創作 「火の鳥」


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  東京からようやくキャンプ場に着く。友人Kの小さなワンボックスカーのカーナビが不調で、長野県に入ったあたりか、ディスプレイのマップが突然真っ白になる。道案内の標識を誤読して大回りする羽目になり、夕方遅くになってやっとテントにたどり着く。
  あたりはすでに薄暗い。夜が迫っていて、目の前の池も月を浮かべて鈍い銀色だ。釣りはもうできない。北アルプス連峰はすでに姿を消している。四方の低山が黒々と盛り上がり、豚の背に見える。峠近くの冷気が肌を通して浸みてくる。周りのサイトに人はいない。東西南北の方位がわからない。見上げると、夏の主役の白鳥座が天の川の上に大きな翼を広げている。その深い羽音が想像される。流れるような風に吹かれているうちに、長旅による緊張が少しずつほぐれてゆく。
  Kがさっそくヘッド・ライトを渡してくれる。Kはほぼ半世紀ぶりに東京の路上でばったり再会した幼な馴染みだ。会社勤めを終え、今では奥さんとふたり暮らしをしているが、十五年前に癌で女房を亡くした元図書館司書のわたしのことを気遣ってくれたのだろうか、人里離れた峠近くでのテント一泊にわたしを誘ってくれた。ヘッド・ライトを着けて歩いてみる。手探りをするようにしか歩けない。まるで遊泳する宇宙飛行士だ。そんなわたしを見ても、Kは少し笑うだけだ。ふたりとも寡黙でも饒舌でもなく、互いを距離を置いて認め合っている。人の心理を詮索しないし、相手に過度に干渉することもしない。
  キャンプのベテランKはテキパキと支度を始める。焚き火の火もおこすが、着火も巧みで速い。わたしは下働きに徹するが、時々ヘマをやらかす。暗闇のなかでは足元が特に暗いので凸凹には注意したが、地面に転がっていた玉ネギに気づかず、それを思いっきり踏んづけてしまう。踏み剥がされたひと玉のネギからは、驚くほどの香りが、内部の水分とともにはじけ出てくる。香りは、近くの火に煽られ、まっすぐ立つように広がり、鼻を刺激する。ネギはこんなにも香るのか。「柚子存在す爪たてられて匂うとき」、加藤楸邨の句が浮かぶ。

  Kもわたしも、社会のなかでささやかながら与えられた役割を演じてきた。組織や制度がたくみに設けてくれた舞台に立ち、そこで編まれる人間関係をそれなりの良識や熱意でもって生きてきた。もちろん失敗も犯したし悔いも残るが。しかし、そうして運営される舞台から降りて、時間もたってみると、心身の衰えを感じ始めると同時に、今度は今まで送ってきた日常生活には縛られない世界、気づくことなく見過ごしてきた世界に触れてみたいという気持ちに駆られはじめた。曖昧で不可解なものとして排除してきた未知の不思議な領域がどこか生活の周縁、境界を越えた向こう側に広がっているはずだ・・・。
  今のうちだ。終わりの始まりが、明日にでも不意にやってくるのだ。衰弱の底に突き落とされる日がドアのベルを鳴らす前に、ただ習慣に従って受け付けてこなかったもの、摩訶不思議なものとして避けてきたものに触れてみてみよう。奇妙で珍奇なものと見なしてきたものとの出会いが、皮膚のように硬く鈍くなった感受性を柔軟にしてくれるかもしれない。狭いマンションから出て、場所をすっかり変えてみれば、鈍くなった感覚でも潜んでいる驚くようなものを感知できるかもしれない。
  しかし、この歳になって、肉体的衰えや潜在的な不機嫌や順応力欠如を自覚することなく高揚感を探そうなどと思い立ってみたところで、せいぜい幻滅や苛立ちをおぼえるのが関の山になるはずだ。はては奈落に突き落とされる始末になるかもしれない・・・・。
でも、今少しの冒険なり探索なら、墜落感をおぼえ始め万事に用心を始めた今ならまだ可能かもしれない・・・・。希求のようなもの肯定感のようなものが、またぞろ様々な形をとっては現れては、芽を吹き出そうとする・・・・。
  こうして、決断はできず、気持ちは境界線上をあれこれ揺れ動き、何日も振幅の大きな繰り返しを繰り返す。もう牛の反芻だった・・・・。

  東京からクーラー・ボックスに入れてキンキンに冷やして持参したビールで、Kと乾杯する。お互い勤め人の頃の習癖が抜けず、「とりあえず、まずビールで・・・」などと言う。グビグビとやる。赤ワインに入るあたりから、時間がマッタリと流れ始める。というか、時間はどこかに消えている。ロープでぐるぐる巻きにして池に沈め冷やしておいた白ワインを少しずつゆっくりと手繰って引き上げる。素晴らしい手応え。ふたりとも自然に口元がゆるむ。豊かな釣果であふれる網を手繰る漁師たちがおぼえる感触もかくや、だ。
  Kはスマホでひとり麻雀に興じ始めたらしい。沈黙と闇を通して、麻雀用語が叫ばれる。ちょうどツモった瞬間の声が聞こえた時だった、それを打ち消して、スマホから割り込み電話が鳴る。とたんにKの声が無愛想な調子に急変する。奥さんからの電話だったのか。
  到着が大幅に遅れ、釣りができそうもないと判断したKは、キャンプ場に着く前に近くのスーパーで車を停め、鶏一羽の半分を買っていた。それをさばき、燃えさかる焚き火に掛けた大鍋に放り込む。野菜や他の食材もあれこれ入れ、味噌を用意する。いつのまにか 調味料も並べられているが、それも次々に入れてゆく。薪は有料だが、この際焚き火にさかんにくべる。なにしろ焚き火に当たるのは半世紀ぶりなのだ。豪勢に、不意に大きな音も立てて火が燃えさかる。ボッと炎が放電のようにはじけ、火の粉が、時には薪までが四方に撒き散らされる。炎の奥をのぞきこむと、若い木の芽が蛇の舌にような火に舐められ絡みつかれている。湿った焚き木がジューッと湯気を噴き出す。グツグツ煮込まれる鶏鍋からも、火の下に入れた焼き芋アルミホイール巻きからも匂いが広がる。松の木の芳香性樹脂の香りも混じり、火の熱でそれらがまぜられ、混沌となってゆらめく。サイトは木々に囲まれているので、巣がぬくもるような気分になる。日常のこまごまとした気掛かりが消えてゆく。時刻はどうやらテッペンに近づいたらしい。ワインは二本目になり、その白もすぐカラになりそうだ。あたりが温められ、陶然となる。
  一瞬、閃光が間をおいて上下に走る。青い矢のようなものが光り、草や水面が鋭利なもので切り裂かれる。いったいな何んだ、この異様な落下と跳躍の素早い動きは。衝撃のあと、沈黙が続く。しかし、水辺で上下に青い光が走った、というただそのことだけで、わたしは即断しようとする。「今のは、水に飛び込み水中で餌を捕獲したカワセミに違いない」、などと思い込もうとする。
 ジェージェーという、押し殺したようなしわがれた声がどこかでする。人の声のようにも聞こえる。Kが、「カケスじゃないか」と言う。カケスには物音や鳴き声を真似る習性があり、枝打ちの時の作業音だけでなく、慣れてくると人語まで真似るそうだ。Kは、鳥類図鑑に整然と整理されないような知識を教えてくれる。
  火がゆらぎ、身体のなかまで熱が浸み込んでくる。ふだんの日常生活では視覚が酷使されるが、ここでは聴覚やら触覚やら味覚嗅覚といった、視覚に比べれば理知的でない、より原初的な感覚が目覚める。今では、事典によっては人間の感覚は五感あるとはされていない。移動感覚や熱感覚も加えて七感と数えている、などとわたしはまた独りごつ。今感じている気分は、言ってみれば、「異邦感」か。などとそんな表現までひねり出す。
  ふたりとも酔いと眠気で、半醒半睡になる。積み上げるようにくべた薪が崩れ、その一本はかなり火から離れた所まで飛んだ。Kがボソッと言う、「いつか薪に山椒魚が潜んでいたことがあってさ。山椒の匂いがする薪があるからヘンだなとは思ったけれど、その薪をそのまま火にくべたんだ。そうしたら、しばらくしたら山椒魚のヤツが一匹、あわてて焚き火のなかから飛び出してきたよ・・・。 山椒魚が火トカゲと呼ばれることがあるのもわかったよ」。酔眼もうろうのわたしは、フォローしようとして元図書館司書の性なのか、既製の知識を披露する、「そうか、火を司る精霊サラマンドルの図像がなんとなく山椒魚に似ているな、とは思ってきたけれど、やっぱりそういうことだったのか・・・・」。

