。公爵家の生活は、主人公が春の休暇を過ごす、パリから約40キロ離れた田舎町コンブレの生活と対比されます。公爵家はコンブレの教会内に6世紀以来領主として私的礼拝堂を構え、その不可侵性を誇る「父なる神」である公爵は、教皇の即位にも関与しているなどと言います。公爵の弟シャルリュス男爵も爵位の称号を列挙してみせては、こうした自分の家系は「フランスの玉座」に据えられるべきものだなどと自慢話を長々と続けます。第5篇「囚われの女」で開かれるコンサートでも演奏されるヴァントゥイユの7重奏曲を「偉大なる大芸術」などと大袈裟に例えてみせては、「司祭」よろしくその場を取り仕切ろうとします。
 コンブレの教会でもコンサートでも、公爵家はそのど真ん中に自分たちだけの特権的な地位を築きます。しかし、コンブレの教会は、そこに料理女フランソワーズやサズラ夫人やテオドールといった町民たちが出入りし聖人たちの彫像群と親しげに話を交わし、教会が人が住める「住居」のような様子に変容する時にこそはじめてその魅力を見せるものなのです。
 公爵はゲルマント家はヨーロッパ中に広がる高貴な家柄の起源となっているなどと主張しますが、しかしその起源の場所たるやじつはコンブレのはずれのひなびた共同洗濯場でしかありません。こうしてゲルマント家と田舎町コンブレの生活は対照的に対置させられてゆきますが、公爵家よりもコンブレの生活のほうが精彩に富んでいて、その後の小説の展開に関わってくることが予想されるものとなっています。こうして比較されながら描かれてゆくうちに、ゲルマント家では、その伝統墨守の頑迷さのほうが目立つことになります。
 主人公一家はコンブレからパリの貴族のサン=ジェルマン街に引っ越し、ゲルマント公爵家とは中庭をはさんだ正面にあたるアパルトマンに住み込みます。華やかな公爵夫人に憧れる主人公はそのサロンに招き入れられても、夫人特有の発音や才気をひけらかす発言に長いこと魅了されます。しかし、次第に夫人の時にべらんめえ口調で言い放たれる警句 ― 優越感を保とうとする陳腐な戦略 ― が、しきたりにとらわれない開放的な精神によるものではなく、引き立て役の公爵や取り巻き連中に乗せられ煽られたものでしかないことに気づくようになります。夫人にも一族特有の霊が取り付いていて、家名に傷がつくと判断するや、ざっくばらんな態度をたちまち硬化させ無愛想で横柄になります。女優ラシェルが評判をとると、彼女をサロンに招きはしますが、そのユダヤ人女優にゲルマント家の基準に照らして容認できない点があると見てとると、たちどころにラシェルの才能を否定し、芸名ではなく「あの子」と侮蔑的に呼んで、サロンから排斥してしまいます。主人公は最後には公爵夫人の皮相で偏った芸術受容に失望し、怒りをおぼえるようにもなります。パリの大きな館には蔵書を並べた図書室が設けられていることがあり、公爵家もその例ですが、公爵夫人の知性は、「豪華絢爛たる城館」内に構えられた「時代錯誤で不完全」な「知性を育むことができない図書室」にたとえられることにもなります。
 一方、主人公の書棚の本のほうはアルベルチーヌや使用人によっても読まれていて、書棚は知的刺激を与える場として機能しています。貧しい孤児であったアルベルチーヌも主人公の書架に置かれていたドストエフスキーを読み込み、画家エルスチールや作曲家ヴァントゥイユからも多くのことを学び取り、精神的な成長をとげてゆきます。主人公の書棚は、公爵家の豪華な蔵書が眠る閉塞感漂う図書室とは対照的なものです。
暗記することができない公爵は、引用するための文をメモに書きとめ、それをサロンで気の利いた引用として読み上げようとします。女性蔑視の、またドレフュス事件の際は人種差別の発言も口走ります。隣人の主人公の祖母が重体に陥ったときは、隣人として訪ねてきますが、早すぎるお悔やみを悲しみに暮れる主人公一家を前に口にしてしまい、社交喜劇を演じてしまいます。祖母は公爵のことをのちに一言で評します、「俗っぽい方」と。
 自分はパリの由緒ある男爵だから本当はより高位の爵位の貴族だなどと主張するシャルリュス男爵は、スワンと同様偶像崇拝という狭い受け身の芸術受容を繰り返します。男爵はバルザックの革製装丁本をフェティッシュに愛蔵し、何かというと「それははなはだバルザック風ですな」などとバルザックになり代わってひとりごちます。しかし、結局のところスワンと同じような「芸術の独身者」にとどまり、作品の字義通りの受容だけで満足し、深い呼びかけやうながしを作品から聞き出すことができません。なるほど主人公はシャルリュスが執筆活動に打ち込むことを望みますが、期待されるのは「無尽蔵の目録」でしかありません。バルザックから受けた影響が創意工夫によって独自のものとして育まれ、そこから男爵自身の創意によって執筆が始まることが期待されたわけではありません。
 シャルリュス男爵はサロンで傍若無人にスカトロジックなことを口走りますが、その時主人公はその傲岸不遜な態度に怒り、男爵のシルクハットを踏みにじるようになります。同性愛者シャルリュス男爵は最後は苦痛常習者のようになり、かつて愛した美貌のバイオリン奏者モレルに似た男娼に鞭打たれる快楽を追い求めるようになります。そして世界ではじめて空爆にさらされる第一次大戦下のパリの夜をさまよいます。欲望に駆られた「地獄めぐり」(バンジャマン・クレミュ「見出された時」)の様相が描かれます。
 小説巻末でゲルマント公爵家内外に暗い闇がたれ込めます。ゲルマント大公夫人邸の午後の集い(マチネ)に久しぶりに足を踏みれた主人公マルセルには、社交界人士が老いという「仮装」をしているように見えます ― 嵐に打たれる岩のような面貌と化した公爵、地層学的なまでの深いシワに刻まれた貴族、声によってしか見分けがつかなくなった旧友・・・・。今や時間による侵食作業がいたる所で進行している。大公は最高級の、しかし閉鎖的なジョッキークラブ会員にも選出されないし、貴族のサン=ジェルマン街の「居城」も手放さざるをえなくなっている。公爵の歩行は困難になり、よろめき、鐘楼よりも高くなった竹馬もろとも転落しそうです。大ブルジョワのヴェルデュラン夫人は三度目の結婚でいつのまにかゲルマント大公夫人におさまっていますが、相変わらず派閥作りに励みます。驚くことに、そのサロンにはコンブレの教会を住居に変容させてみせたサズラ夫人も来ています。貴族のサン=ジェルマン街に「民衆的」で「田舎風」の生活までが入り込もうとしています。すでに第3篇「ゲルマントのほう」には次のような文が書かれていました ― 「当時のゲルマントの名は、酸素なり別の気体なりを封じ込めた小さな風船のようなものだ。それを破って中の気体を発散させれば、私にはその年その日のコンブレの空気を吸うことができる」。
 崩壊へと向かう凄みに富んだ描写が続く。しかし、小説はここでは終りませんし、主人公マルセルは社会の変動に立ち会うだけの傍観者ではありません。しばらく前から読者はこうした現実に接しながらも、まだ何か重要なことがマルセルの内面で起きるはずだと思うはずです。
 そういえば最終篇「見出された時」には「千一夜物語」がしばしば引用されています。このアラブの物語では主人公シェーラザードは語り始めることによって自らを危機から救い出します。作家志望の、しかしすでにかなりの年齢になった主人公マルセルも、ゲルマント大公夫人邸図書室の中でコンブレの就寝劇で母親によって朗読されたジョルジュ・サンド「捨て子フランソワ」を見つけます。マルセルは今度は語り手に変身した姿となってその小説を読もうともします。3回も繰り返される無意識的記憶によって過去へ遡る流れがすでに準備され用意されています。いよいよその小説を読み聞かせてくれたのコンブレの母親と交代し、今度は自らが語る主体となり、自らを、そしてまたコンブレの人々を過去から救い出そうとします。
 次章<恋人アルベルチーヌともうひとつの愛>では、恋人アルベルチーヌと付きあうにつれて嫉妬や失望を味わう主人公の姿をまとめることになります。しかし、ここでも主人公の語り手への変貌という最大のテーマが関連してきます。主人公は最後に深い所から響き出てくる歌に導かれて語り手に変貌します。そして、暗い事態を反転させるような創意に富む試みに挑もうとします。
 
