イサム・ノグチ 幻の傑作 原爆死没者慰霊碑

広島原爆死没者慰霊碑

   毎年8月6日になると、広島平和記念公園原爆死没者慰霊碑がテレビに映し出される。それを見るたびにもうひとつの忘れ去られた慰霊碑案が私の目に浮かんでくる。実現されなかったイサム・ノグチ原爆死没者慰霊碑案(1952)のことだ。ノグチの幻の代表作とも評価されている。

広島の原爆死没者慰霊碑 模型

   模型を写真で見るだけだが、ノグチの慰霊碑案にはみなぎる創作力が凝縮され迫力に富んでいる。それが写真からでも強いインパクトとなって伝わってくる。4mのコンクリート打放しの二本の柱がそびえ立つが、それはさらにたくましく膨らみさらに長くなり、地下にまで打ちこまれるはずだった。柱は女性の両脚に見えてくる。石や樹木を見ていても、ノグチはその内側を流れる生命のエネルギーを感じ取り、それを表現するが、この二本のコンクリートの円柱も、その物質内部を生命的なものが脈打ち、循環し、次第に地上に向かって上昇するのが感じられる。
   生動するかのような二本の太い脚にはさまれた所に箱が壁から突き出ていて、そこに死没者たちの名簿が収められる予定だった。こうして構成されるはずだった地下の洞穴のような空間を、ノグチはあらゆるものが還る場所だとした。また、大地の力によって死者たちが再生する場所だとした。犠牲者たちに取ってかわって現れる新しい世代のための子宮だとした。地上と地下が結ばれ、そこから生じる生成とか多産は、「ペキンダック」(1920)や「誕生」(1932)や「レダ」(1942)や「クロノス」(1947)でもうかがえるように、ノグチが生涯追求するテーマであった。
   地中に洞穴のような空間を埋めることによって空間に大地が秘める再生力を与えようとする試みをノグチはそれ以前にも構想している。アメリカのセントルイス市主催のコンペに参加し提出されたノグチの案には、その5年後に練られることになる広島の慰霊碑案の萌芽が含まれている。当時、賑わいを失い空洞化していたセントルイス市中心街の再活性化をはかるために、ノグチは中心街を地下に据えた。この案は不採用に終わり実現されなかったが、ノグチはここでもすでに大地にひそむ再生力を街の中心部に与えようと試みている。
   1952年、ノグチは広島の慰霊碑案の模型写真を市の選考委員会に送るが、案は採択されない。彼が米国籍であることがその主な理由だった。このためノグチの良き理解者でもあった丹下健三が急遽慰霊碑の設計者として指名されることになる。丹下はノグチ案を生かす方向で設計に取りかかるが、わずか一週間で最終案を提出しなくてはならなかった。現在の慰霊碑がやや小さく、ノグチ案にあったようなパワーに欠けるのはこうした事情によるものである。

クロノス

   なお、上の写真でも明らかなように、「クロノス」(1947)は、慰霊碑案を連想させるものである。たくましい両脚が長くのび、その間に穴の空いた円形 ー 子宮が連想される ー が吊るされている。両脚は上部でアーチ型につながるが、これらは広島の慰霊碑案と共通する点である。また、題名のクロノスはギリシャ神話に登場する農業神で、体内では解体、変容、再生が行われる。この点でも慰霊碑案が想起される。

慶應義塾大学旧ノグチ・ルーム(萬来舎)