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「ウィーン写本」(6世紀)より、サラマンダー

  くべてきた薪も尽き、火も燠になり灰になってゆくのを見て、わたしは火吹き棒で燠に息を吹き込む。最後にもう一度炎をかき立てようと思ったのだ。すると、炎ではなく、灰のほうが一気に舞い上がり、燠の高熱にあおられ垂直に巻き上がった。未経験者がやりそうなことだ。
  その時だった、焚き火の上に広がって漂う灰のなかに、女性の薄い赤いスカーフのようなものがゆらぐのが見えた。驚いて目をこらす。赤い鳥が一羽音もなく羽根をはばたかしている・・・・。たしかに、赤い鳥だ、幻影とか幻視などではない。残り火が火吹き棒によって突然燃え盛る、その一瞬に灰で煙るなかを、赤い鳥、そう・・・火の鳥が舞い上がったのだ。炎が生き物のようにゆらめき、飛翔する、火に輝く、火の鳥だった。
  だが、その鳥の影はすぐに消える。私はすぐに火吹き棒を握り、燠をかき混ぜる、顔が火照るにもかかわらず炎をかき立てようとする。火花がほとばしる。熱風で巻き上がる灰のなかに垣間見た火の鳥を追い、か弱い手でもってその鳥をつかまえようとした。
  しかし、火の鳥はどこか闇に消え、驚異の美しい鳥は二度と出現しなかった。あれは人間にはかない望みとか憧れを抱かせる、たんなる偶発的な火のいたずらだったのかもしれない。しかし、一瞬味わった突き上げてくる高揚感をなんとかしてすぐに再現しようとして、わたしは食べ残した鶏の骨を数本火に放り込む、コップに残っていたワインも。しかし、鳥がふたたび飛翔することはなかった。火の鳥を再現させようとする試みも徒労に帰し、わたしはただ虚しい思いを噛みしめるばかりとなった。
  衰える火と冷めてゆく大鍋を前にしながら、わたしは幻の火の鳥を夢想のなかで追った。火に掛けられている大鍋なら鳥の居どころを教えてくれるかもしれない。そうなのだ、こんな神話があるはずだ ― 鳥が飛んできて、大鍋に入っている秘薬を飲むと、その鳥は自在に再生できる身に変身する。そしてその鳥は大鍋に入っている生の秘薬を人びとにわかち与える。こういった神話が北欧神話にたしかあるはずだ・・・・。この神話には大鍋の上を飛んだ火の鳥の行方を探るヒントが隠されているはずだ。
  きっとKのことだ、先程から焚き火を前にしたわたしの様子がおかしいことに気づいているはずだ。わたしの奇妙な動きをどうKに説明しよう。そうだ、持参した志賀直哉の短編「焚き火」に書かれていることと同じことをしようとしていただけなのだ、と言おう。挙動不審だったのも、「焚き火」で主人公が行った行為を自分でもやってみようと思い立ったからだ、と。そのうえで掌編小説の該当するその箇所を数行Kに読んでみよう ― 「Kさんは勢いよく燃え残りの薪を湖水へ遠く抛った。薪は赤い火の粉を散らしながら飛んで行った。それが、水に映って、水の中でも赤い火の粉を散らした薪が飛んで行く。上と下と、同じ孤を描いて水面で結びつくと同時に、ジュッと消えてしまう。そしてあたりが暗くなる。それが面白かった。皆で抛った」。志賀直哉の充実した創作期の文だ。忠実な写実文のようだが、平板なありきたりの描写ではない。背後の闇のどこかに神秘が潜んでいるようで、緊迫感が伝わってくる。これからふたりで志賀直哉の主人公と同じことをやってみないか、とKに持ちかけてみよう。
  Kはすぐに同意する。ふたりは燃え残りの薪を池のほとりまで運び、暗い水面に向かって一本一本投げ入れた。たしかに、赤い火の粉が空中と同時に水中を、孤を描いて飛んでゆく。暗闇のなかで火の粉はすぐには消えない。花火のように広がる火の粉が闇に何かを照らし出すことを期待した。飛んでゆく火の粉に並行するようにして、音もなく火の鳥が飛ぶのではないか・・・・。