<アルベルチーヌともうひとつの愛>
 アルベルチーヌは英仏海峡を臨む保養地バルベックの海を背景にして現れた娘たちのグループのひとりです。女性もまたがるようになった自転車を好んでいて、その頬は冬の朝の輝きのように紅潮します。娘たちとイタチ回しという遊びをしていて彼女の手を握った時など、「無数の希望が一気に結晶する」のを感じ、「官能的なやさしさ」を主人公はおぼえます。しかし、彼女が下品な言い回しを使うのを耳にするうちに、グループの娘たちと同性愛的関係にあるのではないかと疑います。しかし、彼女の姿は変化し続け、はっきりした像を結びません。ふたりは知り合いの画家エルスチールのアトリエで新しいものの描き方 ― 物の「メタモルフォーズ」の描出 ― をおぼえ、教会巡りのドライブに出掛けたりします。
 第五篇「囚われの女」では、主人公はパリでアルベルチーヌと同棲生活を始め、彼女が同性愛の娘たちと接触しないように監視します。絶え間のない嫉妬の目にさらされるアルベルチーヌは嘘を口にするようになります。不安にかられた主人公からの質問は、尋問のようになります。しかし、彼女の説明は納得できるものではなく、彼は彼女について立てる仮説を何度も修正せざるをえなくなります。キスも交わしますが、キスは「物の表面をさまよって、(・・・)頬にぶつかり、中にまで入り込めない」。彼女を所有することなどできないし、女性同性愛ゴモラ疑惑もその確証は得られません。恋愛についてペシミックな考察が続き、恋愛は苦痛をもたらすものとなります。
 アルベルチーヌの背後には、判読不可能だが刺激的な「おそろしい未知の土地(テラ・アンコニタ)」が広がっています。心理分析では届かない存在、理知による定義では解明することのできない存在の根底に、登場したときのような海のうねりも広がります。意外な展開を演じる多面的で複雑な、現代的ともいえる人物です。

 その存在の根底から不意にもうひとりの未知のアルベルチーヌの声が聞こえてきます。第5篇「囚われの女」においてアルベルチーヌは画家エルスチールばかりか作曲家ヴァントゥイユの作品も理解し、さらには自らの創意も表現する女性となって登場します。ヴァントゥイユの音楽をピアノや自動ピアノで主人公マルセルに聞かせ、彼の音楽受容をさらに深めさせ、彼を創造へ導こうとする女性に変貌しています。
 主人公は社交界においても、また恋愛にも虚無をおぼえるようになっていましたが、ヴァントゥイユの7重奏曲を聞いたとき、すでにこう考えていました ― 「(・・・)恋愛の中にさえ見出してきた虚無とは別のもの、おそらく芸術によって実現できるものが存在するという約束として、また私の人生がいかに空しいものに見えようともそれでもまだ完全に終わったわけではないという約束として、私が生涯耳を傾けることになるあの奇妙な呼びかけが届けられた」。
 ヴァントゥイユの曲に感動した主人公は、アルベルチーヌによって数度にわたって聞かされたピアノ演奏にうながされ、曲から受けた呼びかけについての考察を深めます。そして、曲からの呼びかけが、コンブレの就寝劇においてジョルジュ・サンド「捨て子フランソワ」を読み聞かせてくれたときの母親の声に類似することに気づきます。ヴァントゥイユの曲も母親の朗読の声も、ともにいくつかの共通する音楽用語でもって描写されています。創意溢れる曲も朗読の声も、親しみをこめて話しかけてくる歌となって主人公をまだ未知の世界へ誘おうとします。母親の声はまだ幼かった主人公にとっては幼児期との決別を強いる声となったために、その夜はこの点では「悲劇」ともなりましたが、「自然の愛情や豊かなやさしさ」に溢れる母の声は主人公にとっては、むしろ「最初の学び」や「よろこび」であり、「新しい時代の始まり」を告げるものとなったのです。この就寝劇は無意識的記憶によって甦るコンブレの生活の中心ともなっています。
 この夜、母親は来客スワンをもてなすことに忙しく、習慣としてきたおやすみのキスを幼児期の主人公に与えることができず、不安にかられた主人公は母親の愛情を疑っていました。同様にパリでも主人公はアルベルチーヌの愛情を疑っていました。そうして孤独に陥る主人公に、母親とアルベルチーヌは外から訪れてきて、情愛を込めて彼に新たな名をつけて呼びかけ、歌ともいえる創意に富む実践 ― 朗読とピアノ演奏 ― を行ってみせ、彼の意欲をかき立てようとします。ヴァントゥイユを弾く成熟したアルベルチーヌがコンブレで れた母親の姿に類似することにマルセルは気づきます。
 創意に富む歌はバルベックで母親の分身である祖母によっても外部から聞かされることになりますが、小説冒頭の就寝劇以降さまざまな機会に変奏される歌は、時間を超えて互いに共鳴し合います。「私が生を受けたコンブレからは池の水がいく筋もの噴水となって、私と並んで噴き上がっていることがわかった」。
 社交界は時間に蝕まれて衰退へと向かい、恋愛も嫉妬や喪失へと向かう中にあって、当初こそ小声で、しかも断続的にしか伝わってこなかった歌声は、それを歌う主体を変えつつ多声的交響となって繋がってゆきます。時間によって消されることがない豊かな印象ともなって主人公を導いていたのです。社会や人間によって織りなされる筋立てに隠れるように繰り返されてきた歌を演奏によって連鎖のように繋げたアルベルチーヌに主人公は「偉大な「時」の女神」を感じるようになります。