   広島の慰霊碑案はその3年前の1950年にノグチによってデザインされて建築された慶應義塾大学旧ノグチ・ルーム(萬来舎)をいくつかの点で思い起こさせる。
   当時、三田の慶應義塾大学は空襲によって壊滅的な被害を受け焦土と化していたが、塾長はノグチに破壊された萬来舎再建のデザインを依頼する。ノグチの父親は詩人であり、慶應義塾大学で40年間教鞭を取った英文学教授の野口米次郎である。幼い時からアメリカと日本を行き来してきたノグチは、萬来舎再建のプロジェクトを東と西を結ぶ文化活動に携わってきた父親と同様の仕事に自分も打ちこめば、そのことによって自分を避ける父との関係が修復されるチャンスが巡ってくるはずだと考えた。その夢を実現しようと、ノグチはそのデザインに没頭する。
   ただ、ノグチ自身が語っているように、ノグチ・ルーム再建はそうした親子関係修復のためのものにとどまるものではなかった。ノグチはさらに広い観点に立ち、日本とアメリカ両国間の対立を解消するような新しい文化交流の場を塾生たちに提供しようとした。日本の若者たちを励ます機会が巡ってきたことを喜んだ。同時期に進行する広島と東京三田の大きなふたつのプロジェクトがノグチを日本から離れがたくした。それに慶應義塾大学では谷口吉郎、広島では丹下健三などの良き協力者たちの知己も得た。建築資材入手は困難な時期だった。しかし、ノグチと谷口が三田キャンパス再生に向けて働く姿からは熱情が伝わってくる(杉山真紀子「谷口吉郎イサム・ノグチの協奏詩」)。 
   私は慶應義塾大学に教員として在籍していたとき、ノグチ・ルームを研究会後の懇親会会場(許可制・飲食禁止)として長年に渡って使用させていただいた。その体験から言わせていただくと、法科大学院の屋上に移設されてしまう以前の旧ノグチ・ルームの基本構造は、広島の慰霊碑案のそれと同じである。
   慶應義塾大学アート・センターにより360度パノラマで撮影・編集された解体・移築以前のノグチ・ルーム(室内と庭園)ムービー画像がある。art-c.keio.ac.jp

   この動画で確認することが可能だが、法科大学院屋上に部分移設される以前の旧ノグチ・ルームでも、入口を入ると正面中央に打放しのコンクリートの太い二本の円柱が天井まで立てられ、円盤状の暖炉がその間にはさまれていた。二本の柱が中心となって支える天井裏に明るい照明が当てられていて、その光の一部が上部から漏れ、ルームにこぼれるようになり、ルームをほのぐらく照らし出していた。天井裏のほうが明るい地上を思わせる一方、ノグチ・ルーム自体は地下室を思わせる落ち着いた会場になり、驚くほど広く見えた。原爆慰霊碑案に見られる基本が三田においても確認できた。二本の円柱とそれが囲む大きな丸い暖炉を中心にして、参加者たちが移動しながらでも自由に意見を交わすことができる空間となっていた。広島の慰霊碑案でも、地上の明るい光が天窓を通して地下にかすかに降り注ぐ形が構想されていた。
   残念ながら、屋上に部分移転された現在のノグチ・ルームでは天井が取り払われていて、こうした照明による明るい地上と仄暗い地下との一体化されつつも二層に渡る魅力的な演出は感じられないものとなっている。
   旧ノグチ・ルームの二本の脚の間からは、奥に設けられた床の間が見え、そこには埴輪がひとつ置かれていた。広島の慰霊碑案でも全体が家形埴輪を模したものとなっている。家形埴輪は埴輪の中でももっとも重要なもので、古墳の中心部分の上に置かれ邪をはらい再生を願うものとされている。

慶應義塾大学 旧ノグチ・ルーム

   ここには57歳で亡くなった母親レオニー・ギルモアの思い出がこめられていると思われる。ノグチは深く思慕していた母親の墓に手製の埴輪を入れている。神話などの文学や芸術への愛をノグチに吹きこんだ母親レオニー・ギルモアは、ノグチがアーチストになることを願い、茅ヶ崎に自宅を新築する際にも和風建築を選び、当時10歳くらいのノグチに大工たちの現場監督のような役割をつとめさせた。さまざま紆余曲折があったが、ノグチは両親から芸術的なるものへの愛を受けつぎ、それは彼の創作活動の基盤を支えることになった。