  翌日、昼前になってキャンプ地を後にした。峠まで上り、そこから谷間のキャンプ地を鳥瞰するようにふりかえった。雑草などが刈り取られ、広く平らに整備されたキャンプ場は遠く上から見るとまるで緑の飛行場だった。点在する色鮮やかなテントや車がかすかに差し込む陽を浴び、それに呼応するかのようにそれぞれに煙も立て、動き始めていた。きっと音も立て始めているはずだ。「未確認飛行物体たちだな、これは」と、K。しかし、わたしには離陸しようとしている未確認飛行物体群がメカニックなものには見えなかった。人が住みこみ、生活がいとなまれるものだった。かすかではあるが生気が通うものだったし、生き物の気配がするものだった。
  やがて雲間から一条の光が漏れ、その光はキャンプ地の中の島に当たった。霧のかかる山間を、光は上から断固として中の島を指し示し続けた。小さな中の島は陽の光でたちまち赤く染まった。水面に顔を伏せたような中の島の木々が風に吹かれ、木々がそよいでいるように見えた。一瞬、中の島がかすかに動いたように見えた。中の島がうずくまる火の鳥に変貌しようとしている・・・・。まだ、わたしは火の鳥に執着している、探している・・・。

  東京に帰ったあとでも、夜になるとKに返し忘れたヘッド・ランプを頭に装着し、狭いマンションの照明を消しテレビを消してかろうじて得られる暗闇のなかをうろつくことがある。ひょっとして鳥が部屋の片隅にでも隠れているのではと思いながら。鳥を探して、火の鳥を・・・。
  しかし、さすがに体験からわきまえるようにはなっていた ― 苦難に満ち、危険にさらされる長い長い遍歴や流離を繰り返さないといけないのだ。火の鳥が突然姿を現し、それに遭遇するためには。


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堀辰雄『風立ちぬ』に誤訳はあるか

 大野晋丸谷才一『日本語で一番大事なもの』の中で、丸谷才一堀辰雄の小説『風立ちぬ』(1938)を取り上げて、言います、「巻頭にヴァレリーの ”Le vent se lève, il faut tenter de vivre.”という詩が引いてあります。それが開巻しばらくしたところで、語り手がその文句をつぶやく。そこが「風立ちぬ、いざ生きめやも」となっている。「生きめやも」というのは、生きようか、いや、断じて生きない、死のうということになるわけですね。ところがヴァレリーの詩だと、生きようと努めなければならないというわけですね、つまりこれは結果的には誤訳なんです。「やも」の用法を堀辰雄は知らなかったんでしょう。」それに対して、大野晋も、「『いざ生きめやも』の訳はおっしゃる通りまったくの間違いです」と応じています。
 わたしは両碩学に敬意を抱く者ですが、この誤訳説にはいささか納得がいきません。
 確かに小説『風立ちぬ』巻頭にはエピグラフ(巻頭詩 書物の巻頭に置かれる短い引用文)として、『海辺の墓』(詩集『魅惑』所収 1922)巻末から切り取られたポール・ヴァレリーの詩句が掲げられています。巻頭詩は本文自体と多様な関連をむすぶもので、本文の要約であったり、また反例であったりもします。ですから、巻頭詩を使う作者の真の意図は、巻頭からだけでは見抜けません。作品全体を読み終わってからはじめて巻頭詩の意味がわかることがよくあります。 
 ですから、開巻しばらくしたところで読むことになる、誰の詩句ともわからない、ただ「ふと(語り手の)口を衝(つ)いて出て来た」詩句である「風立ちぬ、いざ生きめやも」が、巻頭詩のヴァレリーの詩句の翻訳だと即断することはできません。
 なるほど、巻頭詩の詩句の前半と、巻頭近くで語り手によって口ずさまれる詩句の前半は、ともに「風たちぬ、・・・」であり、同じです。しかし、言葉の位相はすでに異なります。ヴァレリーの詩句は現代の書き言葉で書かれていますが、語り手が口ずさむ詩句のほうは文語で古語です。

小説前半の文脈にふさわしい詩句は

 小説前半で語り手によって二度口ずさまれる「風立ちぬ、いざ生きめやも」の場面を見てゆきましょう。全部で五章あるうちの最初の二章でそれぞれ一回ずつ口ずさまれます。第一章「序曲」では、K村(軽井沢)で夏の終わりに出会った節子との関係が描かれますが、そこには語り手がおぼえる不安な感情がすでに忍び込んできます。節子は白樺の木陰にキャンバスを立てて絵を描いていますが、そのとき突然風が吹き、キャンバスが倒れます。すぐにキャンバスを立て直そうとする節子を語り手は、「いまの一瞬の何物をも失うまいとするかのように無理に引き留めて、私のそばから離さないでいた。」語り手は目の前から大切なものが喪失するのを手をこまねいて見守るだけです。
 その時、作者不詳の詩句「風立ちぬ、・・・」が語り手の口をついて出てきます。後半の「いざ生きめやも」の「やも」は、詠嘆を込めた反語を表します。「・・・だろうか、・・・いや、そうではないだろう」です。つまり、「生きられるだろうか、・・・いや、生きられないだろう」という意味です。
 当時、堀辰雄の周辺には死の不安が色濃く漂っていました。大学在学中から肋膜炎をわずらい体調をいたわってきましたが、堀辰雄は1931年から結核のため富士見高原のサナトリウムに入院しています。1933年に節子のモデルの矢野綾子を知り、翌年9月に婚約しますが、矢野綾子も同じ病でサナトリウムに入院し、翌年12月に亡くなっています。『風立ちぬ』執筆はその翌年36年から38年にかけてです。当時、結核は亡国病とも呼ばれることになるおそろしい伝染病でした。
 この小説は生死が交錯するような厳しい日常の中で執筆されましたが、身辺にたれ込める死の影は小説の内容にも投影されています。巻頭に不意に吹く風に恋人のキャンバスが吹き倒されても、語り手はそれをただ見るだけで、気弱な諦念ともとれる詩句を口にするだけですが、この詩句は語り手の切迫する不安な心理という文脈に沿うように使われています。この場面で詩句「・・・、生きめやも」を読んでも、わたしは違和感をおぼえません。
 第二章「春」で、語り手は同じ詩句が二年間も繰り返し口をついて出てくることに気づきます。その時も不安が周囲に広がります。実際、結核という当時の死病に深く冒された節子は、その月末には八ヶ岳山麓富士見高原のサナトリウムに入院することになります。その準備に追われている時にその詩句がサナトリウムに同行しようとする語り手にまた甦ってきます。新生活への見通しがまったく立たない状態に追い込まれた時のぺシミックな心情が表されています。その直前にも、重い病いにかかっていることを知った節子が、語り手と婚約し明るく振る舞うものの時に気弱になることを語り手に打ち明けています。