 恋愛において孤独でもあった主人公は、アルベルチーヌから初めて「マルセル」と親しく呼びかけられ、彼女の歌を秘めたピアノ演奏に応えて、自分なりの創意を模索し始めます。そして、今度はヴァントゥイユを自らピアノで弾き、芸術についての深い考察をアルベルチーヌに語り始めます。スワンやシャルリュス男爵のような「芸術の独身者」とは異なり、他者たちの歌を充分に受容し、自らの創意をそこから主体的に発掘するのです。母親や祖母やアルベルチーヌ、作曲家ヴァントゥイユなどからの間欠的に繰り返される呼びかけに応えようとします。作家志望である主人公は自らの創作観を練ります。
 巻末においてまるで時間が止まったような一回性の啓示を特権的瞬間のように受け止めるだけではありません。主人公は芸術や時間についてひとりだけで抽象的な考察にふけるのでもありません。
 恋愛において心理分析の対象であったアルベルチーヌはマルセルのもとから逃げ去り、その後に落馬事故で亡くなり、結局は確たる像を結びません。しかし、最後に彼女は母なるものを思わせる、歌いかけ呼びかける新たな親密な面を見せます。「失われた時を求めて」は心理分析を基調とする古典的なフランス小説よりも、アルベルチーヌが読み込んでいたドストエフスキーの小説を思わせます(ヴァンサン・デコンブ「セヴィニェ夫人のドストエフスキー的側面」)。例えば、やさしさの下に粗暴で復讐心の強い一面を見せるアルベルチーヌの友人アンドレも、そのさらに下には善意と隣人愛を秘めています。アンドレも両極端ともいえる面を持ち合わせていて、複雑な人物です。
 主人公は巻末において創作を始めようと決意しますが、それ以前からさまざまな形で創作行為へうながされ、また導かれていたのです。巻頭の就寝劇でも祖母と母親は幼い主人公に誕生日プレゼントとして朗読という創造性に富む歌をすでに贈っていました。その歌は通奏低音となり、小説全編にわたって響きます。共感が、そして共鳴が連鎖となって広がります。コンブレの町民たちも参加する共感に満ちた呼びかけによって、主人公マルセルの創意が引き出され高められてゆきます。アルベルチーヌは落馬事故によって亡くなりますが、彼女の歌はマルセルに歌いかけ、彼をうながし続けます。それに応えてマルセルは語り手となってアルベルチーヌを再生させ、コンブレの生活を復元しようとします。この広く親密な愛は相互に交わされてゆき、相手を導こうとします。

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ジャン・コクトー 「オルフェウスと竪琴」

 語り手の歌は、ある面 では吟遊詩人オルフェウスの歌を思わせます。詩人で音楽家オルフェウスも芸術の神である父アポロンから竪琴を授かり、それを弾き、また歌を歌いながら木々や岩を魅了し、亡くなった妻エウリディケに歌いかけます。彼女の生を呼び醒まそうとします。吟遊詩人オルフェウスは歌には生かす力が潜んでいることを知っていました、歌には新たな生を呼び醒ます力が秘められていることを。

(なお、主人公の名前「マルセル」については、第一回ブログ記事<マルセル・プルースト失われた時を求めて」を通読する> 2021.6.25)を参照されたい)
aushiba.hatenablog.com



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酉の市の招福熊手、パン生地、土鍋


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  神社で開かれていた酉の市に行ってきました。以前にもまして賑わっていて、招福熊手もよく売れていました。商談成立後の威勢のいい三本締めの掛け声が小雨模様の露店のあちこちからはじけました。手締めによって売り手は活気溢れるパワーを買い手に返礼として送っていました。招福熊手は商売繁盛や開運を祈り「福をかき集める」熊手とされ、そこにはお多福や七福神や宝船や大判小判などの縁起物が豪華に盛り上がるように飾り付けられています。
 残念ながら今ではほとんどすたれましたが、おもしろいのは、その買い方の作法です。招福熊手を安く買うほど縁起が良いとされていたので、買い手はまず売り手と値切り交渉をはじめます。しかし、割り引いてもらっても、買い手はそれをお釣りとして懐に収めてしまうのではなく、そのままお釣りは全額売り手に御祝儀として返金します。すると、売り手は買い手からの返金に応えて、例の勢いのある三本締めで応えます。返礼という気持ちのやり取りが売り手と買い手のあいだで交わされ、そのことによって熊手はさらに輝かしくされます。熊手という商品には情緒という付加価値が付け加えられてゆきます。
 セルフ・レジや通販にすっかり慣れてしまい、つい忘れがちになりますが、物を買うという行為は買い手一人だけで成立するものではなく、金額に還元される交換だけに終始することのない、返礼や贈答の要素をも含んだやり取りが売り手と買い手のあいだで交わされて成り立つものでもあったのです。忙しい日常を送っていると、こうしたやり取りなどまどろこしく映るでしょう。でも、共感が生まれる対面での、人間臭いとも言えるこうした売買には、通りがかった人を立ち止まらせるような活気に溢れていました。
 熊手を買った人は、福を多くかき集めることができるように、熊手をそのまま高く掲げて持ち帰ることが勧められています。大丈夫です、そんなことは知らなくとも買った人は熊手を高く抱えて権助坂の長い急坂を意気揚々と上って行きます。人ごみをかきわけ、背筋をピンと伸ばして・・・・。賑やかさに囲まれて、私もなんだか大鳥神社を中心とする下目黒という地域社会に参加したような気分になり、気持ちがほっこりしました。

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パン生地

 コロナ禍が長く続いているため、外出を控えめにする巣ごもり生活のような日常を送っています。刺激の少ない、単調な日々・・・・。
 でも、そんな中にあっても、小さな驚きが足元に転がっていることに気づきます。例えば、Vlogの動画がゆっくりと映し出す身近な日常が妙に生気をおびてこちらに迫ってくる瞬間があります。
 トントントントン、包丁の音は実際たしかにこんな音だったっけ・・・・。シロウトカメラマンによる異様なまでの沈黙の長回しに付き合ううちに、時間というものがこんなにも遅延されるものだったことに気づきます。ビデオのこのアングル、こんなのは「ナナメッテル!」と言われて、許されてこなかったけど、でもこうして見直してみると、これも意外にざん新でおもしろい。セザンヌ静物画でも上下左右は少し歪んでいる。カメラは時に手振れも起こしつつも、常態化した空間構成でない、独自の世界を時におどおどしながらも作り始める。
 Vlogの中でも、〈おうちでパンを焼こう!〉といったタイトルのものはいくつか見ました。料理はあまり得意ではないので、ふだんは料理番組には興味が湧きません。でも、パン生地が、パンを作る人の手でもまれ、適度の湿気や温度も与えられて、うまく整えられ休まされると、物質の塊と思えてきたパン生地が発酵を始め、つまり生を得ます。 それが自ら何度もふくらむでありませんか。それも見事な大きな張り切った球体となって・・・・。生物のようにふくらみ、充満した球体をものも言わずに視線にさらすではありませんか! 物の形の中でもっとも美しいのは、円だ、とフランス哲学者ガストン・バシュラールは書きました。見るだけで満足することなく、手を伸ばして、生き始める球体の手触り感を確かめたくなります。
 とりわけ、レシピ後半のベンチ・タイムに惹きつけられました。一次発酵後のパン生地からガスを抜き、それを手で丸めて、綺麗ないくつもの球体にする。乾かないように、時には霧吹きを吹きかけ、絞った濡れぶきんをかけ、ベンチで十五分ほど休ませる。パン生地を緩め、最後の成形のために伸びやすくするためです。だから、ベンチ・タイムのあいだは作る人はその場を離れずに、休んでいる球体をウォッチングするほうが良いだろう、そう言う人もいる。肝心の箇所なのだ。その後トッピングなどとともに形成されると、素材はまた生成し始める。作る人のもみ方などに応じて、息づき始め、時には気難しく反応する。生地はモノを言わないだけに、作る人はその球体のご機嫌をじっとうかがう。ベンチ・タイムで休む球体を女性にたとえる人もいる。
 時には二倍にまでにふくらむ球体群が、シロウトカメラマンの薄暗い動画像の奥から静かに浮き上がり、こちらに迫ってくる。ナレーションもなく、音楽も流れない。予想外の角度と距離でカメラがパン生地を執拗に追う。薄暗がりの奥から、パン生地は少しずつ、裸形の生々しくはりきった姿を現わす。ベンチ脇に立つ監督の手を離れ、球体は堂々と独り立ちする。トッピングなどで美味しく仕上げられる前の、素の健康美に立ち会うことができる。