東西にのびる軸

   この女性の両脚を思わせる二本の柱を中心に据えるノグチの慰霊碑案と旧ノグチ・ルームは、それぞれそれを中心として東西方向に軸を長く伸ばしている。その鳥の両翼のように長く伸びる軸に沿って、ノグチは自分の重要な作品をいくつも並べている。広島の慰霊碑にしても、それだけがひとつのオブジェとして小さく自己完結してはいない。慰霊碑は平和記念公園につながる橋の東西方向に伸びる欄干両端に置かれたノグチの他の二つの作品も視野に入れて把握されるべきものとなっている。大きく羽根を広げた形で把握すべきものとなっている。慰霊碑と同様、旧ノグチ・ルームもそれを中心にして東西方向に軸を広げている。そのノグチ・ルームを東西方向につらぬく長い軸に沿ってノグチの他の作品が置かれている。こうした壮大な構想によって、旧ノグチ・ルームは小さいものながらも、外縁を広げ、周囲のキャンパスと密接な関連を結んでいる。西にのびる軸上には「若い人」、「学生」、「無」が置かれた・こうしたスケールの大きなランドスケープのヴィジョンは、イサムの後半生の核となって彼の重要な諸作品を通底することになる。イサムは、「大地を彫刻する」という表現を使った。

広島市平和大橋欄干東側 ヘイデン・ヘレーラ「石を聴く」 より

   ノグチは調査旅行中に訪れたエジプトの古代遺跡から広島の橋の欄干の着想を得ている。エジプト神話によると、太陽を頭につけた鷹を持つ神が、毎日東から西へと船で旅を繰り返す。その神は夜になると西で死ぬが、また翌朝東から甦ってくる。広島の橋の東の欄干は昇る太陽の形をしていて、西のそれは船の形に発想を得ている。
   生と死、その後の再生という大きな観点から東と西を結ぶランドスケープのデザインは、旧ノグチ・ルームの周囲でも確認できた。ルーム東側スチールサッシのガラスの引き戸からは鉄板を組み合わせた彫刻「若い人」がキャンパスの庭に置かれているのが見えたが、反対側の大きな西側ガラス引き戸の正面には、「無」と題された砂岩の彫刻が庭の中に置かれていた( 彫刻「若い人」はその後二度移設される)。この彫刻「無」上部には大きな円環が乗り、その穴を通して落日を眺めることができた(写真参照)。東の若さから西の落日という死へ、その後にまた東から再生が日々繰り返される。その下で塾生たちが新たなものに向かう活動をキャンパスでいとなむ・・・。ノグチは塾生たちに力強いメッセージ性に富む大きな作品をプレゼントすることになった。

《無》の模型を製作中のノグチ 「石を聴く」 より
   肖像彫刻制作に取り組みすぐれた作品も多く残したが、ノグチは記念碑となる胸像彫刻 ー 偉人像や寓意像 ー に本腰を入れることはなかった。ノグチの作品は次第に建築や造園・作庭といった公共というカテゴリーにまで広げられて造形されるようになった。デザインされるランド・スケープに配されたさまざまなオブジェの間には密接な関係が結ばれている。共同体の人びとがいとなむ生の広い場のほうが称揚され、それはひとり個人だけが偉人として顕彰される従来の記念碑とは異なる作品となった。米軍による激しい空襲にさらされ焦土と化した三田キャンパス復興に取り組んでいた建築家谷口吉郎は、ノグチが自分にとっての三田キャンパスの丘は、パルテノン神殿が建設されたアクロポリスの丘なのだ、と述懐したことをおぼえている。彼にとって、旧ノグチ・ルームはアクロポリスの丘にそびえるパルテノンの神殿でもあったのだ。    このノグチ・ルームは、現在では法科大学院新設にともなう新棟建設(2002年決定)のため、一部が切り離され新棟3階屋上に移設されている。このため、現在ではノグチ・ルーム本来の東西の軸構成を含める全体像が把握できない状態になっている。ノグチ・ルーム東側キャンパスに置かれていた彫刻「若い人」はノグチ・ルームから切り離されて、彫刻「学生」とともに法科大学院一階エントランスに別置されてしまった。このためノグチ・ルームを中心としてキャンパスの大地に根を張るように刻されていた東西の長い軸は切断されたままの状態になっている。また、法科大学院屋上に部分移設されてしまったルーム自体も、影のない明るい空間になっている。大地から切り離され、以前の地下室を連想させる心地よい仄暗さが感じられないものとなってしまっっている。イサムの作品は本来地下と地上とが有機的に結ばれるべきものだし、周囲の広がりとも一体化されるべきものなのだ。