では、ヴァレリーの詩句の意味は

 一方、Le vent se lève, il faut tenter de vivre. (風が立つ、さあ生きなければならない)をその最終箇所に含むヴァレリーの詩『海辺の墓』は、どのような詩なのでしょうか。生と死に関わる葛藤も描かれますが、最終部(第二十二節以下)で吹き始める風は、キャンバスを吹き飛ばすようなものではなく、反対に地中海と向き合う語り手の精神を高揚させる力強いものです。葛藤する精神に活力を吹き込もうとするのびやかな風です。『海辺の墓』最後の風の箇所を引用しましょう。

 いや、 いや! ・・・立て! あいつぐ時代の中に!
 うち破れ、わが肉体よ、このもの想うすがたを!
 吸いこめ、わが胸よ、風の誕生を!
 さわやかな大気が 海より湧きあがり、
 わたしに魂を返す・・・。おお、塩の香りにみちた力よ!
 波に走り入ろう、生き生きとほとばしるために!
   (一連六行省略)
 風が立つ、さあ生きねばならない
   (最終連五行省略)

 風は語り手の精神を覚醒させ、彼に変容をうながす生気あふれるものです。こうした風が、悪化する状況に能動的に反応せず、ただそれに流されるままでいる堀辰雄の語り手に不意に吹きつけ、それによって彼が鼓舞されるようなことはあまりに唐突すぎて、あまり考えられません。地中海の明るく壮健な風は、小説『風立ちぬ』前半の暗く低迷するような状況にそぐわないはずです。
 つまり、語り手が小説前半で口ずさむ「風立ちぬ、いざ生きめやも」という諦念とも解釈できる詩句は、その一部分が共通しているとはいえ、巻頭詩の翻訳ではなく、作者未詳の、つまり堀辰雄自身が作った想像上の詩句なのではないでしょうか。

生の回復

 では、巻頭詩として載せられているヴァレリーの詩句は、いったい堀辰雄の小説のどこと関連を持つのでしょうか。まずは先を急がずに、小説後半部分 ― 三章「風立ちぬ」、四章「冬」、五章「死のかげの谷」 ― を前半と同じようにまとめてみましょう。章題によってもほのめかされていますが、内容はさらに暗く悲しいものになってゆきます。サナトリウムに入院した節子の病状はじりじりと悪化し始め、絶対安静が一週間も続くようになります。そして、「冬」の章の最後で節子は喀血し、亡くなります。
 しかし、こうして絶望へと導く一連の出来事とはうらはらに、語り手は悲劇的な事態に流され、悲しみ苦悩しつつも、次第に生のほうに向かおうとするもう一人の自分がいることに気づき始めます。語り手は節子との恋愛を主題にする小説執筆を始めます。ノートを取り始める彼を節子の愛が懸命に支えようとします。また、サナトリウムから見上げる南アルプスの美しい山容や、花々の蕾といった向日性の自然のいとなみが彼を励まします。やがて、語り手は繰り返し節子に語りかけます ― 「皆がもう行きどまりだと思っているところから始まっているようなこの生の愉しさ」、それを「もうすこし形をなしたものに置き換えたい」、と。生を主題にする、つまり「お前」についての作品を生のあかしとして書き残そう、と。体調を崩しつつも、節子はその創作の試みを励まし続けます。
 最終章「死のかげの谷」では、節子が死んで三年半たっています。悲しみを抱えつつ語り手は節子にはじめて出会ったK村(軽井沢)に向かいます。そこで、冬の厳しい寒さに襲われつつも、節子が甦ってくるのを感じます。また、〈わたしたちが事物を知覚したとしても、それはわたしたちの存在がそれを目の前に反映させているからだ〉という主体性の重要性を説くリルケの文を読みます。また、自分が滞在するK村の谷を照らす多くの小さな灯り ― そこには節子もいる ― があることにも気づきます。多くの小さな灯りのおかげで、<死のかげの谷>とばかり思い込んでいた場所を、K村の村人たちのように、<幸福の谷>と呼ぶこともできると思うようになります。大きな事件や出来事は起きませんが、語り手の内面は変化します。消極的で受動的であった語り手の精神は賦活され、深い充実感をおぼえるようになります。
 この生の回復というテーマは、前後して書かれた他の小説においても追求されています、『美しい村」(1934)でも主人公の精神上の危機からの脱皮が、向日葵の少女にたいして育まれてゆく愛の力によってはかられます。また『菜穂子』(1941)でも、ヒロインは不幸な結婚生活におちいり八ヶ岳山麓結核療養所にも入院し、苦悩しますが、自己を見つめ、最後には生を激しく追い求めるまでに変貌します。三島由紀夫は、「生の原理によるその復活」という堀辰雄のテーマは、『風立ちぬ』でことのほか力強く描かれていると論じています(「現代小説は古典たり得るか」)。
 小説の最後の場面では、<死のかげの谷>と思い込んでいたものの<幸福の谷>となった谷にしきりに風が吹きます、語り手に脱皮をうながすように・・・。巻頭で風が吹き節子のキャンパスを吹き倒しましたが、巻末でも同じK村で風が吹きます。しかし今度は語り手の主体性を呼びさますように風が吹きます。巻頭詩のヴァレリーの風は語り手の精神に生気を吹き込みますが、その風は『風立ちぬ』巻頭近くで吹く風ではなく、巻末で吹く風と同質のもののようにわたしには思われます。
 巻頭の詩句は、『風立ちぬ』第一章と第二章で翻訳されるものではなく、小説全体の、とりわけ巻末の要約になっていると考えます。ヴァレリーの詩句「風が立つ、さあ生きねばならない」は、小説前半ではなく、巻末にこそ当てはまるはずです。
 以上、堀辰雄擁護とも言える論を書きました。原典の字句だけを取りあげて云々するのももちろん必要ですが、それが使われている場面や状況も考慮に入れて複眼的に多角度から検討することも必要になるはずです。
 どこか遠くで堀辰雄がニヤリと笑っているような気もします。というのも、中村真一郎の文がわたしの頭をよぎるからです ―「(堀辰雄は)別の作品をも、作品の構想なり、細部の仕上げなりに、遠慮なく利用していて、私たち読者がそれに気がつくのを、作者は宝さがしの悪戯を仕掛けた人のように、笑って見 ているような気がすることがある」(「堀辰雄 人と作品」)。
 堀辰雄は、文芸雑誌「四季」全81冊の事実上の編集長でした。ヨーロッパ文学を積極的に日本に紹介することが、堀の編集方針でした。そのうちの四冊には、ヨーロッパの詩人たちについての評論が掲載されています。詩人三好達治は、堀辰雄の「優れた着想力構想力」を高く評価しています(飛高隆夫「「四季」の抒情」「講座昭和文学史第二巻 混迷と模索」)。
 