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土鍋

 土鍋があったはず、と思い、台所の下をはいつくばって探す。積み重なった皿類の一番下から土鍋を引っ張り出す。重ッ。でも、土のぬくもりを感じさせる素朴な風合いが、冬になると活躍してくれるはずだ。
 ぼってりとした丸い形が、食卓の中央に置かれる。すでに意外なほどの場所を占め、すでに今夜の主役然としている。しかし、この土鍋、コンロの上に置いて火にかけても、なかなか反応しない。レンチンなどの手軽さに慣れた身にとっては、この待ち時間がひどく長い。
 でも、スマホには手を伸ばさない。当方、せっかちであることを自認しているので、こんな時はあらかじめ日本酒を用意しておく。チビリチビリとなめながら、正面の土鍋の反応をうかがう。やがてしばらくすると、何かが音を立てる。鍋の中身が動いたのか。鍋の蓋が動いたのか。
とたんに、鍋に顔を近づけるようにして家族が思い思いのことを口にし始める。待ち時間は長かったが、土鍋が調理を始めている、確実に食材の芯まで温め、野菜から味も香りも引き出し、美味しいものを作ってくれている。振る舞ってくれるに違いない。「今日は薄味で行こう」、「ポン酢無くなっている」、「・・・」、「・・・」。みんな鍋を囲み直し、調味料や締めのご飯にまでチェックを入れる。
 土鍋の大きな蓋がガチッと動く。やがて、湯気が吹きこぼれるように噴き出て、香りが広がる。土鍋はたったひとりで食卓を演出し、グツグツ煮込んでホロホロにしたご馳走を仕上げてくれる。保温力もすごい。食材の芯から引き出した旨味を他の食材に浸透させ、翌日もさらに少し違う味に仕立てて出してくれる。まるで何事もなかったかのような顔をして。

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 谷崎潤一郎『陰翳礼讃』の中にこんな一節があります、「西洋人は闇を嫌い、隠を払い除け、明るくしようとする進歩的な気質があるのに対し、東洋人は己のおかれた境遇に満足し、現状に甘んじようとし、それに不満を言わず、仕方ないと諦め、かえってその状況なりの美を発見しようとします」。
 この文の前半の西洋人が「闇を嫌い、隠を払い除ける」との指摘には納得がゆきます、例えば、作家アルベール・カミュは芸術作品を闇の中で虚空を照らす灯台にたとえます。芸術作品には、微力ではありますが、闇に敢然として立ち向かい、進むべき進路を照らし出し、人を導く力があると指摘します。
 後半の東洋人の美意識 ― 「その状況なりの美を発見しようとします」 ― にも賛同します。ただし、私は東洋人が「現状に甘んじようとし、それに不満を言わず、仕方ないと諦める」とは思いませんし、ここにはやや誇張さえ感じられます。東洋人がそれほど消極的であるとは思いません。また、『陰翳礼讃』では東洋人の美の例として、お歯黒や厠、つまり和式トイレのしつらえ、金屏風、行燈、螺鈿といった谷崎美学のやや限定された特殊なものが並べられてもいます。高尚な谷崎美学でなく、もっと身近な日常生活の身辺から美や生の例を見出すことはできないでしょうか。
 こう言ってしまってから、ふと思い出しました。谷崎も、和菓子やお椀といった日常茶飯の中からも美や生の例を見出していたことに気づきました。さっそく、読み直してみました。
 「私は、吸い物椀を前にして、椀が微かに耳の奥へ沁むようにジイと鳴っている、あの遠い虫の音のようなおとを聴きつゝこれから食べる物の味わいに思いをひそめる時、いつも自分が三昧境に惹き入れられるのを覚える」。
 「玉(ぎょく)のような半透明に曇った肌が、奥の方まで光りを吸い取って夢見る如きほの明るさを啣んでいる感じ、あの色あいの深さ、複雑さは、西洋の菓子には絶対に見られない」。
 この日常に食する和菓子は何だと思われますか。そうです、羊羹です。


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甦る山荘風別荘


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 山荘風の旧別荘を、久しぶりに訪ねてみた。近親者が所有していた縁で、三十年以上毎年夏になると家族でその別荘に通った。しかし、九十年も前に建てられた木造の別荘は、骨組みこそしっかりしたものではあったが、軽井沢特有の湿気にやられ、さすがに少しずつ傷み始めていた。
 維持するにしても、二階には部屋が四つもあり、補修や管理には大きな困難が予想される。一家族で使い続けることは不可能だ。ポストモダンの先例として再評価されている建築家ウイリアムヴォーリズによる設計であったために、保存することも検討しなくてはならない。となると、どうすべきか。
 別荘の所有者の代替わりを機に、別荘全体を移築して保存する方向で可能性を探ることになった。しかし、一口に移築といっても、台所の屋根は傾くし、窓枠なども相当朽ちてきている。補修工事だけでも相当な規模のものになるはずだ。模索や交渉は長く続いた。いっそ保存などではなく、分割してはどうかという案まで出された。しかし、ふだんはおとなしい私の妻が、この軸のぶれた案を断固として拒否した。まさに、「却下」で、一蹴した。じつは妻は何も口に出しては言わなかった。圧倒的な無言の、しかしとても雄弁の「否!」だった。毎年一ヶ月は過ごした少女時代の夏の軽井沢の思い出を壊すようなことはしたくなかったのだ。
 大きな企業も二、三乗り出してきた。しかし、話はまとまらなかった。しかし、最後の最後になって、文化財に関心を寄せる篤志家が現れた。大きな別荘はそのまま原型をとどめる姿で中軽井沢の塩沢湖畔に移築され、全体が補修されることなった。
 町民の方々が移築と補修に協力してくださった。自然石を積みあげた野趣に富む暖炉は、石のひとつひとつにまでナンバリングされたうえで搬出され、隣の中軽井沢まで運搬されていった。軽井沢の歴史文化の保存活動を行う軽井沢ナショナルトラストには本当にお世話になった。2008年に移築工事は完成した。
 その後、手放した別荘にはしばらくのあいだ足を向けないでいた。というよりも、足を向ける気持ちになれなかった。旧軽井沢碓氷峠麓の初期別荘地から中軽井沢の一般公開される施設の中に移築されれば、新しい環境の中で別荘は大きな変質をこうむるかもしれないし、夏の思い出そのものまでもが変容してしまうのではないか。博物館のような所に標本として置かれて、別荘はただひたすら眠り込んでいるのでは・・・・。
 しかし、数年おいて晩秋にひとりで塩沢湖畔に行ってみた。そこに移築されて静かたたずむ別荘が遠くから目に入ったとき、抱いていた危惧など一気に消え去った。杞憂にすぎなかった。山荘風別荘は、今まで気づかなかったような、新鮮で開放感溢れるシルエットで甦っていた。思わず息を呑み、しばらくその場に立ちつくした。