デトロイト市ハートプラザ

   ノグチは、アメリカのデトロイト市が1971年に行ったコンペ(「ダッジ・ファウンテン」)に招待され、デトロイト市中心部再活性のために噴水のデザインを提出し、その案は審査委員会で全員一致で採択されることになる。そのデザインの基本は、広島の慰霊碑案や慶應義塾大学旧ノグチ・ルームのそれと共通する。写真からでもわかるように、ここでも9mの長くまるい両脚が空中で水を吹き出す円環を支えている。二本の金属の脚の間に置かれた丸い水盤からも噴水が吹きあがる。ハイテクで作動するが、子供を産む女性の両脚がここでも連想される(写真参照)。
デトロイト、ハート・プラザ
   コンペで採択されると、ノグチは噴水だけでなく、デトロイト市中心部の街のデザインもやらせてほしいと願い出て、これも認められることになる。吹き上がり、時に虹を架ける噴水を中心にして、北西方向に伸びる軸の上に野外劇場、その正反対の南東方向の軸上にピラミッドが作 。ノグチ特有の東西方向に長く伸びる軸構成のひとつといえるだろう。商店街は地下に置かれ、大地が秘める活力がここでも引き出され活用されている。こうして再構築された都市の中心部には野外ステージが設けられイベントが開催されるが、主役は都市の有力者やヒーローといった特定の個人ではなく、デトロイト市という公共の共同体のために尽力する一般市民たちが想定された(松木裕美「イサム・ノグチの空間芸術」)。  イサムは、最晩年に札幌の189ヘクタールという広大な敷地を一つの彫刻と捉えて、彼が追い求めてきた原風景をそこにデザインした(写真参照)。モエレ沼公園の脇に川が流れていたため、西に伸びる軸は実現されなかったが、作品の核を水辺に置くことによって水が秘める生命力が活用されている。イサムは水に潜む生命力を多用した。それまで作られてきたスケールの大きなランドスケープ「彫刻」の基本はここでも踏襲されている。直径2メートルの丸い柱が力強く組み合わされ、その真下には地下から盛り上がる子宮を連想させる丸いマウンドが顔を覗かせている。この作品においても地上と地下が有機的に一体化している。この「テトラマウンド」(制作年 1990ー1996)を中心として、東の方向にやはり軸が伸びていて、その長い軸の上には野外ステージや、プレイマウンテンや、ガラスのピラミッドといった、三角形をモチーフとした重要な公園施設がいくつも並べて建てられた。野外ステージや舞台もイサムが好むものだった。後期のコアとなる作品群の基本がここモエレ沼公園でも繰り返されている。
テトラマウンド https://moerenumapark.jp/tetra_mound/
   東京でも札幌でもデトロイトでも、地下の、そして大地のアルカイックな力が引き出され、誕生と再生という時を超える生命力が大きな解放感のある作品に宿るようになった。実現されていれば、広島原爆死没者慰霊碑も、そうしたイサムの存在の根源を形象する作品になったはずである。    ノグチはアイデンティティを求めて世界をさすらった旅人である。その多様な作品には独特の洗練された魅力があり、「あかり」シリーズといった工業デザインも成功した。舞台装置も手がけた。しかし、モダニスムにも抽象芸術にも長くは没頭できなかった。特定の芸術運動につき従うこともしなかった。    アメリカでも敵性外国人として監視下に置かれ、日系人強制収容所に自らすすんで入所したりもしたが、創作においても生活においても、ノグチは自分が真の意味で帰属することができる場を求めつづけた。土地に根付くようにして生まれ、土地で育てられ、その生活が繰り返されてゆく ― そうして共同体を生きる人びとをノグチは羨望し、そうした生活を希求し渇望しつづけた。    1973年に行われたインタヴュー記事の中で、ノグチは、「ぼくにとってアイデンティティが見つかるとしたら、それは芸術の中だけだと思う」と語っている。焦土と化した大地に母なるものや父なるものを盛りこみ、人びとの生活にも開かれた新たな開かれた家を作る、大地に根ざす新たな生活の原点としての作品をカテゴリーやジャンルにとらわれずに創建する ― ノグチはその夢を生涯かけて追い求めた。    その夢は東京三田でも、デトロイトでも、札幌でも作品となって実現され結実することになった。たとえ、一部のプロジェクトは完遂されなかったしても。また作品として十分に維持されていなかったり、プロジェクト段階で幻に終わってしまうことになったとしても。 にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村