 宮崎駿の映画「風立ちぬ」(2013年)は、タイトルから理解できるように、堀辰雄の「風立ちぬ」を下敷きに使って作られています。結核に冒された菜穂子との結婚や、飛行機設計という創造に突き進む二郎、作品に時に吹く風の場面などを見ると、宮崎駿監督が堀辰雄の小説をリスペクトを払いながら独自のものに変換させて多用していることが明らかです。とりわけ、堀辰雄の作品の最後に吹く肯定的で爽やかな風 ー ヴァレリーに由来する風 ー を宮崎は何度か映画に取り入れています。堀辰雄の小説の本質を鋭い感性で見抜き、それを自らの創作にまで高めた宮崎監督の慧眼に脱帽です。
 宮崎監督の映画では、二郎は零戦戦闘機の完成にまさに前のめりの一直線であり、このため戦闘のための攻撃的武器を作ってしまったことへの反省も最後には ー 短い夢の中でしかありませんが ー 描かれ、二郎のおぼえる葛藤も描かれてはいます。飛行造りという少年の頃からの二郎の一途な夢がある面では実現しましたが、そこに潜む影の部分も表現することを宮崎監督は忘れていません。
 しかし、この堀辰雄風立ちぬ」の核を見抜き、その本歌を独自の見事な映画に仕上げた手腕を賞賛はおぼえますが、私は同時にしかしある留保をおぼえました。二郎の妻菜穂子 ー 堀辰雄の小説「菜穂子」の女主人公の名前 ー がその死後に至るまで、二郎の戦闘機設計作業をひたすら励まし続ける存在として描かれる点です。夫への献身的で一途な愛は、彼女の死後になって二郎の成功によって報われたとも言えるでしょうが、このあたりの経緯にはやや古風なものが感じられます。「生きて」という妻奈穂子に対して、二郎はただ「感謝する」だけです。ふたりはもっとしっかりと向かい合うべきだったのではないでしょうか。
 この点では、堀辰雄作品の妻節子 ー やはり結核で死ぬ ー にたいする夫「私」の向き合い方のほうに共感をおぼえました。妻節子は結核で体調を崩しながらも夫が取りかかる小説創作を懸命に支えようとしますが、それに対して夫の「私」は、「お前」についての文学作品を生のあかしとして書き残そう、と言って、節子からの愛に応えようと決意します。 ここでは死にあらがうのが、「私」ひとりだけではありません。結核に冒された妻節子と夫「私」との共同の作業が始まります。夫の「私」は節子と向かい合い、「皆んながもう行きどまりだと思っているところから始まっているようなこの生の愉しさ」をおぼえます。
 創作の現場には複雑な力学が働き、意図する方向へ創造が向かわないことも起きるでしょう。しかし、宮崎駿作品の最後でも、二郎が死に取りつかれた妻菜穂子のほうへよりしっかりと振り返り、一人で零戦戦闘機作りに邁進し没頭するだけでなく、二人で何かしら共同で企てるエピソードを構想することも可能だったのではないでしょうか。なるほど、二郎は亡き妻の「生きて」という言葉に、「感謝」と言いました。でも、私としては、より具体的な感謝の内容が知りたくなってしまうのです。

堀辰雄に敬意をこめて・・の文字が読み取れる

                  編集協力 KOINOBORI8

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イサム・ノグチ 幻の傑作 原爆死没者慰霊碑

広島原爆死没者慰霊碑

   毎年8月6日になると、広島平和記念公園原爆死没者慰霊碑がテレビに映し出される。それを見るたびにもうひとつの忘れ去られた慰霊碑案が私の目に浮かんでくる。実現されなかったイサム・ノグチ原爆死没者慰霊碑案(1952)のことだ。ノグチの幻の代表作とも評価されている。

広島の原爆死没者慰霊碑 模型

   模型を写真で見るだけだが、ノグチの慰霊碑案にはみなぎる創作力が凝縮され迫力に富んでいる。それが写真からでも強いインパクトとなって伝わってくる。4mのコンクリート打放しの二本の柱がそびえ立つが、それはさらにたくましく膨らみさらに長くなり、地下にまで打ちこまれるはずだった。柱は女性の両脚に見えてくる。石や樹木を見ていても、ノグチはその内側を流れる生命のエネルギーを感じ取り、それを表現するが、この二本のコンクリートの円柱も、その物質内部を生命的なものが脈打ち、循環し、次第に地上に向かって上昇するのが感じられる。
   生動するかのような二本の太い脚にはさまれた所に箱が壁から突き出ていて、そこに死没者たちの名簿が収められる予定だった。こうして構成されるはずだった地下の洞穴のような空間を、ノグチはあらゆるものが還る場所だとした。また、大地の力によって死者たちが再生する場所だとした。犠牲者たちに取ってかわって現れる新しい世代のための子宮だとした。地上と地下が結ばれ、そこから生じる生成とか多産は、「ペキンダック」(1920)や「誕生」(1932)や「レダ」(1942)や「クロノス」(1947)でもうかがえるように、ノグチが生涯追求するテーマであった。
   地中に洞穴のような空間を埋めることによって空間に大地が秘める再生力を与えようとする試みをノグチはそれ以前にも構想している。アメリカのセントルイス市主催のコンペに参加し提出されたノグチの案には、その5年後に練られることになる広島の慰霊碑案の萌芽が含まれている。当時、賑わいを失い空洞化していたセントルイス市中心街の再活性化をはかるために、ノグチは中心街を地下に据えた。この案は不採用に終わり実現されなかったが、ノグチはここでもすでに大地にひそむ再生力を街の中心部に与えようと試みている。
   1952年、ノグチは広島の慰霊碑案の模型写真を市の選考委員会に送るが、案は採択されない。彼が米国籍であることがその主な理由だった。このためノグチの良き理解者でもあった丹下健三が急遽慰霊碑の設計者として指名されることになる。丹下はノグチ案を生かす方向で設計に取りかかるが、わずか一週間で最終案を提出しなくてはならなかった。現在の慰霊碑がやや小さく、ノグチ案にあったようなパワーに欠けるのはこうした事情によるものである。

クロノス

   なお、上の写真でも明らかなように、「クロノス」(1947)は、慰霊碑案を連想させるものである。たくましい両脚が長くのび、その間に穴の空いた円形 ー 子宮が連想される ー が吊るされている。両脚は上部でアーチ型につながるが、これらは広島の慰霊碑案と共通する点である。また、題名のクロノスはギリシャ神話に登場する農業神で、体内では解体、変容、再生が行われる。この点でも慰霊碑案が想起される。

慶應義塾大学旧ノグチ・ルーム(萬来舎)