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石積みの暖炉

 昭和六年に建てられた時は「グレート・ホール」と呼ばれた、居間と食堂がひとつなぎになった居心地の良い空間 ― 現在この間取りは主流となっている ― の何本もの丸太大梁の天井は、湖面からの反射光によって浮き彫りにされ、新しい表情を見せていた。別荘全体に光と風がたっぷり入ってくる。石積み暖炉の大きな自然石は、別荘が閉ざされたものではなく周囲に開かれているものであることを改めて語り始めている。木々に隠れて見えなった瓦屋根の緩やかな勾配も、建築家ヴォーリズが洋風建築の直接的な移入は好まず、風土に適した和風のやわらかさも取り入れたことを物語っている。丸太板の外壁も、親密感漂う素朴なものだ。音を軋ませながら上った緩やかな勾配の階段の手摺りは、子供たちが滑り台としてまたがろうとした幅の広いものだったが、そのどっしり感が温かい手触りとともに甦ってくる・・・・。
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 ちょうど、ブライダルの写真撮影のためだったのだろう、カップルが別荘の前に来ていたが、花嫁のドレスの長い裳裾の白が、一階二階のテラスの木組みの白と、足元の湖面とに挟まれて、浮き立って見えた。
 それ以降、私は折を見ては旧別荘を訪れるようになった。別荘は紅葉の時期などスケッチのスポットになっているらしく、数人の町民たちが湖畔に座り湖と別荘を描いていた。また、ある年には別荘は町のカメラ自慢の展覧会場として開放され賑わっていた。
別荘内部でいとなまれていた所有者のプライベートな生活だけが思い出されたわけではなかった。別荘は所有者個人に限られることなく外に開かれていて、周囲の自然や町民たちの生活にも応えていた。夕映えの中に溶け込む別荘は、周囲の風土と同じリズムで生を刻んでいるようだった。
 山荘風別荘は、今まで気づかなかったような精彩を放っていた。建築家ウィリアム・ヴォーリズは、軽井沢を好み、避暑団(現軽井沢会)副会長も務め、宣教師たちの活動を支援し、さらには別荘や教会なども作った。それらの簡素とも言える建築には、人々が出会い集えるような場がどこかに設けられている。山荘風別荘には、各地に点在するそうしたヴォーリズ建築と共鳴するものが秘められていて、そのことを私は遅ればせながら知ることになった。
 長野県には優れた木造建築が数多く存在する。和風と洋風の折衷スタイルの旧開智学校松本市重要文化財)はその代表例だ。オランダ風で茅葺き屋根野尻湖ホテルや長野駅舎の和風の屋根もその例に数えられるが、このふたつの木造建築物のほうはともに取り壊され、現在見ることができない。別荘はそれらの木造建築群が編む豊かな文脈の中に置かれ、新たな輝きを放っている。

 しかし、築90年という時間のあいだには、別荘がこうは見えず、小さく見える時期があった。別荘が個人による所有物であることがことさらに語られる時期があった。ある一時期周囲から隔絶された領主館のようになった。出入りしていた旧華族たちの、伯爵だの公爵だのといった称号付きの重々しい名前がノスタルジーに浸りながらゆっくりと発音されるようになった。
 そのうちに、別荘族を招待した舞踏会が催されたことがまことしやかに語り出された。舞踏会という言葉だけがひとり歩きを始め、さらには外にまで名乗り出るようになった。別荘は別世界に変貌した。しかし、居間兼食堂のグレート・ホールはひとり語りの独演会には大きすぎた。公爵から頂いたという壁に掛けられたアフリカ野牛の長い首が繰り返し語られる流離することのない貴種流離譚を遠く闇の中で聞くでもなく聞いていた・・・・。

 建物についてのひとつの考えを手短に紹介させていただきたい。哲学者ヴァルター・ベンヤミンは書いている ―  室内は町や風景にも拡大されることが可能だし、また逆に町や風景は室内の性格を帯びることもあり、客間のような働きをすることもある、と。つまり、室内と町・風景とのあいだの境界や区別が曖昧なものになり、両者のあいだには相互浸透が起こるし、両者が相互補完の関係に入ることがある、と論じている(「パサージュ論」)。
 私などは、この箇所を読んだとき、和風建築における室内と外部との関係を思い浮かべてしまった。障子や雨戸といったものは、家の内と外とを障壁となって遮断する物ではなく、むしろ内と外のあいだで起きる相互浸透の度合いを調節するものではないだろうか・・・・。
 また、ベンヤミンの論考から展開すれば、こういうことも考えることができるかもしれない ― 写真撮影の際には、対象を間近から視点をひとつだけに絞って凝視するようにして接写するだけではなく、時にはカメラを引いて視野を広くして、対象を他の事物と一緒にレンズに収め、対象が他の事物と結んでいる関係をながめることも必要なのではないだろうか・・・・。



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創作 「火の鳥」


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  東京からようやくキャンプ場に着く。友人Kの小さなワンボックスカーのカーナビが不調で、長野県に入ったあたりか、ディスプレイのマップが突然真っ白になる。道案内の標識を誤読して大回りする羽目になり、夕方遅くになってやっとテントにたどり着く。
  あたりはすでに薄暗い。夜が迫っていて、目の前の池も月を浮かべて鈍い銀色だ。釣りはもうできない。北アルプス連峰はすでに姿を消している。四方の低山が黒々と盛り上がり、豚の背に見える。峠近くの冷気が肌を通して浸みてくる。周りのサイトに人はいない。東西南北の方位がわからない。見上げると、夏の主役の白鳥座が天の川の上に大きな翼を広げている。その深い羽音が想像される。流れるような風に吹かれているうちに、長旅による緊張が少しずつほぐれてゆく。
  Kがさっそくヘッド・ライトを渡してくれる。Kはほぼ半世紀ぶりに東京の路上でばったり再会した幼な馴染みだ。会社勤めを終え、今では奥さんとふたり暮らしをしているが、十五年前に癌で女房を亡くした元図書館司書のわたしのことを気遣ってくれたのだろうか、人里離れた峠近くでのテント一泊にわたしを誘ってくれた。ヘッド・ライトを着けて歩いてみる。手探りをするようにしか歩けない。まるで遊泳する宇宙飛行士だ。そんなわたしを見ても、Kは少し笑うだけだ。ふたりとも寡黙でも饒舌でもなく、互いを距離を置いて認め合っている。人の心理を詮索しないし、相手に過度に干渉することもしない。
  キャンプのベテランKはテキパキと支度を始める。焚き火の火もおこすが、着火も巧みで速い。わたしは下働きに徹するが、時々ヘマをやらかす。暗闇のなかでは足元が特に暗いので凸凹には注意したが、地面に転がっていた玉ネギに気づかず、それを思いっきり踏んづけてしまう。踏み剥がされたひと玉のネギからは、驚くほどの香りが、内部の水分とともにはじけ出てくる。香りは、近くの火に煽られ、まっすぐ立つように広がり、鼻を刺激する。ネギはこんなにも香るのか。「柚子存在す爪たてられて匂うとき」、加藤楸邨の句が浮かぶ。

  Kもわたしも、社会のなかでささやかながら与えられた役割を演じてきた。組織や制度がたくみに設けてくれた舞台に立ち、そこで編まれる人間関係をそれなりの良識や熱意でもって生きてきた。もちろん失敗も犯したし悔いも残るが。しかし、そうして運営される舞台から降りて、時間もたってみると、心身の衰えを感じ始めると同時に、今度は今まで送ってきた日常生活には縛られない世界、気づくことなく見過ごしてきた世界に触れてみたいという気持ちに駆られはじめた。曖昧で不可解なものとして排除してきた未知の不思議な領域がどこか生活の周縁、境界を越えた向こう側に広がっているはずだ・・・。
  今のうちだ。終わりの始まりが、明日にでも不意にやってくるのだ。衰弱の底に突き落とされる日がドアのベルを鳴らす前に、ただ習慣に従って受け付けてこなかったもの、摩訶不思議なものとして避けてきたものに触れてみてみよう。奇妙で珍奇なものと見なしてきたものとの出会いが、皮膚のように硬く鈍くなった感受性を柔軟にしてくれるかもしれない。狭いマンションから出て、場所をすっかり変えてみれば、鈍くなった感覚でも潜んでいる驚くようなものを感知できるかもしれない。
  しかし、この歳になって、肉体的衰えや潜在的な不機嫌や順応力欠如を自覚することなく高揚感を探そうなどと思い立ってみたところで、せいぜい幻滅や苛立ちをおぼえるのが関の山になるはずだ。はては奈落に突き落とされる始末になるかもしれない・・・・。
でも、今少しの冒険なり探索なら、墜落感をおぼえ始め万事に用心を始めた今ならまだ可能かもしれない・・・・。希求のようなもの肯定感のようなものが、またぞろ様々な形をとっては現れては、芽を吹き出そうとする・・・・。
  こうして、決断はできず、気持ちは境界線上をあれこれ揺れ動き、何日も振幅の大きな繰り返しを繰り返す。もう牛の反芻だった・・・・。