<小林雅子展 ― 今日の本棚・後編>を観る

f:id:aushiba:20210718153533j:plain
f:id:aushiba:20210718153417j:plain
f:id:aushiba:20210718152733j:plain


  上の写真は左から、

展示会案内状、作品「風と共に去りぬ」、作品「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?

  小林雅子さんの作品 ― アート作品と呼ぶべきか―  の一部は当ブログのタイトルバックとして掲載させて頂いています。


  6月のとある日、小林雅子さんの展覧会を東京銀座のど真ん中にある小松庵総本家銀座に観に行きました。小松庵はお蕎麦屋さんですが、17時までは展示会場・サロン会場として開放されています。展示を観たあと、お蕎麦屋さんに変わった会場でおいしいお蕎麦も食べました。

  本が大好きな小林さんは、鋭利なカッター・ナイフを握りながら、本の急所とも思われる所へ踏みこみ、そこに切り目をつけます。切り開かれた所は、窓に、穴に、ドアに、隙間になり、わたしたちをその奥へと誘います。本のページの下に秘めれられていた、今まで気づかなかった魅力が垣間見えてきます。 

  ふだん、本には活字がおとなしく整然と並べられていて、読者は静かにページの平面を追ってゆきます。目は線状に並べられた文章の上を滑ってゆきます。しかし、小林雅子さんはそのページの下に隠れ潜んでいるものにまで目をこらします。ページに窓を、隙間を開け、そこから湧き出してくる熱や、香りや未知の形までも受けとめ、それにページの紙でもって形を与えてゆきます。 

  本には壺が潜んでいるのです。その壺とも殻ともいえるものにつけられる切りこみからは、字面を追うだけでは得られなかった多様で強烈な何かが溢れてきます。背紙から何かがこちらに迫ってきます。本の読後感といったものだけにはとどまらないものが強いインパクトとなって伝わってきます。わたしたちは少しあわてて、整理済みとばかり思いこんでいたその本の読後感を思い起こし、その再点検に取りかかりだします。

  本の急所に潜む壺につけられた切り口からは、次々と斬新なイメージや、特有の音や、貴重な肌触りなどが溢れてきます。謎めいた動物の骨片まで飛び出します。それらは小林さんの箱状の作品さえも無視する勢いで湧出し、わたしたちの目の前に迫ってきます。額縁からもはみ出してきます。本はただおとなしく読むためだけの、つつましい外見をなくしています。わたしたちはいつしか受動的に享受する読者といった規定など忘れてしまい、次々と現れてくる本の秘密の世界と交信を始めています、身を乗り出して。

  ページに開けられたドアや隙間からは、春琴の周囲で点滅する真っ赤な色や、『風とともに去りぬ』の家を取り巻く綿花や、『幻獣図鑑』の幻獣たちの匂いまでもが立ち広がります。ページの紙が作品の素材として使われているので、ページをめくった時の感触の記憶が、小林さんの作品から露出するものを現実感に富む確かなものとしています。