   広島の慰霊碑案はその3年前の1950年にノグチによってデザインされて建築された慶應義塾大学旧ノグチ・ルーム(萬来舎)をいくつかの点で思い起こさせる。
   当時、三田の慶應義塾大学は空襲によって壊滅的な被害を受け焦土と化していたが、塾長はノグチに破壊された萬来舎再建のデザインを依頼する。ノグチの父親は詩人であり、慶應義塾大学で40年間教鞭を取った英文学教授の野口米次郎である。幼い時からアメリカと日本を行き来してきたノグチは、萬来舎再建のプロジェクトを東と西を結ぶ文化活動に携わってきた父親と同様の仕事に自分も打ちこめば、そのことによって自分を避ける父との関係が修復されるチャンスが巡ってくるはずだと考えた。その夢を実現しようと、ノグチはそのデザインに没頭する。
   ただ、ノグチ自身が語っているように、ノグチ・ルーム再建はそうした親子関係修復のためのものにとどまるものではなかった。ノグチはさらに広い観点に立ち、日本とアメリカ両国間の対立を解消するような新しい文化交流の場を塾生たちに提供しようとした。日本の若者たちを励ます機会が巡ってきたことを喜んだ。同時期に進行する広島と東京三田の大きなふたつのプロジェクトがノグチを日本から離れがたくした。それに慶應義塾大学では谷口吉郎、広島では丹下健三などの良き協力者たちの知己も得た。建築資材入手は困難な時期だった。しかし、ノグチと谷口が三田キャンパス再生に向けて働く姿からは熱情が伝わってくる(杉山真紀子「谷口吉郎イサム・ノグチの協奏詩」)。 
   私は慶應義塾大学に教員として在籍していたとき、ノグチ・ルームを研究会後の懇親会会場(許可制・飲食禁止)として長年に渡って使用させていただいた。その体験から言わせていただくと、法科大学院の屋上に移設されてしまう以前の旧ノグチ・ルームの基本構造は、広島の慰霊碑案のそれと同じである。
   慶應義塾大学アート・センターにより360度パノラマで撮影・編集された解体・移築以前のノグチ・ルーム(室内と庭園)ムービー画像がある。art-c.keio.ac.jp

   この動画で確認することが可能だが、法科大学院屋上に部分移設される以前の旧ノグチ・ルームでも、入口を入ると正面中央に打放しのコンクリートの太い二本の円柱が天井まで立てられ、円盤状の暖炉がその間にはさまれていた。二本の柱が中心となって支える天井裏に明るい照明が当てられていて、その光の一部が上部から漏れ、ルームにこぼれるようになり、ルームをほのぐらく照らし出していた。天井裏のほうが明るい地上を思わせる一方、ノグチ・ルーム自体は地下室を思わせる落ち着いた会場になり、驚くほど広く見えた。原爆慰霊碑案に見られる基本が三田においても確認できた。二本の円柱とそれが囲む大きな丸い暖炉を中心にして、参加者たちが移動しながらでも自由に意見を交わすことができる空間となっていた。広島の慰霊碑案でも、地上の明るい光が天窓を通して地下にかすかに降り注ぐ形が構想されていた。
   残念ながら、屋上に部分移転された現在のノグチ・ルームでは天井が取り払われていて、こうした照明による明るい地上と仄暗い地下との一体化されつつも二層に渡る魅力的な演出は感じられないものとなっている。
   旧ノグチ・ルームの二本の脚の間からは、奥に設けられた床の間が見え、そこには埴輪がひとつ置かれていた。広島の慰霊碑案でも全体が家形埴輪を模したものとなっている。家形埴輪は埴輪の中でももっとも重要なもので、古墳の中心部分の上に置かれ邪をはらい再生を願うものとされている。

慶應義塾大学 旧ノグチ・ルーム

   ここには57歳で亡くなった母親レオニー・ギルモアの思い出がこめられていると思われる。ノグチは深く思慕していた母親の墓に手製の埴輪を入れている。神話などの文学や芸術への愛をノグチに吹きこんだ母親レオニー・ギルモアは、ノグチがアーチストになることを願い、茅ヶ崎に自宅を新築する際にも和風建築を選び、当時10歳くらいのノグチに大工たちの現場監督のような役割をつとめさせた。さまざま紆余曲折があったが、ノグチは両親から芸術的なるものへの愛を受けつぎ、それは彼の創作活動の基盤を支えることになった。

東西にのびる軸

   この女性の両脚を思わせる二本の柱を中心に据えるノグチの慰霊碑案と旧ノグチ・ルームは、それぞれそれを中心として東西方向に軸を長く伸ばしている。その鳥の両翼のように長く伸びる軸に沿って、ノグチは自分の重要な作品をいくつも並べている。広島の慰霊碑にしても、それだけがひとつのオブジェとして小さく自己完結してはいない。慰霊碑は平和記念公園につながる橋の東西方向に伸びる欄干両端に置かれたノグチの他の二つの作品も視野に入れて把握されるべきものとなっている。大きく羽根を広げた形で把握すべきものとなっている。慰霊碑と同様、旧ノグチ・ルームもそれを中心にして東西方向に軸を広げている。そのノグチ・ルームを東西方向につらぬく長い軸に沿ってノグチの他の作品が置かれている。こうした壮大な構想によって、旧ノグチ・ルームは小さいものながらも、外縁を広げ、周囲のキャンパスと密接な関連を結んでいる。西にのびる軸上には「若い人」、「学生」、「無」が置かれた・こうしたスケールの大きなランドスケープのヴィジョンは、イサムの後半生の核となって彼の重要な諸作品を通底することになる。イサムは、「大地を彫刻する」という表現を使った。

広島市平和大橋欄干東側 ヘイデン・ヘレーラ「石を聴く」 より

   ノグチは調査旅行中に訪れたエジプトの古代遺跡から広島の橋の欄干の着想を得ている。エジプト神話によると、太陽を頭につけた鷹を持つ神が、毎日東から西へと船で旅を繰り返す。その神は夜になると西で死ぬが、また翌朝東から甦ってくる。広島の橋の東の欄干は昇る太陽の形をしていて、西のそれは船の形に発想を得ている。
   生と死、その後の再生という大きな観点から東と西を結ぶランドスケープのデザインは、旧ノグチ・ルームの周囲でも確認できた。ルーム東側スチールサッシのガラスの引き戸からは鉄板を組み合わせた彫刻「若い人」がキャンパスの庭に置かれているのが見えたが、反対側の大きな西側ガラス引き戸の正面には、「無」と題された砂岩の彫刻が庭の中に置かれていた( 彫刻「若い人」はその後二度移設される)。この彫刻「無」上部には大きな円環が乗り、その穴を通して落日を眺めることができた(写真参照)。東の若さから西の落日という死へ、その後にまた東から再生が日々繰り返される。その下で塾生たちが新たなものに向かう活動をキャンパスでいとなむ・・・。ノグチは塾生たちに力強いメッセージ性に富む大きな作品をプレゼントすることになった。