  東京からクーラー・ボックスに入れてキンキンに冷やして持参したビールで、Kと乾杯する。お互い勤め人の頃の習癖が抜けず、「とりあえず、まずビールで・・・」などと言う。グビグビとやる。赤ワインに入るあたりから、時間がマッタリと流れ始める。というか、時間はどこかに消えている。ロープでぐるぐる巻きにして池に沈め冷やしておいた白ワインを少しずつゆっくりと手繰って引き上げる。素晴らしい手応え。ふたりとも自然に口元がゆるむ。豊かな釣果であふれる網を手繰る漁師たちがおぼえる感触もかくや、だ。
  Kはスマホでひとり麻雀に興じ始めたらしい。沈黙と闇を通して、麻雀用語が叫ばれる。ちょうどツモった瞬間の声が聞こえた時だった、それを打ち消して、スマホから割り込み電話が鳴る。とたんにKの声が無愛想な調子に急変する。奥さんからの電話だったのか。
  到着が大幅に遅れ、釣りができそうもないと判断したKは、キャンプ場に着く前に近くのスーパーで車を停め、鶏一羽の半分を買っていた。それをさばき、燃えさかる焚き火に掛けた大鍋に放り込む。野菜や他の食材もあれこれ入れ、味噌を用意する。いつのまにか 調味料も並べられているが、それも次々に入れてゆく。薪は有料だが、この際焚き火にさかんにくべる。なにしろ焚き火に当たるのは半世紀ぶりなのだ。豪勢に、不意に大きな音も立てて火が燃えさかる。ボッと炎が放電のようにはじけ、火の粉が、時には薪までが四方に撒き散らされる。炎の奥をのぞきこむと、若い木の芽が蛇の舌にような火に舐められ絡みつかれている。湿った焚き木がジューッと湯気を噴き出す。グツグツ煮込まれる鶏鍋からも、火の下に入れた焼き芋アルミホイール巻きからも匂いが広がる。松の木の芳香性樹脂の香りも混じり、火の熱でそれらがまぜられ、混沌となってゆらめく。サイトは木々に囲まれているので、巣がぬくもるような気分になる。日常のこまごまとした気掛かりが消えてゆく。時刻はどうやらテッペンに近づいたらしい。ワインは二本目になり、その白もすぐカラになりそうだ。あたりが温められ、陶然となる。
  一瞬、閃光が間をおいて上下に走る。青い矢のようなものが光り、草や水面が鋭利なもので切り裂かれる。いったいな何んだ、この異様な落下と跳躍の素早い動きは。衝撃のあと、沈黙が続く。しかし、水辺で上下に青い光が走った、というただそのことだけで、わたしは即断しようとする。「今のは、水に飛び込み水中で餌を捕獲したカワセミに違いない」、などと思い込もうとする。
 ジェージェーという、押し殺したようなしわがれた声がどこかでする。人の声のようにも聞こえる。Kが、「カケスじゃないか」と言う。カケスには物音や鳴き声を真似る習性があり、枝打ちの時の作業音だけでなく、慣れてくると人語まで真似るそうだ。Kは、鳥類図鑑に整然と整理されないような知識を教えてくれる。
  火がゆらぎ、身体のなかまで熱が浸み込んでくる。ふだんの日常生活では視覚が酷使されるが、ここでは聴覚やら触覚やら味覚嗅覚といった、視覚に比べれば理知的でない、より原初的な感覚が目覚める。今では、事典によっては人間の感覚は五感あるとはされていない。移動感覚や熱感覚も加えて七感と数えている、などとわたしはまた独りごつ。今感じている気分は、言ってみれば、「異邦感」か。などとそんな表現までひねり出す。
  ふたりとも酔いと眠気で、半醒半睡になる。積み上げるようにくべた薪が崩れ、その一本はかなり火から離れた所まで飛んだ。Kがボソッと言う、「いつか薪に山椒魚が潜んでいたことがあってさ。山椒の匂いがする薪があるからヘンだなとは思ったけれど、その薪をそのまま火にくべたんだ。そうしたら、しばらくしたら山椒魚のヤツが一匹、あわてて焚き火のなかから飛び出してきたよ・・・。 山椒魚が火トカゲと呼ばれることがあるのもわかったよ」。酔眼もうろうのわたしは、フォローしようとして元図書館司書の性なのか、既製の知識を披露する、「そうか、火を司る精霊サラマンドルの図像がなんとなく山椒魚に似ているな、とは思ってきたけれど、やっぱりそういうことだったのか・・・・」。

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「ウィーン写本」(6世紀)より、サラマンダー

  くべてきた薪も尽き、火も燠になり灰になってゆくのを見て、わたしは火吹き棒で燠に息を吹き込む。最後にもう一度炎をかき立てようと思ったのだ。すると、炎ではなく、灰のほうが一気に舞い上がり、燠の高熱にあおられ垂直に巻き上がった。未経験者がやりそうなことだ。
  その時だった、焚き火の上に広がって漂う灰のなかに、女性の薄い赤いスカーフのようなものがゆらぐのが見えた。驚いて目をこらす。赤い鳥が一羽音もなく羽根をはばたかしている・・・・。たしかに、赤い鳥だ、幻影とか幻視などではない。残り火が火吹き棒によって突然燃え盛る、その一瞬に灰で煙るなかを、赤い鳥、そう・・・火の鳥が舞い上がったのだ。炎が生き物のようにゆらめき、飛翔する、火に輝く、火の鳥だった。
  だが、その鳥の影はすぐに消える。私はすぐに火吹き棒を握り、燠をかき混ぜる、顔が火照るにもかかわらず炎をかき立てようとする。火花がほとばしる。熱風で巻き上がる灰のなかに垣間見た火の鳥を追い、か弱い手でもってその鳥をつかまえようとした。
  しかし、火の鳥はどこか闇に消え、驚異の美しい鳥は二度と出現しなかった。あれは人間にはかない望みとか憧れを抱かせる、たんなる偶発的な火のいたずらだったのかもしれない。しかし、一瞬味わった突き上げてくる高揚感をなんとかしてすぐに再現しようとして、わたしは食べ残した鶏の骨を数本火に放り込む、コップに残っていたワインも。しかし、鳥がふたたび飛翔することはなかった。火の鳥を再現させようとする試みも徒労に帰し、わたしはただ虚しい思いを噛みしめるばかりとなった。
  衰える火と冷めてゆく大鍋を前にしながら、わたしは幻の火の鳥を夢想のなかで追った。火に掛けられている大鍋なら鳥の居どころを教えてくれるかもしれない。そうなのだ、こんな神話があるはずだ ― 鳥が飛んできて、大鍋に入っている秘薬を飲むと、その鳥は自在に再生できる身に変身する。そしてその鳥は大鍋に入っている生の秘薬を人びとにわかち与える。こういった神話が北欧神話にたしかあるはずだ・・・・。この神話には大鍋の上を飛んだ火の鳥の行方を探るヒントが隠されているはずだ。
  きっとKのことだ、先程から焚き火を前にしたわたしの様子がおかしいことに気づいているはずだ。わたしの奇妙な動きをどうKに説明しよう。そうだ、持参した志賀直哉の短編「焚き火」に書かれていることと同じことをしようとしていただけなのだ、と言おう。挙動不審だったのも、「焚き火」で主人公が行った行為を自分でもやってみようと思い立ったからだ、と。そのうえで掌編小説の該当するその箇所を数行Kに読んでみよう ― 「Kさんは勢いよく燃え残りの薪を湖水へ遠く抛った。薪は赤い火の粉を散らしながら飛んで行った。それが、水に映って、水の中でも赤い火の粉を散らした薪が飛んで行く。上と下と、同じ孤を描いて水面で結びつくと同時に、ジュッと消えてしまう。そしてあたりが暗くなる。それが面白かった。皆で抛った」。志賀直哉の充実した創作期の文だ。忠実な写実文のようだが、平板なありきたりの描写ではない。背後の闇のどこかに神秘が潜んでいるようで、緊迫感が伝わってくる。これからふたりで志賀直哉の主人公と同じことをやってみないか、とKに持ちかけてみよう。
  Kはすぐに同意する。ふたりは燃え残りの薪を池のほとりまで運び、暗い水面に向かって一本一本投げ入れた。たしかに、赤い火の粉が空中と同時に水中を、孤を描いて飛んでゆく。暗闇のなかで火の粉はすぐには消えない。花火のように広がる火の粉が闇に何かを照らし出すことを期待した。飛んでゆく火の粉に並行するようにして、音もなく火の鳥が飛ぶのではないか・・・・。