   谷崎潤一郎春琴抄』に切りこみを入れて作った作品に小林さんはこういった文をつけています ー 琴柱をイメージしたものをページに挟むことで、本の途中に空間ができる。その空間に椿を入れてみた。赤は、文庫本の表紙と椿の赤。本に開けられた隙間は、和室の格子窓のイメージ。その格子の奥に、永遠に美しく激しい春琴が座っていてほしい・・・。(「作品解説」)

  この赤は鮮烈です。奉公人佐助は、時に矯激になる盲目の琴の師匠春琴の美しい姿を脳裏にとどめようと、縫い針で両目を突き、自分も盲目になろうとしますが、赤はその時飛び散った鮮血の色でもあり、『春琴抄』そのものの凝縮された色です。それに、春琴の墓とそれに寄り添う佐助の墓の脇には、赤い椿が咲くといわれています。この赤はさまざまな思いを呼びさましかき立てます・・・。

   楽しい思いへ連れていってくれる作品もあります。バーネット『秘密の花園』では、庭の奥の奥にある花園へとひとつひとつ鍵を開けて分け入ってゆきます。秘密の花園に近づくと、わたしたちは閉ざされ気味だった感受性が解放され、心が広がるのを感じます。花園の風や香りが紙質の感触とともに伝わってきます。本をただ読むという行為からだけでは味わうことができない生々しく多彩な追体験をすることができます。

   大作マルセル・プルースト失われた時を求めて』は箱のような大きな額に入れられています。文庫本の並べられた背表紙が、ピアノの鍵盤に見立てられています。そうです、作中に聞こえる作曲家ヴァントゥイユのソナタは主人公を導く重要な役割をはたします。作品上部には、見開きの文庫本が羽根を広げて飛び立とうとする鳥のように見えます。ライラック忘れな草、そこから黄色い蝶が舞い上り、全体が額縁から溢れ出ようとします。

  確かに、この『失われた時を求めて』では、作家志望の主人公の精神的成長をうながす作家ベルゴットの著作は、作家の死後、翼を広げた天使のように本屋に置かれ、ベルゴットの通夜をします。その飛び立つかのような著作は、亡きベルゴットの甦りの象徴です。小林さんの共感と批評に支えられた選択は鋭かったのです。小林さんが作ったピアノの鍵盤といい、飛翔するような見開きの本といい、これらはいずれも『失われた時を求めて』の重要な構成要素なのです。本にたいする愛着に支えられた問いかけ、本の真髄へ向けられる真摯な問いかけに、本が反応しています。思わぬ姿を出現させています。

   本の読後感といたものが、おおいに刺激され再活性化されるはずです。<教養のために読むべき書籍一覧>といった安直なラベルを貼って標本化して満足してきた怠惰な読書の態度に、強い揺さぶりがかけられます。眠りこんでいると思いこんできた本たちは、実はその背後からまだまだ強い生きたシグナルをわたしたちに送りつづけているのです。いつのまにか、再読に誘われている自分がいるではありませんか・・・。

   追記  

  作品を観たあと、美味しいお蕎麦もいただきました。作品を鑑賞してから、あまり間もおかずにお蕎麦を味わうことになりましたが、どういうわけかその両者 ― 芸術作品と料理 ―  がしっくり自然につながりました。

  そうそう、プルーストは、料理女フランソワーズが腕によりかけて作る日曜日の途方もない量の大盛餐を、音楽や絵画といった芸術作品にたとえました。

  また、プルーストは書いています、芸術家が死ぬとうっそうとした草が生い茂る。しかしそれは忘却の草ではない。豊かな新たな生の作品が作られる草なのだ。その草の上に後の世の人々がやって来る。そして、陽気に楽しむことになるのだ、彼らの「草上の昼食」を、と。

ポチっとおねがいします。
  ↓ ↓

にほんブログ村 本ブログ 海外文学へ
にほんブログ村

にほんブログ村 本ブログ 純文学へ
にほんブログ村