《無》の模型を製作中のノグチ 「石を聴く」 より
   肖像彫刻制作に取り組みすぐれた作品も多く残したが、ノグチは記念碑となる胸像彫刻 ー 偉人像や寓意像 ー に本腰を入れることはなかった。ノグチの作品は次第に建築や造園・作庭といった公共というカテゴリーにまで広げられて造形されるようになった。デザインされるランド・スケープに配されたさまざまなオブジェの間には密接な関係が結ばれている。共同体の人びとがいとなむ生の広い場のほうが称揚され、それはひとり個人だけが偉人として顕彰される従来の記念碑とは異なる作品となった。米軍による激しい空襲にさらされ焦土と化した三田キャンパス復興に取り組んでいた建築家谷口吉郎は、ノグチが自分にとっての三田キャンパスの丘は、パルテノン神殿が建設されたアクロポリスの丘なのだ、と述懐したことをおぼえている。彼にとって、旧ノグチ・ルームはアクロポリスの丘にそびえるパルテノンの神殿でもあったのだ。    このノグチ・ルームは、現在では法科大学院新設にともなう新棟建設(2002年決定)のため、一部が切り離され新棟3階屋上に移設されている。このため、現在ではノグチ・ルーム本来の東西の軸構成を含める全体像が把握できない状態になっている。ノグチ・ルーム東側キャンパスに置かれていた彫刻「若い人」はノグチ・ルームから切り離されて、彫刻「学生」とともに法科大学院一階エントランスに別置されてしまった。このためノグチ・ルームを中心としてキャンパスの大地に根を張るように刻されていた東西の長い軸は切断されたままの状態になっている。また、法科大学院屋上に部分移設されてしまったルーム自体も、影のない明るい空間になっている。大地から切り離され、以前の地下室を連想させる心地よい仄暗さが感じられないものとなってしまっっている。イサムの作品は本来地下と地上とが有機的に結ばれるべきものだし、周囲の広がりとも一体化されるべきものなのだ。

デトロイト市ハートプラザ

   ノグチは、アメリカのデトロイト市が1971年に行ったコンペ(「ダッジ・ファウンテン」)に招待され、デトロイト市中心部再活性のために噴水のデザインを提出し、その案は審査委員会で全員一致で採択されることになる。そのデザインの基本は、広島の慰霊碑案や慶應義塾大学旧ノグチ・ルームのそれと共通する。写真からでもわかるように、ここでも9mの長くまるい両脚が空中で水を吹き出す円環を支えている。二本の金属の脚の間に置かれた丸い水盤からも噴水が吹きあがる。ハイテクで作動するが、子供を産む女性の両脚がここでも連想される(写真参照)。
デトロイト、ハート・プラザ
   コンペで採択されると、ノグチは噴水だけでなく、デトロイト市中心部の街のデザインもやらせてほしいと願い出て、これも認められることになる。吹き上がり、時に虹を架ける噴水を中心にして、北西方向に伸びる軸の上に野外劇場、その正反対の南東方向の軸上にピラミッドが作 。ノグチ特有の東西方向に長く伸びる軸構成のひとつといえるだろう。商店街は地下に置かれ、大地が秘める活力がここでも引き出され活用されている。こうして再構築された都市の中心部には野外ステージが設けられイベントが開催されるが、主役は都市の有力者やヒーローといった特定の個人ではなく、デトロイト市という公共の共同体のために尽力する一般市民たちが想定された(松木裕美「イサム・ノグチの空間芸術」)。  イサムは、最晩年に札幌の189ヘクタールという広大な敷地を一つの彫刻と捉えて、彼が追い求めてきた原風景をそこにデザインした(写真参照)。モエレ沼公園の脇に川が流れていたため、西に伸びる軸は実現されなかったが、作品の核を水辺に置くことによって水が秘める生命力が活用されている。イサムは水に潜む生命力を多用した。それまで作られてきたスケールの大きなランドスケープ「彫刻」の基本はここでも踏襲されている。直径2メートルの丸い柱が力強く組み合わされ、その真下には地下から盛り上がる子宮を連想させる丸いマウンドが顔を覗かせている。この作品においても地上と地下が有機的に一体化している。この「テトラマウンド」(制作年 1990ー1996)を中心として、東の方向にやはり軸が伸びていて、その長い軸の上には野外ステージや、プレイマウンテンや、ガラスのピラミッドといった、三角形をモチーフとした重要な公園施設がいくつも並べて建てられた。野外ステージや舞台もイサムが好むものだった。後期のコアとなる作品群の基本がここモエレ沼公園でも繰り返されている。
テトラマウンド https://moerenumapark.jp/tetra_mound/
   東京でも札幌でもデトロイトでも、地下の、そして大地のアルカイックな力が引き出され、誕生と再生という時を超える生命力が大きな解放感のある作品に宿るようになった。実現されていれば、広島原爆死没者慰霊碑も、そうしたイサムの存在の根源を形象する作品になったはずである。    ノグチはアイデンティティを求めて世界をさすらった旅人である。その多様な作品には独特の洗練された魅力があり、「あかり」シリーズといった工業デザインも成功した。舞台装置も手がけた。しかし、モダニスムにも抽象芸術にも長くは没頭できなかった。特定の芸術運動につき従うこともしなかった。    アメリカでも敵性外国人として監視下に置かれ、日系人強制収容所に自らすすんで入所したりもしたが、創作においても生活においても、ノグチは自分が真の意味で帰属することができる場を求めつづけた。土地に根付くようにして生まれ、土地で育てられ、その生活が繰り返されてゆく ― そうして共同体を生きる人びとをノグチは羨望し、そうした生活を希求し渇望しつづけた。    1973年に行われたインタヴュー記事の中で、ノグチは、「ぼくにとってアイデンティティが見つかるとしたら、それは芸術の中だけだと思う」と語っている。焦土と化した大地に母なるものや父なるものを盛りこみ、人びとの生活にも開かれた新たな開かれた家を作る、大地に根ざす新たな生活の原点としての作品をカテゴリーやジャンルにとらわれずに創建する ― ノグチはその夢を生涯かけて追い求めた。    その夢は東京三田でも、デトロイトでも、札幌でも作品となって実現され結実することになった。たとえ、一部のプロジェクトは完遂されなかったしても。また作品として十分に維持されていなかったり、プロジェクト段階で幻に終わってしまうことになったとしても。 にほんブログ村 本ブログへ
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<小林雅子展 ― 今日の本棚・後編>を観る

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  上の写真は左から、

展示会案内状、作品「風と共に去りぬ」、作品「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?