  翌日、昼前になってキャンプ地を後にした。峠まで上り、そこから谷間のキャンプ地を鳥瞰するようにふりかえった。雑草などが刈り取られ、広く平らに整備されたキャンプ場は遠く上から見るとまるで緑の飛行場だった。点在する色鮮やかなテントや車がかすかに差し込む陽を浴び、それに呼応するかのようにそれぞれに煙も立て、動き始めていた。きっと音も立て始めているはずだ。「未確認飛行物体たちだな、これは」と、K。しかし、わたしには離陸しようとしている未確認飛行物体群がメカニックなものには見えなかった。人が住みこみ、生活がいとなまれるものだった。かすかではあるが生気が通うものだったし、生き物の気配がするものだった。
  やがて雲間から一条の光が漏れ、その光はキャンプ地の中の島に当たった。霧のかかる山間を、光は上から断固として中の島を指し示し続けた。小さな中の島は陽の光でたちまち赤く染まった。水面に顔を伏せたような中の島の木々が風に吹かれ、木々がそよいでいるように見えた。一瞬、中の島がかすかに動いたように見えた。中の島がうずくまる火の鳥に変貌しようとしている・・・・。まだ、わたしは火の鳥に執着している、探している・・・。

  東京に帰ったあとでも、夜になるとKに返し忘れたヘッド・ランプを頭に装着し、狭いマンションの照明を消しテレビを消してかろうじて得られる暗闇のなかをうろつくことがある。ひょっとして鳥が部屋の片隅にでも隠れているのではと思いながら。鳥を探して、火の鳥を・・・。
  しかし、さすがに体験からわきまえるようにはなっていた ― 苦難に満ち、危険にさらされる長い長い遍歴や流離を繰り返さないといけないのだ。火の鳥が突然姿を現し、それに遭遇するためには。


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堀辰雄『風立ちぬ』に誤訳はあるか

  大野晋丸谷才一『日本語で一番大事なもの』の中で、丸谷才一堀辰雄の小説『風立ちぬ』(1938)を取り上げて、言います、「巻頭にヴァレリーの ”Le vent se lève, il faut tenter de vivre.”という詩が引いてあります。それが開巻しばらくしたところで、語り手がその文句をつぶやく。そこが「風立ちぬ、いざ生きめやも」となっている。「生きめやも」というのは、生きようか、いや、断じて生きない、死のうということになるわけですね。ところがヴァレリーの詩だと、生きようと努めなければならないというわけですね、つまりこれは結果的には誤訳なんです。「やも」の用法を堀辰雄は知らなかったんでしょう。」それに対して、大野晋も、「『いざ生きめやも』の訳はおっしゃる通りまったくの間違いです」と応じています。
  わたしは両碩学に敬意を抱く者ですが、この誤訳説にはいささか納得がいきません。
  確かに小説『風立ちぬ』巻頭には巻頭詩として『海辺の墓』(詩集『魅惑』(1922)所収)巻末から切り取られたヴァレリーの詩句が掲げられています。巻頭詩は本文自体と多様な関連をむすぶもので、本文の要約であったり、また反例であったりもします。ですから、巻頭詩を使う作者の真の意図は、巻頭からだけでは見抜けません。作品全体を読み終わってからはじめて巻頭詩の意味がわかることがよくあります。 
  ですから、開巻しばらくしたところで読むことになる、誰の詩句ともわからない、ただ「ふと(語り手の)口を衝(つ)いて出て来た」詩句である「風立ちぬ、いざ生きめやも」が、巻頭詩のヴァレリーの詩句の翻訳だと即断することはできません。
  なるほど、巻頭詩の詩句の前半と、巻頭近くで語り手によって口ずさまれる詩句の前半は、ともに「風たちぬ、・・・」であり、同じです。しかし、言葉の位相はすでに異なります。ヴァレリーの詩句は現代の書き言葉で書かれていますが、語り手が口ずさむ詩句のほうは文語で古語です。

小説前半の文脈にふさわしい詩句は

  小説前半で語り手によって二度口ずさまれる「風立ちぬ、いざ生きめやも」の場面を見てゆきましょう。全部で五章あるうちの最初の二章でそれぞれ一回ずつ口ずさまれます。第一章「序曲」では、K村(軽井沢)で夏の終わりに出会った節子との関係が描かれますが、そこには語り手がおぼえる不安な感情がすでに忍び込んできます。節子は白樺の木陰にキャンバスを立てて絵を描いていますが、そのとき突然風が吹き、キャンバスが倒れます。すぐにキャンバスを立て直そうとする節子を語り手は、「いまの一瞬の何物をも失うまいとするかのように無理に引き留めて、私のそばから離さないでいた。」語り手は目の前から大切なものが喪失するのを手をこまねいて見守るだけです。
  その時、作者不詳の詩句「風立ちぬ、・・・」が語り手の口を衝いて出てきます。後半の「いざ生きめやも」の「やも」は、詠嘆を込めた反語を表します。「・・・だろうか、・・・いや、そうではないだろう」です。つまり、「生きられるだろうか、・・・いや、生きられないだろう」という意味です。
  当時、堀辰雄の周辺には死の不安が色濃く漂っていました。大学在学中から肋膜炎をわずらい体調をいたわってきましたが、堀辰雄は1931年から結核のため富士見高原のサナトリウムに入院しています。1933年に節子のモデルの矢野綾子を知り、翌年9月に婚約しますが、矢野綾子も同じ病でサナトリウムに入院し、翌年12月に亡くなっています。『風立ちぬ』執筆はその翌年36年から38年にかけてです。当時、結核は亡国病とも呼ばれることになるおそろしい伝染病でした。
  この小説は生死が交錯するような厳しい日常の中で執筆されましたが、身辺にたれ込める死の影は小説の内容にも投影されています。巻頭に不意に吹く風に恋人のキャンバスが吹き倒されても、語り手はそれをただ見るだけで、気弱な諦念ともとれる詩句を口にするだけですが、この詩句は語り手の切迫する不安な心理という文脈に沿うように使われています。この場面で詩句「・・・、生きめやも」を読んでも、わたしは違和感をおぼえません。
  第二章「春」で、語り手は同じ詩句が二年間も繰り返し口をついて出てくることに気づきます。その時も不安が周囲に広がります。実際、結核という当時の死病に深く冒された節子は、その月末には八ヶ岳山麓富士見高原のサナトリウムに入院することになります。その準備に追われている時にその詩句がサナトリウムに同行しようとする語り手にまた甦ってきます。新生活への見通しがまったく立たない状態に追い込まれた時のぺシミックな心情が表されています。その直前にも、重い病いにかかっていることを知った節子が、語り手と婚約し明るく振る舞うものの時に気弱になることを語り手に打ち明けています。

では、ヴァレリーの詩句の意味は

  一方、Le vent se lève, il faut tenter de vivre. (風が立つ、さあ生きなければならない)をその最終箇所に含むヴァレリーの詩『海辺の墓』は、どのような詩なのでしょうか。生と死に関わる葛藤も描かれますが、最終部(第二十二節以下)で吹き始める風は、キャンバスを吹き飛ばすようなものではなく、反対に地中海と向き合う語り手の精神を高揚させる力強いものです。葛藤する精神に活力を吹き込もうとするのびやかな風です。『海辺の墓』最後の風の箇所を引用しましょう。

 いや、 いや! ・・・立て! あいつぐ時代の中に!
 うち破れ、わが肉体よ、このもの想うすがたを!
 吸いこめ、わが胸よ、風の誕生を!
 さわやかな大気が 海より湧きあがり、
 わたしに魂を返す・・・。おお、塩の香りにみちた力よ!
 波に走り入ろう、生き生きとほとばしるために!
   (一連六行省略)
 風が立つ、さあ生きねばならない
   (最終連五行省略)

  風は語り手の精神を覚醒させ、彼に変容をうながす生気あふれるものです。こうした風が、悪化する状況に能動的に反応せず、ただそれに流されるままでいる堀辰雄の語り手に不意に吹きつけ、それによって彼が鼓舞されるようなことはあまりに唐突すぎて、あまり考えられません。地中海の明るく壮健な風は、小説『風立ちぬ』前半の暗く低迷するような状況にそぐわないはずです。
  つまり、語り手が小説前半で口ずさむ「風立ちぬ、いざ生きめやも」という諦念とも解釈できる詩句は、その一部分が共通しているとはいえ、巻頭詩の翻訳ではなく、作者未詳の、つまり堀辰雄自身が作った想像上の詩句なのではないでしょうか。

生の回復

  では、巻頭詩として載せられているヴァレリーの詩句は、いったい堀辰雄の小説のどこと関連を持つのでしょうか。まずは先を急がずに、小説後半部分 ― 三章「風立ちぬ」、四章「冬」、五章「死のかげの谷」 ― を前半と同じようにまとめてみましょう。章題によってもほのめかされていますが、内容はさらに暗く悲しいものになってゆきます。サナトリウムに入院した節子の病状はじりじりと悪化し始め、絶対安静が一週間も続くようになります。そして、「冬」の章の最後で節子は喀血し、亡くなります。
  しかし、こうして絶望へと導く一連の出来事とはうらはらに、語り手は悲劇的な事態に流され、悲しみ苦悩しつつも、次第に生のほうに向かおうとするもう一人の自分がいることに気づき始めます。 ―  語り手は節子との恋愛を主題にする小説執筆を始めます。ノートを取り始める彼を節子の愛が懸命に支えようとします。また、サナトリウムから見上げる南アルプスの美しい山容や、花々の蕾といった向日性の自然のいとなみが彼を励まします。やがて、語り手は繰り返し節子に語りかけます ― 「皆がもう行きどまりだと思っているところから始まっているようなこの生の愉しさ」、それを「もうすこし形をなしたものに置き換えたい」、と。生を主題にする、つまり「お前」についての作品を生のあかしとして書き残そう、と。体調を崩しつつも、節子はその創作の試みを励まし続けます。
  最終章「死のかげの谷」では、節子が死んで三年半たっています。悲しみを抱えつつ語り手は節子にはじめて出会ったK村(軽井沢)に向かいます。そこで、冬の厳しい寒さに襲われつつも、節子が甦ってくるのを感じます。また、〈わたしたちが事物を知覚したとしても、それはわたしたちの存在がそれを目の前に反映させているからだ〉という主体性の重要性を説くリルケの文を読みます。また、自分が滞在するK村の谷を照らす多くの小さな灯り ― そこには節子もいる ― があることにも気づきます。多くの小さな灯りのおかげで、<死のかげの谷>とばかり思い込んでいた場所を、K村の村人たちのように、<幸福の谷>と呼ぶこともできると思うようになります。大きな事件や出来事は起きませんが、語り手の内面は変化します。消極的で受動的であった語り手の精神は賦活され、深い充実感をおぼえるようになります。
  この生の回復というテーマは、前後して書かれた他の小説においても追求されています、『美しい村」(1934)でも主人公の精神上の危機からの脱皮が、向日葵の少女にたいして育まれてゆく愛の力によってはかられます。また『菜穂子』(1941)でも、ヒロインは不幸な結婚生活におちいり八ヶ岳山麓結核療養所にも入院し、苦悩しますが、自己を見つめ、最後には生を激しく追い求めるまでに変貌します。三島由紀夫は、「生の原理によるその復活」という堀辰雄のテーマは、『風立ちぬ』でことのほか力強く描かれていると論じています(「現代小説は古典たり得るか」)。
  小説の最後の場面では、<死のかげの谷>と思い込んでいたものの<幸福の谷>となった谷にしきりに風が吹きます、語り手に脱皮をうながすように・・・。巻頭で風が吹き節子のキャンパスを吹き倒しましたが、巻末でも同じK村で風が吹きます。しかし今度は語り手の主体性を呼びさますように風が吹きます。巻頭詩のヴァレリーの風は語り手の精神に生気を吹き込みますが、その風は『風立ちぬ』巻頭近くで吹く風ではなく、巻末で吹く風と同質のもののようにわたしには思われます。
  巻頭の詩句は、『風立ちぬ』第一章と第二章で翻訳されるものではなく、小説全体の、とりわけ巻末の要約になっていると考えます。ヴァレリーの詩句「風が立つ、さあ生きねばならない」は、小説前半ではなく、巻末にこそ当てはまるはずです。
  以上、堀辰雄擁護とも言える論を書きました。原典の字句だけを取りあげて云々するのももちろん必要ですが、それが使われている場面や状況も考慮に入れて複眼的に多角面から検討することも必要になるはずです。


  どこか遠くで堀辰雄がニヤリと笑っているような気もします。というのも、中村真一郎の文がわたしの頭をよぎるからです ―「(堀辰雄は)別の作品をも、作品の構想なり、細部の仕上げなりに、遠慮なく利用していて、私たち読者がそれに気がつくのを、作者は宝さがしの悪戯を仕掛けた人のように、笑って見 ているような気がすることがある」(「堀辰雄 人と作品」)。

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