  小林雅子さんの作品 ― アート作品と呼ぶべきか―  の一部は当ブログのタイトルバックとして掲載させて頂いています。


  6月のとある日、小林雅子さんの展覧会を東京銀座のど真ん中にある小松庵総本家銀座に観に行きました。小松庵はお蕎麦屋さんですが、17時までは展示会場・サロン会場として開放されています。展示を観たあと、お蕎麦屋さんに変わった会場でおいしいお蕎麦も食べました。

  本が大好きな小林さんは、鋭利なカッター・ナイフを握りながら、本の急所とも思われる所へ踏みこみ、そこに切り目をつけます。切り開かれた所は、窓に、穴に、ドアに、隙間になり、わたしたちをその奥へと誘います。本のページの下に秘めれられていた、今まで気づかなかった魅力が垣間見えてきます。 

  ふだん、本には活字がおとなしく整然と並べられていて、読者は静かにページの平面を追ってゆきます。目は線状に並べられた文章の上を滑ってゆきます。しかし、小林雅子さんはそのページの下に隠れ潜んでいるものにまで目をこらします。ページに窓を、隙間を開け、そこから湧き出してくる熱や、香りや未知の形までも受けとめ、それにページの紙でもって形を与えてゆきます。 

  本には壺が潜んでいるのです。その壺とも殻ともいえるものにつけられる切りこみからは、字面を追うだけでは得られなかった多様で強烈な何かが溢れてきます。背紙から何かがこちらに迫ってきます。本の読後感といったものだけにはとどまらないものが強いインパクトとなって伝わってきます。わたしたちは少しあわてて、整理済みとばかり思いこんでいたその本の読後感を思い起こし、その再点検に取りかかりだします。

  本の急所に潜む壺につけられた切り口からは、次々と斬新なイメージや、特有の音や、貴重な肌触りなどが溢れてきます。謎めいた動物の骨片まで飛び出します。それらは小林さんの箱状の作品さえも無視する勢いで湧出し、わたしたちの目の前に迫ってきます。額縁からもはみ出してきます。本はただおとなしく読むためだけの、つつましい外見をなくしています。わたしたちはいつしか受動的に享受する読者といった規定など忘れてしまい、次々と現れてくる本の秘密の世界と交信を始めています、身を乗り出して。

  ページに開けられたドアや隙間からは、春琴の周囲で点滅する真っ赤な色や、『風とともに去りぬ』の家を取り巻く綿花や、『幻獣図鑑』の幻獣たちの匂いまでもが立ち広がります。ページの紙が作品の素材として使われているので、ページをめくった時の感触の記憶が、小林さんの作品から露出するものを現実感に富む確かなものとしています。

   谷崎潤一郎春琴抄』に切りこみを入れて作った作品に小林さんはこういった文をつけています ー 琴柱をイメージしたものをページに挟むことで、本の途中に空間ができる。その空間に椿を入れてみた。赤は、文庫本の表紙と椿の赤。本に開けられた隙間は、和室の格子窓のイメージ。その格子の奥に、永遠に美しく激しい春琴が座っていてほしい・・・。(「作品解説」)

  この赤は鮮烈です。奉公人佐助は、時に矯激になる盲目の琴の師匠春琴の美しい姿を脳裏にとどめようと、縫い針で両目を突き、自分も盲目になろうとしますが、赤はその時飛び散った鮮血の色でもあり、『春琴抄』そのものの凝縮された色です。それに、春琴の墓とそれに寄り添う佐助の墓の脇には、赤い椿が咲くといわれています。この赤はさまざまな思いを呼びさましかき立てます・・・。

   楽しい思いへ連れていってくれる作品もあります。バーネット『秘密の花園』では、庭の奥の奥にある花園へとひとつひとつ鍵を開けて分け入ってゆきます。秘密の花園に近づくと、わたしたちは閉ざされ気味だった感受性が解放され、心が広がるのを感じます。花園の風や香りが紙質の感触とともに伝わってきます。本をただ読むという行為からだけでは味わうことができない生々しく多彩な追体験をすることができます。

   大作マルセル・プルースト失われた時を求めて』は箱のような大きな額に入れられています。文庫本の並べられた背表紙が、ピアノの鍵盤に見立てられています。そうです、作中に聞こえる作曲家ヴァントゥイユのソナタは主人公を導く重要な役割をはたします。作品上部には、見開きの文庫本が羽根を広げて飛び立とうとする鳥のように見えます。ライラック忘れな草、そこから黄色い蝶が舞い上り、全体が額縁から溢れ出ようとします。

  確かに、この『失われた時を求めて』では、作家志望の主人公の精神的成長をうながす作家ベルゴットの著作は、作家の死後、翼を広げた天使のように本屋に置かれ、ベルゴットの通夜をします。その飛び立つかのような著作は、亡きベルゴットの甦りの象徴です。小林さんの共感と批評に支えられた選択は鋭かったのです。小林さんが作ったピアノの鍵盤といい、飛翔するような見開きの本といい、これらはいずれも『失われた時を求めて』の重要な構成要素なのです。本にたいする愛着に支えられた問いかけ、本の真髄へ向けられる真摯な問いかけに、本が反応しています。思わぬ姿を出現させています。

   本の読後感といたものが、おおいに刺激され再活性化されるはずです。<教養のために読むべき書籍一覧>といった安直なラベルを貼って標本化して満足してきた怠惰な読書の態度に、強い揺さぶりがかけられます。眠りこんでいると思いこんできた本たちは、実はその背後からまだまだ強い生きたシグナルをわたしたちに送りつづけているのです。いつのまにか、再読に誘われている自分がいるではありませんか・・・。

   追記  

  作品を観たあと、美味しいお蕎麦もいただきました。作品を鑑賞してから、あまり間もおかずにお蕎麦を味わうことになりましたが、どういうわけかその両者 ― 芸術作品と料理 ―  がしっくり自然につながりました。

  そうそう、プルーストは、料理女フランソワーズが腕によりかけて作る日曜日の途方もない量の大盛餐を、音楽や絵画といった芸術作品にたとえました。

  また、プルーストは書いています、芸術家が死ぬとうっそうとした草が生い茂る。しかしそれは忘却の草ではない。豊かな新たな生の作品が作られる草なのだ。その草の上に後の世の人々がやって来る。そして、陽気に楽しむことになるのだ、彼らの「草上の昼食」を、と。

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